思索の森と空の群青

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2015年 11月 11日

今までの統合失調症論がことごとく間違いであると仮定したら何が——中井久夫『精神科医がものを書くとき』

c0131823_1932503.jpg中井久夫『精神科医がものを書くとき』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2009年。25(947)


 単行本は1996年に広英社より同名全2冊
 版元


 はじめての中井久夫(1934-)。著者は精神科医です。精神分析からは思考様式を揺さぶるような考え方が提出されているとわたしは感じていて、こうした平易な文体で書かれたものを読むのは愉しい。平易な文体で書かれていないものは難しい。

 解説は斎藤環。本文にも書かれていましたが、中井は体系(化)を志向しなかった、ヘーゲルは読めなかったがヴィトゲンシュタインは読んだ、といったことが解説でも触れられています。わたし自身は体系(化)志向があると自覚していて、その危うさも自覚しているつもりではあって、だからその解毒もまた同時に進行させようとしていて、たとえばこうして研究主題とは直接関わらない本を読んだり最近機会が少なくなってしまったけれども映画を観たりして、自分の枠外からの何かの到来を待っているわけです。

 冒頭の引用は、「パトログラフィー(病跡学)」を「教育学」に、「精神科医」を「教育を研究対象とする人」にそれぞれ置換しても通用すると思います。


 パトログラフィー(病跡学)というものがあって、精神科医でも、これを好む人と嫌う人とにはっきり分かれるようだが、私が病跡学会などで見るところ、どうも作家や哲学者や果ては科学者を取り上げながら、それに仮託して、おのれの臨床経験や精神病理学あるいは人間観を語っているという場合が少なくない。病跡研究——すなわち間接的データによる著名人の精神病理研究——にはそういう含みがある。(19)

 世界をできるだけ単純な公式に還元しようとする宇宙論や哲学あるいは数学と、キノコにはまだ未知の種類が数千種もあるという、世界の多様性に喜びを見出す博物学と、学問には両極があることを知ったのは、学生時代であった。(10)

非常に一般的、抽象的な言明をしようとする時には必ずそっと袖を引いてやめるようにさせる一種の感覚を自分の中に感じる。具体的なものを対象としない時には、確かに、自分の中で引っ込み思案が生じる。
 したがって、私は、自分の精神医学の枠組みの全体を明らかにできない。それは、自分にも見通せていない。そういうものが明確にできれば、非常に楽になるのかもしれないし、逆に腑抜けのようになるかもしれない。
(14)

書くことは明確化であり、単純化であり、表現衝動の「減圧」である。何よりもまず、書くことに耐えない多くの観念が消え去る。あるものは、その他愛なさによって、あるものは不整合によって、あるものは羞恥によって却下される。(15)

二十歳前後の私は、精神が分裂するのではなく、精神と現実とが分裂するのであると、この本〔=ミンコフスキー『精神分裂病』〕によって納得したつもりになった。(22)

今までの統合失調症論がことごとく間違いであると仮定したら何が見えてくるか(29)

 日本においては、江戸幕府の掲げた「医は仁術なり」という規定は、神官僧侶による医療禁止と表裏一体であり、儒教の教養をもとにした非宗教者である医師が医術を独占するようになった。医学の脱宗教化は欧米よりずっと早くかつ徹底的であった(ただ顕著な例外として日蓮宗僧侶による狐憑き治療が認められていた)。(32)

幸か不幸か、末期癌患者を相手にする宗教家はおられるが、重症精神病患者に対してはごく少なく、精神科医にゆだねて下さっている。治療終了がなかなかこないからであろうか。(34)

 医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだから(34)

 釈尊のいわれたように「老病死は不可避」である。この意味では医学は最終的には「敗北の仕方の援助」、少し敷衍すれば「できるだけうまくゆっくりと敗けるための援助」である。老病死を決定的に克服するというのは医学の現実的目標ではない。(35)

 宗教家に私が期待する第一は、社会に寛容と助け合いの精神を広めてくださり、差別的なものの見方を訂正して(誰でも病いになりうることは精神病でも変わらない)、社会の「精神医療温度」を二度でも三度でも上げてくださることである。
 次に「アジール」というか、病人の「駆け込み場所」「しばしの隠れ家」を提供してくださることである。この点については、私の知人の何人かの宗教家に対する評価を惜しまない。
(35)

 先日、吉本隆明と西部邁の対談を読んでいましたら、吉本さんは一〇〇パーセントの国粋主義者で終戦とともに左翼に転じ、西部さんは十九歳のとき共産党に入党して最初の会合で「及ばずながらテロリストとしてがんばります」と言ったら、おまえちょっと見当違いだぞと叱られたということでした。どちらも、私の身の上に起こってもよかったことです。(38)

終戦のときのショックがあまりなかったんです。それがかえって私にはしんどいことでありました。つまり、エイヤッと切開手術してもらって膿を出して、正反対の側にまわるほうが楽なんです。それで、中学生の私はむしろちょっと国粋主義者——といっても神懸りではないんですけれども——で、天皇制をうっかり廃止して大丈夫だろうかというような、むしろ保守的な考えの人間になりました。特に、アメリカの人たちが宣伝する民主主義というものに対して懐疑的になった時期がありました。このころ、『民主主義』という本がアメリカの勧めでしょうか、編纂され、文部省の名前で出て、みんな読んでいたわけですが、歯が浮いたような本だといって私は読まなかった。(41-2)

 一九七〇年以降に、コミュニストでないためには非常な論拠がいるという時代は遠くなりました。しかし、私が大学に入ったころは〔略〕共産党に入党しないためにはそれを反駁するだけのものを持っていなければならなかったのです。(47. 傍点省略)

実際、ある若い研究者がアイデアをある教授に話したら、自分の頭がいかに貧しくてアイデアが貧困であるかということを思い知らされてがっくりきて帰るのだけれど、同じアイデアを渡辺〔格〕先生に話したら自分も捨てたものではないという気がしてくるという不思議な方でした。「君の研究はこういうことの一端に触れていて、こういう可能性もある、こういう可能性もある」、こんなふうに話してくれました。私は後に精神科医になってこのことを思い出し、患者さんが私に話してくれるときに、話しても惨めな感じをもって帰るか、それとも、自分も捨てたものじゃないんだ、こんなとこにも可能性が開けているのじゃないかと思って帰るかは、話す相手の治療者によってずいぶん違うだろうなと考えました。(54)

ハリー・スタック・サリヴァン(1892-1949)の〕母は農場では人生に疲弊した人であったが、叔父のホテルでは如才なく社交的であった。父さえ村の酒場ではその統合失調症親近的な気質の殻を破って、自家製のリンゴ酒を飲み、朋友と政治談義をし、楽器を合奏した。こういうときにはアイリッシュの陽気さを示した。サリヴァンが、晩年、「人格は対人関係の数だけある」という周囲を驚かせた説を唱えた基礎にはこの体験があるだろう。(84) ▶ 分人

些細な手がかりから重大な結論を下すということ。一般に未来、未知、不確定なものを推量し先取りしようとすること——。〔略〕徴候という言葉が、医学の用語であるように、医者の営みは主に徴候を読むという仕事です。(129)

「定石」というものはありますが、「定石」を超えたところからプロフェッショナルな人間としての仕事が始まるわけです。(148)

中井 フロイトが「デメンチア・プレコックス(早発性痴呆=統合失調症のこと)」〔ママ〕の発病は、その治癒過程の開始でもある」といっています。名言ですね。統合失調症の純粋状態というものがあるとすれば、それは、ごく短い、発病時の恐怖の数時間だけかもしれない。
——後は?
 疾病過程と回復過程とのからみあいでしょうね。
(155)

 第三に、自己は世界の中心であると同時に、世界の中の一人あるいは世界の一部であるということです。この二つのことを同時に感じることが精神健康の目安のひとつです。(170) ▶ 己の大きさを感じると同時に、己の小ささを感じる。

 もう一つは、電算機の父の一人と言われるノーバート・ウィーナーが言っていることですが、協力にあたっては、自分の領域についてはエキスパートであって、自分以外の領域についてはディスカッションできるだけの知識をもっていることが必要です。(181) ▶ 丸山眞男やジョン・スチュアート・ミルの名前とともに語られる「知識人」のあり方とも重なります。

 海女が溺死者を回復させるのに、焚き火をたくのではなく、自分が裸になって抱いてあげて、自分を熱交換器にして温めるという話を思い出すんですが、何でこんなことが起こるのだろうと思ったら、二つのことが連想されてくるんです。
 一つは、赤ちゃんがおなかの中にいるときは、母親の脈が速くなると赤ん坊の脈も速くなります。これは、ここ十年ぐらいよく知られてきたことです。だから、母親が不安になったら、胎児も不安になるということです。このように、人間というのは、接触している場合には脈が同期化する傾向があるということです。
 もう一つは、人間の肌と肌とが触れ合うというのも、親しくなるということですが、そういうことも、単なるスキンシップの問題ではなくて全身の問題かもしれない。たとえば、恋人どうしが手をつないだり、友人が手を握るという場合、非常に適切にしっくり触れたときは、脈拍も合っているのかもしれない。お互いの体のいろいろな係数が合っているのかもしれないわけです。〔略〕
 私が、患者さんにさわって、患者さんが気持ちがいいと言い、こちらが患者さんの脈拍まで合ってしまうような状態にするためには、こっちも適切な状態にならなければいけない。
(214-5)

「そう……。でね、精神科の難しいところはいくつもあるけど、まず、病気の前に戻すということが治療にならないんだ
「というと?」
「それは、病気の前と同じ状態というのは、世間的には、見栄えがするかもしれないけど、いつまた病気になるかもしれない不安定さを秘めた状態だからだ
(272)

 人間は、平和とかサバイバルには戦時中などと比べて重圧を感じるようですね。平和というのは本来、非常に多様な活動を、しかも指図されずにやっていくわけだから戦争よりずっと大変です。しかも終わりがない。(309)

中井 だいたい同期化するというのは、本当は危ないんですよ。人間の脳でいうと、脳の活動が同期化したらてんかん発作ですからね。人間の脳が活動できるのは、脳の活動がふだん同期化していないからなんです。
——ズレがあるということですね。
中井 そうです。脱同期化しているのが正常です。世界が情報化によって同期化するということは非常にリスクが高まることです。少し前の株の大暴落なんかは典型的ですね。
——時間と距離をめぐってそれぞれ相互作用が考えられますね。
中井 そうです。距離というものは守ってくれるものです。〔略〕
 安定した社会、暴走しない社会はある程度非同期化していなければならない。自然界もやたらかき混ぜないことが大事です。完全にかき混ぜると人間だけじゃなくて生物界も危ないことになる。
(316)

「カルト化」とは、ある種の思想やイデオロギー、すなわち「体系」が状況を支配する状態を指すのです。〔略〕
 それではなぜ、「中井久夫」のみがカルト化を解毒し得たのか。
 それはひとえに、中井先生がいっさい「体系化」を志向しなかった、という点に尽きるでしょう。ヘーゲルはとても読めなかったが、ヴィトゲンシュタインは愛読していたというエピソードからも、そのことはうかがえます。またみずから体系化は向かないとも書かれています。しかし資質ゆえというのは、おそらく謙遜でしょう。体系化は間違いなく意志的に禁欲され、萌芽状態のまま放棄されてきたはずです。
(斎藤環「解説」326-7)

体系はしばしば視野を狭くし、体系を補強してくれる事実しか眼に入れなくなりがちですが、すぐれた箴言には発見的な作用があります。(斎藤環「解説」328)


@研究室
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by no828 | 2015-11-11 20:01 | 人+本=体 | Comments(0)


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