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思索の森と空の群青

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2016年 01月 10日

「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれない——橋本治『負けない力』

「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれない——橋本治『負けない力』_c0131823_1662693.jpg橋本治『負けない力』大和書房、2015年。36(958)


 版元


 橋本治先生の「知性」についての本。タイトルにもある「負けない力」とは知性のことです。そして知性とは、相手の知性を認める力のことです。答えを外部に求めない姿勢を維持し続けるための持久力でもあるでしょう。

 橋本治先生は一貫して“自分の頭で考えろ”とおっしゃっています。わたしの思考回路は橋本治先生に開けてもらったようなところがあります。もう15年くらい前のことになりますが、橋本治先生の本をはじめて買ったときの風景をわたしはまだ覚えています。


 おまけに、「負けない力」という言葉にネガティヴなニュアンスも隠されています。なぜかと言えば、「負けそうな状況」がなければ、この「負けない力」は威力の発揮しようがないからです。重要なのは、そんなめんどくさい状況に巻き込まれないことで、そう思う人が多くなってしまえば、「負けない力」なんかはなんの意味も持ちません(3)

知性というのは、「なんの役にも立たない」と思われているものの中から、「自分にとって必要なもの」を探し当てる能力でもあります。(4)

でも、どういうわけか日本人は、「どうして我々は負けてしまうのだろう?」を考えないのです。考えるのは、「もう一度勝とう」ばかりです。〔略〕どうして日本は、いいところまで行って負けてしまうのでしょうか? それは日本が「ここら辺でやめておこう」という考え方をしないからです。(26)

「答は自分の中にある」と思えるのが知性です。「答は自分の中にあるんだから、自分で答を引き出さなければならない」と思うのが知性です。(41)

でも私は「もし穴に落ちたら?」と言っているのです。それに対する答が「私は穴に落ちない」だったら、その人は「自分が穴に落ちることもありうる」ということを想像出来ない、イマジネーションに欠ける人になります。(43)

 ボディコンもキャリアウーマンファッションもブランド物も、すべては「思想的なファッション」で、その背後には、それを選ぶ人達の「私は自己を主張したい」という気持があります。めんどくさい言い方をすれば、それは「私が私であることの自己証明」です。
 この自己証明は「自分の外部にあるものを選び取ることによって可能になる」というもので、最早「自分」というものは「自分の内部にあるもの」ではなくて、「自分の外部にあるものを選び取ることによって表明されるもの」です。だから、この自己証明は金がかかります。
(67-8)

「自分」があって、それを「個性的に表現する」ではなくて、「“自分”があろうとなかろうと、これを着れば個性的であれるはずだ」というのは、本末が転倒した「個性」のあり方です。(74)

 めんどくさい自己主張をする他人と付き合うのがいやになった男は、可愛くて自己主張もせず、存在するだけで「癒してくれる」になってしまうアイドルにはまります。女だって、めんどくさいことを抜きにしてただ可愛くなっているだけでキャーキャー——というかギャーギャー言われるアイドルになりたいと思います。(75)

 イギリスに留学した夏目漱石は、大日本帝国から期待された英文学者でもあったのですが、「英語や英文学を学ぶことが、日本人である自分にとってなんの意味があるのだろう?」と思うところまで行ってしまった人です。(105)

 知識を身につける目的がなにかと言えば、それは自分を育てることです。〔略〕「自分には必要だ」と思える知識は、「身に沁みる」という形で体感的に判断出来るものです。(106-7)

「私の言ったことでなにか分からないことがあるか? なにか説明不足のことはあったか?」と言う方は言っているのに、「質問というのは、言われたことを理解した人間がするものだ」と思い込んでいるから手が挙がらないのですが、「言われたことを理解した人間がなにかを言う」は、「質問をする」ではなくて、「意見を言う」です。「意見を言う」と「質問する」は違うのです。(113)

 質問というのは、相手の言うことをよく聞いていなければ出来ません。〔略〕
「どこがどう分からないの〔か〕はよく分からないけど、なんかよく分からない」と思ったら、「自分はなにに引っかかってるのか?」を考えればよいのです。「なにが分からないのか」はモヤモヤとしていることなので、すぐには正体を現しません。だからまず「なにか引っかかるものがある」と考えるのです。それを可能にするものをむずかしい言葉で言うと、「理解力」と「判断力」になります。
「自分はなにかに引っかかってる」と思ったら、「それはどこだ?」と考えて、頭の中を反芻したり、目の前に置かれているペーパーの文章を目で追います。
(114-5)

「“分からない”と言ったらバカだと思われるかもしれない」という危惧はあるにしろ、「とりあえず、相手に対して自分はバカだ」という負け方をしてしまった方が、トクではあろうと思います。少なくとも、「自分はバカかもしれないと思って腰を低くしてるのに、その相手を本気でバカにしているこの人は、たいした人じゃないな」ということだけは分かります。
 お忘れかもしれませんが、知性は「負けない力」です。「負けない力」を本気で発動させるためには、「負ける」ということを経験した方がいいのです。負けることをバカにする人に、ろくな知性は宿りません。
(121)

「権威」であるような「拠りどころ」がなくなったら、「自分のことや自分達のことは、自分や自分達で考えてなんとかする」しかありません。その「どうしたらいいんだろう?」を考えるのが、「知性」なのです。(130)

「根拠」というのは、自分の内部に作り上げるものです。「自分がある」というのは、自分の内部に「根拠」を持つことで、「根拠」というのは、自分の外側に当たり前の顔をして落っこっているものではありません。(132)

 私がなんの根拠もなく「知性とは負けない力である」と言ったのは、「知性ってなんだろう?」と考えて、「それを調べてみよう」とは思わなかったからです。〔略〕
 どこかで誰かえらい人が「知性とはカクカクシカジカのものである」と言っていたとしても、それは「この人はそう言ってるんだな」というだけの話です。それをそのまま引用してしまうと、「だからなんなんだ?」というその先のことまで、それを言った人の言葉を引用しなければならなくなります。それは「知性ってなんなのか?」ということを考えることではなく、「知性に関してなにかを言っている他人の言葉を説明する」にしかなりません。
(134)

 権威主義者は、「根拠を一から作り上げて行く」という行為そのものを理解しません。だから、そういう人が「一から根拠を作り上げて行く」なんてものに出合うと、「そんな話は聞いたことがない」とか「見たことがない」と言って拒絶します。〔略〕
「自分で考える」ということは、「自分で根拠から作り上げる」ということで、それがその先に於いて「他人の合意」を得るかどうかは分かりません。でも、「他人の合意」に出会えるところまで行かないと、「自分の作り上げた根拠」は、ただの「自分勝手な理屈」です。
「自分で作り上げる根拠」には、「これは正しい」ということをなんらかの形で証明することが必要です。でも、そんな「証明」なんかは出来ません。だから「これは正しい!」なんてことを大声で言わない方がいいのです。それが「自分の作り上げた根拠」と「自分勝手な理屈」の別れ目です。
 誤解があるかもしれませんが、「根拠」というものは一番初めにあるものではありません。一つ一つ積み上げて行って、最後になってようやく「根拠」になるようなものなのです。
(136-7)

「他人の考え方」というのは、覚えるものではなくて、学ぶものです。「そういう考え方もあるんだ」と思って参考にして、自分の硬直してしまった「それまでの考え方」を修正して、自分の「考える範囲」を広げるためにあるのが「他人の考え方を学ぶ」で、つまりは、自分を成長させることなのです。(150. 傍点省略)

「他人の考え方を知る」というのは、大袈裟に言えば、それだけで「自分の考え方」を揺るがせてしまいます。それで人は、あまり「他人の考え方」を知りたいとは思いません。「うっかりそんなことをして、へんに自分の考え方が揺さぶられるのはいやだ」と思っているのが普通で、そういう人達が知りたいのは、「自分の考え方を肯定してくれる、自分と同じような他人の考え方」だけです。
 だから、私の書くこの本は、とても分かりにくいのです。どうしてかと言えば、私はこの本の中で、読者の考え方を揺さぶるようなことばかりを書こうとしているからです。
(150-1)

普通の勉強なら、生徒に疑問を持たせて自分の頭でものを考えられるような方向に持って行きます——それが「教育」というものの本来であるはずです(153)

 日本人にとって、「正解」というのは「自分の外」にあるものですから、必要なのは、「自分で考えて答を出そうとする」ではなくて、「どこかにあるはずの正解を当てに行く」です。
 日本人の「考える」は、「なにが正解となるのか?」を考えることではなくて、「どこかにあるはずの正解はどれなのか?」と探すことで、それが「見つからない」と思ったら、すぐに「分からない」で降参です。
(170-1)

 どこかに「正解」があるのだったら、それを探そうとするのには意味があります。でももう「正解」がなかったら、それをしても意味はありません(183)

「他人の知性」が認められない人に知性はないのです。〔略〕知性というのはまず、「自分の頭がいいかどうかは分からないが、あの人は頭がいい」というジャッジをする能力です。(192)

あなたが「成績が悪くて勉強の出来ない子」の発言に驚いたのは事実です。それはつまり、あなたにその子のしたような発言が思いつけなかったということですから、あなたに「そういう知性」はなかったのです。(195)

「ものを考える」ということは「悲観的になる」ということでもあって、悲観的になることに慣れて耐性を作っておかないと「心が折れる」などということが起こって、「考える」ということがよく出来ません。〔略〕
 よく「楽観的に考える」なんてことを言いますが、これはおおよそのところで嘘です。「楽観的である」というのは、「めんどくさいことをなにも考えない」ということ
(223)

「考える」ということは、ある意味で「地獄の底まで降りて行く覚悟をする」ということです。でも、降りて行って「そのまま」だったらどうにもなりません。それはただ「地獄に落ちた」だけなので、そんなことをするのなら、そこへ降りて行く前に「戻って来る」を考えなければなりません。
 つまり、「ものを考える」ということは、「悲観的であるような方向に落ちて行きながら、最後の最後に方向を“楽観的”の方向にグイッと変えるのが必要だ」ということです。
(224)

私がなにを言っても、あなたは「なにがなんだか分からない」のままかもしれません。どうしてそうなるのかと言えば、それはあなたが「なにをしたらいいのか分からない」と思っているからです。だったら、そのままにしていればいいのです。あなたの前に「なにかへんだな」と思えることがまだ現れてはいなくて、なんの問題もないだけなのです。だったら当面「それでいい」です。「自分の問題」が見えて来ないのに、「自分をなんとかしたい」と考えるのはへんですから。(248)

「行き詰まった世界」をなんとかするための方向は、「世界は行き詰まっていない」と考えることによってしか生まれないでしょう。そのために重要なことは、「なぜ自分は“世界が行き詰まっている”と思っているのだろう?」と考えることです。人はあまり「自分の責任」を考えませんが、もしかしたら「自分がそう思うことによって事態を悪化させている」ということだってあるのかもしれません。
「自分のせいじゃないけど、でも少しは自分のせいかもしれない」と思わないと、行き詰まったままの「世界」は行き詰まったままだろうと、私は思っているのです。
(254)


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by no828 | 2016-01-10 16:31 | 人+本=体


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