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思索の森と空の群青

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2016年 03月 04日

選択をつきつけられた時、誰もが苦しみ、もう一方の道を選んだ者に複雑な思いを——須賀しのぶ『革命前夜』

選択をつきつけられた時、誰もが苦しみ、もう一方の道を選んだ者に複雑な思いを——須賀しのぶ『革命前夜』_c0131823_20265660.jpg須賀しのぶ『革命前夜』文藝春秋、2015年。43(965)


 版元

 2015年に残してきた本 


 1989年、旧東ドイツのドレスデンの音楽大学ピアノ科へ留学した眞山柊史〔まやま・しゅうじ〕。ハンガリーや北朝鮮、ベトナムからの留学生も登場します。

 ベルリンの壁の崩壊へ至る動き――題名が表すのはそれです。作曲家、曲名が頻繁に登場し、それもとても関心を惹くのですが、思想や国家のなかで具体的に生き延びることの生々しさを感じさせる本でした。そしてそれは、かつてはそうであったということではなく現在の日本においてもそうなのだということを想起させます。

 最後の引用文は、福島の状況にもあてはまると思いました。


 音楽に国境はないという言葉は、嘘だ。音楽ほど地域性、国民性が出るものはない。(48)

 時々、肉体という存在を疎ましく思うことがある。この肉体がなければ音ひとつ奏でることはできない、聴くこともできない。しかし、自分の思い描く音と現実に奏でる音には隔たりがあるし、なにより疲労にとらわれれば指が縺れてしまう。それがわずらわしい。〔略〕この肉の檻は、僕をどうしようもなく閉じ込める。(49-50)

「これ、デモなのか? 反戦デモ?」
「ちがう」イェンツは顔から笑いを消した。「自由へのデモだ
「……自由?」
(57)

 超絶技巧によって自在に音楽を奏でる超一流の演奏家〔ヴイルトウオーソ〕は、その天才的な技術ゆえに、しばしば楽譜を無視して演奏する。かつては自由奔放に音を奏でるその天才性こそが至上のものとしてもてはやされ、楽譜通りに弾くのは優等生的でつまらないと言われたそうだ。
 実際には、楽譜通りに弾くことこそが最も難しいと僕は思う。楽譜には、作曲家の情報が全てこめられている。連なる音符、記号、短い言葉の中に、思想も情念も人生も何もかも。それを正確に汲み取ることが難しいからこそ、解釈という言葉を通して、形を変える。聴衆に、あるいは演奏者に合わせるために。とくに、多様な種類の楽器によって編成される交響曲において、全ての楽器が正確に楽譜を再現するということは、途方もない困難な作業である。
(76-7)

「ナチがこれ〔リスト『前奏曲』〕を好んで使ったから、なんだっていうんだ。いい曲だから使った、それだけだろ。なのになんで、四十年以上経って眉を顰める必要がある? 曲によけいな情報を入れるべきじゃない」
「最後の意見には賛成だ。だが僕らはただの留学生で、ドイツ国民じゃない。安易に触れていい問題じゃないんだ。当事者でなければ、その痛みはわからないだろう
当事者ねえ。マヤマ、ちょっとどけ〔略〕俺の父方の祖父はアウシュヴィッツで死んでいる。親戚もだいぶやられたらしい。ナチスはいまだに一族の間じゃ禁句中の禁句だ
 硬直した僕を、ヴェンツェルは嘲笑うように横目で見た。
だがそれとこれとは別だ。リストはハンガリーの誇る偉大な音楽家だし、前奏曲は名曲だ。誰が聴いてもわかる美しい旋律に響き、テーマも明快で、だがいくらでも潜りこめる底なしの深みがある。子供のころから俺は夢中で、ピアノで弾いていたら親父にぶん殴られた。だがすぐに椅子に戻って弾き続けた。そしたらまた殴られた。俺はまた戻って弾いた。母親からも説教されたが、俺にはどうしても納得がいかなかった」
(105-6)

 イデオロギーは、言葉で形成される。それは本来、理性の分野に属するものだ。だから一度、過ちであったと否定されたなら、人は理性によってそれを封印することができる。
 しかしそこに音楽が付随していたならば、そう簡単にはいかない。音は最も原始的なもので、人の本能から生まれ、本能に突き刺さるもの。否応なく人を動かすものであり、だからこそあらゆる場面で音楽は使われる。ナチスはとくに効果的に使ったとはいえ、同じことは太古の昔からあらゆる場面で行われてきた。
 言葉を否定しても、体の奥深くにしみこんだ音は残る。それはそれで、その人にとっては純粋な「音」だ。彼だけの、音楽である。
記憶と結びついた音楽は、記憶そのものだ。それがよいものであれ悪いものであれ。それは時に、人の心を痛めつける凶器になる
(163)

価値観なんて、たった一日で簡単に反転する(106)

「いいこと教えてあげる。この国の人間関係って、二つしかないの。仲間か、そうでないか。より正確に言えば、密告しないか、するかよ
 クリスタは薄い笑いを口許に貼りつけたまま言った。
だから、立ち位置が全くわからない外部の人間は警戒するの。とくに西の人間はね。西から送りこまれた工作員かも知れないし」
「ただの学生が? まさか」
「そうでなくとも、この国のルールを知らないから、無遠慮にプライベートに踏み込んで暴き立てようとして迷惑なのよ」
(111)

「焔を守れ」
 突然、彼女がつぶやいた。
もし焔を守らねば、思いもよらぬうちに、いともたやすく風が灯を吹き消してしまおう。そして、汝、憐れ極まる魂よ。痛苦に黙し、引き裂かれるがよい」
(116)

「でも軍で四年過ごして、やっぱり音楽しかないと確信した。迷った時はいきなり自分を極限状態に放り込むのも手かもね。答えがシンプルに見えるから
「じゃあ日本に兵役があったら僕ももっとシンプルに見えたかも」
 冗談のつもりだったが、イェンツは手を止めて、まじまじと僕を見た。
西じゃ良心的兵役拒否ってのがあるのは知ってるけど、兵役そのものがない国があるとはなあ。じゃ日本は有事の際はどうやって身を守るんだ?
自衛隊と、あと在日米軍がいるから
 こころなし声が小さくなる。こういう話題は苦手だ。
ふうん、自ら首に縄かけているようにしか聞こえないけど。米軍ねえ……まあソ連軍よりは二パーセントぐらいはマシなのかな
(131)

「自分には関係のない相手のために、ピアノも投げやりか」
「関係なくはない。友人だ。友人が困っていたら助けるだろう」
「助けない」
 即答した。あまりに堂々と否定されたので、僕はぽかんとして彼を見た。
留学生を頼ってくる友人なんてろくなもんじゃないだろ。マヤマはいったいこの国に何をしにきたんだ」
(162)

「よけいなことを考えるな、シュウ。君の悪い癖だ。自虐も逃避の一種だよ。まず、事実を突き止めよう(261)

 残る者、国を去る者。
 どちらが正しく、どちらが卑劣かということはない。それでもやはり、選択をつきつけられた時、誰もが苦しみ、そしてもう一方の道を選んだ者に複雑な思いを抱く。
(320)


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by no828 | 2016-03-04 20:40 | 人+本=体


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