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思索の森と空の群青

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2016年 04月 06日

空に浮かんだ星みたいなもの。ギャップがあること自体が救いなんです——村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』

空に浮かんだ星みたいなもの。ギャップがあること自体が救いなんです——村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』_c0131823_21465891.jpg村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』文藝春秋(文春新書)、2000年。63(985)

 
 版元

 2015年に残してきた本(残り12冊)


 翻訳についての村上・柴田の対談、それに翻訳学校の生徒や翻訳家を交えた座談会(質疑応答)に加えて、村上・柴田のポール・オースターの訳し比べ、村上・柴田のレイモンド・カーヴァーの訳し比べも収められています(もちろん原文も)。オースターは柴田が、カーヴァーは村上が訳すことが多かったわけで、この“取り替え”はおもしろい試みだと思いました。

 1番はじめの引用文にあるようなことを2人の先生に以前言われたことがあり、自分の文章はそういうところがあるのかな、と気になりはじめ、しかしそれがよいことなのかそうでないのかよくわからなかったところがありました。本書を読み、少し自信になりました。


村上 良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています。暴力的になる必要はないんですけど。(46)

村上 文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、前のめりにならなくちゃいけないんですよ。どうしたら前のめりになるかというと、やっぱりリズムがなくちゃいけない。音楽と同じなんです。(66)

村上 だって、天才だもの、あの人たちは。天才というのは別モノなんです。空に浮かんだ星みたいなものです。ギャップがあること自体が逆に救いなんです。(238)


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机の左手に気に入った英語のテキストがあって、それを右手にある白紙に日本語の文章として立ち上げていくときに感じる喜びは、ほかの行為では得ることのできない特別な種類のものである。(村上.4)

村上 小説を書くというのは、簡単に言ってしまうなら、自我という装置を動かして物語を作っていく作業です。自我というか、エゴというか、我というか。我を追求していくというのは非常に危険な領域に、ある意味では踏み込んでいくことです。ある場合にはバランスを失うぎりぎりのところまで行かなくてはならないし、外の世界との接触が絶たれていく場合も多いんです。それくらいの危機をはらんだ作業であるということができる。出来上がったものが立派であるかどうかは、また別の問題として。(16)

柴田 自作が翻訳される場合に、翻訳家なり訳文に何を求められるかをお聞かせ願えますか。
村上 ひとくちでいえば愛情ですね。偏見のある愛情ですね。偏見があればあるほどいいと。
(17)

村上 一語一句テキストのままにやるのが僕のやり方です。そうしないと僕にとっては翻訳をする意味がないから。自分のものを作りたいのであれば、最初から自分のものを書きます。(20)

村上 やはりセンスですね。〔略〕自分にセンスがない人は、自分にセンスがないという事実を認めるセンスがないということです。あともうひとつ僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分のなかでよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。〔略〕僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。(25-6)

村上 実際の場所に行ってみるというのはけっこう大事なことです。〔略〕一般論として言いまして、著者に会うのは非常にいいことですよね。ぜひお勧めします。(31)

柴田 村上さんは人前でご自分でお話をなさるより、人の話を聞くほうが好きだということをおっしゃっていましたけど、翻訳をするということと、話を聞くということと、けっこうつながるんじゃないですか
村上 うん、ほとんど同じですね。小説を書いていると自分のなかの声というのをある程度どんどん外に出していかなくちゃいけないわけですね。ところが翻訳だと、ほかの人の声のなかにスーッと静かに入っていけるところがあるんです。だからやっぱり、翻訳に向く人と向かない人がいるんですよね。じっと人のヴォイスに耳を澄ませて、それは静かな声なんだけど聞き取れるというか、聞き取ろうという気持ちのある人、聞き取る忍耐力のある人が、翻訳という作業に向いているんだと思います。
(38-9)

村上 柴田さんと話しているといつも、「ああ、この人は根っから翻訳が好きなんだなあ」という感じがひしひしと伝わってきて、楽しいんです。翻訳なんて手間のかかる地味な仕事だから、ほんとに好きじゃないとできないです。好きだというのは努力が苦にならないということでもあるから。(51)

柴田 語学力というのは他人がチェックできて、人が直せることだけれど、作品に対する愛情とかそういうものは、他人には代わりができないものだから、そっちのほうが大事だろうというふうに思いました。(57)

村上 もっと極端に言えば、翻訳とはエゴみたいなのを捨てることだと、僕は思うんです。うまくエゴが捨てられると、忠実でありながら、しかも官僚的にはならない自然な翻訳が結果的にできるはずだと思います。
柴田 同感ですね。
(63)

村上 なぜ翻訳をやりたいかというと、それは、自分の体がそういう作業を自然に求めているからです。なぜ求めるんだろうというと、それは正確に答えるのが難しい問題になってくるんだけどたぶん、僕は文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたいんだということになると思います。〔略〕
 ものを書く読むということについて言えば、実際に足を入れてみないとわからないことって、たくさんあります。自分で実際に物理的に手を動かして書いてみないと理解できないことって、あるんですよね。目で追って頭で考えていても、どうしても理解できない何かがときとしてある。
(110-1)

見るのが速すぎる。ゆっくり見ないと意味はつかめないよ
 もちろん彼の言うことは正しかった。時間をかけて見なければ、何ごとによらず本当に見たことにはならない。
(村上・オースター.150)

まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じた——大切なのはそのことだけだ。誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ。(柴田・オースター.177)

村上 下手な文章読むと、絶対に駄目ですよね。
柴田 やっぱりよくないですかね。
村上 よくないですね。だから、僕はなるべく雑誌って読まないです。
柴田 なるほど。僕がテレビの言葉を入れたくないのと同じ。
(234-5)


@研究室

by no828 | 2016-04-06 21:50 | 人+本=体


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