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思索の森と空の群青

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2017年 04月 26日

共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです——森達也『「A」』

 森達也『「A」——マスコミが報道しなかったオウムの素顔』角川書店(角川文庫)、2002年。44(1042)

 2000年に現代書館から刊行された『「A」撮影日記』に大幅な加筆修正

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 ドキュメンタリー映画「A」ができるまで。オウム真理教広報部長の荒木浩を追っていますが、それを介して森達也自身とこの共同体が、そしてこの共同体に安住する人びとが問い返されています。

 フィールドワークをしながら経験科学を主としていたときには、本書でドキュメンタリーのそれとして繰り返し言及されている「客観性」についてよく考えました。また、そのあと理論に軸足が移ったあとは、即断しない、というか、重要な事柄ほど即断できないのではないか、ということに気づくようになりました。考えるためには、そして考えさせるためには、ペースを乱すことは有効かもしれない、と思っています。

55) ……ずっと考えていた。撮影対象であるオウムについてではない。自分についてだ。「オウムとは何か?」という命題を抱えて撮影を始めた僕が、いつのまにか、「おまえは何だ?」「ここで何をしている?」「なぜここにいる?」と自分に問いかけ続けている。

78)昨日も地元のテレビ局の記者が、施設を管理する管財人の了解をもらったから取材を始めると撮影クルーを帯同してやってきて、これを阻止する荒木浩としばらく施設前でもめた。管財人が了解したのだからオウム側にこれを拒否する権利はないと主張し続けた記者の論旨は、譬えて言えば大家の了解をとったから店子の生活を無断で撮影できると主張しているに等しく、冷静に考えるまでもなく論理としては破綻している。ずっとガムを噛みながら荒木浩と話していたこの記者にだって、いくらなんでもその程度の常識は通常ならあるはずだ。また会話のときにはガムを吐き出すくらいの礼節は知っているはずだ。しかしオウムという単語が方程式に代入された瞬間、おそらくは彼の思考が停止した。

87)「僕にとってドキュメンタリーを作ることは、絶対的に主観的な行為です

89-90) ドキュメンタリーの仕事は、客観的な真実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。一頭の母ライオンがカモシカの子供を狩る場面を撮ったとする。出産直後の母ライオンの子育てにドキュメントの主軸を置くのなら、観る側は彼女の牙がカモシカの頚動脈に食い込んだ瞬間に快哉をさけぶだろう。カモシカの母と子の主軸を置くのなら、彼らが逃げ切った瞬間に安堵の溜息をもらすだろう。そういうものだ。映像で捉えられる真実とは、常に相対的だし座標軸の位置によって猫の目のように変わる。
 カメラが日常に介在するということは、対象に干渉することを意味する。微粒子は観測する行為そのもので大きな影響を受け、粒子としての本来の姿を決して現さないとする量子力学の基本原理と同じだ。自然なドキュメンタリーなど存在しない。撮る行為によって撮られる側は、時には触発されるし、時には規定される。そしてまた撮られる側の反応が、撮る行為に大きな影響を与える。
 その意味では撮影における客観性など存在しない。映像を作るという作業はすべて主観の産物のはずだ。雨乞いの儀式を仕込んだかどうかは表層的な問題でしかない。その状況で、自分が如何に自分の主観的な真実を信じることができるかどうかが問われなくてはならないのだ。もちろん自分と対象との相関的な座標を正確に表出することは必要だ。しかしその位置さえ明確に呈示すれば、後は観る側が判断するだけのことなのだ。バランスをとるのは表現する側ではない。観る側だ。

90)視聴率という大衆の剥きだしの嗜好に追随する現実を、公共性というレトリックに置換するために、「客観的な公正さ」という幻想を常に求められ、また同時にそれを自らの存在価値として、テレビは勘違いを続けてきた。僕も今まで勘違いを続けてきた。

112-3) 道を歩いていてふとレンタルビデオ屋を覗こうという気になるように、彼らはその人生のある瞬間、ふとオウムに足が向いたのだ。テレビの司会者は、「なぜ彼らがオウムに惹かれたのか、その理由は今もどうしてもわかりません」と眉間に皺を寄せるが、そんな理由は信者によって様々だし、解明する意味はない。〔略〕
 しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。その思いは僕にこのドキュメンタリーを発想させた動機の一つだ。そして今、理由はおぼろげながら見え始めている。彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。

129-31)「……映像を貸してもらえない理由は何ですか?」
 形勢有利とばかり畳み込んだ僕の言葉に、数秒の沈黙の後、荒木浩はぽつりと言う。答えようとして、僕は一瞬言葉に詰まる。制作途中の映像素材を第三者に見せたり貸したりすることはできない。確かにこれは大原則だ。しかしその大原則の根拠を、今この瞬間明確に説明することができない自分に気がついた。
「……僕は、この作品でオウムの便宜を図る気もありませんし、警察に協力するつもりもありません。あくまでも中立な立場でこの作品を作るつもりです」
「それは充分にわかっています。味方をして欲しいと言ってるつもりはありません。事実を証明してくれと言ってるだけです。それは森さんたちの中立性を損なうことになりますか?」
「……きっと今、荒木さんたちに映像をお渡ししたら、この作品の生命はそこで間違いなく断たれると思うんですよ」
 絶句した僕に代わり、カメラを胸元に構えたまま、安岡がゆっくりと話しだす。普段は教鞭をとる彼の口調は、こんなときには実に説得力を発揮する。
「それでなくともこの作品は、社会から無条件に受け入れられる作品ではありません。たぶん発表のときには、僕らのスタンスは厳しく問われる事態になると思います。その制作過程で、理由はどうあれ、素材をオウム側に提出したという事実は、まさしく命取りになります。つまり、作品としての価値はそこでゼロになるということです。それがわかっていながら、今映像をお渡しすることは僕らには不可能です」〔略〕
 苦し紛れに「中立でありたい」と僕は荒木浩に口走った。公正中立に事実を客観視するなどという慣用句は、不祥事を起こしたマスメディアが無自覚に口走る陳腐なスローガンにすぎないと知りながら、だ。
 公正中立でものは作れない。
 断言できる。主観の選択が結実したものがドキュメンタリーなのだ。事実だけを描いた公正中立な映像作品など存在しない。
そもそも中間に立とうにも、オウムの座標がわからない限りは、両端から等距離の位置など測定できるはずがない。その覚悟はしていたつもりが、追いつめられると苦し紛れに、こんなにもあっさりと馬脚を顕していた。

172-3)「何かさあ、自分の言葉でものを考えられないメディアの構造って、オウムの構造に似ているよな
「メディアだけじゃなくて、社会全般じゃない? 本質的には変わらないよ」
「でも社会は人を殺してないぜ」
「いや、見方を変えれば同じだよ」
「私もそう思う。エイズに発症することを知ってて血友病の薬剤を認可していた厚生省と、地下鉄にサリンを撒いたオウムの信者たちと、その意識構造に本質的な差違はないと思う」
「極端すぎるぜ、それは」
「いや確かに本質は近いよ」

185)「質問というのは、答えを聞きたいからするものですよね。皆さんの質問が、本当に答えを求めているとは私には思えないんです

196)メディアは僕たち社会の剥きだしの欲望や衝動に、余計なことはあまり考えずに忠実に従属しているだけだ。

199) 結論だ。オウムはわからない。「信じる」行為を「信じない」人間に解析などできない。この一線を超えるためには自身も「信じる」行為に埋没するしかない。しかしその瞬間、僕は間違いなく「表現」を失うだろう。選択肢はない。オウムは既成の言語に頼る限り、どこまでいっても「わからない」存在なのだ。

200-1)公開に際して僕が決めた作品タイトルは「A」。オウムの頭文字のAでもあるし、麻原のAでもあるし、何よりも荒木浩のAでもある。しかし真意はそんな語呂合わせではない。要するに何だってよいのだという意思表示をしたかった。タイトルが内容を凝縮するものだという前提がもしあるのなら、そんな言語化はこの作品について言えば、無意味な作業なのだということを、そのタイトルで現したかった。無自覚な凝縮や象徴が如何に危険なことであり、この作品はその試みを徹底的に拒絶するということを宣言したかった。

216) 改めて言う。編集は事実を加工する作業なのだ。そもそもの素材は事実でも、カメラが任意のフレームで切り取ることで撮影者の主観の産物となった現実は、更に編集作業を経て、新たな作為を二重三重に刻印される。それがドキュメンタリーであり、映像表現の宿命でもある。

248-9)「これは本当にドキュメンタリーかい?〔略〕オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を手渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」〔略〕
「この作品に登場するオウムにも警察にもマスメディアにも、とにかくほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。組織への帰属意識や従属度は日本人に突出して強い傾向だと思うし、傍から見ればもしかしたらフェイクにしか見えないのかもしれないけれど、ドイツ人にはそんなメンタリティはないと本当に言いきれるのでしょうか?」

256-7) 「体験」を意味づけることを社会システム理論で「体験加工」という。体験加工の機能は、日常生活を支えるセマンティクス(意味論)への回収だ。その作業は通常、意識せずに行われる。その場合、体験と体験加工は分離できない。
 問題は、日常を支えるセマンティクスにうまく塡らない体験をしたときだ。体験をどう解釈するのかという行為が問題になる。体験と行為の違いは「訪れるもの」か「選ぶもの」かという違いである。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

258) 体験加工の保留は「A」にも見出される。オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工(意味づけ)する前に、オウムも社会も、様々な方向からじっくり体験(見る・聞く)してみる。〔略〕
 森監督とお会いするたびに、一水会の元代表・鈴木邦男氏のことを思い出す。共通して脱力した人だ。世間では、パッパパッパと体験加工していける、即断即決型の人間が聡いと思われている。そうした視線からは、二人とも驚くほどスローに見える。
 だが鈴木邦男の著書『がんばれ! 新左翼3』の解説で詳述した通り、近代ではこうした「遅れ」こそが批評性の要になる。なぜなら「遅れ」のなさこそが、近代を構成する様々なフレームの尤もらしさを各所で支えるからだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

260) 体験(見える・聞こえる)を拙速に体験加工(意味づけ)するとき、私たちは既存のフレームに拘束され、思考停止した駒になる。かつてなら許されたこうした振舞いは、今や近代社会の存続可能性を脅かすものとなった。
 しかし、思考停止した駒になるのをやめようと体験加工を遅らせるならば、今までのマスコミ組織や社会の中で「使えない奴」との烙印を押される。逆にいえば従来の物差しでは「使えない奴」こそが、存続に関わる危機から社会を救う可能性があるのだ。 ※宮台真司「私たちが自滅しないための戦略」

@研究室


by no828 | 2017-04-26 19:46 | 人+本=体


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