思索の森と空の群青

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2017年 04月 27日

スポーツにおける着地とは「現実」との接点なのである——奥田英朗『延長戦に入りました』

 奥田英朗『延長戦に入りました』幻冬舎、2003年。45(1043)

 http://www.gentosha.co.jp/book/b3073.html|単行本は2002年に同舎


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 エッセイ集。なるほど、と思わせる視点と着眼点。わたしも忘我の境地に浸ることがなかなかできません。別のところに視線をちらっと注いでしまっていることが多いです。何となく、タイトルと表紙写真が合っている気がします。


14-5)たいていの場合、人は自らのエゴにすら気づいていない。自分の感情が何よりも優先するものだと信じている。〔略〕
 私はその昔、イベントの仕事で客の整理を数多くこなしてきたから実感できる。
「このロープから出て歩かないでくださーい」〔略〕
「あっ、そこのあなた。順番ですから、ロープの中に並んでください」〔略〕
「ちょっとそこのボク、入っちゃダメだって」〔略〕
「てめーら入るなっつーのがわからんのか!」
 とまあ、このように疲れてしまうのが集団エゴとの戦いなのである。こういうとき、私は金日成主席の気持ちが理解できる気がする。人民に自由を与えるとロクなことはないと全体思想に走ってしまいそうになる。 ※「客席の集団エゴと案内嬢のひとりごと」


26-7) ところで、こうしたところに目が行ってしまうのは、きっと私の覚醒した性格によるものだと思う。たとえディスコの喧騒の中でも、私は忘我の境地に浸ることができない。我を忘れて熱狂するということができない。頭の底は常に冷めているから「おろ? あそこに変わった人が」と妙なことに気づいてしまう。〔略〕
 もちろん、だからといってスポーツや音楽を楽しんでいないわけではないので誤解しないように。興奮も感動もする。ただ、みんなが100パーセントの意識を傾ける中でも、私はそれを90パーセントくらいにしておくから、残りの10パーセントで人とは別のものを見てしまうのである。 ※「日常の真実と私の目の行きどころ」


28) どうして延長戦まで死力を尽くして戦った両チームが、あんな単純なジャンケンのような方法〔=サッカーのPK戦〕で勝者と敗者を決めるのか、彼らには不思議でしょうがないのである。ここまでやったなら、あと30分でも1時間でもケリがつくまでゲームを続ければいいではないか、というのがアメリカ人の素朴な感想なのだ。
 言われてみればそうだ。たとえばベースボールにおいて、「延長12回を戦ったけど決着がつかなかったのでこれからホームラン競争をして勝敗を決めまーす」などということになったら、観客は黙ってはいないだろう。オールスター・ゲームの余興じゃあるまいし、なぁにがホームラン競争だ、ふざけるな、である。 ※「あいまいな日本と優勢勝ち」


38) つまり、図式としては「主張」→「逆らう者なし」→「そうか自分は正しい」→「信念」。 ※「格闘家の信念と小心者の世渡り」


172-4) さらにはバーを越えればいいという刹那的考え方も私の美学は受け入れることができない。背面跳びが生まれた背景には、はっきりと着地用クッションの存在がある。あれがなければ背中から着地しようなどと思いつく奴はいなかったはずである。〔略〕
 あの跳び方を見よ。着地のことなどまるで考えていないではないか。バーを越えたらこっちのもの。あとはクッションさんお願いね、という甘えた根性が滲み出ている。実用性ゼロ、なのだ。
 たとえばここに高さ2メートルの柵があったとしよう。その鉄線には高圧電流が流れている。触れたら一瞬のうちに死んでしまう。その柵の中に何人かが閉じ込められている。誰かこの柵を飛び越えて、助けを求めに行かなくてはならない。その中に二人のハイジャンプの選手がいた。一人は背面跳びで2メートル40の記録をもつ世界的アスリートで、もう一人はベリーロールで2メートル05の記録しかない平凡な選手である。柵の中に閉じ込められた人々がこの幸運に喜んだことは言うまでもない。2メートル40も跳べる人がいる。2メートルの柵など楽勝ではないか。さっそく飛び越えて助けを呼んでくれないか。ところが背面跳びの世界的アスリートは断るのである。
下はコンクリートじゃないですか。クッションがなければ跳べませんよ
 こんなひ弱な野郎が表彰台に並んでいいわけがない、と思いませんか?〔略〕スポーツにおける着地とは「現実」との接点なのである。どこまで凄いことをして無事に生還できるか、それが着地の意味するところなのである。つまり、トリプル・ルッツを決めて、なおかつ着地するからフィギュアの伊藤みどりはエライのである。ブブカはたいして役に立たない奴なのである。 ※「ハイジャンプと着地という現実」


196) 私は、今のプロレスは誰もが了解済みのフィクションの世界にはまり過ぎているのではないかと思う。あのミもフタもない明るさ、会場の温かさ、「お約束」の数々、あまりに予定調和で私はその輪に加わることができない。私が見た1966年の試合は、たとえ嘘でもノンフィクションと信じるに足る切迫感があった。 ※「ジャイアント馬場が本当に強かった1960年代」


@研究室


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by no828 | 2017-04-27 14:38 | 人+本=体 | Comments(0)


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