思索の森と空の群青

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2017年 06月 15日

原発立地の自治体には多額のカネが東京から投下されるのであるから、東京が町村をまるごと買い取ったようなものだ——奥泉光『東京自叙伝』

 奥泉光『東京自叙伝』集英社、2014年。59(1057)


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 この国は何も変わっていない、ということがよくわかって暗澹たる気持ちになります(本当に)。で、おまえはどうするわけ、と問われています。

 この本の内容と現実とが重なります。この本を読み終えたのは昨年ですが、この本を今日ここにアップロードすることになるとは思っていませんでした。


 111ページに「鎧袖一触」という表現が出てきて、読みは「がいしゅういっしょく」ですが、意味を知りませんでした。鎧の袖で少し触れたくらいの簡単さで敵を負かすこと、だそうです。

15) 戦に卑怯なし。これが師の高く掲ぐる標語で、卑怯と云うなら、刀剣弓矢を使うこと自体が卑怯である。〔略〕剣術槍術と云う技芸そのものが卑怯を基盤としているのである。

26)本質の指摘は常に人を驚かすものだ。

114)この失敗は敢闘精神ばかりを強調して兵站をないがしろにする帝国陸軍の体質に原因があるとしかいいようがない。いや、陸軍の、と云うよりは、ただひたすらに武を尊び、潔く散るをよしとする、日本人の血に流れる美意識のせいかもしれない

130-1) 少しく冷静になって勘案してみるならば、鉄鋼など重工業製品の生産力は日米で1対10。人口も向こうがだいぶ多い。つまりそもそも勝てる戦じゃなかったわけです。それを精神力やら気魄やらでカバーできると思ってしまうあたりが、日本人の悪癖といっていい。日本人種の血に脈々と流れる精神主義、これはもはや宿痾といってよく、無謀かつ不毛な精神主義が、情報軽視、兵站軽視の風土を育み、闇雲な吶喊主義がはびこる原因となった。早い話が島国根性がよくない。と云ってもいまさら島国をやめるわけにもいかぬわけで、これは陸軍がどうのの話じゃない。ましてや一参謀などがどうこうできるわけもない。ほとんど文明論レベルの問題です。

182)新憲法の施行が終戦から三年目、すなわち昭和二十二年、西暦で一九四七年五月。同じ年に財閥解体、改正民法発布と、この辺りがGHQの民主化政策の頂点。ここから先は「逆コース」と云うやつで、公職追放されていた連中が復帰する一方、レッドパージがはじまる。一度は消えてなくなった軍隊も名前を変えて復活する。二十六年九月にはサンフランシスコ講和条約が結ばれて、進駐軍の占領は終了、めでたくニッポンは独立。とは云っても安保条約のおまけ付き、沖縄を手土産に差し出して、アメリカさんの御機嫌を窺いつつの独立だ。そもそも首都東京の眼と鼻の先に米軍基地がいくつもあるんだから、要はアメリカの妾になったようなもの。岩永聖徳王は男は奴隷で女は妾と予言していたが、マアあたらずと云えども遠からず。パンパン嬢は焼跡の風物詩だけれど、何のことはない、日本はまるごとパンパンになったと云う、笑うに笑えぬお話。

240)アジア諸国への賠償交渉が始まったのが、サンフランシスコ講和条約締結の前後、これはいわゆる直接方式と云うやつで、賠償を受ける国が日本の企業に船舶だとか工作機械だとかを発注し、日本政府が代金の支払いをまとめて行う。政府が払うと云うと判然りしないが、要は役人が国民の税金から払うわけで、当の役人からしたら所詮は他人のカネ、自分の懐が痛むわけじゃない。だから言い値でいくらも出してくる。受注した会社にとってこれほどおいしい餌もないので、甘い汁を吸うチャンスだと誰だって考える。しかも甘い汁の総額は三千五百億円以上、嵩も膨大となれば、多くの企業がなんとか賠償ビジネスに食い込めぬものかと、蟻のごとく群がり寄るのは自然の理だ。

256)私の感覚からしたら、天皇家などはヨソ者にすぎぬ。ソンナ者に大東京が遠慮をする必要などはいささかもないので、むしろ皇居を横切る形に道路を走らせるのが便利がいい。だいたいアンナ広々とした一等地を天皇一人が独占しているのが気に食わぬ。
 天皇陛下が真に国を思う者ならば、庶民並みとまでは云わぬが、モット小さい家に住んで質素を旨とし、皇居は公園にでもして一般に開放すべしとの意見には、松枝亥外主催の東亜塾に集まる若い右翼連中のなかにも賛成する者がありました。

280)実のところ、私が接触した政治家連中のなかには、平和利用、平和利用と表向きはお題目のように唱えながら、原子炉さえ持ってしまえばコッチのもの、いつでも原爆製造に転用できるサと、裏で舌を出している者があるのを私は知っている。マア原爆にしたところで、戦争の抑止力となるとの観点からすれば、平和に貢献すると無理に云えば云えなくもない。まさにものは云いようで、原爆製造を原子力平和利用と呼んであながち論理の誤りとは云えぬ。〔略〕原爆と原子力発電はあくまで別物。原爆が悪魔の発明であるとするなら、原子力発電は人類に幸福をもたらす技術の神様の恩寵である。とコウ二つにクッキリ弁別しておくが肝心。

388-9)東京に原発が欲しい。これがそもそもの私の願いであった話は先に述べたとおり、東京にはドウモ作れぬとなってやむなく東海村や福島に持って行った次第で、つまり原発のあるところ東京の出先デアル、くらいに私は感じていたんだろう。実際福島で作られた電気のほとんどは東京が使う。加えて原発立地の自治体には多額のカネが東京から投下されるのであるから、ある意味、東京が町村をまるごと買い取ったようなものだ。東京の出先ないし飛び地と見做してあながち誤りとは申せません。

406)稀に言葉を交わすようになっても、作業が終わればサヨウナラ、二度と会わぬ。つまり誰でもいい。郷原聖士なら郷原聖士と名前はあるにはあるが、これはまず記号にすぎぬ。手足が動いて最低限の仕事ができればそれで十分。極端な話、働けるならそれこそ鼠でも構わぬ。だから自分が誰であるかが分からずとも困らず、自分が誰であるかなど考える必要がない。結果、考える癖が徐々になくなり、自分が誰でなくとも気にならなくなってしまう、とコウ考えられるのかもしらん。

@研究室

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by no828 | 2017-06-15 17:40 | 人+本=体 | Comments(0)


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