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思索の森と空の群青

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2017年 07月 02日

無自覚な悪が跋扈するこの世界に、善であろう、正しくあろうとする者が生きてゆく意味はあるか——宮部みゆき『ソロモンの偽証』

 宮部みゆき『ソロモンの偽証』新潮社(新潮文庫)、2014年。61(1059) 

 単行本は2012年に同社

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 ひとりの生徒の死の真相を生徒たち自身で明らかにするために学校内裁判を開く、という物語。個々の生徒がどういう生徒なのかということに加え、学校のなかの友人関係の機微や生徒の家庭環境の複雑さの描写が物語に厚みをもたらしています。自分の中学時代を対比させながら、教師の立場を想像しながら、学校とは何なのかを考えながら、読みました。

 ※引用冒頭の数字は「巻・ページ数)」

1・38)本人が勉強したいってんならいざ知らず、学校なんざ行かなくてもこいつらには生計の道があるんだから、嫌がるもんを無理に机に縛りつけることはねえ、そうだろ、先生?
 実はこの考え方は、自営業者や町工場の多いこの下町では、それほど珍妙なものではない。倅や娘が家業を継いでくれることを望む親は、よほど飛び抜けた能力があるならばともかく、ごく普通のデキである自分の子供が、東大に行って官僚になろうかというような子供と同じだけの学力と勉強の量を要求される今の学校システムに、ほとんど本能的な嫌悪感を抱いている。

1・41) 健一にはいろいろな可能性があると、向坂の小母さんは言った。だけど本当にそうだろうか? 自分には可能性なんかあるんだろうか? ただ家業がない、親から引き継ぐ店や職業がないだけではなくて、可能性もないのじゃないのか。

1・92) 涼子の目は乾いていた。級友の死にショックは受けたけれど、涙は出なかった。泣かないあたしは心が冷たいのだろうかと、心の隅で考えた。そもそも、柏木卓也の死を悼むよりも、そんな自分の心の動きの方を気にしてしまうというのは、冷血人間の印だろうか。

1・97) 人が死ぬということへの不満?
 それは、とても抽象的なもの。
 柏木卓也とは、その程度の距離感だった。そして涼子は、多感な年頃らしい一時的な強い感傷に浸るよりも、その感傷の生まれ出る原因を冷静に見極める理性の方を優先する少女に育っているのだった

1・123) “死”には衝撃を受けた。それが身近で、ましてや学校内で起こったことには。でも、それは、柏木卓也という級友が死んだからじゃない。だいたい“級友”って何だろう? ただクラスが同じだったというだけでは、友達とは呼べないんじゃないのか。

1・361-2) 「非行少年たちって、何かとても大きな事件を起こしてしまったり、関わってしまったときに、大人のようには、それを隠しておけないことが多いんです。罪の意識に苛まれて、という場合もありますし、その逆で、自分のやったことを吹聴したいという誘惑に勝てない、ということもあります。あるいは、自分のやったことを正当化して、それを誰かに追認してもらいたいという気持ちもあるみたいに思えるんです。一人で抱えていられないんですね。心の容量が、大人より少ないと言えばいいでしょうか。だから、どんな関わり方であれ、彼らが柏木君の死にタッチするところがあったなら、どうやったってそれが表情や態度に出てきたと思うんです。繰り返しますが、それで心を傷めているのではなく、それを“手柄”に——俺って凄いことやっちゃったぜ、と思っている場合だとしても、ですよ」

1・429-30) 幼さは、若さは、すべて同じ弱点を持っている。待てないという弱点を。事を起こせば、すぐに結果を見たがる。人生とは要するに待つことの連続なのだという教訓は、平均寿命の半分以上を生きてみなければ体感できないものなのだ。そして、うんざりすることではあるけれど、その教訓は真実なのだと悟るには、たぶん、残りの人生すべてを費やすまでかかるのだ。 ※傍点省略

2・16) 自己中心的だということは共通しているが、この年頃の子供はみんなそうだ。そうでなかったらかえっておかしいくらいだ。十代前半から半ばまでの年頃は、徹底して自己チュウであって、自己チュウであることを隠すだけの用心深さと狡さを持ってはいない。だからこそ、手痛い経験を積んで自己チュウの限界を知り、社会と折り合いをつける方法を学んでゆくことのできる時期なのである。
 ただ問題は、世界の中心にいる自分自身の、そのまた中心にあるものが何か、ということだろうと、礼子は思う。

2・344) 誰か一人の言うこと、やることに振り回されてはいけない。一度学んだはずのそのことを、松子はすっかり忘れていた。どうしてなのか自分でも不思議だ。樹理のやろうとしていることは正しいのだから、疑う余地なんかないと思い込んでしまっていたのか。
 本当に正しいのかどうか、問い返してみることを忘れていた。

2・350) 彼には——そう、「知性」があった。中学生にはまだ分不相応かもしれないその言葉でしか表現できない。それが柏木卓也の芯にはあった。

2・439) 章子はあははと笑い、顔から暗い陰りが消えた。「涼ちゃんは大丈夫よ。とりあえず、今の成績で行けるかぎりのいい学校へ行きなよ。いいところへ行っておけば、大学の選択肢も増えるんだもの
「いい加減だよねぇ」

3・221) 「誰々がそう思ってるとか、推測してるとか、そのように思うのが妥当だとか、それは“事実”じゃないだろ? おまえは“知ってる”んじゃない。“そう思ってる”だけだ。たとえそう推測してるのが先生たちだって、推測はあくまで推測だよな?」

3・223) 「それで負けるんなら、いいんじゃねえの。こっちが負けることで真実にたどりつくってのも、アリでしょ
 藤野涼子は、佐々木吾郎を小さく見積もりすぎていた。吾郎はただ如才ない、付き合いがいいだけの男子じゃなかった。
 負けることで真実にたどりつくこともできる。そうだ、吾郎の言うとおりだ。あたしが求めているのは真実なのだ。勝ち負けじゃない。

3・322-3) 「死んでからわかったって」
「え?」
「浅井さんていう女子が、いい子だったってこと。今、そう言ったよね」
 何となく気圧されて、健一は返事ができなかった。
死んじゃってから、まわりの人間が何をわかったって、意味ないよ。そう思わない?
 答えを求められている。黙ってやり過ごすことはできなさそうだった。
わからないよりは、わかった方がいいと思うけど……
まわりの自己満足のためにはね

4・79) 一美はワープロのタイピングが正確で、早い。文章のまとめも上手だ。いわゆる作文上手ではないが、聞き書きをまとめるという機能的な作業に優れている。これも普通の国語の授業では見えにくい能力だろう。 ※「早い」は「速い」?

4・288) 〈笑み〉の反対語は何だろうと、健一は考えていた。愛の反対語が憎しみではないのと同じように、これもまた〈悲しみ〉ではないような気がした。〈怒り〉でもない。健一にはわからなかった。わからないその感情が表情になって、柏木則之の顔の上に浮いている。

5・24-5) そして恵子は、能動的であれ受動的であれ大出俊次という暗い惑星から自由になったことで、自分の生活を見直し、建て直すことができるほどの自己コントロール能力を備えた少女ではない。時代が女の子たちの早熟を促し、早く大人びることに高い価値があると唆すことの大きな弊害は、人生の早い段階から異性に依存せずには自我を保つことができない女性たちが増えることだ。恵子はその典型だった。だから俊次と離れても素行不良はそのままで、ただ単に〈群れる不良〉から〈つまはじきの不良〉に変わっただけの感がある。

5・169) 「ほかにも、卓也君は学校に対する不満を述べましたか?」
「申しました。生徒の個性や個々の能力差を考えず、一律に同じことをさせ、同じ結果を求めるとか
 証人はまた法廷の雰囲気を気にしたが、そこで吹っ切ったように言葉を続けた。
先生方は頼りないとも申しました。優しい先生は、ただ人が好いだけで無能だ。一方で、教育者としての自覚も才覚もなく、自己顕示欲や他人に対する支配欲を満足させるためだけに教職に就いたような人もいる。暴力志向の強い先生もいる。学校内では生徒は弱者で、先生は圧倒的な権力者だけれども、その権力を正しく理解して、正しく使おうとしていない。自分の気分で生徒をふりまわすような先生に、どうして従わなければならないのかわからない
 一気にそれだけ言って、さらに足した。
学校という体制は社会の“必要悪”なのに、城東三中の先生方には、それがわからない。学校は神聖な場所だぐらいに思っている。単に、権力者である自分たちにとって都合のいい、住み心地のいい場所であるだけなのに、と

5・255) 「親も、どうしても上の子に我慢させて、下の子の方に甘くなっちゃうからねえ」
 我が家でもそうかなと、藤野は思う。三人姉妹の長女である涼子は、妹たちのために我慢することが多い。藤野も妻も、それを当然だと思っている。お姉ちゃんなんだから、と。
男の子は難しいわよ。女の子は口が達者だし、髪の毛引っ張り合って喧嘩するから、まだわかりやすいの
男の子は胸に溜め込むからね

5・378-9) 「現行の評価システムには反対なんです。美術史や音楽史なら、常識的な範囲で教えて、テストして評価の対象にしてもいいでしょう。でも実作となると話は別です。芸術的センスは、たとえ教育者といえども軽々に計っていいものではありません」〔略〕
成長期の子供の場合、美術や音楽に対するセンスをけなされたり、教室という公の場でマイナスの評価をされたりすることは、大きな打撃になります。そこで恥ずかしい思いをして、クサって興味を失くしてしまえば、もしかしたらその後の彼や彼女の人生を明るく彩ってくれるかもしれないものを、早い段階で切り捨ててしまうことにつながりかねないからです
 なるほど、と弁護人は合いの手を入れた。
「ですから義務教育の現場では、生徒たちに創作という行動に触れる機会を与え、自分のなかに眠っているセンスや個性を発見するきっかけを作れば、それでいいと思います。芸術とは、多くの人びとにとっては人生を豊かに楽しくするものであって、厳しい評価や教育を必要とするのは、そこから先へ進もうとするごく限られた人びと——それを生涯の仕事にしようと決心した人びとだけです

5・390-2) 「柏木君が大出君たちにあんな問いを投げたのは、言ってみれば、魔女だ異端者だと責められ迫害される者が、迫害する者たちに向かって、“何故そんなことをするのか”と問いかけたのと同じです。“それが悪であることを、あなた方は認識しているのか”と。もっと言うならば、その問いは、このように無自覚な悪が跋扈するこの世界に、善であろう、正しくあろうとする者が生きてゆく意味はあるか、生きる意義を見出せるのかという問いにも繋がります」
 井上判事は、語る証人を凝視している。
「彼はそういうことを、この学校、現代社会と教育体制のなかで、ずっと考えていたのでしょう。教師からは管理教育というひとつの物差しで測られ、選別され、生徒同士のあいだでは、容姿や身体的能力や人付き合いの上手下手でまた選り分けられ、排除されたり攻撃されたりする。そこには確かに“悪”がありますが、誰もそれを“悪”と名指ししない。誰も敢えて、“何故そんなことをするのか”と反問しない。そのことに柏木君は、いわば愛想が尽きたのです」
 もちろん、生真面目に過ぎます——と、証人は続けた。
「でも、十三、四歳でそこまで考え詰めてしまう幼い哲学者のような少年や少女は、稀にではありますが、いるのです。柏木君はその一人でした。彼の父上のおっしゃるとおりです。だから僕は、柏木君は、少なくともこの学校という世界には、彼が生きてゆく意味、存在してゆく意義は見出せないと判断して、不登校になったのだと思いました。大出君たちとの衝突は、最後の駄目押しみたいなものです」

6・317) 「僕の両親は不幸な人生の終わり方をしましたけど、いつも不幸だったわけじゃありません。父も素面のときは真面目で優しい人で、母とも仲がよかった。弱い人だったけど、悪い人ではなかったと思うんです

@F沢


by no828 | 2017-07-02 12:15 | 人+本=体


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