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思索の森と空の群青

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2017年 07月 05日

英国のレフトというのは、そもそも金がなくともそれなりに幸福になれる社会を作ろうとした人々だった筈だ——ブレイディみかこ『ザ・レフト』

 ブレイディみかこ『ザ・レフト——UK左翼セレブ列伝』Pヴァイン、2014年。63(1061)


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 英国の映画監督や俳優や歌手たちの「左翼」的な考え方・姿勢を解説しています。つまりは何を大事にするか、ということなのだと思います。著者は、右翼や左翼というのは「物を考えるときの姿勢」とも言っています。日本には本書に示されたようにして思想を訴える著名人——という括り方もどうかと思いつつ——はいるのか、いないならそれはなぜなのか。言葉を受け取る側の姿勢も問われているように思います。

 ケン・ローチの映画を観てみます。

15) 「社会には下層の人間を引き上げるシステムが必要だ」という思想に彼〔ケン・ローチ〕が拘り続けているのは、彼自身が、今よりも階級間の流動性がなかった筈の時代に、オックスフォードまで進むことができたワーキング・クラス・ボーイだったからだろう。チャンスをくれた制度があったから、それを利用して彼はチャンスを掴んだ。が、しかし、そうしたチャンスが、現代の貧しい子供たちや若者には与えられているだろうか。という疑問が彼の映画の中では繰り返し問われる。 ※ケン・ローチ

17-8) 「ポリティクスと映画は切り離せない。どんなストーリーを選んだのか、というチョイスの裏側には必ず作り手の思想やスタンスがあるからだ。ポリティカルな理念やその衝突、そしてリアルな人々の暮らしをリプレゼントすること。それは映像ドラマの重要な役割だ。多くの人々に伝達できる媒体を用いながらそうした問題に取り組まないのは、僕にはどこか無責任に思える」 ※ケン・ローチ

21) 「犯罪とは、若者たちを貧困や疎外された状況に追い込む政治を支持することだ」 ※ケン・ローチ

26) 「この国を見渡して欲しい。大都市から田舎まで、無数の運動や組織が存在している。国立病院を守るため、ホームレスを支援しシェルターを提供するため、難民を支援するため、避難場所を必要とする女性たちを助けるため、障碍者をサポートするための運動が国中に増殖している。これらのすべてが、現在の制度が機能していないことを認識した人々によって運営されているものだ。そのエネルギーを活かし、全ての人々が一緒に働ける方法が存在すれば、『共有』のスピリットに基づく新たな社会のヴィジョンを作ることができる」 ※ケン・ローチ

50)彼〔ローワン・アトキンソン〕は、1986年公共秩序法(Public Order Act 1986)セクション5の施行を強化するどころか、法自体を改正しろと訴えた。同法の「言葉による脅迫や暴行、侮辱」から「侮辱」を取り除くべきだと主張し
僕たちは互いに侮辱し合うことを許されるべきだ
と宣言した。アトキンソンは、
「侮辱を非合法にすることの明確な問題点は、あまりにも多くのことを侮辱と解釈することが可能だということだ。批判、茶化すこと、風刺、オーソドックスな考え方とは違う見解を示すこと、その全てが侮辱として解釈されかねない」
と言った。 ※ローワン・アトキンソン

51) 「人種によって人間を批判するのは非理性的だし、ばかげている。だが、彼らの宗教を批判することは正しい。それは自由だ。例えそれがある人々によって本気で信じられていることであろうと、ある理念を批判するのは、それがどんな理念であろうと自由であり、それが自由社会の基本である」 ※ローワン・アトキンソン

60) 『裸の王様』にしろ、素っ裸で歩いている王様に追従してパレードしている家来たちや、「王様、素敵ねえ」などと言いながら見ている民衆はフランス国民議会的に言えば右側の人たちで、「王様は裸だ」と素朴な感想を述べた子供は左側の人である。しかし、その声をきっかけに民衆が「王様は裸! 王様は裸!」と騒ぎ始めてだーっとパレードにカウンターをかけ始めると、「ちょっと待てよ」とひとり群衆から離れてあの太い眉を吊り上げ、丸い目をぐるぐるさせて次の対抗言論を考えている。ローワン・アトキンソンにはそういうところがある。 ※ローワン・アトキンソン

70) 「これは俺たちの子供や孫の将来に関わる話だ。ある日、孫から『お爺ちゃん、なんであの時に何もしなかったの?』と尋ねられることを想像して欲しい。俺は何もしないわけにはいかなかった」 ※ベズ

70) 「フリー・フード、フリー・ウォーター、フリー・エネルギー、フリー・トランスポート。国民が生きるにあたって最低限必要なものは全て無料にすべきだ」※ベズ

75)サッチャー自身が、党派の枠を超えて「一番出来のいい私の息子」と呼んだブレアである。彼が、「エデュケーション、エデュケーション、エデュケーション」と叫んで英国の底辺層の子供たち(&大人たち)の教育の重要性を訴えた時、彼の頭にあったのは「アンダークラスを抜け出し、キャピタリズムに参加できる子供」を製造することだった。
 が、英国のレフトというのは、そもそも金がなくともそれなりに幸福になれる社会を作ろうとした人々だった筈だ。
 ※ベズ

87) 「核兵器(反対の立場)、宗教(無宗教の立場)、死刑(反対の立場)、AIDS(資金集め)に関して、僕がこれと言った運動を行っていないのは、のべつ幕無しに叫び回って自分にとって最も切実な問題を訴える時にインパクトが弱くなったら困ると思うからだ。そしてその問題とは、世界中の同性愛者たちの法的および社会的な権利の擁護だ」 ※イアン・マッケラン

129-30) 実際、当時のジャズ界で黒人が成功するためには、見ている者を息苦しくさせるほどの意気込みが必要だったのかもしれない。トラッド・ジャズの時代から、英国のジャズ界は「黒人音楽を演奏することを自らの左翼的政治スタンスの表現とする」リベラルな白人たちの世界だった。そしてこのリベラルな世界には、皮肉なことに「本物の黒人」の居場所がなかったのである。 ※コートニー・パイン

131-2)コートニー・パインという人が真にブリリアントであったのは、白人以上に上手い黒人ジャズマンとして世に受け入れられ、一世を風靡するようになっても、決してブラックとしての自分のルーツや、コミュニティ・スピリットを忘れなかったことだ。コートニーの目標は「自分がスターになる」というような限定的なことではなく、UKのジャズ界に黒人を進出させるという広がりを持っていた。だから華やかな営業用の顔の裏で、自分が住んでいるロンドンのコミュニティーでの草の根のジャズ普及活動も同時に行っていたのである。 ※コートニー・パイン

***) わたしもコートニー・パインのように、ローカル・コミュニティーの人々に熱心に何かを教えている人を知っている。その人は、様々な事情で学校に通えなかったり、学校は卒業したんだけど一貫して教師たちに見捨てられていた大人たちを対象に、足し算や引き算、定規の目盛りの読み方などを無償で教えている大学の先生だ。「左翼」というのは、反戦、反核、反格差などのデモに参加して叫ぶ人たちのことだけではない。「左」が社会的公正を求める人々であるならば、彼らはしぜん下方に落ちている人々を引き上げたくなるだろう。「左」が個人の資産を軽んじ、冨〔ママ〕の再分配を重んずる人々であるなら、彼らは自分が所有する知識を個人の資産とせず、それを持たない他者と分け合うだろう。英国にはそうしたことを地べたでやっている「左」さんたちがけっこういることをわたしは知っている。彼らは大声で自分の主義主張を叫ぶことはしないが、地方のコミュニティーの中で自分ができることを黙々とやっている。彼らはサッチャー以降のキャピタリズムの大行進にも飲み込まれなかった奇特な人たちなのかもしれないし、サッチャー以降の時代があったからこそ生まれた反骨の人たちなのかもしれない。 ※コートニー・パイン

138) 「若い頃には、ジャズは最高の音楽だから、演奏する時にはリスペクトの気持ちを込めてスーツを着ていた。だが、今はそう思わない。最高の音楽だからこそ、毎日自分が着ている服を着て演奏する」 ※コートニー・パイン

146-7) 左翼。という言葉は「なんでもかんでも平等にしたい奴ら」とか「ドリーマーの思想」とか言われがちだ。確かに「Nothing is fair in this world」という英語圏の人々がよく口にする言葉の通り世の中はフェアではないし、リアリスティックに言えば人間は平等にはなり得ない。しかし、なぜにそういう蜃気楼のようなコンセプトを人が追うのかと言えば、それは人が金や飯と言った目に見えるものだけのために生き始めるとろくなことにならないからだ。たとえ無理でもメタフィジカルなものを志向する姿勢だけは取っていかないと、人間は狂う。
 キャピタリズムを形而下の事象(金、数字)に拘泥する思想だとすれば、人の平等や弱者救済を提唱する思想(弱肉強食を否定する考え方)は、形而上の事象を重んじる世界とも言える。
政治というのはどうしても商人の世界に傾きがちだ。それもその筈で、政府というのは正しい投資分野を決断して国を効率的に回すという、まさに究極のビジネス運営というか、国という企業の運営だからである。
 しかし、景気だの経済だのといった利益ばかりを追及する国家運営には限界がある。なぜなら、国というのは生身の人間の集まりであり、人間は形而下の事柄だけでは生きられないからだ。物質的なものを超えたところで、何がしかの大義や行動の理由づけがなければ不安になるし、やる気もでない。 ※ダニー・ボイル

151) 五輪の翌年、英国のタモリや明石家さんまのような存在であるジョナサン・ロスの番組に出演したダニー・ボイルは開会式のことに言及され、「あなたは社会主義者ですか?」と単刀直入に聞かれたが、ボイルは「そうは思わない。僕のような(経済的に成功した)立場にある人間が、そうだとは言えない」と答えている。 ※ダニー・ボイル

152-3) Less is more.
 という言葉があるが、ダニー・ボイルを見るとき、その言葉が浮かぶ。ベラベラと主義主張をメディアでディベートするだけがポリティカルな著名人のすることではない。論客。とかにならない人だからこそ、人々は彼の作品を学び、そこに織り込まれたものを解読しようとする。そしてある思想のもとに練り込まれた「作品」は、売り言葉に買い言葉の「ディベート言葉」よりもディープなインパクトを人々の心に残すことがある。彼はけっして寡黙な人ではない。映画や芸術の話になるとひたすら喋りまくっている。だが、ことポリティカルな信条となるとなぜか沈黙する。それは、ビジネス上の影響を考えてのことかもしれないが、ひょっとすると、そのことが彼にとって一番大事なことだからなのかもしれない。 ※ダニー・ボイル

169-70) 「何度も言うが社会主義にもいろいろある。俺が信じている考え方では、社会で最も重要とされるべき側面は、俺たちはインディヴィジュアルだということである。しかしながら、進歩的な税金制度を資金として社会という集団が個人に最低限必要なものを提供しなければ、個人はそれぞれのポテンシャルをフルに発揮することはできないだろう。無料の医療制度や無料の教育、手頃な適当な住宅、しっかりとした年金制度がなければ、インディヴィジュアリティーを発揮できるのはリッチでパワフルな人間だけになって、残りは彼らから搾取されることになる」 ※ビリー・ブラッグ

195) 「新しい王立劇場とか、政府主催のアート・プロジェクトとか、新たな才能発掘コンテストとか、そういったことに国の金を使うな。そんな金があったら、一つでも多く公営住宅や病院を建てるべきだ。低賃金で毎日働いている労働者がちゃんと暮らせる世の中になってからアートのことは考えろ」 ※ジュリー・バーチル

217) レフトとライトというのは、特定の考え方や理念ではなくて、物を考えるときの姿勢のことではないかな。そしてひいては、人としてどういう風に生きたいか。ということなんじゃないかなと。
 ポリティクスでこの問題を持ち出すと「アホか」と言われる時代になって久しい。「国としてどう行きたいか」や「組織としてどう儲けたいか」はちっとも「アホか」にはならないのに、「人としてどう生きたいか」だけが長いあいだアホにされてきた。個人主義というわりには、そっちのほうの個人的命題はずっとなおざりにされてきたから、ガタガタといろいろなことが世界中で起きているのかなと思ったりしている2014年の秋だ。 ※あとがき


@研究室


by no828 | 2017-07-05 20:15 | 人+本=体


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