思索の森と空の群青

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2017年 08月 04日

院生というのは「ずっと前からここにいて、いつまでたってもここにいる」人のことだ——松原始『カラスと京都』

 松原始『カラスと京都』旅するミシン店、2016年。69(1067)


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 動物行動学者・カラス研究者の学部・大学院時代=京都時代(1992〜1997年)の物語と、京都を離れて東京へ引っ越すとき(2007年)の断片。フィールドノートを振り返りながら、当時の様子を再構成した本です。著者の思い出を支えたのがフィールドノートです。本来フィールドノートは研究に関する事柄を書き留めるものですが、著者はそこに生活に関わるさまざまな事柄(洗濯を何回したとか)も書いていたようで、そのフィールドノートが本書の土台を提供しています。

 研究者(を目指してしまった人)がどうやって生き延びてきたのか、という話はやはりおもしろいです。

4) とは言っても、当時の自分を振り返って深イイ話をするなんて柄じゃない(ああいうのは功成り名を遂げた偉い先生が引退する頃にやるものだ)。だが、それでも語ってみたくなるくらい、大学は魅力的なところでもあったのだ

59) いやまあ、四浪して京大を受け続けていれば伝説にもなる、かもしれんけども。
 別に京都大学という名前に憧れたわけではない。高校の進路指導で「動物学がやりたいです」と言ったら、先生があれこれ調べて「動物学で出てくるのは京大くらいやなあ……」と言われたのである。まあ、これは単なる検索ワードの問題で、「動物学教室」と名乗っているのが京都大学理学部にしかなかった、というだけのことだ。内容として動物学を扱っているところは、日本中にたくさんある。
 もっと言えば大学はさっさと入れるところに入り、大学院から転入という手もある事を、大学院に入る頃を知った。実際に研究と呼べることを行うのはどうせ大学院なので、これでも十分と言えば十分なのだ。むしろ、通う大学に関係なく、研究者や大学院生と仲良くなって「押しかけ助っ人」になってしまえば、学部の時から専門の研究の手伝いをしつつ、学ぶことだってできる。だが、その辺の内情の理解まで、進路指導の先生に要求するのはちょっと酷ではあろう

63)いやまあ、生物学にしたって認識の方法の一つに過ぎないのだが、その基本的なスタンスは「自然は実際にそこにある」ということだ。人間がそれをどう解釈しようと、変わるのは解釈や認識であって、自然の方ではない。

133)院生というのは「ずっと前からここにいて、いつまでたってもここにいる」人のことだ。 ▶︎ 深く突き刺さる定義です。

152-3) 木村〔資生〕の説くところによれば(そして実際そうなのだが)、遺伝子に発生する変化の大半は中立か有害で、有利な変異は滅多に起こらない。〔略〕中立説はダーウィニズムと対立しない。木村資生は自然淘汰をもちろん認めており、それが適応的な進化に重要だと書いている。〔略〕中立説が否定したのは「自然淘汰だけが進化の原動力であり、どんな進化にも必ず有利・不利がある」という自然淘汰万能論だ。〔略〕それまで考えていなかったような、淘汰に関係ない進化もありますよ、そして、これが常々起こっていますよ、というのが中立説のキモだ

191-3) 「ほな、レポートの課題、出すな〔略〕最初にプリント配ったやろ。セトロジーいうの。あれに『クジラは魚や』て書いてあったけど、ここまでこの講義聞いて、それでも魚やと思うか、やっぱり哺乳類やと思うか、それ書いてもらおか」〔略〕
 川那部先生はいつもの着物姿で、両手をブラブラ前後に振りながら続けた。
せやけどねえ、教科書通りに哺乳類の特徴はコレコレって挙げてね、クジラは哺乳類やって書いたら、落とすよ〔略〕そらね、クジラは哺乳類なんよ。メルヴィルかてそんなことわかってて洒落で書いてんねん。せやけど、ボク、面白いもん読みたいねん。せやから、できたらクジラは魚やって書いてほしいな。もちろんどっかで破綻するねんで。どこまでうまいこと、面白い嘘つけるか。クジラは魚や言うて、どんだけホラ吹けるか。クジラは魚や! そんなん読みたいなあ
 面白い。非常に面白い。 ▶︎ そんなレポート課題、試験問題を作りたいなあ、とわたしもつねづね思っています。多くの学生にとっては迷惑千万かもしれませんが、一部の学生はこの著者のようにおもしろがってくれるはずだと信じています。

274) 同級生にはインドを放浪して来た奴もいるし、ワーキングホリデーでオーストラリアに一夏いた奴もいる。そういうことは全然やらなかったな。大きなテーブルの反対側の端では、コーヒーを横に論文を読んでいる、院生らしき人。留学生と英語で話し込む学生。何を話しているのかはわからない。文献を積み上げてルーズリーフに何やら書き込んでいるお姉さんは文系か。世に言う「女子大生」っぽい感じが理学部や農学部ではない。
 何の経験もない自分はここで何をしているのか。無為に一夜を過ごし、今こうしてコーヒーを飲み、今日もまた漫然と過ぎて行く。単位は足りるのか。研究は、進路は。悔しいが自分より有能な人々と伍して、自分は研究者になんか、なれるのか。
 セロトニンの払底した二日酔いの朝は、ただでさえ悲観的になるものだ。リーアム・デヴリンの言う「全てが終ってしまったように感じる、午前3時の気分」というやつだ。二日酔いで寝不足で空腹な朝なんて、ロクなもんじゃない。

301-2) 帰宅してデータをパソコンに打ち込み、それを解析に加えて結果を考え、夜中のハイテンションの中で「俺は天才だ!」と思いながらノートをまとめ、翌日読み返してあまりの杜撰さに「俺は馬鹿だ」と落ち込む。修士課程の終わり頃には、そんな夜をどれだけ過ごしたかわからない。唯一の友は延々とリピートしながら聞くB’zの「Survive」だった。
 だが、今になってわかる。それがどれほど幸せな日々だったことか! 日が昇っている間は思うさまカラスを追い回し、日が沈んだらアハハと笑って安酒を飲む。誰にも、何にも邪魔されない。自分の時間は全部、自分とカラスだけのものだ。金と仕事と業績と将来の展望と明日の保証がないかわりに、大いなる自由がある。今なら金を払ってでも手にしたい。
 いや、当時はその金と仕事と業績と将来の展望と明日の保証が欲しかったのだから、言っても詮無いことだ。
第一、「お前は今でもテキトーじゃねえかよ」という意見もあるかもしれない。ウム、言われてみればその通りだ。

302-3) 全ての授業が、直接に役立つとは限らない。「クシクラゲは有櫛動物に分類される動物である」と知っていても、実生活には役立たない(博物館での展示には大いに役立ったが、これは特殊な例だ)。だが、自分の知らない深淵を覗き込むくらいのことはできる。そこで知った様々な生物学の断片、院生や級友や他大学の人達、そして何よりも、大学でよく見かけた学者という生き物の姿が、大学で得た一番大きな経験だと思うのだ。

 本書をもって、昨年読んだ研究に直接関係しない本の記録が終了(ようやく)。69冊、やはりペースが落ちています。読むべし。自分を更新すべし。ブログも更新すべし。

@研究室

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by no828 | 2017-08-04 17:46 | 人+本=体 | Comments(0)


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