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思索の森と空の群青

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2017年 11月 27日

答えを出す必要はありません。むしろ、答えを出しちゃいけないのかも——海老原宏美・海老原けえ子『まぁ、空気でも吸って』

 海老原宏美・海老原けえ子『まぁ、空気でも吸って——人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』現代書館、2015年。7(1074)


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 映画「風は生きよという」(http://kazewaikiyotoiu.jp)を観に行ったとき()に紹介されていた本。脊髄生筋萎縮症の宏美さんとそのお母さんのけえ子さんによる本。

 医学的な名づけはあってもよい、だがそれが社会的な分類につながらない社会、そうした社会のあり方について強く考えさせられる。

 障害児は家庭で育てるもの、という考え方を否定する。しかしその否定は一気に、障害児も学校で育てるもの、というところへ行く。そうすると学校それ自体の意味や位置が強化される。学校それ自体は前提にしてよいか、という問いを差し挟みたくなる。フェミニズムの運動にはかつて、女も男と同じことを、という時局があったことを想起する。

20)自分にできることとできないことを把握し、できないことはどんな人にでも「手伝って」と言えるようになる。

20-1)「人のせいにしないこと」という教育が強い母でしたが、一つだけ、私以外のせいにしていいことがありました。「障害のある宏美が生きにくいのは、宏美が悪いのではなく社会の在り方が悪いからだよ。だから自分の障害を引け目に思うことはない。他の子たちと同じものを望んでいいんだよ

21)私が生まれた1970年代、普通学校には介助員もおらず、エレベーターもなく、私のような全介助の重度障害児が地域の普通学校に入学するなどという前例もほとんどなく、あり得ないことでした。そして1979年には、各都道府県に、盲学校・ろう学校・養護学校の設置が義務づけられる「養護学校義務化」が実施され、障害のある子はその種類・程度によってそれぞれの学校に振り分けられることになりました。しかし、母の「障害があろうがなかろうが、子どもは地域で一緒に育つものだ」というシンプルな信念のもと、「前例がないならつくればいい」と、様々な方々の協力を得て、小学校から大学まで、地域の普通学校への進学を果たしてきました。
 障害児には家族が介助に付くべきだ、というような考え方は、今でも根強くあります。しかし、障害のない子どもにとって学校とは、子どもが初めて親から離れて社会性を身につける場なのに、障害があるというだけで親が付く、というのは「普通」ではないわけですよね。障害があるだけで障害のない子たちとは異なる取り扱いを受けることはおかしい、という母の考えは至極正当なはずなのに、少数派であるというだけで、学校や教育委員会から、あるいはPTAからもあたかも間違った考え方であるというような扱いを受けてきました。

24)一人旅をしてみて初めて受けた衝撃があります。それは、駅員が、私の目を見て話すことです。あたりまえのことだと思うかもしれませんが、私たち障害者にとってそれは、案外普通じゃないんです。というのも、駅員は、ほとんどと言っていいほど、介助者に向かって話しかけるものだからです

30-1)いかに今まで自分が「周りに手を貸してくれる人がいるかどうか」ということに、常時ものすごい神経を張り詰め、介助を頼める人の確保に労力を使っていたか、ということを自覚したのです。そして専属の介助者がいることによって、本来自分がやりたかった勉強や友人との交流に集中できる自由を手に入れたのです。〔略〕「生活の安定には、ボランティア以外に、介助を専門とする支援者が絶対的に必要である」と体感したのです。

36)「障害者が地域で生きるという実践自体が、障害者運動なんだ!

58)完璧なアテンダントなんていないわけですから、そりゃ、失敗も、事故もあります。〔略〕でも、誰しも生活の中での失敗はあります。じゃあ、私が健常で、アテンダントを使わずに自分一人で暮らしていたら、一度もモノを壊さないで済むかといったらそんなことないですよね。失敗も生活の一部、ということで、「まぁ、次回から気をつけようや」で終わり。

70)CIL〔Center for Independent Living(自立生活センター)〕の考える「自立」とは「自分の生活の在り方を決定する権利を自分自身がもつこと、自分が希望した活動や生活を主体的に実践できること」です。

71-2)重度の知的障害者や、極端に社会経験値が低い障害者の場合、支援者が「自己選択・自己責任」の部分を利用者に押しつけることで支援を放棄し、障害者に無理な責任転嫁をしてしまいかねません。例えば、利用者さんに「何を食べたいか」自分で決めてもらおうとしても、栄養バランスをちゃんと考えてメニューを決めることが難しく、毎日「牛丼」と言う人もいます。それを、「利用者さんが自己決定したことだから」と、言いなりになることで、利用者が成人病を発症して亡くなる場合もあります。それも「自己責任」で、仕方ないことなのでしょうか? 「自己選択、自己決定、自己責任」の在り方を誤って解釈したために、「その人の自分らしい生活とは何なのか」という根本的な基盤を見失う危険性があると思います。

78)制度が良くなると人間同士の結びつきが弱くなる、という葛藤を、常に抱えています。

87-9)この法律案〔=尊厳死法案〕には「意思変更の確認の方策」には、まったく触れられていません。いざ、死に直面した場合、もしかしたら、「もう少し生きてみたい」とか「別の治療に可能性をかけてみたい」という心変わりだって、するかもしれないんです。心変わりまでいかなくても、「もう少しじっくり考える時間がほしい」と思うかもしれないんです。呼吸ができなくて苦しかったら、「呼吸させてくれ!」と身体が要求するのが普通です。でも、その時に身動きがとれず、言葉を発することもできず、という状態にまで陥っていたとしたら、「意思の変更」を表示する手だてがなくて、「ちょっと待って、ちょっと待って!」と心で訴えていても、リビングウィルがあるからという理由で延命措置を切られて、臓器提供かなんかに使われてしまうかもしれません。〔略〕
 確かに、末期癌などでどんな治療の手を尽くしても余命一週間、というような場合は、それ以上の延命は本人にとって辛いだけ、ということもあるかもしれません。でも、医師も、本人も、家族も、それが分かっていて、十分納得していたら、法律なんかで医師の免責を保障しなくたって、信頼関係の下、自然死(治療を差し控えて寿命にまかせた死)を受け入れることができるでしょう? それを、わざわざ「法制化」につなげようとするこの動きは、「患者や家族と医師の間に、信頼関係を築く能力や時間、志がない」ということの表れではないか、とさえ感じられるのです。一人ひとりの生死の質に向き合うのは大変なことです。ずっと悩み続け、考え続け、対話を続ける必要があります。その手続きが、医療の現場にも絶対的に必要なのに、この法制化は、患者・その家族との間に信頼関係を築くことができない医師を守ることにしかならないのではないでしょうか?
まず守らなければいけないのは、尊厳ある生だ」〔略〕
「尊厳ある生」を生きた先には必ず「尊厳ある死」があるはず。死はあくまでも結果であって、目的にしてはいけません。

92)押さえておかなければいけないことは、着床前診断・出生前診断に賛成の人も反対の人も、出発点は、「この社会は、障害をもちながら生きていくのはしんどい!」というところで一緒なんだということ。ただ、その解決方法へのアプローチが、「だから、しんどい思いをする可哀想な人たちの誕生を少しでも少なくしてあげよう」と「だから、このしんどい社会をしんどくない社会に変えていこう!(そして、変えていく力をもっているのは、しんどい思いをしながら生活をしている障害当事者なんだ!)」という二つに分かれちゃっているだけということです

113)「福祉」という単語を辞書で引くと、国語辞典には「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境」と書いてあり、英英辞典には「the health, happiness, and fortunes of a person or group(人や、人々の健康、幸福、幸運)」と書いてあります。どこにも「障害者のための」とか「高齢者のための」とは書いていません。「すべての人が、幸せに生きる」、それが福祉。

114-5)私たち障害者が求めているのは「共に生きる社会」であって、「障害者のための」「特別な」配慮とか、「障害者のための」「特別な」施策とかではないし、障害者にだけ「特別に」与えられる「安全」とか「保護」でもない。地域で生活する上で、あたりまえに生じる「苦労」とか「葛藤」とかも含め、人生に起き得るすべてをあたりまえに引き受けたい、ということなのです。すべての人が、等しく、幸福を感じられるように整えていこうとしたときに、たまたま障害者の生活レベルが低いことが多いから、「じゃ、障害者問題にどう取り組もうか」となっているだけで、障害者に特化した活動を展開したいわけじゃない。その、根源の部分が揺らがないようにしなければ、「障害者ばかりがわがままな!」と言われかねないし、社会への障害者の真のインクルージョンは生み出せないと思っています。

121)答えを出す必要はありません。むしろ、答えを出しちゃいけないのかも。

122)周囲の人たちにとって、私は「何か手を貸したほうがいいかな?」と考えさせる存在ではなく、「障害者には特別な訓練を受けた専門職のヘルパーが付いていて、障害者にとっては、その専門職の人が介助したほうが安心に違いない。素人の自分は手を出さないでおこう」と、距離を置かれる存在へと変化しているように感じます。そうなった今、私はどうやって社会とつながったらいいのでしょう。

166)いじめの問題より、私にとってすごく嫌だったのは、母が学校に居たり、修学旅行に付いて来たりすることでした。子どもなりに、先生と親に挟まれて自由を奪われて嫌でした。だから、母の付添いがなかった行事が、私には一番嬉しかったし、その方が友達関係もうまくいったのです。

182)娘が病気の宣告をされたのを、一番先に聞いたのは、娘の母と父。娘の一番近くで、一番最初に差別するのもしないのも、娘の母と父。ここから親としての心の闘いが始まった。まだ、27歳の私でした。

201)娘に気兼ねなく、一人でお風呂に入りたい。娘の寝返り介助のために、娘・夫・私と川の字で寝るのではなく、一人で、大の字になって朝まで寝てみたい。私のささやかな幸福を夢見ている。でも、夢を追っている今の私が、一番の幸福感。

@研究室


by no828 | 2017-11-27 19:16 | 人+本=体


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