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思索の森と空の群青

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2007年 08月 19日

渋谷で「ブラインドサイト」を観た

昨日(8月18日(土))は渋谷まで出て映画を観た。

「ブラインドサイト―小さな登山者たち―」

映画は、シネマライズという映画館で上映されている。ここでは前にも、「ダーウィンの悪夢」と「それでも生きる子供たちへ」を観た。

「ダーウィンの悪夢」のときは、チケット売場ですでに就職している学類(学部)の後輩に偶然会い、「彼女はまだこういった問題に興味を持っているのだ」と思って嬉しくなった。

「ブラインドサイト」ではそのようなことはなかった(ちょっと期待していた)。

映画のストーリーは、チベットに生きる6人の盲目の子どもたちが、彼/彼女らの通う(盲)学校の設立者=教育者、そしてエベレスト登頂に成功した盲目のクライマーとその仲間とともに、エベレスト登頂に挑戦することを基軸に組み立てられている。

しかし、そこには盲目の子どもたちがこれまでどのように生きてきたのかという点も織り交ぜられており、登頂という基本線とは別なところで観る人の思考を促す。たとえば、チベットにおいて盲目とは「前世の問題その他を含め、その人が悪い」(因果応報)とされ、目の見える人びとの蔑みの対象となる。街では、「父親の死体でも食っていろ」などという言葉を浴びせられる。

子どもたちはその蔑みの中を生きてきた。

クライマーは、登頂をとおして子どもたちに自尊心を持ってもらいたいと願う。他方、学校の設立者は、弱き者に手を差し伸べるという連帯の大切さを子どもたちに学んでもらいたいと願う(だから、頂上に到達することが登頂の目的だとは考えていない)。

この点をめぐって、彼/彼女らは激しく意見をぶつけ合う。


下山後、子どもたちはそれぞれに変化し、成長してゆく。

私はこの一連の流れを教育論として捉えた。大人たちの意図がどうあれ、子どもたちは成長してゆくのだ。とするならば、教育とは何であるのか、何をすることであるのか。重い課題を与えられた。

課題はもうひとつある。外部者はチベットの盲目観にどう向き合えばよいのか、という課題である。学校の設立者=教育者はドイツの人であり、チベットに生まれ(生き)た人ではない。彼女は、チベットの盲目観とどのように向き合っているのであろうか。映画からはこの点がわからなかった。

チベットの外から来た人=外部者は、「盲目なのは、その子が悪いからではないのだ」とチベットの人びとに伝え、活動することができる。しかし、そのことは同時に外部者――映画の中の言葉を使えば「西洋人」――の思い上がりのようにも感じられる。


この葛藤という<あいだ>に、私はもう随分と長いこといる。

by no828 | 2007-08-19 20:30 | 映画


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