読書会で読んでいたミシェル・フーコーの『知の考古学』がようやく終わる。
4月からの戦いがようやく終わったのである。
長かった。
フーコーは「現在」を相対化したかったのだと思う。
「今・ここ、にあると信じられているもの・こと」が、今ここにあるようになければならない絶対的な理由はないと言いたかったのだと思う。
たぶん『知の考古学』は、「今・ここ、にあると信じられているもの・こと」によって苦しむ人びとに向かって差し伸べられた温かな手であったのだ。
今すぐでなくていい。むしろ50年後の方がいいかもしれない。
あれは温かい論文であったと言われるような、そんな仕事がしたいと思うのだ。