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思索の森と空の群青

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2007年 11月 11日

放っておくと枯れるから ― 10月18から11月11日までの読書

およそ3週間ぶりに、読んだ本について。
それでも学術書以外には2冊しか読めていない。

心にもきちんと水をやろう。

31 柴田翔『されど われらが日々――』(文春文庫)、文藝春秋、1974年。

「人が物事を理解するのは、その理解が、もはや彼の生に何ものも与ええなくなった時なのだろうか」(p. 119)。

「埋葬のための諸儀式は、死者のためではなく、生者たちのためだ」(p. 127)。

「『でもね、惚れるってこと、あるいは惚れたと自分で認めるってことは、つまり、そういうことなのではないかと思うんだ。別に、あいつの言う通りにするってことではないんだけど、そこに自分とは違った望みを持っている奴がいて、そいつと自分が関わり合ってしまっているってことを、認めること――。自分が事実そういう事態にいるんだから、生きるってことは、結局その事態を認めるってことになるんだよ』。それを曾根は、別に自嘲的ではなく、穏やかに言った」(p. 190)。


32 夏目漱石『虞美人草』(新潮文庫)、新潮社、1951年。

「『・・・学者と云うのは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。得の行くのは屑籠ばかりだ』
『そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる』
『行為(アクション)さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅を画にかいた牡丹餅と間違えて大人しく眺めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがある様じゃないか』」(p. 233)。

「道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここに於て万人の眼は悉く自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る」(pp. 386-387)。

by no828 | 2007-11-11 22:52 | 人+本=体


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