晴れ。暖かな火曜日。
今日は専攻の修士論文の提出日であった(締切りは正午)。
朝、研究室に来たら案の定徹夜明けの後輩過ぎた、じゃなかった、杉田がいて、論文の体裁を整えていた。
「大丈夫か?」と訊いたら「大丈夫です」と言った。その顔は思いのほか落ち着いていた。
わたしは修士論文の提出日にはもっと焦っていたけどなあ、なんて思った。
修士論文を書き上げるまでの過程はとにかく苦しい。
時々「よろこび」や「うれしさ」の情動が湧き上がることがあるが、それはほんの束の間のことであり、基本的には「苦しさ」が感情を独占的に支配する。
しかし、その「苦しさ」は「幸せ」とはまったく矛盾しないし、同時に、研究者として生きていくために必要な苦しさであると思う。
その苦しさの向こう側で待っている世界は、きっと広くて深い。
このことは、「広くて深い世界のすべてがわかる」ということではない。
修士論文を書いてわかるのはそうではなく、「世界は広くて深い」、厳密には「世界は広くて深そうだ」、という感覚である。
だからそれは、「世界がすべてわかる」ということではない。
したがって、修士論文の執筆後に見える世界は終着点にはならない。
しかし、修士論文という経験は里程標にはなる。
<わたし>はどこから来てどこに行きたいのか、それを確認することができる。
後輩の姿を見て、そんなことを思い出した。あの頃の気持ちを振り返ることができた。襟を正すことができた。
だから、後輩には「ありがとう」と言っておきたい。
何はともあれ、過ぎた、じゃなかった、杉田、お疲れさま。その苦しみは無駄にはならないよ。