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思索の森と空の群青

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2008年 01月 11日

思考の経路を辿りなおす金曜日の夜

晴れ。

2限の教育哲学は前触れもなく「いじめ」について。

「定義を広くとらえなおしたことによるいじめ件数の増加」を受けて各自思うところを述べよ、と言われる。

何と漠とした指令であろうか。

「いじめ」の定義がどう変わったのか、「いじめ件数」はどのようにして調査したのか、そういった基礎情報(の共有)なしに議論せよと言われてわたしにできるのは、「困る」ということだけである。

しかし、困ってばかりもいられない。コメントしなければ授業に出た意味がない。
だからわたしは、他の学生がコメントをしているあいだに(そしてそのコメントを聞かずに・・・すみません)「いじめ」についての思考をめぐらせる。

手元にあった本(いじめとはまったく関係のない本で、授業が始まる前に読んでいた)を適当に開くと、「近代性」と「帰属感」という概念が目に留まる。

この2つの概念を手がかりに「いじめ」について考えることにする(何と無茶な)。

しかし、「いじめ」はいかようにも分節化できるテーマである。そこで「いじめの原因」、ことに「いじめる理由」を考えることにする。

結論を先取りして言えば、「いじめの原因」「いじめる理由」は「その子どもが親の愛を受けて生きていないから」という点に求められる。

なぜ、このような結論に至ったのか。
わたし自身の思考を整理するためにも(まだ整理しきれていないので)、ここで論理の展開を単純化して辿ってみようと思う。

いざ、スタート。


近代(モダン)において成立した「家族」や「国民国家」に対して、われわれは帰属感を抱いてきた。

しかし、「ポスト・モダン」の到来によって価値の流動化が起こり、これまで何の疑いもなく立脚してきた価値に懐疑の念が差し向けられるようになる。「家族」や「国民国家」も例外ではない。

だから現在のわれわれは、確固たる帰属感を抱くことができなくなっている、と言える。

そのようなわれわれが抱いているのは、「不安」や「寂しさ」ではないか。あるいは、帰属感を与えてくれるような他者からの「承認」への欲求ではないか。

そして、これら「不安」「寂しさ」「他者からの承認の不足」によって、今日の「いじめ」は起きているのではないか。
子どもは、「不安」や「寂しさ」を感じたくないのであり、他者から承認されたいと欲しているのではないか。

このように考えてくると、子どもの「不安」や「寂しさ」を癒し、そしてその存在に無条件の「承認」を与えることは必要であることになり、問いは、それではその「承認」を行なうのは誰/何か、ということになる。

ここでは、それは親である、と答えたい。
そして、「子どもの『不安』や『寂しさ』を癒し、そしてその存在に無条件の『承認』を与える」ことを、ここでは「愛」と呼びたい。

子どもは親からの愛を受けて育っていない。

親からの愛を受けずに育つとどうなるか。他者への愛の向け方がわからなくなるのだとわたしは思う。

換言すれば、他者関与の仕方がわからなくなる、ということである。
「いじめ」も(歪んではいるが)他者関与のひとつの形態なのである。

愛に基礎付けられた他者への関与の仕方がわからないから「いじめ」という屈折した仕方で他者に関わらざるをえなくなる。

これが「いじめの原因」「いじめる理由」としてわたしが考えたことである。


先に「他者に関わらざるをえなくなる」と表現した。
それは、子どもは(というか人間は)他者に関わらずに生きることはできないからである。

だから、ある子どもは「いじめ」という他者関与をすることで自分の存在理由を見出そうとする。
親によって与えられない承認、すなわち「わたしは存在していていいんだ」という感覚の欠落を、子どもは「いじめ」によって充たそうとするのである。

他者に関わらせるな、という主張も成立しうる。「出席停止制度」などがその例である。

しかし、それは根本的な解決策にはならない。なぜならばそれは、子どもに必要な「他者からの愛を受ける」ということにはならないからである。むしろそれは、他者からの愛を遮断することになる。

それに、子どもは寂しさ(=他者からの愛の欠如状態)をひとりで引き受けることができない存在である、と思う(大人もそうだけど、子どもは余計に)。
だから寂しさを倍加させるような対応をしても、そこに愛は芽生えない。

こうして「他者、とくに親からの愛が少ないがために『いじめ』は起こる」という現実への対応原理は、「他者、とくに親からの愛を増やす」という点に求められる。


終わり(他にも考えたことがあるが、論理が複雑化しそうなのでそれは書かない)。

以上のようなことを授業中にノートにがしがし書きながら考えた。論理的につながっていないところもあるかもしれないが、ひとまずわたしはこのように考えた。

当該テーマとは一見まったく関係ないと思われる概念を手がかりにそのテーマについて考えてみるというのも、なかなかに有用かもしれない。

by no828 | 2008-01-11 19:56 | 思索


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