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思索の森と空の群青

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2008年 01月 26日

誰もいない休日の研究室が好き

晴れ。ぶどうのジャム。

昨日のこと。25日金曜日。

2限に教育哲学。議論深まらず。ただ、「援助する=教育する」は「・・・とともにある」という感覚抜きにはやはり行ないえないことであるのかもしれない、と感ずる。

「・・・とともにある」とは、すなわち「物理的距離が近い」ということであろうか。

ケア(リング)の立場に立てば、たしかにそういうことになろう。

しかし、「・・・とともにある」=「物理的距離が近い」としてしまうことに、わたしは幾ばくかの抗いを覚える。未だ感覚的なこの抗いには、わたし自身の言語によって、説明が付されなければならない。


3限に「途上国の教育に興味がある」という学類生の相談に乗る。

「教育開発研究を行なうにあたっては、どこか国を決めた方がよいのでしょうか」など、わたしがかつて抱いた不安をその子も抱いていた。

不安なわたしに手を差し伸べてくださったのは先輩であった。そのことを思い出した。


5・6限は生涯学習・社会教育学。

「生涯学習」と「社会教育」の異同について、「社会教育学」の学問的存立基盤について、そして「公共性」と「ガバナンス」の関係について、それぞれ疑問に思うものの声は発せず。

というのは、議論が「専門的」になっていったからである。

「専門的」な議論への介入は、自らを当該分野の非―専門家であると規定する人間にとっては難しいことである。

わたしは、と言えば(慣れもあってか)このような「難しさ」をあまり感じなくなってはきている。

しかし、「専門性」の方へひた走るような議論には、たとえそのような意図はなくとも「排除性」が伴うことがある。排除されるのは非―専門家(と自己規定する人びと)である。

そこにある「知」とは一体何なのか。
「<あなた>の知より<わたし>の知の方が優れている」はいかなる条件の下であればまっとうな言明となるのか。

などと考えながら聴覚機能を停止させて(つまり、議論を聞かないで)、「ガバメント」「ガバナンス」「公」「私」「リベラリズム」の関係性について考える。


夜、某呑み会。

某卒論生の卒論について大学院生が集団で突っ込むの図、が描かれる。

「脚注番号17) だって昨日の夢に出てきたんだもん」は認められない、ジュディス・バトラーの「ずらす」、「ずらす」の原語は何だ、「カ○リーメイト」よりも「S○YJ○Y」だ、など。


今日26日土曜日、これまでのところ。

洗濯をして外に干す、布団も干す。室内は掃除機掛け。

午後から某研究会@東京に行くつもりであったが取りやめる(∵ 発表テーマにあまり惹かれなかったので)。

研究室に来て新聞を読み、貯まった新聞を切り抜く。文献も読む。「他者」の問題など。


もうすぐ19時。

by no828 | 2008-01-26 18:58 | 日日


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