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思索の森と空の群青

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2008年 02月 19日

それは壊されたままか

晴れ。

今日は新聞を読んだあと、お昼まで「福祉国家」「公共性」「連帯」「ベーシック・インカム」をキーワードとして抽出できるであろう論文を読む。

著者も認めているように、その「論文」は概論的な内容であり、積極的に、そして説得的に議論を展開しているものではなかった。
しかし、「ああ、たしかに。なるほどね」と思うところが(少なくとも)1ヶ所あったのでよかった。
その部分はとりわけ「福祉国家」と「連帯」に掛かってくるのであり、以前に読んだあの本に感じた「連帯」への違和を言語化してくれていた。


久しぶりに2食でお昼を食べてから書籍部まで歩き、買おうかどうしようか迷っていた本をやっぱり買う。

最上敏樹『国際立憲主義の時代』岩波書店、2007年。

題名のとおり、「国際立憲主義」について。
第1章を読んだだけであるが、国際秩序は「道徳」ではなく「法」によって構築・維持されなければならない、それが著者の問題意識であるように思われた。

しかし、「道徳」と「法」は対立する概念なのであろうか。

道徳 = 主観的・個人的

法 = 客観的・普遍的

という構図が描かれていた(紹介されていた?)が、本当にそうなのか。

わたしの疑義は、法も何らかの道徳に基づいているのではないか、というところにある。

「法 = 客観的・普遍的」とは、何らかの「道徳」が何らかの「手続き」に基づいて人びとの合意=客観性・普遍性を獲得することの結果生まれる等式なのではないか。

とするならば、「法」も何らかの「道徳」に基礎付けられていることになり、それゆえに「道徳」と「法」の差異は「手続き」を踏んだかどうかに求められることになる。

すると、わたしはここでも次のような疑義を呈することになる。

手続きを踏んだら何をしてもよいのか。
手続きを踏もうが踏むまいが、行なわねばならないことはあり、行なってはならないこともあるのではないか。

しかし、行なわねばならないこととは何で、行なってはならないこととは何なのか。

仮に「それ」が手続きを経て合意されたとしても、「それ」が主観的・個人的であることに何ら変わりはないのではないか。
主観的・個人的であることの周りに「客観的・普遍的」という幕が張られただけではないのか。

ならば「道徳」も「法」も変わりないではないか。「道徳」か「法」か、という2項対立的な問い方はできないのではないか。

こうして議論は行き詰まりを見せることになる、少なくともわたしのなかでは。

それはわたしが「法」についてよく知らないからかもしれない。


しかし、知れば次の段階に進むことができるのであろうか。


壊された建造物の「内装」や「外壁」を整える作業に、わたしはまだ進めないでいる。

by no828 | 2008-02-19 20:49 | 思索


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