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思索の森と空の群青

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2008年 03月 02日

国際協力へのコミットのありよう 社会起業(家)への疑義

晴れ。

土曜日に聴きに行ったシンポジウム「国際協力における社会起業家の役割」について。

会場の早稲田大学に行くのは、実ははじめてであった。

お昼に早稲田駅を降りて、西早稲田キャンパスを探してしばしさまよう。

それにしても学生服を着た少年が多い。早稲田大学附属中・高の生徒だと思われるが、とにかく多い。

>少年たち
 道を3人並んで歩いてはいけないよ。

シンポジウムは14時過ぎに始まったわけであるが、聴衆のほとんどは(パネリストへの質問の仕方などからして)学部生であったように思われる。

そもそもシンポジウムの趣旨も、「国際協力には社会起業家として参加することもできる。だから卒業後の進路として社会起業家も選択肢として十分ありうるよ」ということを広く学部生に知ってもらう、というところにあったような印象を受けた。

進行も、「パネルディスカッション」というよりは「社会起業家」として呼ばれた方々の体験談を聴いてゆくというかたちが採られていた(ただ、山口絵理子さんは「わたしは自分のことを社会起業家だとは思っていません」と言っていて、わたしにはそれが興味深かった)。

したがって、研究者を目指す大学院生の視点からすると、かなり物足りないものがあった。

しかし、「物足りない」で済ましてしまうのも物足りないので、シンポジウムを受けて何が言えるのか、さしあたって2点について考えてみる。

ひとつ。シンポジウムでは、「国際協力(する)」の形態として「直接的に行動すること」を前提していたが、それでよいか。

具体的に言ってしまえば、「研究(者)」という間接的な行為による「国際協力」のありようについてはまったく目が向けられていなかった。

個人的には、「研究(者)」には今・ここにある現実を推し進めるというよりは、その現実に歯止めを掛けてゆくことが求められると考えている。
それゆえ、「国際協力」の「推進」にはコミットしないが、その「制御」にはコミットするという「コミットメント」があってよいと考えるわけである。

極言してしまえば、目下流布している言説とそれに基づいた実践としての「国際協力」はしないというコミットメントも、ひとつの「国際協力」のかたちとしてまずは認識される必要がある、ということである。

だが、現実はそうはなっていない。


もうひとつ。「社会起業(家)」はどこまで「社会のイノベーション」を目指すのか。

「社会起業(家)」とは何かがそもそもよくわからないが、シンポジウムでの説明をわたしなりに整理してみると、

目的:「社会的課題」に取り組む。「社会のイノベーション」を目指す

方法:営利組織(For-Profit Organization)=企業のそれを用いる

態度:非営利組織(Non-Profit Organization: NPO)的な使命感を持つ

となる。

便宜的に「方法」「態度」と分けたものにも違和は感じるが、それよりもまずわたしが疑義を差し挟みたいのは「目的」である。

(「社会的課題」とは何か、という問題は、「社会学―社会問題論」が取り組んできたテーマである、とずいぶん前の文章で書いた。)

とりわけ「国際協力」という文脈で言えば、「社会的課題」として「貧困」「児童買春」「非識字」などが挙げられるであろう。

このような「社会的課題」にいかに取り組むか、それを考えるとき、まずは応急処置が求められるであろうが、行なわなくてはならないことは「社会的課題としてその解決が目指される問題の原因」を突き止めることである。

「貧困」にかぎって言えば、その原因を世界貿易機関(World Trade Organization: WTO)などによって作られている経済システムに求める議論がある。

(この議論には、WTOと「貧困」の因果を説明するという困難が伴う。)

仮にこの議論が妥当であるとした場合、「社会的課題」として取り組むべきは現行の世界経済システムの「イノベーション」であろう。

しかし、「社会起業(家)」においてはそうはなっていない。

というのは、「方法」としてはあくまで営利組織のそれを採用するからである。

したがって「社会起業(家)」は、その原理において「社会的課題」と向き合っているとは言えない。
「社会起業(家)」は資本主義という原理から外れて「社会的課題」と向き合うことはしていない。

だが、資本主義に「貧困」という問題の原因の一端があるとするならば、「イノベーション」はその域にまで及ばなければならないであろう。たとえそれが「社会起業(家)」自体の存在基盤を揺さぶることになるとしても。

もちろん、「社会起業(家)」は資本主義に修正≒イノベーションを迫るものとして捉えることもできるであろう。この見方も「社会起業(家)」の一側面に光を当てているようにも思われる。この点を現時点でのわたしは否定できない。

しかし、シンポジウムでは「社会起業(家)」=「善」のような論調であったので、あえて反論を考えてみるという作業も必要ではないかと思ったのである。
そしてその反論も、「社会起業(家)」の一側面を照らしていると思うのである。

@研究室

by no828 | 2008-03-02 20:42 | 思索


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