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思索の森と空の群青

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2008年 05月 11日

「当事者」が「問題だ」として声を上げない問題は問題ではない、か?

雨が止んだかもしれない。

連続投稿になるが、頭のなかをぐるぐるとうずまいていることがあるので書いておきたい。この「ぐるぐる」は吐き出しておいたほうがよい。「ウェブログ」という思考を吐き出す場があることに感謝。

その「ぐるぐる」とは、「当事者」が「問題だ」として声を上げない問題は問題ではないのか、ということである。

教育や援助や介助やケアや介入など、「他者への関与」が行なわれる時期・動機をめぐって、上記の問いは発せられている。

わたしの現時点での回答は、「当事者」が「問題だ」と声を上げなくても問題が発生していることがある、というものである。したがって、「当事者」が異議申し立てをしていないことをもって「問題なし」という結論を出すことは(ときに)暴力的である、とも考えている。

たしかに、「それは問題だ」と「外部者」が決定することも暴力的である。

が、暴力的だと言って「外部者」の発話を封殺することも暴力的なことである。
また、「外部者」が「自分には発話の資格や権利がない」として発話を控えることも、「当事者」には暴力的に働くこともある。

「当事者」が声を上げることができない状況、にも想像力を働かせるべきであろう。

声を上げることで「当事者」自身がより不利な状況に置かれうるとき。

あるいは、「適応的選好形成(adaptive preference formation)」がなされているとき。

「適応的選好形成」とは、奴隷が「一般人」が抱くような選好を抱くと、そのような選好が満たされることは決してないという現実に打ちひしがれるため、選好のレヴェルを低く設定してそれに満足すること、たとえば1日1回は食事があることに満足しようとすること、を言う。人間は、満足していないよりも満足していたほうがよい、と考えるものである。だから、高い選好を設定するのではなく、達成できそうな選好を設定し、その達成できそうな選好こそが自分の選好なのだと思い込もうとする。そうなると、「本来設定されてもおかしくない」選好が満たされなくても、その状況に異議を申し立てることはしない。異議を申し立てると、自己否定に陥るからである。

このようなときには、「当事者」が声を上げていないから問題なし、と断ずることこそ暴力的である。

そのように考えると、「他者への関与」それ自体は否定されないことになる。

そこからどのように議論を進めるか。


@研究室

by no828 | 2008-05-11 20:11 | 思索


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