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思索の森と空の群青

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2008年 05月 12日

誰の問題? わたし(だけ)の問題 わたしたちの問題

くもり

そして、寒い。

昨日に引き続き、「問題」をめぐって。

当事者が「問題だ」と言わなくても問題は問題なのだ、外部者が「それは問題だ」と言って介入することも暴力的であるが、外部者が「当事者が声を上げていないのだからそこに問題はない」と断ずることも暴力的である。というのも、「適応的選好形成」などの理由で、当事者が「問題だ」との声を上げることができない場合があるからである。

それゆえ、ひとまず他者への関与を行なってみる、という態度も正当化されるのではないか、ということである。

しかし、そこには詰めておくべき別の論点がある。それは、「ひとまず他者への関与を行なってみる」外部者は誰でもよいのか、誰であればよいか、あるいは誰であるべきか、ということである。

外部者の介入の余地が確保されても、「わたしはその『外部者』ではない」と言うことは可能であるし、逆に「『外部者』と言っても介入できるのは一部の人間に限られなければならない」と言うことも可能である。

さらに、当事者/外部者の声で「問題」が明らかとなったとき、誰にその解決が託されるのか、という論点もある。「それは問題だ、と声を上げること」と、「その問題を解決すること」は別だからである。

換言すれば、「問題発見」と「問題解決」は異なる位相にあり、したがって、それを担う主体も別であってよい、少なくとも同じでなければならないということはない、ということである。それゆえに両者を考えておく必要がある。

ちなみにこの図式で言えば、昨日書いたことが問題発見についてであり、今日書くことが問題解決についてである。

誰がその問題を解決すればよいのか。

このように問われるとき、同時に問われるのは「その問題の原因/責任は誰にあるのか」である。その問題を引き起こした主体、それに責任がある主体が解決の役割を担うべきだ、そのように言われる。

あえて二項対立の図式を持ち込んで言うならば、今日とりわけ「若者の仕事(のなさ)」をめぐって提起されているのは、「個人に責任があるのか、社会に責任があるのか」という問いである。

論調としては、「個人に責任がある、ゆえに個人で解決せよ」が大勢となっているが、教育社会学者の本田由紀は「社会、とくに先に生まれた者に責任がある、ゆえに社会で解決せよ」と主張している。

「現時点での外部者」の立ち位置をひとまずこのように分けておく(ほかにも、問題の原因は問わずにその解決を社会に求める、などの立場もありうるが、ここでは論じない)。

では、当事者はどうか。

わたしも何らかの当事者である。だからわたしの考えを書いておきたい。そもそもわたしがわたしではない当事者の方の声を代理表象することができるのか、ということもある。だからここではわたしの考えを書いておく(もちろん、わたしのなかにも他者は存在しているのであるから……と書くと無限後退するので止めておく)。

わたしの感覚で言うと、わたしにかかわる問題を「これはわたしだけの問題ではない。このような問題を発生させた社会のほうにも責任がある。だから社会は問題を解決する責務を負う」というかたちで告発することができない。

わたしにかかわる問題はあくまで「わたしの問題」として、もっと強く言えば「わたしだけの問題」として内に留められる傾向が、少なくともわたしのなかにはある。さらに強く言えば、「悪いのはわたし」である。

「悪いのはわたし」と考えると、「悪いのは社会」という考えが入り込む隙間はなくなるか、限りなく小さくなる。だから社会に向かって何かを言うということがなくなる。「悪いのは社会だ」とは言えなくなる。我慢だ、これが運命だ、仕方がないのだ、ということになる。

映画「実録・連合赤軍」を観て思ったことは、あの頃は「悪いのは社会だ(少なくともわたしだけではない)」と主張する雰囲気が残っていたということである。

連合赤軍が失敗に終わったこともおそらくあって、また、「ベ平連」が終わったこともあって、日本では「デモ」が少なくなった。これはつまり、「これは個人だけの問題ではない、社会の問題だ、社会問題だ」という声が少なくなった、少なくとも声を上げることが少なくなった、ということではないかと思う。

極端な言い方をすれば、「他人のせいにすることが少なくなった」ということになるであろうか(そうでもないか)。

環境が人間をつくる、という側面が否定しきれないのならば、「わたしが直面しているこの問題は環境=社会のせいだ」と言うことも間違いではない。

しかし、……。


考えがまとまっていない。複数のことをひとつの論に組み込もうとしているような気がする、が、とりあえず書き残しておきたい。


その問題は、「わたし(だけ)の問題」なのか、それとも「わたしたちの問題」なのか。「わたし(だけ)が解決すべき問題」なのか、「わたしたちが解決すべき問題」なのか。


@自室

by no828 | 2008-05-12 23:16 | 思索


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