雨
木曜発表の論文に取り組む。社会的企業について、(市民的)公共性の観点から。一応、社会教育学の論文である。
論文はすでに2度読んだが、よくわからない。
論文の内容が理解できていないのか、論理展開が追えていないのか、わからない理由はよくわからないが、いずれにしてもよくわからない。
しかし、内容の理解が深められていない、ということはあろう。
そこで、公共性や市民社会といったテーマの論考をいくつか読むことにする。
……なるほど。
とすると、論文がわからない理由は――わたしではなく――論文自体にある、と言えるのではないか。論理展開がおかしいのではないか。論文の前提がおかしいのではないか。
と考えていたら、勝手な読み方を思いつく。
あ、それならわかる。言いたいことはこれで、論拠はそれ、ということか。
しかし、その読み方だと、論文に書かれていることの大半が不要になる。「言いたいこと」にほとんど関係ないからである。「言いたいこと」につながってくることだけを集めれば、分量はたぶん10分の1ぐらいになってしまう。
誤読?
だが、いまのわたしにはそれ以外の読み方が思いつかない。授業では、「わからない」と結論付けるよりも、「このようにも読める」ということを提示したほうが建設的ではないか。
と言いつつ、「わからない」という思いを断ち切ることができない。わかるように読めばわかるのだが、それはわかりたいがための読み方なのではないか。わたしの「わかる」に無理に当てはめようとしているのではないか。そのような疑念が残る。
すっきりしないのは、おそらく自分の読み方に「自信」が持てないからである。
わからないのは、自分が不勉強だからなのか、あるいは論文自体がわかりにくいからなのか。
自分の理性、自分の勉強量に相当の「自信」がなければ、後者の理由付けは採れない。
わたしは後者の理由付けが採れない。
@自室