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思索の森と空の群青

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2008年 07月 29日

生のリアル

晴れ

と思ったら23時過ぎに強めの雨。ここのところ、空が不安定だ。


34(84) 小林美佳『性犯罪被害にあうということ』朝日新聞出版、2008年。(読了日:2008年6月13日)

当事者の〈あなた〉、当事者ではない〈わたし〉。

知っておくべきことだと思って。

「"事実を受け止める"こと。
 これが被害者にも周りの人たちにも、何よりも必要なことなのではないか。
 事実とは……。
 被害者にとっては、
 『被害にあい、自分の身体や気持ちが傷ついていること。そしてそれは他人の手によるものであり、決して自分の非を探す必要はないということ』
 周りの人たちにとっては、
 『自分の大切な人が、悩み苦しんでいること。それが自分ではなく、その人であること。自分の苦しみの発端は、被害者本人の辛さがあってこそだということ。そしてそこには、絶対に悪い、第三者の手が下されていること』
 当事者としての苦しみと、その周りの人たちの苦しみがあって、それぞれが自分に起こったことをきちんと受け止めることが、意外と難しいのだ。そのうえで、当事者としての気持ち、近くにいる者としての気持ちを、きちんと相手に伝えることが大切だと思う。

 〔……〕
 いまとなっては、加害者の顔もうろ覚え。証拠もない。もしかしたら、全部夢なのかもしれない。事件の夢を見た私が、目覚めた恐怖で彼を呼び警察に足を運んだ。それが『事実』なのかもしれない。……だったらいいのに。
 でも、私は思う。自分が感じていることが事実なんだ。真実は、私の知覚の中にしかないのだ。
 絶対的な『事実』を追求するのではなく、それぞれの中にある『事実』を伝え合うことが、支援であり、私たちが一番求めている『理解』なのではないだろうか」(pp. 182-184)。

著者および本については、さしあたって以下を参照。
 ・ 『朝日新聞』2008年4月28日朝刊「ひと」欄
 ・ 多賀幹子「書評:小林美佳著『性犯罪被害にあうということ』」『朝日新聞』2008年6月29日朝刊。

本を読み、そこから引用しつつも思うことは、なぜ「性」犯罪被害の被害性はこれほどまでに深くて重いのか、犯罪被害ではなく「性」犯罪被害になると「周りの人たち」(のさらに「周りの人たち」、わたしもこのうちのひとりだ)の受け止め方がどこか変わってしまうのはなぜなのか、ということである。

このような問いを発すること自体が「してはならないこと」のように思える。そこに被害者がいるのだ、苦しんでいるのだ、そこから出発すればよいではないか、そのようにも思う。

しかし、なぜ「性」犯罪被害が「特別」になるのかと考えてしまう。

人間にとって「性」とは一体何なのか。


35(85) 石井光太『物乞う仏陀』文藝春秋(文春文庫)、2008年。(読了日:2008年6月25日)

石井光太は『神の棄てた裸体』に続いて。

アジアのひとびとのリアルな生。

救いはないのかもしれない。ひとを救うことを簡単なことだと思ってはならないのだ。

「日を追うごとにカティーンはじりじりと私ににじり寄ってきているようだった。だが反対に、私は彼女と距離を置くようになっていた。恋愛感情が薄れたわけではない。私の中で葛藤があったのだ。
 私はいつかこの町から離れていく旅行者にすぎない。しかも己の健康な肉体に自信と誇りをもち、そうでない者に対しては臆して震えあがり、勃起すらできない情けない人間だ。そんな者が、自立を夢見て必死に町に根を下ろし、生きていこうとしている女性と気の向くままにその場限りの恋に酔いしれ、情交を成功させようとやっきになってよいものなのだろうか。
 こんな葛藤に苛まれるのは初めてだった。私はいつもその時その時の欲望に流され、己でもそれをよしとしてきた節がある。しかしこの時は悩み、考え、答えに窮した。
 これ以上愚かなことはするべきではないのかもしれない。
 柄にもなく、そう思った」(第三章「タイ 都会~自立と束縛」、pp. 106-107)。

「『大半の日本人は、業を信じません。輪廻転生などありえないって考えます。だから、来世のためにお寺に寄付するよりも、別のことに夢をもちます』
 〔……〕『でも、わたしはそう考えられないわ。もし来世がなかったら、わたしはどうなるの?』
 『どうなるっていうと?』と今度は私が訊きかえした。
 『わたしはずっと病気で苦しんできた。でも、今でもそれに耐えて生きてこられたのは、来世の幸せを考えてきたから。今我慢して正しい行いをすれば、きっと来世は幸せになれるといいきかせてきたからなの』
 『……』
 『なのに、もし輪廻転生がないってことになったらどうなるの?わたしはただ苦しむために生まれたことになるの?』
 私は言葉につまり、眼をそらした。そしてかつてハンセン病患者たちがお遍路をした時のことを再び思い出した。
 〔……〕
 私のように〔輪廻転生を〕信じないというのは、信じる必要もないほど豊かな環境で育ったということに他ならないのではないだろうか」(第五章「ミャンマー 隔離~ハンセン病と信者」、pp. 192-193)。


36(86) 湯本香樹実『春のオルガン』新潮社(新潮文庫)、2008年。(読了日:2008年7月7日)

「『おばあちゃんが病院にいるとき』
 おじいちゃんは、私の言葉を待っている。
 『あの機械の音、とめてほしいって思った。そんなことを思うつもりじゃなかったのに、もう死んだほうがいいって思った。そしたら……』
 『トモミは何も悪いことなんかない』おじいちゃんは静かに言った。『おばあちゃんだって、それはわかってるよ』
 長い間、おじいちゃんも私も口をきかなかった。〔……〕次に口を開いたとき、おじいちゃんの声は不思議と明るかった。『トモミがもっと小さかったら、そういうふうには思わなかっただろうな』」(p. 151)。

「古い友人がありがたいのは、相手の記憶の深いところに自分が組みこまれているということだと思う。会っていなかった間も、私の断片はその人の時間の中で生きていたのだと思うと不思議な気持ちになる。ある意味で、私はその人をかたちづくる要素のひとかけらになっているのだ。もちろんその人も、私の中で生き、私をかたちづくってきたわけだし、これからもそうだろう。いったいどれほどの人たちが、私の中に生きているのか。数えきれるものではない。いったいどれほどの人たちの中で、私は生きているのか。あまり数は多くないだろうけれど、意外なところで自分が居残りしているんじゃないかと想像するのは、けっこう楽しい。明日会う人はどんな人だろう、そう思うのと同じくらいに」(「あとがき」、pp. 228-229)。


@自室

by no828 | 2008-07-29 23:32 | 人+本=体


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