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思索の森と空の群青

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2008年 08月 19日

ロマンチックラブイデオロギー

雨上がり、と思ったら、また降ってきた夕方


規範理論研究と実証研究のあいだについて、また、人間にとって「性」とは何かについて。

赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2004年。(読了日:2008年8月19日)

赤松啓介は1909年兵庫県生まれ。2000年逝去。専攻は、民俗学、考古学。


 平時なら、戦争反対、自由と平和をというのは容易である。いまでも極楽トンボどもがわめいている。しかし、最も必要な時になって殆どの人間が沈黙してしまったのも事実であった。特に、日本の科学者、知識層の迎合、腐敗は、「惨」としかいうべき言葉はなかった。民俗学、考古学も同じことで、戦後、長老、大家連中で、戦時下の執筆文章、論文を読んで冷汗三斗の思いをしない者はあるまい。抵抗する勇気がないのなら、せめて書かなければよいのである(p. 15)。


 結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら苛酷な農作業を続けねばならぬムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけでなく、自然と子供が生まれることになる。〔……〕夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない(pp. 32-33)。


 日本民俗学の泰斗といわれ、「郷土研究」や「婚姻の話」を著している柳田國男は、僕の郷里から目と鼻の先の出身で、子供のころから夜這いが行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様に、その現実に触れようとしなかった。彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かつてはムラでは普通であった性習俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔・清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。
 自分たちの倫理観や、政治思想に反するものの存在を否定するなら、そうした現実を抹殺するしかない。農政官僚だった柳田が夜這いをはじめとする性習俗を無視したのも、彼の倫理観、政治思想がその実在を欲しなかったからであろう。
 しかし、僕の基本的な立場はあるものをあるがままに見ようではないかということだった。そして、あるがままに見れば見るほど、現実は実にさまざま、多様なのであった。
 そもそも柳田の方法というのは、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のいいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。僕に言わせれば、アホでもできるということになる。
 〔……〕それでいて彼は「常民」というコンセプトを持ち出してくるのだから、柳田はもうあかんわ、ということになる(pp. 33-34)。

 
 昔から文書とか記録を書き綴ってきたのは上流階級であった。従ってムラの水呑み百姓、小作人や下人、下女、といった人たちの性風俗の記録は、ほとんど残っていない。明治以降になっても、柳田民俗学がその採取を拒否したこともあり、記録にとぼしいが、いろいろ文献を捜してみると思わぬところから出てくる(p. 37)。


 〔……〕こうして、夜這いは、現在、神戸市に併合されているかつてのムラなどで戦後しばらくまで続いていたりしたが、教育勅語的指弾ムードと戦争中の弾圧的な風潮、そして、戦後のお澄し顔民主主義の風潮の中で、次第次第に消えて行ったのである(p. 40)。


 以下、社会学者・上野千鶴子の「解説」より。

 しかも赤松民俗学のすごいところは、土地の古老に聞いた、という域をこえて、「わたしが実際に経験した」というところにあった。日本民俗学の父と言われる柳田國男は、性とやくざと天皇を扱わなかった、と言われるが、赤松さんは柳田の存命中からそれを果敢に批判した数少ない異端の民俗学者だった。とりわけ下半身にかかわることは、まず多くの人が口に出さないだけでなく、記録にも残らない。ましてや外来者にはしゃべらない。「白足袋の民俗学者」と呼ばれた柳田のような人が、人力車でのりつけては、話すはずもないだろう(p. 319)。
 
 〔……〕日本における見合い結婚とは、「封建的」なものであるどころか、おおかたの日本人にとっては、たいへん「近代的」な結婚の仕方である。60年代の半ば、結婚の仕方のなかで、恋愛結婚が見合い結婚を超える。このときに愛と性と結婚の三位一体からなるロマンチックラブイデオロギーとその制度的体現である近代家族が日本では大衆化するのだが、そのとき逆に、「処女は愛する人に捧げるもの」という処女性の神話は、ピークに達したと言ってよいかもしれない。
                     *
 赤松ルネッサンスが、日本近代がひとめぐりしたあと、80年代のポストモダンの日本でブレイクしたことには、理由がある。近代家族に代表される性規範が、急速にゆらいでいたからだ。〔……〕
 〔……〕そういう目で〔=性は本能ではなく文化によって規定されるといったミシェル・フーコー的な視点で――引用者註〕、日本の過去をふりかえると、日本人が「セックスするなら愛する人と」とか「結婚までは処女で」とか思ってきたのは、明治以来せいぜい半世紀くらいのことで、それも長く続かずに目の前で解体しつつあるということになる(pp. 322-323)。 



 赤松の立ち位置とガヤトリ・スピヴァクのそれとは、その理論的中核にあるコンセプトが「性」と「サバルタン」という違いはあれ、結構近いのではないかという感想を持った。学者は既存の禁忌に挑んでゆく態度を持とうとすべきだ、という思いを、また強くした。


@福島

by no828 | 2008-08-19 17:18 | 思索の森の言の葉は


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