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思索の森と空の群青

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2008年 09月 04日

「わたし」は主人公?

懇親会終わり。

酔っぱらったのか酔っぱらっていないのか、よくわからない。

が、「人+本=体」に分類した以下の原武史の文章は、学問の作法、とくに研究における<わたし>の位置の問題にかなり直接的にかかわってくるので、こちらにも再録しておきたいということはわかる。

研究者の問題意識は<わたし>にしか宿らないわけで、ならばその<わたし>を主語にして語ることにも意義があるのではないか、という若林=原の意見にはわたしも惹かれる。

いつか「わたし」を主語に、そしてわたしの問題意識をそのままに論じる機会を作ることができればうれしい。わたし抜きの論文ではなく、わたし入りの論文を書きたいと思う。しかし、いまの支配的な考え方だと、わたし入りの論文は論文としては認められないであろう。


学者が「私」を主人公とする物語を書くのは禁じ手とされている。不惑を越えたばかりの人間が、自伝めいたものを著すことは、常にナルシズムに陥る危険を伴っている。私も四方田犬彦にならって、「ここに語られていることは、もちろんすべて実際に起きたことさ。でも全体をフィクションとあえて呼びたいのには、理由がある。実際に起こったことを再現するにしても、あることにだけ強烈な照明を当て、別のあることを省略してしまうというのは、虚構の初歩的な技術なんだって、わかるかい?」(「ハイスクール 1968」、『新潮』第100巻第10号、2003年所収)と問い返した方がいいかもしれない。けれども、「社会という集合的な出来事は、いつでも個々人の具体的な生を通じて現れる。個々人の具体的な生の軌跡は、その人が生きる社会のなかでの社会的な出来事としてしかありえない。そうである以上、「わたし」をめぐる思考は、社会学的な論理に支えられる限りつねに、「社会」をめぐる思考なのだ」(『郊外の社会学』、ちくま新書、2007年)という社会学者・若林幹夫の言葉に、私は深く共感せずにはいられない(原武史『滝山コミューン 1974』講談社、2007年、pp. 284-285)。


引用されている若林の本は立ち読みして、当該引用文章が掲載されていることを確認した。しかし、本が手元にないとどうも落ち着かない。が、「郊外の社会学」という研究テーマにはそこまで惹かれないので、「買わねば」という気にはなかなかならない。


@研究室

by no828 | 2008-09-04 21:09 | 思索の森の言の葉は


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