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思索の森と空の群青

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2008年 09月 05日

「なぜおれが?悪いのはあいつだろ」

晴れ

朝は比較的涼しかったのに、日中は残暑が厳しかった。

午前中は、禁忌とか外部(者)とか、そういったことの勉強をする。

いや、書評論文を書かねばならないのだが。

お昼に差し掛かるあたりから教育人間学に関する論文を読む。

いや、書評論文を書かねばならないのだが。

14時すぎにお昼ごはん。「野菜みそらーめん」を頼んだら、「すいません、野菜切れちゃいました」と言われて普通の「みそらーめん」に変更することになる。

と書きながらふと思ったのは、「野菜切れちゃいました」には2通りの意味があるということ。ひとつは、「野菜がなくなってしまいました」という意味で、もうひとつは、「野菜を『短冊』や『みじん』などの方法で切ることができました」という意味。なぜ「野菜切れちゃいました」と言われたときに指摘できなかったのか。

いや、書評論文を書かねばならないのだが。

午後はポストモダンにおける教育(学)について。このテーマは自分なりに押さえておく必要があるし、書評論文にも生かせるのではないかと思って勉強する。書評の件で、ひとつひらめいた。もちろん、ひらめきはひらめきにすぎないので、詰めて考える必要があることは言うまでもない。

夕方、先日の学会発表のレジュメを差し上げた同輩からメールでコメントをいただく。ありがたい。コメントにさらに応答するかたちのメールを返す。

さらに、同じくレジュメを差し上げた後輩が質問をしに研究室を訪ねてきてくれた。学会発表のことに加え、「研究するとは」という点についてすこし話した。

こういう研究交流は大切だと思う。実は、このような研究交流をしたくてレジュメを配った。

専攻で、あるいは専攻を越えて、学会発表レジュメを配り合ったり、それに基づいて議論したりということがこれまであまりなされていなかったので(わたしがその輪の中に入っていなかっただけかもしれないが……だとすると、ちょっと悲しいのだが)、風穴を開けようと思って配って歩いた。

いま居る場所がたのしくないのなら、たのしくなるようにたのしくする――最近はそのような心持ちでいる。ということを昨夜別件でメールしていた京都の同輩にも伝えたら、「その考え方、賛成です」と言われてうれしかった。

だが、わたしは「たのしくなければたのしくなるようにすればいい」という考え方に全面的に依拠しているわけではない。正直に書けば、「そういった考え方に依拠せざるをえない」ということになる。

「~せざるをえない」というのはあまり積極的な言い方ではない。なぜ、そのような言い方になるのか。

「たのしくない。それでは、たのしくないのはなぜか」と考えを進めてみる。すると、たのしくないのにはもちろんわたし自身に理由はあるけれど、同時にわたし以外のところにも理由があるのではないかというある種の可能性が開かれる。疑いと言ってもよい。「わたし以外のところ」とは、おそらく一言で言ってしまうと、「わたしの意思とは無関係に存在するひと・もの・こと」である。

そのように考えると、なぜわたしが「わたしの意思とは無関係に存在するひと・もの・こと」によって(極端な言葉を使えば)苦しめられなければならないのか、そして、なぜわたしが「わたしの意思とは無関係に存在するひと・もの・こと」を変革するために、「本来」使わなくてもよかったはずの時間と労力をそこに注がねばならないのか、という問いが浮かんでくる。

「本来」あるようにあれば問題など起こらない。「本来」あるようにないから問題が起こる。そして「本来」あるようにある/ないということにわたしの意思は無関係である。にもかかわらず、「本来」あるようにないから起こった問題にわたしは苦しめられ、その苦しみを取り除きたいのならば自ら立ち上がらなければならない。立ち上がらなければ、苦しみは続く。

このように単純化すると、「本来」あるようにないから起こっている問題がわたしを苦しめている状況というのは不条理であることがわかる。その不条理を正すのは、誰/何か。それは、「本来」のありようを歪めているひと・もの・ことである。では、不条理の原因(理由)であるひと・もの・ことは、その不条理を正そうとしているか、あるいはしようとするか。していないし、しようともしない。なぜか。それは、わたしにとって不条理であることが、そういったひと・もの・ことにとっては条理だからである。

すると、現実を不条理に感ずる側が何らかの行為を起こさなければ、事態はまったく変わらないことがわかる。だが、その行為は「本来」起こさずともよかったものである。「本来」起こさずともよかった行為を起こさざるをえないのは、不条理を条理だと考えているひと・もの・ことがあるからである。「本来」なら不条理を不当に条理だと考えているひと・もの・ことが、不条理をそのまま不条理として認識し、それを正すようにすれば済むことである。にもかかわらず、「本来」払わなくてもよい時間と労力を払って事態の打開に取り組むのは、苦しめられている側なのである。

ことをかなり図式化・単純化すると以上のように言える。しかし、そもそも条理/不条理とは普遍的に措定しうるものなのか、ひと・もの・ことに「本来」のありかたなどあるのか、物事を二項対立的に捉えてよいのか、そういったことも問える。


もう何も言わず、何も問わず、次のように言ってしまうことだってできる。


世界は、「不条理だ」と感じた者たちの声によって変わったり変わらなかったりしてきたのであり、これからもそうあるのだ。現実はそういうものなのだ。


しかし、そのように達観することがわたしにはできない。もちろん、そのような達観が成立しうることは知っている。だから、書いている。だが、知っているだけで、その達観がよいものだとはなかなか思うことができない。あるいは、単に、まだ、達観したくないだけかもしれない。

わたしが研究している理由のひとつは、そこにあるような気がする。

達観はまだしたくない。


@研究室

by no828 | 2008-09-05 20:39 | 思索


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