思索の森と空の群青

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2010年 10月 12日 ( 1 )


2010年 10月 12日

例のM大の公募の話はどうなっているのだ——笹澤豊『小説・倫理学講義』

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 版元

 71(304)笹澤豊『小説・倫理学講義』講談社(講談社現代新書)、1997年。

 某BOOK-OFFで90円。たまたま105円の商品全品90円セール中であったため。

 長嶋教授失踪事件という物語に絡ませながら倫理学の諸思想をわかりやすく解説。さくさく読めます。前半はニーチェがメイン。後半からアリストテレスとかロックとかルソーとか、さまざまな思想家が登場する。ロールズ、ノージックなど比較的最近の論者も出てくる。それから、大学の内幕を説明する箇所もあり、非常にリアルに感じられた。

 ちなみに、笹澤先生は筑波大学の先生なんですね。


「例のM大の公募の話はどうなっているのだ」と私は聞いた。
「ああ、あれはやはり駄目でした。あそこはK大閥が強いところですから、予想したとおりです」
「まあ公募とは言っても、はじめから決まっている場合がほとんどだからな」
「植民地を持たない大学の出身者は、絶望的です」
「今でもあのT大でも、オーバー・ドクターがけっこういるという話だからな」
「早く任期がない職に就かないと、結婚もできないし、なかなかきびしい人生です」
 元木は倫理学分野の助手で、ロックを中心とするイギリス倫理思想を研究していた。学会誌に何本か意欲的な論文を発表し、若手ではそれなりに注目を集めている。業績を考えれば、元木はいつ専任講師に上がってもおかしくないと私は考えていた。しかし我が基礎人間科学科には、「助手はいったん他大学に出てからでないと専任の教員に採用しない」という内規があった。これは、まだ助手が小さな地方大学や短大に比較的容易に就職できていた時代につくられた内規だが、状況が変わった今、この内規そのものを見なおす時期がきていると私は思っている。むろん助教授である私一人がそう思ったからといって、どうなるものでもないのだが。
「M大に決まったのは」元木が言った。「K大のオーバー・ドクターでした。ぼくもよく知っている人ですが、業績的には大したことのない男です。ぼくはもうこの業界がすっかり嫌になってしまいました。M大でも、うちの大学でも、どこも同じで、業績を公正に評価して人事をすすめるということをしないのですからね。院生たちも噂していますが、うちの大学では、教授の人たち——もっとも理性的であるはずの教授の人たちが、利害や感情をむき出しにして人事を行っているという話ですよね。べつに専任講師にしてもらえないから言うわけではありませんが、この業界のそういう民主的でないやり方が、ぼくにはもう反吐が出そうなくらいたまらないのです

□(113-5)

 ここから、では「きみのいう民主的なやり方とは、どういうものなのだ」ということになり、ハーバーマスなどが出てきて「民主的」とはいかなることかという議論になっていくわけですね。
  
 で、ここに書かれている内容は、今日の実情を示しているように思われます。元木さんは反吐が出ると言っていますが、わたしも「あーやだやだ」と思うことしばしばです。


「でも、啓蒙主義のモデルが利己的な個人を作り出すだなんて、今まで聞いたことがありません。なんだか意外すぎて、信じられないような話ですね」
「そういう見方を、私はマルクスから学んだのだ。ロックやルソーが代表格だが、啓蒙主義は、民主主義とともに人権思想に理論的な表現をあたえた。それがフランス革命の人権宣言に実を結んだことはきみも知ってのとおりだが、マルクスによれば、この人権宣言で提出されている『人間の権利』というのは、共同体から孤立して、自分のなかに閉じこもった利己的な人間の権利にほかならない。フランス人権宣言の問題点は、公民〔シトワイヤンとルビ〕としての人間ではなく、私民〔ブルジョアとルビ〕としての人間を、本来の、そして真の人間だと宣言したことにあるというのだ
「でも、ロックやルソーのテキストが、読者に対して、利己的な人間としてふるまいなさい、なんて言っているわけじゃないんでしょう?」
「いや、それが言っているのだ。釈迦に説法になるが、ロックは『理性の法』である自然法を『自由で理知的な行為主体を彼本来の利益へと導くもの』だと言っている。理性に従い、自然法に従ってふるまうように、というメッセージがこの言葉のなかにこめられているとすれば、ロックは読者に対して、自己利益の追求者としてふるまうように、と促していることになる

□(133-4)

 近代の人間観。


加藤〔弘之〕によれば、人の権利は国家の成立とともに生じる。だから人の権利というものは、国家を離れて存在するようなものではないというのだ
「人の権利が天賦のものだったとしたら、権利は国家とは関係なしに存在するということになるのでしょうが、そうではない、というわけですね」
「そうだ。人の権利は、人為の法〔ノモスとルビ〕である国家の法にもとづいて生じるものであって、神意に由来する自然の法〔ピュシスとルビ〕にもとづくものではないというのだ」

□(164)

 人権と国民の権利のあいだのずれとか。


「でも、『〜からの自由』と『〜への自由』、消極的自由と積極的自由とは、無縁のものではないとぼくは思います。人民が国家権力に干渉されない、『〜からの自由』を権利として手に入れるためには、人民みずからが政権を、『〜への自由』を獲得して、自由尊重主義の政府をつくる必要がある、そう民権派の人たちは考えたのではないでしょうか」
「私もそう思う。自由の権利を確保するためには、どうしても政治権力の支えが必要になる。だから権利思想の擁護者だって〈力への意志〉をいだかざるをえないのだ。福沢〔諭吉〕にはその〈力への意志〉が、明治政府の〈力への意志〉と同質のものにみえた、それだけのことだ」
「権利思想の擁護者が〈力への意志〉をいだかざるをえないとしたら、〈力への意志〉は非道徳的で悪いもの、それに対して『権利の尊重』は道徳的で善いこと、というような二項対立的な考え方は間違っているということになりますね」

□(171)

 なるほど。福沢は、“権力を好む”という点で民権派も明治政府も変わらないと、国会開設を求める民権派も、それを抑え込もうとする政府も、いずれも権力を志向しているのだと、そして権力を求めるのは人間の本性であって、善悪を超えた本源的な衝動なのだとも言っている、らしい。


@研究室
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by no828 | 2010-10-12 15:40 | 人+本=体 | Comments(0)