思索の森と空の群青

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2017年 05月 23日

非定性の漂泊民として賎視されていた人びとが、気やすく出入りすることができたのは、やはり被差別部落だった——沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』

 沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』文藝春秋(文春文庫)、2004年。48(1046)

 おきうら・かずてる(1927-2015)
 単行本は2001年に同春秋|http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167679262

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 日本列島に(かつて)存在した定住と所有(私有)をその生活のあり方としない人びと=サンカに迫る民俗学。定住と所有によって人びとは個体として把握されやすくなります。堺利彦(→『パンとペン』)が1916年に『山窩の夢』という小論を発表し、サンカを好意的に論じていたことも肯けます。大文字の権力からの自由。

17)本当の実体がよく分からぬままに、事実と異なった噂だけがひとり歩きしており、今日ではもはやその姿も見えなくなった」——そういう意味を込めて「幻の……」としたのである。

22) なぜ部落の古老たちが、サンカについての思い出を今も記憶の中にとどめているのか。サンカだけではなく、うらぶれた姿の遊行者や遊芸者など、非定性の漂泊民として賎視されていた人びとが、気やすく出入りすることができたのは、やはり被差別部落だった。
 近世初頭の頃には惣村〔=自治組織〕として成立していた古い村々では、土地持ちの高持ち百姓を中心に共同体的結束が強く、見知らぬ余所者や正体のよく分からぬ「さすらい人」に対する警戒心が強かった。村境には、「乞食・遊芸民の類は立入るべからず」——そういった趣旨の制札が掲げられていたのである。
 だが、日ごろから差別されて「平民とは筋が違う」とされてきた部落では、苦労がしのばれる渡世姿の諸国を流れ歩く漂泊民が集落に入ってきても、同じ人間としてのまなざしで接する人たちがいたのである。

120) 朝廷や幕府が編纂した正史だけではなく、民間の伝承を綴った稗史にも、「サンカ」の名は見えない。〔略〕
 特定の集団の歴史を調べる場合に、最も重要な手掛りになるのは、その集団の内部で書き残された記録であり、それを補う口碑と伝承である。
 サンカは、無文字社会で生きていたから記録を残さなかったとしても、長い歴史がある集団ならば、口から口へと伝えられた口碑を残したはずだ。ところが、それもない。かつてあった物が、なにかの事情で失われたわけではない。はじめから内部資料は全く残されていないのだ。

138-9) 学界では注目されていなかった〈山人〉の歴史を解明しようと、柳田〔國男〕は南方熊楠や喜田貞吉などの碩学の意見を求め、自らも当時の人類学や民族〔ママ〕学の著作にも広く目を通していた。
 稲作農耕文化を携えてやってきた後来の民族によって征服された先住民は、彼らが築いた支配文化に同化することなく、「その一部分は我慢をして深山の底に踏み止まり野獣に近い生活を続けて、今日迄も生続してきた」のではないか、「山中を漂泊して採取を以て生を営んできた」のではないか——そのように考えていたのだった。
 このような仮説がもし成立するとするならば、〈山人〉の系譜に連なるサンカ集団は、一〇〇〇年以上の歴史があることになる。平地民の多数を占める常民の共同体から排除されながら生活を続けてきたとするならば、なんらかの仲間組織と、それを維持していくための掟があったに違いない。
 柳田は、「普通人」(=常民)がたまたま零落して流人になり、それが今日のサンカ集団の起源になったとは考えていなかった。

165) 後藤〔興善〕がサンカに接する姿勢も、上から浮浪民を憐憫の目で見下す姿勢ではなく、同じ人間として愛情をもって聞き取りをしている。その中には、サンカと呼ばれた人たちが、世に捨てられた癩者たちをやさしく仲間に迎え入れたという貴重な聞き取りも含まれている。

170-1) 二〇世紀前半に輩出した数多くの研究者の中から、近代日本を代表する人文系の学者を選ぶとなると、私は吉田東伍(一八六四〜一九一八)、南方熊楠(一八六七〜一九四一)、鳥居龍蔵(一八七〇〜一九五三)、喜田貞吉(一八七一〜一九三九)、柳田國男(一八七五〜一九六二)、折口信夫(一八八七〜一九五三)の六人を挙げる。
 この六人は、いずれもそれぞれの専門分野で学術研究のトップリーダーとなった。だがそれにとどまらず、関連領域の諸学問にも通じていて、ともすればタコツボ型になりがちな日本の学界にあって、学際的研究においても開拓者的労作を残した碩学だった。独創的な構想力と強い意志力の持主だったところも共通している。
 南方・喜田・柳田・折口の四人は、研究資料に恵まれた大学で学ぶことができた。
 だが、吉田は全く学校教育を受けず、鳥居は小学校を中途退学した。にもかかわらず、それぞれ歴史地理学と人類学において開拓者的役割を果たし、近代学問史上でも不滅の業績を残した。この二人は、独学で専門領域の頂点を究めたという点でも際立った存在である。
 特に注目されるのは、この六人の碩学は、日本の文化や産業技術の地下水脈とも呼ぶべき底辺の民衆の歴史に深い関心を寄せていたことである。

173)〔鳥居龍蔵は〕先住民として差別されていたアイヌに、「偉大なる汝の祖先」と献辞を呈したのである。
 それ以来精力的に多くの論稿を発表して、日本民族は単一民族ではなく、アジアの各地からやってきた六系統から成る複合民族であることを明らかにした。
 あまり知られていないが、鳥居は実際に被差別部落に入って調査をおこなった最初の学者だった

183) 第三は、サンカの発生はもっと新しく、幕末の危機の時代であるとする説である。有史以前からの〈山人〉の末裔説はもちろんのこと、中世や近世初頭からそのような漂泊民が全国的に散在していたという仮説は成り立たないと考える。これは今までになかった新説であるが、私はこの説である。

256-7) 私の結論を言えば、近世の後期に相次いでやってきた社会的危機の時代に、農村山民の一部が、定住生活に見切りをつけて漂泊生活に入ったとみるほかはない。もちろん、中世からの名主層や近世で村方三役を務めていた地主クラスの有力者ではなく、貧困層や賎民層の一部が、激しい社会変動の中で生活基盤を失って、余儀なく家を捨てて流浪生活に入ったのである。〔略〕一口で言えば、それは幕末期の数十年間である。

259-60) ここに出てくる帳外れの「出家」「山伏」「無宿」、すなわち、各地を「さまよいありく徒」の中から、山野河川に伏して瀬降り生活を営むサンカが生まれたのではないか——それが本稿で一貫して主張してきた私の説である。

350-1) サンカ人の生活様式を端的に表わす言葉に『一所不住、一畝不耕』なるものがある。言いかえれば「非定住、非所有」という思想である。国家の支配・締めつけを拒否し、搾取と収奪から自由になるということは、同時に被差別者としての烙印を身に受けることである。その烙印を焼きつけられてなお、所詮権力がつくったシバリに過ぎぬと歯牙にもかけず、それより価値あるもの・守り通すものとして、「自然とともに生きる漂泊人・自由人」の道を選んだ。その核となる思想が「無」なのである。ものの無いことに苦しむのではない。むしろなにも持とうとしない無なのだ。この「無」に対しては、支配・束縛の入り込む余地はない。ゆえにすべての呪縛からの解放がある。そしてただ自然とともに在る。 ※作田清

385-6) 著者のサンカ論の第一の貢献は、サンカと呼ばれた人々は、遠い古代から連綿と続く異民族ではなく、近い時代に生み出された難民だったという説明の提出にある。「難民」というカテゴリーはやや踏み込んだ私の読み込みであるが、そうパラフレーズしたとしても、著者の論旨はまったく歪まないと思う。今日の国際社会での難民のように戦乱によるものというよりは、近世の飢饉に起因する点で、むしろ「ホームレス」につながっていく要素をもつ。このような難民的存在は、定住する社会からみると同情すべき「弱者」であると同時に、差別的に取り扱われがちな存在であることはいうまでもない。
 しかしサンカは家族を生活単位としている点で、現代の都市の単身者ホームレスと大きく違う。 ※佐藤健二「解説——難民の世紀に」

392) 著者が明らかにしてくれたように、サンカとして生きることは、一つの家族全体が、家も土地も捨てざるをえない状況下においてとられた生存戦略であった。彼ら難民の生存を受容する「社会」を、われわれはどのように作りうるのか。まだ明確な解答はみえていない。戦争と国民の世紀として始まった二〇世紀が暮れ、時代は不幸にもテロリズムと難民の世紀として幕を開けた。著者が取り組んだ主題の行方は、歴史にとってだけでなく、今日の社会にとって切実な課題なのである。 佐藤健二「解説——難民の世紀に」

@研究室

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# by no828 | 2017-05-23 17:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 05月 07日

かつて井上毅が(あるいは井上ですら)守ろうとした原則をつらぬくなら、教育の理念にかかわる条文をすべて削るか、あるいは——苅部直『鏡のなかの薄明』

 苅部直『鏡のなかの薄明』幻戯書房、2010年。47(1045)

 


 政治思想史家による書評・時評集。共感するところが多かったです。

131-2) しかし、前者〔=教育勅語〕は天皇が個人として表明した文書にすぎないが、後者〔新教育基本法〕は国家権力を通じて強制される、と指摘したら、どう感じるだろうか。とっぴな見解ととられるかもしれないが、教育勅語の起草にあたった法制官僚、井上毅の意図はそうしたものであった。
 どんなに立派な内容であっても、何らかの徳目や規範を法律で指定し、教育機関を通じて広めようとするのは、国家が人々の内面に干渉することにほかならない。それが近代の立憲主義の原則に反すると見ぬいていたがために、井上は、これを法律ではなく、個人としての君主が発する勅語として公布させたのである。〔略〕
 教育学者の市川昭午(『教育基本法を考える』教育開発研究所)や、佐藤学(『教育学年報』十号、世織書房)も指摘するように、旧基本法がすでに、道徳規範を法律で定めるという大きな問題を実は含んでいた。教育の組織だけでなく、その理念をも述べる特異な法律であり、それが戦後改革を精神面で支えたこともたしかだが、生き方の選択を個人の信条にゆだねる原則に適するかどうか、よく考えると疑わしい。〔略〕かつて井上毅が(あるいは井上ですら)守ろうとした原則をつらぬくなら、教育の理念にかかわる条文をすべて削るか、あるいは基本法そのものを廃止するのが、まっとうな改正のしかたではなかったか。

14)厚みをもった現実に鋏を入れ、この職業が多い地域、という範型へと刈り込むのは、社会科学の分析手続として当然のことではあろう。しかしこの整理を施された側は、そうして展開される議論に接すると、心のどこかが軋んでくる。 ※一九六八年について私が知っている二、三の事柄——小熊英二『1968』

15) 全体を貫く主張は、一九六〇年代後半に若者たちが、大学や街頭で過激な運動をくりひろげたのは、その深層においては一定の理念に基づく政治運動ではなく、「現代的不幸」の意識から発する「表現行為」〔略〕であったというものである。〔略〕心に空虚を抱え、「自分探し」〔略〕に焦る傾向が、すでにこの時期、広がっていたというのである。 一九六八年について私が知っている二、三の事柄——小熊英二『1968』

17)閉ざされたセクトとはおよそ反対の、自由参加と自由討議に基づく組織のあり方が、その大きな理由だろうが、同時にまた、吉川勇一や鶴見良行などの年長者が、成熟した政治感覚をもって若者の暴走を食い止めていたという指摘がおもしろい〔略〕。異なる世代の間での交流を保つことで、社会運動が健全に進められる。 一九六八年について私が知っている二、三の事柄——小熊英二『1968』

18)社会の大義に自分を合わせるのではなく、「今」の「私」の願いに率直であれと説いた、ウーマン・リブの主張が、そのまま「大衆消費社会の肯定」につながったとする評価〔略〕にも、同じリゴリズムの気配を感じるのである。「私は 私は わけもわからなく みじめな 私だけに 執着したい」〔略〕という言葉に残されているような「私」の意識は、流行商品を手に入れようとする欲望にのみ、収斂するものではないように思える。 一九六八年について私が知っている二、三の事柄——小熊英二『1968』

18-9)残念なのは、第二刷から「あとがき」に変更が加えられていることである。第一刷では、この本を書きあげたあとの疲労感が末尾で語られていたのに、中国とインドに言及する別の内容に変わっている。これだけ大部の資料群にとりくむのは、余人にはなかなかできない仕事である。むしろ、当事者たちが残した言葉の渦にまきこまれ、困惑する繊細さを持っているからこそ、多くの「生の声」に耳を傾けながら歴史を書くことができた。その姿を示すことも、読者と、あとに続く研究者のためには大事だったのではないだろうか。 一九六八年について私が知っている二、三の事柄——小熊英二『1968』

23-4)「自分が社会の役に立っている感覚」を人々が抱いていることが社会の安定には欠かせない、といった考察は、いまの社会状況とも、深く響きあうものをもっている。 ※エリック・ホッファー『安息日の前に』

39)国旗掲揚や国歌斉唱に、どうしてここまでこだわるのか、賛成・反対の両派に関して、その点がどうも解せない。国を愛する気持ちを学校教育を通じて養おうとすることは、一般論として結構と思うのだが、たかだか入学式と卒業式の年二回、日の丸を前にして君が代を歌うことで、その心情が格段に高まることなど、期待できそうにない

40) 戦前の小学校の儀式で、教育勅語の奉読が行なわれたのは、その徳目の教化というより、厳粛な空気を演出することで、教師には逆らえないという雰囲気をつくるものだった。山本七平の自伝『昭和東京ものがたり』〔略〕は、そう指摘している。いま、国旗と国歌を学校に奨励する人々が期待しているのも、事実上は、そうした権威づけの効果なのではないか。

54)道にはずれた邪悪なふるまいをした(と見なした)者に出会うと、彼らの心を改めさせるために、あるいは悪影響を断ち切るために、修行させたり改宗させたり、追放したり火あぶりにしてりしてきた。
 このような、道徳や秩序を保つかなめを、心のもち方に求めるやり方を、きびしく拒否するところから、いわゆる近代は始まったはずなのである。そもそも他人の心などというものは理解しがたいし、あぶなげなものに違いない。しかし、そのあやうさを性急に消し去ろうとして、唯一まっとうな心へと世の中を染めあげようとする試みが、いかに悲惨な暴力を、世に生んできたか。異なる信条を抱えた人間どうしが、生きるか死ぬかの対立にまで至らないあり方で共存できるしくみを、さまざまに考察し、守ってゆくこと。本来はそうした論理の上に、いまの政治と社会はなりたっている。

55) 祭祀場への公然たる訪問を、自分自身の「心の問題」と言い切った、某国首相の発言にも、そうした効果への期待が透けて見える。「心」は人によりさまざまなのだから寛容に扱ってくれ。参拝の是非を云々する以前に、その言葉は、むしろ被治者が統治者にむかって発するせりふではないか。秩序の運営に務める公人の言動には、一般人とは異なって強い制約がかかるはずであるし、そもそも、首相に純真な「心」など、だれも期待していないのに。

66)あらゆるものを共存させる倫理。その可能性にむけた賭け

72)天皇の退位を禁ずる規定は、窮極の人権とも言うべき「脱出の権利」を、天皇個人に認めていない点で、日本国憲法に違反すると著者〔=奥平康弘〕は説いている。

83)「ふつう不寛容がもっとも悪意に満ちたものとなるのは、文化・エスニシティ・人種の差異が階級の差異と一致する場合——マイノリティ集団が経済的にも従属させられる場合——である」という、ウォルツァーの洞察

84)この「非政治」の領域は、「友情」という規範を支えとして、かつてはそれ自体、政治とは異なる「人間の共同性の理念」を備えていたのである。しかし、十九世紀以降、そうした「友情」の理想はやせ衰え、「公的原理としての非政治」は衰弱する。いまや、政治を動かす権力機構の巨大さを批判し、「非政治」の姿勢をとろうとする者にとっては、ただ私生活のうちに閉じこもるか、他者との連帯の理想を空疎に言い立てるぐらいしか、選択肢がなくなっている。

86) 平和主義の理想論は、みずからの手を汚すことを避ける結果、暴力の横行を容認してしまう。そのように逃げることなく、人類の悲劇を防がねばならない、ぎりぎりの場面では、必要悪としての軍事力を用いる。罪の意識との葛藤に耐えながらそれを選択する強靭な倫理を、この本〔=ウォルツァー『戦争を論ずる』〕は政治家と市民とに、きびしく求める

101-2)他者とのこのような出あい〔思いがけない他者からの訴えや呻きにふれることで、自分がいったい何者であるか、自分はどういう集団に属しているのかが、改めて明らかになる@大庭健『「責任」ってなに?』〕を通じて「動揺」を覚え、自分自身についての理解を更新してゆく運動に、〔齋藤純一『自由』は〕「自由」の核心を見る。

137) 中村真一郎は、かつて著書『文学の擁護』(一九六二年)で、現実をフィクションとしてとらえ、またフィクションにのっとって行動することが、ヨーロッパの市民社会を支えており、それが近代小説の基盤になったと説いていた。
 個人が実感によって把握できる世界をこえて、広い範囲の人々と直接・間接の交流をもつようになれば、社会に生きる「市民」とは、おたがいに対してこうふるまうものだ、というフィクションを、みなが共有していないかぎり、安定した関係を続けることができない。もしその枠を無視して、実感や本音のおもむくままにふるまっていれば、円滑な相互理解はむしろ難しくなり、やがては混乱に至る。それを防ぐために、「市民」というフィクションの実践を通じておたがいを理解するのが、秩序を保つ要諦なのである。

140) しかし、投票に行くことが、ほんとうに唯一の政治への関心を表わす手段なのだろうか。たとえば、迷惑な近隣住民について何とかしようと頭を悩ませることや、育児サークルへの助成を申請するための書類を作ることも、人と人とが何らかの秩序を支えてゆく営みとしては、小規模とはいえ立派な「政治」である。〔略〕投票率があがらないのは、そうした関心に応えてくれる候補者が見あたらないせいもあるだろう。裏返して言えば、政治家には期待しないという趣旨をこめた、政治への関心の表明である。〔略〕いっそのこと、だれも投票に行かないという運動を堂々と展開すれば、政治家の目も覚めるのではないか。

143)むだな道路工事などやめて、既設の道から舗装をはがし、土の路面にもどす公共事業を起こしてはどうか。自動車の交通量の少ない場所だけでよい。それでもそうとうな範囲で、真夏に熱がこもるのを防げるし、雨水が地中に円滑にしみこむから、環境対策にもなるだろう。

242) 平野〔啓一郎〕が京都大学時代から親炙する政治思想史家、小野紀明が『二十世紀の政治思想』(岩波書店、一九九六年)で述べるところによれば、そう見える「現われ」と、本当にそうある「存在」との関係は、西洋思想史の伝統を貫く大きな主題にほかならない。その出発点である古代ギリシアのポリスは、本来、この「現われ」と「存在」とが、ぴったり一致する幸福な空間であった。人は、雄弁をふるい、あるいは戦功を挙げることを通じて立派な市民の役割を演じきり、ほかの市民から喝采をうける。そうした名誉の瞬間にこそ、本当の自分自身が輝きだすと信じられていたのである。
 しかし、いくつもの悲劇が上演され、ソフィストが活躍する時代になると、「現われ」をはかなく不確実なものと見なし、そこから離れた目に見えない場所に、真実の「存在」を見いだす思考が、優勢になってくる。そうした「現われ」と「存在」との乖離が、プラトンにはじまる、西洋の形而上学の伝統を支えることになった。

@研究室

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# by no828 | 2017-05-07 14:33 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 05月 06日

もしね、もしイエス・キリストが執行のその場にいたとしたら、キリストは何て言うと思いますか——森達也『死刑』

 森達也『死刑——人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』朝日出版社、2008年。46(1044)


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 死刑をめぐる森達也の自問自答の記録。副題逆接以後が森の結論です。でも僕は、人を救いたいとも思う。

118)ところが捜査や法廷、そしてメディアは、この揺れや矛盾を視界の外に置き、とりあえずの一貫性や整合性を無理にでも構築しようとする。端数は切り上げる。あるいは切り捨てる。つまり四捨五入して整数にしようとする。

019)でも僕は悩む。うじうじと。吐息を洩らす。存置を主張するつもりはないけれど、明確な廃止を叫ぶことにもためらいがある。要するにどっちつかず。

036) 確定死刑囚は家族と弁護士以外とは面会を許されない。外部との手紙のやりとりも原則的には禁じられる。だからもしも家族がいなければ、死刑確定後は誰にも会えなくなる。友人にも恋人にも会えない。手紙のやりとりもできない。つまり存在が不可視となる。その理由を法務省は、死刑囚の心情の安定を保つためと説明する。
 バカじゃないかと思う。世の中には硬直した規制や取り決めはいくらでもあるけれど、これほどに硬直した規制は他にはちょっと思いつかない。人と会話をさせないこと、コミュニケーションを取らせないことが、心情の安定に結びつくと法務省は本気で思っているのだろうか。

039)しかし本当に悪い人間ほど先に許すことで救われる者もいるのではないかと考えますよ。 ※岡崎一明

043) 確定してから死刑囚が拘置所で過ごす期間は平均約七年と十一ヵ月(法務省調べ。一九九七〜二〇〇六年の平均)。十年以上の人も多い。それだけの長期にわたって日光を浴びず、どこにも行けず、誰にも会えない。そんな生活をあなたは想像できるだろうか。僕はできない。確定囚には基本的に会えないから、その実感を聞くこともできない。

049) 「〔『モリのアサガオ』〕連載開始前に一カ月ぐらい思い悩んだのですが、結局(存置か廃止かの)答えが出なかった。ならばわからないまま始めて、新人刑務官の及川というフィルターを通して、描き進めながら考えていこうと思いました」
「及川は迷いながらも死刑制度に大きな疑問を持っています。郷田さん自身の今の心情を敢えて言えば……」
敢えて言うのなら、……死刑は必要だと考えています
 メモを取るノートから僕は顔を上げた。聞き間違いじゃないし郷田の言い間違いでもない。 ※郷田マモラ


053)多くの被害者遺族の感情を最大限に優先するのなら、存置論者の多くがよく口にする「死刑は国家による仇討ちの代行である」とのレトリックが成立する。ならば死刑が確定した段階で、国家は遺族に処刑の方法を聞くべきだ。自ら執行を望む遺族には自分でやらせるべきだし、死刑までは望まないという遺族がもしいれば、じゃあやめましょうかとの対応が理想のはずだ。つまり現行のシステムを変えねばならない。少なくとも執行への遺族の立会いくらいは認めるべきだ。でもそれはできない。〔略〕死刑の意味を「国家が代行する報復」とだけ規定するならば、その瞬間に罪刑法定主義は崩壊し、この国は近代法治国家の看板を外さなくてはならなくなる。

069) 人には蛮性がある。郷田へのインタビューの際に、僕はそんなことを口走った。獣性という人もいるけれど、でも実際の獣のほとんどは、自分が食べる以上の命は殺めない。同族を殺戮することもほとんどない。
 人は人を殺す。戦争で。虐殺で。嫉妬で。憎悪で。利害で。独占欲で。かっとして。錯乱して。報復で。快楽で。宗教で。理念で。イデオロギーで。善意で。思いやりで。正義で。愛情で。
 蛮性があり、そして善性がある。彼にも。彼女にも。あなたにも。そして僕にも。だから時おりは優しい。時おりは残虐になる。時には誰かを傷つけ、時には誰かに傷つけられ、やがて年老いる。そして死刑囚はかつて誰かを殺し、その報いとして自分も殺される。

076) 〔米国ノースカロライナ州では〕執行は通常、金曜日の午前二時に行われる。その週の火曜日に死刑囚は執行室隣の監房(death watch)に移される。区画内は自由に出入りできるし、外部に電話も自由にできる。処刑の日時は死刑囚の家族にも連絡され、最後の面会が行われる。
 車輪付きベッドにベルトで縛り付けられて執行室に運ばれた死刑囚は、まずは睡眠薬を注射され、次に呼吸障害を起こす薬物を注射される。処刑の際の立会い人は十六人。内訳は刑務所長と弁護士や警察官など公的な立会い人四名に加え、被害者遺族や死刑囚の親族の立会いも可能であり、さらにはメディア関係者五人の枠もある。特にノースカロライナだけが情報公開が進んでいるわけではない。フロリダでもインディアナでもニュージャージーでも、死刑制度を存置する州のほとんどは、情報公開に前向きに取り組んでいる。〔略〕
 アメリカの少年死刑囚の肖像を撮り続けているトシ・カザマは、撮影と並行しながら死刑廃止のメッセージを強く打ち出しているカメラマンだ。その彼にすら、アメリカの司法当局は撮影を容認する。徹底した情報公開。ならば日本はどうか。

088) その後も永山〔則夫〕は独房で執筆活動を続け、一九八三年の新日本文学賞を小説『木橋』で受賞する。一九九〇年には秋山駿加賀乙彦の推薦を受けて日本文芸家協会へ入会を申し込むが、一部の理事が殺人事件の刑事被告人を入会させてはならないと反対して入会は却下される。これに抗議した中上健次筒井康隆柄谷行人らが文芸家協会を脱会したことは、当時は大きな話題となった。

103) ただし、だからどうしたと思う気持ちも僕にはある。たとえ世界中が死刑廃止をしたとしても、確固とした存置への理念と哲学がこの国にあるのなら、他国に迎合する必要などない。胸を張って執行すればよい。しかし今のところ、そんな理念や哲学は見つからない。

103) 「仇討ち的な発想では連鎖します。だからこそ国家の刑罰権は、仇討ちの連鎖を制御するためにつくられてきた。それが近代法治国家じゃないかと思うのだけど……」 ※保坂展人

106)つまり民意。政治家はこれには逆らえない。メディアもこれには逆らえない。でも同時に、民意に大きな影響を与えるものは政治であり、メディアなのだ。救いのない堂々巡り。そう言えば郷田マモラも、堂々巡りと何度も口にしていた。
 ただしこれは死刑制度の本質ではない。野球の本質はテレビの視聴率や観客動員数にはない。滲んではいるけれど、そこだけの視点では言い足りていない。本質はきっとどこかにある。

121) 「……精神医学用語のひとつで注察妄想という症状があるのですが、彼〔=宅間守〕は明らかにその傾向がありました。ずっと誰かに見張られている。嫌な目で見られているとか、悪く思われているとかいうことですね。それを自分はずっと我慢してきた。だから報復する権利が自分にはあるとの理屈です。〔略〕なにもいいことがない。この世は生きるに値しない。自分なんか生きていく価値はない。死ぬならばこれをやってから死にたい。それで決行してしまった」
「ということは、もしも死刑制度というものがなければ、彼はあんな犯行は起こさなかったということも考えられますね
「かもしれません。彼は本当に、望んで、死刑になりたいと言っていた」 ※戸谷茂樹

199-200) 「父〔=古川泰龍〕は死刑という言葉がおかしいとよく言っていました。死は誰かの手によって与えたり与えられたりするものではない。つまり刑と言うならば死刑ではなく、殺刑とか殺人刑と言うべきです」 ※古川龍樹

221) でもここで僕は思う。苦痛を軽減するという発想は本当に正しいのだろうか。もしも死刑が個人の応報感情の国家による代行なら、なぶり殺しだってあってよいはずだ。イスラム社会では今も石打ちなどの残虐な刑罰が残されている地域がある。死刑の機能に犯罪抑止効果を認めるのなら、より残虐な刑罰のほうが、つまり死刑囚を苦しめたほうがその効果を増大させることになるとの考えも成り立つ。
 安楽に殺すこと、長引かせないことが人道的? 僕にはわからない。そこまで人権や苦痛に配慮しながら殺すことの意味が。

222)死刑は残虐だ。それは議論の余地はない。だって人が人を殺すのだから。でもその残虐なことを先にやったのは死刑囚のほうだ。だから重要なことは、社会が主体となるこの後発の残虐さに、正当性があるかどうかなのだ。

225) 「話すことは身の上話とか?」
「そうですね。たとえば連続殺人事件の犯人として死刑囚となったN。彼は幼いときに両親に捨てられて親戚に引き取られたのだけど、その親戚のおやじさんがヤクザ者だった。学校で同級生の女の子のペンがなくなったとき、彼は教師からみんなの前で『泥棒だ』って言われたらしい。彼は盗んでいない。そして真犯人も知っていた。でもそのとき彼は、みんなの目の前で『俺がやった』って言ったそうです
 しばらく間が空いた。 ※教誨師T

226) 「……もうすぐ処刑される人を目の前にして、Tさんはどんな心境になりましたか」
 僕のこの質問に、Tはたっぷり二分間は沈黙した。二分は長い。 ※教誨師T

228-31) 「精進落としのその場には検察官もいましたか」
「検察官はいません。立会って書類にハンコを押してから、彼らはすぐに帰ってしまった。酔ったひとりの刑務官が私のそばに来て、『先生はあいつを抱きしめてくれた。我々にはそれはできない。でもここにいる全員が、できることならそうしたいと思っていました』って言ってくれました」〔略〕
「処刑の直前って、みんな取り乱したりしないんですか」
「しない、みんな落ち着いていた」
「……なぜでしょう。僕には想像できない」
「たぶん何年も、何度も何度もシミュレーションしているんだよね」
「それは宗教の力ですか」
「……わからない」
「そんな気持ちになった人を、吊るす必要があるのですか」〔略〕
「でも人を三人も殺している。それも事実です」
「人は変わります。Kさんも犯行時とは顔立ちまでまったく変わっています」
「でも、KやIの場合は、死刑になるからこそ人の心を取り戻せたと考えることはできないですか」
 再び長い間。Tはゆっくり息を吐き出した。
「………………あるかもしれない。人によると思います」〔略〕
「僕はキリスト教について門外漢です。だから失礼なことを言ってしまうかもしれないけれど、もしね、もしイエス・キリストが執行のその場にいたとしたら、キリストは何て言うと思いますか」 ※教誨師T

233)……でも、僕はやっぱり、外的要因が強いと思っているんです。死刑囚の話を聞いているとわかるんだけれど、家族の愛情に恵まれた人はほとんどいない。ほぼ共通しています。もちろん家庭が恵まれなくても立派に生きている人はいくらでもいます。でももしも僕が彼らと同じような育ち方をしていたら、そうならない保証はない。紙一重だと思う」
〔略〕社会責任論だ。データとしては確かに否定できない。事実なのだろう。でもこれを突き詰めれば個が消える。人格形成において後天的な要素は大きい。〔略〕もしも後天的な要素や偶然性を理由に死刑を否定するのなら、それは死刑制度のみではなく、罪と罰の体系が崩壊することを意味することになる。つまり人は人を裁けなくなる。 ※教誨師T

237) 四、生命を絶たれるという与件の下では、人は反省機能を失い、自己の観念的世界に逃げ込む可能性が高い。生命を保障され、いつか社会に復帰できる可能性があるという状況で、人は初めて自らの犯した罪と真摯に向き合うことができる。 ※佐藤優の死刑廃止論の根拠のひとつ

272-3)この社会の本質は当事者性ではなく、他者性によって成り立っている。大多数の人にとって当事者性はフィクションなのだ。ただしフィクションではあるけれどとても大切なこと。〔略〕でも同時に思うこと。人は当事者にはなれない。大多数の人が他者であり第三者だからこそ、この世界は壊れない。当事者の感覚を想像することは大切だ。でも自分は他者であり第三者であることの自覚も重要だ。だって当事者ではないのだから。

286-7) 「相手が生きているかぎり許せないんです。被害者みんなそうだと思います。死刑廃止派の人はよく『人権を尊重しろ』と言われるけれど、じゃあ死んだ人の人権はどうなるのか。人権を踏みにじった人間が生きていていいのか。そういう人は生かしておいちゃいけない。死んでもらわなければいけない。死刑は残虐だというけれど、あの死に方(絞首刑)は楽なんです。たとえば丸太で叩かれて顔がつぶれて誰だかわからなくなって殺された人だっていっぱいいるわけです。だから死刑を廃止するならば、応報権をぜんぶ私たちに返しなさいということです」 ※松村恒夫

291) 「松村さんがもし、山田みつ子の死刑執行のボタンを押してくれと言われたら?」
「やりますよ。それぐらい孫は可愛かったです。孫の未来をぜんぶ奪ったことは絶対に許せません。彼女が本当に更生して、ものすごく良い人間になったとして、やっぱり許せないですね。だって更生してくれなんて誰も願ってないわけですよ。更生させるのは国の仕事であって、被害者遺族としては更生しようがしまいが関係ない」 ※松村恒夫

296-7)春奈を返してくださいということです
 僕は答えられない。松村はじっと僕を見つめている。
……それと、もしも死刑を廃止するならば、私に殺させてくださいということですよ。仇討ちになってしまうかもしれないけれど、本来ならば一緒の空気を吸いたくないということです」
「加害者が更生しようが……」
「関係ない。全然関係ない。よく生きて償うっていうじゃないですか。何するのよ。どうやって償えるの。償うっていうことは殺した人を生き返らせることなんだよね。それができるなら初めて生きて償うって言えると思う。それ以外、生きて償うということはありえないと思いますよ」 松村恒夫

300) 多くの人に触れることで、揺れ動く自分の情緒を見つめようと僕は考えた。その帰結として僕は何を得るのだろう。何を知ることができるのだろう。
 そして何よりも、「僕にとっての死刑」に、この作業は輪郭を与えてくれるのだろうか。逆に混迷し始めている。当たり前だ。多くの情緒に触れるということは、多くの述語に触れるということだ。主語が揺らぐ。揺らいでほしかったのは述語のほうなのに。

309)目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理でもある。

313-4) 死刑問題の本質は、「何故、死刑の存置は許されるのか」ではなく、「何故、死刑を廃止できないのか」にあるのだと思います。換言するならば、「何故、権力は死刑という暴力に頼るのか」、「なぜ、国民を死刑を支持せざるをえないのか」です。
「犯罪被害者が声高に死刑を求めている」からではなく、「社会全体が漠然と不安である」から、死刑は廃止できないものだと思います。 ※本村洋

@研究室

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# by no828 | 2017-05-06 16:23 | 人+本=体 | Comments(0)