思索の森と空の群青

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2017年 06月 16日

試したり、駆け引きをしたりせずに、いつも持ち駒をぜんぶ使って好きと言いたい——小山田咲子『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』

 小山田咲子『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』海鳥社、2007年。60(1058)


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 1981年に生まれ、2005年アルゼンチンでの交通事故で亡くなった著者のブログの文章(日記)が収められた本。著者と同郷の友人にすすめられて購入して、なぜかすぐに読みはじめられず、ようやく昨年読み終えた本。直接会って話をしてみたかったなと、それが叶わぬことであるだけに余計に、強く深く思いました。

76-7) 「教育」という言葉に対してはいろいろな感じ方があると思う。「教育」が人と人とのコミュニケーションの一部であり、知識の伝達手段である以上、そこには常に力と矛盾が生じる。「教育」が人の価値観の形成に多大な影響を及ぼすことは疑い得ない事実であり、それは家庭教育しかり、広い意味での地域教育もまたしかりだけど、例えば日本の戦前・戦中の教育を鑑みればわかるように、「洗脳」ともいうべき行為を成すこともできるわけで、特に自分の判断基準を持たない不特定多数の子どもに対して与えられる「学校教育」というものの持つ力の大きさを考えると、その強さとともに恐ろしさを感じずにはいられない。ある体制によって作られた「学校教育」を受けた人間が、他文化の中に入っていって軽々しく「教育」の形を作ろうとすることは当然価値観強要の危険性を孕む。
 しかし、新しいことを学びたいという欲求、知的好奇心というものは誰しもが生まれながらに持っているもので、それは食欲や性欲と同じように、本能的なものだと思う。何を守り、何を捨てるべきかという価値判断の基準は時代とともに変化していくものだろうが、世界がこんなにも小さくなってしまった今、「搾取しないための教育」、「搾取されないための教育」の存在はもはや不可欠であろうし、「教育」を受けた人間には新たに自分の受けた「教育」の正しさを問う能力が求められる。すべての人が自分の生まれたコミュニティの外側を知らずに生きていけた時代でないことの悲しさだなあと思う。正しさってなんだろう。
 私は知識も浅薄だし自分と自分の周りが健康で幸せならとりあえず今日は嬉しい、という心の狭い子どもだけど……それでも焼け跡の青空教室で黒板に向かう、ジャカルタの路上で土に文字を刻む、村にたった1冊の絵本を取り合って読む子どもたちの目の輝きはほんものだし、それが政治や戦争やその他彼ら自身に責任のない様々な事柄によって奪われることは間違いであると、それだけはわかる。広い世界を見れば見るほど、もっとわかってくることなのだろう。道は必要なのだけれど。

15-6) こんなに真剣に物事を考えたり、表現にあがいてる同年代の人たちに出会う機会のあることをうれしく思う。
 東京に来るまでは知らなかった、私を取り囲む景色の外側にも世界のあることを。見るべきものを、行くべき場所が限り無くあることも。
 私はなんにも知らなすぎて、それはもう悲しくなるくらいだけど、ばかになることも真面目に語ることも恐れない人たちを見ていると、勇気が出る。

17) 離れて感じる故郷というのは不思議なものだ。特に筑豊はやや特殊で重たい歴史を背負った町なので、そこで過ごした日々を思い出すことには懐かしさとともに少しの後ろめたさと痛みをともなう。平和で、退屈で、皆が何となくやけになっていて、捨ててきたつもりはないのになんとなく戻れない気がする、私の町。


19) 恋愛はとにかくサシの勝負だから、他のどんな人間関係とも違う。だからこそいつも真剣に向き合いたいし、刺激を受け会える関係でいたいと思う。試したり、駆け引きをしたりせずに、いつも持ち駒をぜんぶ使って好きと言いたい。そのために落ち込んだり迷ったりしてもだ。みっともなくなるくらい夢中になれないなら、恋愛なんて無意味だ。ちゃんとしようとしてよけいみっともなくなってしまうのが、最高に素敵だと思う。

61)何より大切なのは、子ども時代に、見えないなにかを素直に受け入れる、想像力を働かせながら無条件の善意の存在を感じることができるという体験そのものだと思う。遠くから自分を見ている、謎に満ちた、優しい存在。

96) 私たちは殺し、殺され、悲しみの歴史を繰り返さないと誓った。今またアメリカの違法な殺戮を容認することは、過去の戦争で払った犠牲と平和への歩みを続ける人々全てを冒瀆し、地球上のあらゆる文化と生命の尊厳を踏みにじる行為だ。
 多くの命が失われ、この戦争が過去のものとして語られる時、小さな子どもになぜ止められなかったのかと聞かれて私たちは何と答えればよいのだろうか。
 私たちが殺すのだ。

109) やりたいのにやれないというのは言い訳、というより、やりたい気持ちが足りないかあるいは自分が完全に向かい合える環境を作れてないだけの話なのだろう。人が本当に何かをやろうと決めた時にはそれを邪魔するような強大な壁って実はあんまりなくて、環境はむしろびっくりするような偶然を用意して背中を押してくれることも多い。

121) 他人と協力して、効率や生産性から遠く離れた作業に没頭することが大っぴらに許された時間を持てることが、学校という場所の財産かもしれない。個人的には非常に苦痛だったが。たかがなになに委員を決めるのに、何時間も話し合ったりとか。そいで誰かが泣いたりする。そういう毎日、予測不可能な出来事が次々起こって、ものごとが要領悪く進んでいく、それも全て人が育っていく過程でしか起こり得ないことで同じ場所には二度と戻れない、とわかっていたら、もっと明るく楽しめたのかもしれない。いや、でも渦中にいる時はそんなのわからないから貴重なんだな。きっと。
 教師としてあの場所に戻るって、どうなんだろう……。今日の運動会を見てて、教職が好きで続けてる人って、単に人間が育つとこを見るのが好きなだけなんだろうなあ基本的には、と思ったのだった。

149)自分の周りのほんの小さな世界に考えが閉じこもる私が、どのくらい力になれるか分からないけど、せめて目をそらしたり無自覚になることだけは避けたい。できることから少しずつでも、協力をしたい。

203) 殺してはいけない、殺されてはいけない。奪っても、奪われてもいけない。子どもでも解るこの原則に立ち返れば、誰が愚かなのかは、自ずと明らかになるはずだと思うのだけれども。


125-6) 商店街を歩いていて、前を行く父娘の会話を聞くともなく聞いていた。
 小学1年生くらいの娘は、キックボードに乗っていて、のんびり歩く父親を追い越したりジグザグで後ろに回ったりしながら、しきりに、今通っているらしいスイミングスクールの話をしていた。
「ゆきちゃんとかまりちゃんより上手になったよ。でも○○はね(自分のこと)クロールよりも背泳ぎが好き
 さらりと応えたお父さんのひとことがとても良かった。
ゆっくり泳ぐのが好きなんだね
 女の子はうんとうなずき、ついーとボードを蹴って前に行ってしまった。
 大人は子どものことを、たいていの場合子どもだと思っているから、きちんと肯定したり確認したりするやりとりを怠ってしまうことが多いと思う。特に親の場合、自分の子どものことは自分が一番わかっていると無意識のうちに思い込んで、彼(彼女)の性格とか嗜好について、改めて考える機会を持ちにくくなるんじゃないだろうか。反抗されたり家出されたりするまで。
 女の子のお父さんは、この何気ないひとことで、娘を誉めたわけでも彼女に同意したわけでもないけど、「ゆっくり泳ぐのが好き」な彼女を今知って、そして「ゆっくり泳ぐのが好き」な彼女のことをとても好きであると、きちんと娘に伝えていたと思う。
 ただ肯定する、愛情深さ。

 親子関係に限らず、友人でも、恋愛でも、相手の言葉に対して批判したり賛同したりするのは容易いが、相手の真意を汲み取った上で、的外れな決め付けじゃないと肯定と受け入れの言葉を発するのって、意外に難しかったりする。
 つまり、「それは違う」とか「私もそれ好き」は簡単だけど、「あなたは〜なのね」って言葉は、相手を理解していることに自信があり且つ素直にならなければ言えない言葉だということだ。
 でも、新しく知ったあなたをまた新しく好きになる、という事態はとても素敵だし、そのたび気持ちをきちんと言葉にしたいものだなあ、と思ったのだった。

205) 自分が痛みを知るまで他者の痛みを知れないというのは悲しいことだと思う。でも私自身はどうかというと更にずっと愚かで、苦しみの真ん中にいて他の人の痛みに思いを巡らす自信がない。痛くなければないで、ともすれば人の痛みは見ないふりができる。思考って簡単に停止する。働かせられるかぎりの想像力を駆使して、人間的であることの意味を問い続けないといけないのだなあと思う。

273) 人、の他には、音と灯りと物が多すぎる。禅僧みたいに削ぎ落としまくって生活ができるとは思わないけど、ちょうどいい数のなかで暮らしたい。何年くらいかかるだろうか。どういう準備がいるんだろ。どこまで行ったら充分で、どうなったら限界なのか、よくわからん。
 好きなものはたくさんあるけど、大切にしてるものは、そういくつもは、ない。自分の内側だけのことだったらいいのに、と思う。自分が切れないものについては、少なくともそれが何なのかは、よく知っている。

@研究室

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# by no828 | 2017-06-16 19:24 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 06月 15日

原発立地の自治体には多額のカネが東京から投下されるのであるから、東京が町村をまるごと買い取ったようなものだ——奥泉光『東京自叙伝』

 奥泉光『東京自叙伝』集英社、2014年。59(1057)


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 この国は何も変わっていない、ということがよくわかって暗澹たる気持ちになります(本当に)。で、おまえはどうするわけ、と問われています。

 この本の内容と現実とが重なります。この本を読み終えたのは昨年ですが、この本を今日ここにアップロードすることになるとは思っていませんでした。


 111ページに「鎧袖一触」という表現が出てきて、読みは「がいしゅういっしょく」ですが、意味を知りませんでした。鎧の袖で少し触れたくらいの簡単さで敵を負かすこと、だそうです。

15) 戦に卑怯なし。これが師の高く掲ぐる標語で、卑怯と云うなら、刀剣弓矢を使うこと自体が卑怯である。〔略〕剣術槍術と云う技芸そのものが卑怯を基盤としているのである。

26)本質の指摘は常に人を驚かすものだ。

114)この失敗は敢闘精神ばかりを強調して兵站をないがしろにする帝国陸軍の体質に原因があるとしかいいようがない。いや、陸軍の、と云うよりは、ただひたすらに武を尊び、潔く散るをよしとする、日本人の血に流れる美意識のせいかもしれない

130-1) 少しく冷静になって勘案してみるならば、鉄鋼など重工業製品の生産力は日米で1対10。人口も向こうがだいぶ多い。つまりそもそも勝てる戦じゃなかったわけです。それを精神力やら気魄やらでカバーできると思ってしまうあたりが、日本人の悪癖といっていい。日本人種の血に脈々と流れる精神主義、これはもはや宿痾といってよく、無謀かつ不毛な精神主義が、情報軽視、兵站軽視の風土を育み、闇雲な吶喊主義がはびこる原因となった。早い話が島国根性がよくない。と云ってもいまさら島国をやめるわけにもいかぬわけで、これは陸軍がどうのの話じゃない。ましてや一参謀などがどうこうできるわけもない。ほとんど文明論レベルの問題です。

182)新憲法の施行が終戦から三年目、すなわち昭和二十二年、西暦で一九四七年五月。同じ年に財閥解体、改正民法発布と、この辺りがGHQの民主化政策の頂点。ここから先は「逆コース」と云うやつで、公職追放されていた連中が復帰する一方、レッドパージがはじまる。一度は消えてなくなった軍隊も名前を変えて復活する。二十六年九月にはサンフランシスコ講和条約が結ばれて、進駐軍の占領は終了、めでたくニッポンは独立。とは云っても安保条約のおまけ付き、沖縄を手土産に差し出して、アメリカさんの御機嫌を窺いつつの独立だ。そもそも首都東京の眼と鼻の先に米軍基地がいくつもあるんだから、要はアメリカの妾になったようなもの。岩永聖徳王は男は奴隷で女は妾と予言していたが、マアあたらずと云えども遠からず。パンパン嬢は焼跡の風物詩だけれど、何のことはない、日本はまるごとパンパンになったと云う、笑うに笑えぬお話。

240)アジア諸国への賠償交渉が始まったのが、サンフランシスコ講和条約締結の前後、これはいわゆる直接方式と云うやつで、賠償を受ける国が日本の企業に船舶だとか工作機械だとかを発注し、日本政府が代金の支払いをまとめて行う。政府が払うと云うと判然りしないが、要は役人が国民の税金から払うわけで、当の役人からしたら所詮は他人のカネ、自分の懐が痛むわけじゃない。だから言い値でいくらも出してくる。受注した会社にとってこれほどおいしい餌もないので、甘い汁を吸うチャンスだと誰だって考える。しかも甘い汁の総額は三千五百億円以上、嵩も膨大となれば、多くの企業がなんとか賠償ビジネスに食い込めぬものかと、蟻のごとく群がり寄るのは自然の理だ。

256)私の感覚からしたら、天皇家などはヨソ者にすぎぬ。ソンナ者に大東京が遠慮をする必要などはいささかもないので、むしろ皇居を横切る形に道路を走らせるのが便利がいい。だいたいアンナ広々とした一等地を天皇一人が独占しているのが気に食わぬ。
 天皇陛下が真に国を思う者ならば、庶民並みとまでは云わぬが、モット小さい家に住んで質素を旨とし、皇居は公園にでもして一般に開放すべしとの意見には、松枝亥外主催の東亜塾に集まる若い右翼連中のなかにも賛成する者がありました。

280)実のところ、私が接触した政治家連中のなかには、平和利用、平和利用と表向きはお題目のように唱えながら、原子炉さえ持ってしまえばコッチのもの、いつでも原爆製造に転用できるサと、裏で舌を出している者があるのを私は知っている。マア原爆にしたところで、戦争の抑止力となるとの観点からすれば、平和に貢献すると無理に云えば云えなくもない。まさにものは云いようで、原爆製造を原子力平和利用と呼んであながち論理の誤りとは云えぬ。〔略〕原爆と原子力発電はあくまで別物。原爆が悪魔の発明であるとするなら、原子力発電は人類に幸福をもたらす技術の神様の恩寵である。とコウ二つにクッキリ弁別しておくが肝心。

388-9)東京に原発が欲しい。これがそもそもの私の願いであった話は先に述べたとおり、東京にはドウモ作れぬとなってやむなく東海村や福島に持って行った次第で、つまり原発のあるところ東京の出先デアル、くらいに私は感じていたんだろう。実際福島で作られた電気のほとんどは東京が使う。加えて原発立地の自治体には多額のカネが東京から投下されるのであるから、ある意味、東京が町村をまるごと買い取ったようなものだ。東京の出先ないし飛び地と見做してあながち誤りとは申せません。

406)稀に言葉を交わすようになっても、作業が終わればサヨウナラ、二度と会わぬ。つまり誰でもいい。郷原聖士なら郷原聖士と名前はあるにはあるが、これはまず記号にすぎぬ。手足が動いて最低限の仕事ができればそれで十分。極端な話、働けるならそれこそ鼠でも構わぬ。だから自分が誰であるかが分からずとも困らず、自分が誰であるかなど考える必要がない。結果、考える癖が徐々になくなり、自分が誰でなくとも気にならなくなってしまう、とコウ考えられるのかもしらん。

@研究室

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# by no828 | 2017-06-15 17:40 | 人+本=体 | Comments(0)
2017年 06月 14日

自然も人も、未知なるが故に、我愛す——加賀乙彦『フランドルの冬』

 加賀乙彦『フランドルの冬』新潮社(新潮文庫)、1972年。58(1056)

 版元サイトなし|単行本は1967年に筑摩書房

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 日本人精神科医コバヤシがフランスに留学するところからはじまる物語。愛と(自)死について。

38)この男は外国人なんだ。内勤医が嫌になればさっさと帰国すればいい。いつでも逃亡可能な特権的状態にいる。だから諸事、落着きはらって傍観していられる。

78)「死というものは」クルトンはおしころした低い声で言った。「陽気なものです」
「そんな……」ギョーム女史は相手の真意を測りかねて睨んだ。クルトンは相変わらず無表情であった。で、女史は生徒に説諭をする時のような具合に言足した。「あなた。死は悲しいことにきまっています。ことにエスナール神父のような方が亡くなられた場合はなおさらのことです」
なぜ、ひとが死ぬと悲しいのですか
「なぜって、それが当たり前のことだからです」相手の生真面目な調子にひきこまれて女史も静かに答えたが、そう言った語尾は何だか自信がなさそうであった。
「あなたのお気にさわったのならぼくあやまります。でも神父の死をきいて、あなたが泣きたいと思われたと同じように、ぼくは陽気にピアノを弾きたくなったのです。それだけです」
「でも、もし、あなたが死んでも誰も悲しまなかったら」
「結構です。残された者が幸福な喜びにひたれるような、そんな死に方をぼくは理想としていますから」

94)「いや、わたくしにはあなたの私生活には干渉する権利はない。一般的な問題として一つだけ御忠告したい。一人の人間を愛しすぎてはいけません。愛することのみが生き甲斐なのはいけません。なぜって人間はどうせ死ぬんですからね。愛していた人間が死んだらどうしますな
「ミッシェルは死にゃしません」
「彼の事じゃないのです。一般的な問題です」
「わかりませんわ。そんな話。人間を愛しちゃいけないだなんて……」
一人の人間をですよ。たとえば全人類を愛するのならかまいません
「そんな抽象的な愛は贋の愛です。信じられません」
ところがその贋の愛こそ貴いのですな。科学への愛、書物への愛、みんな贋の愛ですが、これを持てるのはごく少数の人々です」 ※傍点省略

126)「ぼくの考えでは」コバヤシはゆっくりと適切な言葉を探すため口ごもった。「クルトンは、自分の思想に忠実だ。彼が異常にみえるのはそのためだ。なぜって、自分の思想を持ってる人は少いし、たとえ思想をもっていても、自分の思想に忠実な人はもっと少いからだ

262)「ぼくが子供を持たないのはね(黒い目が光り厳粛な表情)、ぼくが子供を持つだけの資格、子供に対して全責任をとれるだけの立派な大人としての資格がないからだ
世の大人どもは無責任に子供をつくっているというわけか
そのとおり。ただ情慾のため、習慣のため、世間並になるためにね。フランスではもう一つ、政府から補助金を貰うために子供をつくる下劣なやからがうようよいる」

292)《精神病者というものは、正常人のひそかにいだく観念を異常に拡大するものだ

298)「どうやってあの患者を鎮めましたの
ただ待っていただけだ
「なにを?」
「あの患者が鎮まるのをさ」
「不思議ですわ」
「なにが?」
「あなたっていうお医者さんがです」

405-6) 「一つだけ、おききしたい。あなたは彼女を理解していますか
「そこなのです」コバヤシは、急所を突かれたようにぎくっと肩をひいた。「ぼくは嫌っています、彼女の既知の部分を。ぼくは愛しています、彼女の未知の部分を
「それは妙ですね」
「そう、妙です。でも本当です」〔略〕
こう考えたらどうでしょう」ドラボルド神父は照れくさそうに重々しく口をはさんだ。「人間の未知の部分は無限です。つまり、あなたは彼女を無限に愛することができると
「え」コバヤシは、何かよい言葉を聞いたと思い、神父の童顔にうかんだ柔和な微笑を横目で見、車の速度をおとした。「もう一度言ってください、今の言葉」
「ええ」神父はゆっくりと繰返した。「ただし、これはぼくの思想じゃありません。パリ宣教会の或る神父様に教わったのです」
「いい思想ですね」
「ええと、その神父様の言葉は本当はこういうのでした。《自然も人も、未知なるが故に、我愛す》と」
「ああそれは、すばらしい言葉です」

445) 「いいかね、われわれがこの世に生まれてきたこと、存在することが茶番ならば、死ぬこと、存在しなくなることも茶番じゃないか。なにも死だけを厳粛な現象として区別する根拠なんかありはしない
「君の言ってるのは自然死のことだろう。自殺はちがうさ。自殺は行為だ」
「行為? なるほど、いい言葉だ。しかし、自殺は莫迦げた行為だよ」

467) もっともミッシェル。あなたには女のこの退屈さが分っていたとはいえない。あなたがた男は(そうコバヤシも、ドロマールも聞いてちょうだい!)何かの思想に賭けたがる。つまり、独創によってこの世の永久の退屈な繰返しに終止符をうとうという野望をいだく。ところが、その思想というもの……わたしに言わせればこれほど退屈で無意味なものはありはしない。それが証拠に哲学者の数だけ意見があるじゃないの。〔略〕これから何千年、何万年と人類は生きて繁殖していくだろうが、人類の歴史が長くなれば長くなるだけ、哲学者も文学者も科学者も数が増えるだけ、そうして意見の数も増えるだけ。それは退屈だわ。子供を生むより、もっともっと退屈だわ。

526) 「できることはどこかへ逃げていくことです。現にコバヤシは去ろうとしている。利巧なつまり卑怯なやりかたです。彼は逃げていく国があるかのように錯覚している。しかし、この世界に逃げていく国が存在するわけがない。この世は巨大な牢獄で、わたくしたちすべては無期徒刑囚なのですから。よく譬えられるように人間を死刑囚とみるのは不正確な比喩です。〔略〕誰だって狭いところにとじこめられれば狭所恐怖〔クロウストロフォビィ——原文ルビ〕をおこすでしょう。時間のクロウストロフォビィの場合も同じことです。しかし、無期囚は……〔略〕あなたがたすべては無期囚なのにその不安の本態を自覚する人はごくわずかです。それは無限に続くかにみえる水平線にかこまれた大洋のただなかに投げこまれた人の不安です。死という予測不能な終末までの時間を牢獄の陰鬱な壁の中に拘禁される。残された自由といったら自分の寿命を短くすることだけである。それは時間の広場恐怖〔アゴラフォビィ——原文ルビ〕です。それこそあなたがたの正体なのです。この人間に残された唯一の自由を行使する。それが自殺です

@研究室

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# by no828 | 2017-06-14 18:19 | 人+本=体 | Comments(0)