思索の森と空の群青

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カテゴリ:問題意識( 5 )


2009年 08月 06日

問題意識5——教育とは可能性を広げることである、か?

 「シリーズ・問題意識」の続きを書く。今回で第5回。これまで、なぜわたしがいま「この」研究をしているのかの答えを探ってきた。「探ってきた」という表現はおおげさかもしれないが、しかし自分のことはよくわからないものだ。他者のほうがわかりやすい。もちろんその他者理解には誤解が含まれているわけだが、それが(他者が聞いて納得する)理解であるのか、誤解であるのかは自分にはわからない。だから誤解を理解だと思って平気でいることができる。だが、自分に対してはそうもゆかない(と思うのだが、果たしてそうであろうかとも思うのでこれはまた別に考えたい)。自分をめぐる唯一絶対の答えはないし、あるとすればこれから作ってゆけばよいと思うのだが、とりあえず、いま・ここにいる自分って何なの?ってことには配慮しておいてよい。それがこれからのリ・スタートを方向付けることにもなるからだ。

 これまで何を書いてきたかと言えば、わたしを「この」研究へと動機付けたことは大きく2つあり、ひとつは中学1年のときにアメリカに行ったことであり、もうひとつはこれも中学のときに教育は、また、先生は何だか大切だと思ったことであり、この2点目に関しては、先生方からの影響と、両親からの影響とがあるということだ。前回は最後の点に関わり、中学時代の先生方について書いた。先生から受け取ったメッセージは「おまえのことはちゃんと見ているぞ」であり、それはいまにして思えば「一人ひとりの人間を尊重する」である。誰だって「ちゃんと見てほしい」と思うのである。そのことを伝えるのが先生の役割であり、また、教育が教育として動きはじめる条件なのだと思う。それってすごいことだ、と当時のわたしは感じたのであった。

 これから書くのは、教育は大切だとわたしが思ったときに思い当たる、両親からの影響についてである。

 わたしは中学時代、学外の英語学校に通い、それでアメリカに行ったこともあり、英語が好きであった。それは、わたしがうまく発音できたら、答えを当てることができたら、きちんとほめて評価してくれた英語学校のネイティヴの先生方のおかげでもあった(素敵な先生ばかりであった)。もちろん「将来は世界で」と思っていたから、英語は勉強する「必要がある」という考えもあったが、それ以上に単純に「できるようになる」ことがうれしかった。 

 だから、進路を決める段になり、高校は英語科のあるところに行きたいと思った。本当は、アメリカの高校に留学したかったのだが、父が賛成ではないと母が教えてくれたから、これは止めた(母は「行け」と言ってくれたが)。だから英語科に、と思っていたが、しかしそれは純粋な気持ちではなかった。その高校のその英語科にそこまでの魅力も感じなかった。

 英語科のある高校とは別に、進学校と呼ばれる高校もあった。安積高校(安積は「あさか」と読む)、通称「安高(あんこう)」である。そこに行くのもよいかなと思っていた。何がしたいかは別にして、大学には行くものだと思っていた。

(ちなみに、英語科のある高校は男女共学、安高は男子校であった。)

 英語科か進学校か——進路調査のときにはその2つを第1希望と第2希望に、ときどき順位を入れ替えながら書いていた。

 2年生の終わりか、あるいは3年生になってからの進路調査であったかもしれない。ある程度の決定が求められたときであったように思う。第1希望に英語科、第2希望に進学校を書いて母に見せ、「お父さんが帰ってきたらお父さんにも見せなさい」と言われ、父にも見せたことがある。

 希望高校を書いた紙を見た父は、「どうして安高にしないんだ?」とわたしに訊いた。「英語勉強したいなあと思って」というようなことをわたしはたぶん答えた。

 「どうして自ら可能性を縮めるようなことをするんだ。大学に行って勉強したいんだろ?安高に行けば大学を選ぶことができる。選択肢が広がるんだぞ」

 父はそういうことを言った。「ああ、そうか」とわたしは納得した。わたしは安高を第1希望にした。

 上の父の言葉があり、「教育っていうのは、可能性を広げることなんだ。選択肢を広げるってことなんだ」とわたしはあとから思った。「教育っていうのは、だから大切なんだ」と思った。

 この「教育とは子どもの可能性を広げることである」という考え方と、「世界は日本だけではない。世界全体を視野に入れた仕事がしたい」という思いが交差した。「世界には発展途上国という国々があって、そこには教育を受けられない子どもがたくさんいる」ということを知り、それはあってはいけないことだと思った。「教育を受けたら、(わたしみたいに)新しい可能性を見つけることができるかもしれない」。

 この仕事は——いまなら「教育開発」と呼ぶが——どこですればよいのかと思ったときに見つけたのが「国連」「国際公務員」であった。「ユネスコ」っていう教育の機関もある。それを目指そうと思った。そのためには実務経験と修士号が必要で、修士号を得るためには大学に行く必要があって、大学に行くには高校に行く必要があって、だから自分は高校に行くんだ、と考えた。

 わたしは安高に推薦入試で合格することになるのだが、そのときの面接で「将来何になりたいですか?」と訊かれて「国際公務員です。国連で働きたいです」と答えた。「でっかい夢だねえ」と面接官の先生に言われたことをいまでも憶えている。

 高校に入ってすぐの進路調査のとき、いろいろ調べてここしかないと思って第1希望に筑波大学第三学群国際総合学類と書き(もう実名を出してしまう)、第2希望に国際基督教大学(ICU)教養学部と書いた。この2つは高校3年間不動であり、結局筑波大学に進んだ(ICUも受けたが落ちた)。


 大学に入り、大学院に進み、いろいろ考えた。中学・高校時代の純粋な(だからこそ危険な——といまは思う)気持ちのままでよいのであろうかと思った。根っこにあるのは変わらず「教育とは」「先生とは」である。しかし、わたしは国連への道からは「逸脱」して研究者を目指すことになる。「逸脱」——そのことを次回からは書くことになる、と思われる。

(やっぱり続く)


@研究室
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by no828 | 2009-08-06 19:37 | 問題意識 | Comments(0)
2009年 04月 28日

問題意識 4 ――先生から教育へ

 ここで書かないとまた時間が空いてしまう気がするから、というよりも早く次を書きたいから、というよりもむしろすべてを書いてしまったあとに見えてくるであろう景色を早く見たいから、だと思うけれど、勢いで続きを書いておきたい。

 問題意識 4

 ここでは、わたしが教育開発に関心を抱き、その道に進むことになったきっかけを改めて探っているのであった。

 これまでのところ、それを探るべくわたしの中学時代にまで遡り、そこに具体的な契機が2つあったと書き、そのうちのひとつについて昨日記した。

 今日はわたしに教育開発の道に進むことを決意させた第2のことについて書く(が、たぶん今回では完結しない)。

 ちなみに、第1の契機は中学1年のときに2週間弱アメリカに行って「世界は広い、世界は日本だけではない、ならば世界全体を考える仕事をしよう」と感じてしまったことに求められる。具体的に進路を考える段になって、世界で仕事をするといっても具体的にどのような仕事をすればよいのか――第2の契機はそこに立ち上がる。

 昨日も書いたように、わたしは中学時代多くの先生方のお世話になった。なかでも強く感謝しているのは、駅伝部の活動と生徒会執行部の活動にそれぞれご支援いただいた先生方である。

 駅伝部の活動には――昨日触れたように――顧問の先生ばかりでなく、他の先生方も応援してくださった。練習を見に来てくださり、タイムを計ってくださったり、いろいろしてくださった。

 顧問のヒサ先生は、陸上競技の経験者ではなく――ラグビーの経験者ではあった――、これまでその指導の経験もなかった。けれど、赴任してきていきなり陸上競技部の顧問を命ぜられ、特設駅伝部の顧問も任された。わたしがもし先生の立場で、たとえば柔道部の顧問を任ぜられたら「おいおい柔道かよ、よくわからないんだけどなあ、顧問できるかなあ」となっていたかもしれない。

 しかし、ヒサ先生は陸上競技、長距離走の勉強をかなりされたようだ。もちろん、勉強している素振りはわれわれの前では見せず、先生然としてわれわれと向き合ってくださった。わたしの通った中学校の隣町には駅伝で全国区の高校――体育科があった――があったのだが、ヒサ先生はその顧問の先生に手紙を書いて、練習メニューの立て方などの教えを請うたこともあったらしい。(ということをなぜ知ったかというと、その高校駅伝部の顧問の先生の娘がわたしの中学校の――しかも陸上競技部の――2つ下の後輩で、「ヒサ先生、お父さんに手紙書いたみたいですよ。自分は陸上のことわからないから教えてくださいって」とこっそりとわたしに教えてくれたからなのだ。)

 だからといって先生はご自身が立てられたメニューにこだわりすぎることもなく、われわれがこういうメニューはどうでしょう、とか、予想以上に選手に疲労が溜まっているので今日はもうすこし軽めにしておきましょう、とか、大会当日の走順ですがこれでどうでしょう、とか、そういう話も聞き入れてくださった。

 他の先生方も、折に触れて気に掛けてくださり、応援してくださった。「わたしはおまえたちのことをちゃんと見ているよ」というメッセージは、たとえそれが教育的意図から発せられた恣意的なものであったとしても――といまならわかるが――、それを受信するわれわれ生徒としては、とてもうれしく、調子に乗って練習に励むには十分であった。

 そうして地区大会で優勝できた。わたしはアンカーであった。ゴール・テープを切った。やり遂げた、という感覚で満ち溢れた。

 県大会は行くことが目標であった。だから何位を目指そうということはほとんどなかった。県大会で気持ちよく走ろうということを考えていた。もしかしたら入賞するかもよ、ということを生徒のあいだで囁きあったりもしたが、「地区大会で優勝して県大会に行って気持ちよく走る」が基本にあった。

 余計な気負いがなかったからかもしれない。県大会ではあといくつか順位を上げれば入賞という位置でゴールすることができた。一桁の順位であった。それはもちろんうれしく、ヒサ先生も「6年ぶりの出場でこの順位はすごいよ、って他の中学校の先生方から言われたよ」とうれしそうであった。けれどそれ以上に、「みんなでがんばってきた」ということが、そして「みんなでがんばってきた」というわれわれの思いを周りの人たちが認めてくれたことが、とても心地よかった。

 大会が終わり、中学校に戻った。並んで体育座りして、ヒサ先生のお話を聞いた。何を話してくださったのか、そのすべては憶えていない。けれど、「3年生が引っ張ってくれたから。お疲れさん」と言って、3年生一人ひとりと握手してくださった。わたしも握手した。泣きそうになった。

 わたしの中学3年、夏から秋にかけての駅伝の季節はこうして終わった――

 と言えればよいのだが、そのあとわたしは福島県の市町村対抗駅伝大会の町の代表選手になり、放課後毎日町営グラウンドに練習に通うことになった。結局、本番は走らなかったのだが、「引退」は延びた。

 ほかにも、英語弁論大会があり、受験のための夏期講習があり、生徒会活動があった。

 わたしは生徒会の会長を2年生の秋から3年生の秋まで務めた。

 生徒会の役員のどれかは務めたいとは思っていた。実は1年のときに副会長に立候補して落選したことがあった。わたしが1年のときは、男子の頭髪は「丸坊主5分刈り以下、剃り込み禁止」という校則があり、中学はまだまだ荒れており、「裏校則」と呼ばれるもの――先輩に対して後輩がしなければならないことがたくさんあった。裏校則に違反すると、呼び出しをくらって殴られるとか、目を付けられるとか、ということが頻繁にあった。

 何か嫌だなあと思っていた。正直に言えば、小学校卒業間近のときには「あの中学校には行きたくない」と思っていた。けれど、周りに私立の中学もない。実質的に選択肢はない。だから行くしかなかったのだが、とりあえず嫌だと思っていた。入ってしまってからは、何とか変わらないかなあと思っていた。わたしが1年生のときの生徒会執行部の先輩たちが、校則から5分刈り条項を年度の途中で試行的に外し、また、裏校則の撤廃を議決した。だから生徒会に入れば何とかできるかもしれないと思った。立候補した。でも落ちた。

 そのときの生徒会担当のアイタ先生――野球部顧問、いま思えば「あれは体罰だったのでは」というようなこともあったりなかったりの先生、「あ、痛!」とおもしろくないギャグをアイタ先生の前でふざけて言った生徒がその後どうなったかをわたしは知らない――は、その年度で別の学校に異動することになった。離任式の日、校門のところで教職員生徒総出で先生方を送り出すことになっていた。わたしも外に出た。写真を撮ったり、花束を渡したり、握手したり、そうして幾人かの先生方が送られていった。件の先生も出てきた。花束をもらったりしている。徐々にこちらに近付いてくる。わたしの前を通るとき、さっとわたしのところまで来た。わたしの耳元で「船中はおまえが引っ張っていくんだぞ」と言ってわたしの肩を叩いて立ち去った〔「船中」は「ふねちゅう」で中学校名の略称〕。

 それがずっと心に残っていて、だから生徒会には入ろうと思っていた。ただ、会長はさすがにたいへんそうだからと敬遠していた。けれど、2年になって立候補の時期になったとき、学年主任の先生から「どうするの?」と言われ、「会長以外で何かはしようと思っています」と返したら、壁際に詰め寄られて「あなたが会長やらないでどうするの!」と言われてしまった。観念しなければならないと思って会長に立候補した。

 会長はいろいろとたいへんだ。学校で講師を呼んで講演会をするとか、学内行事をするとか、何だかんだととりあえず数分の挨拶を求められることが非常に多い。その文章を考えなければならない。生徒から要望があったらそれを先生方に伝え、先生方から生徒側に要望があったらそれを生徒側に伝え、という板ばさみにもあった。

 文化祭(学園祭)の準備が、たぶんもっともたいへんであったと思う。部活は終わっていたものの、受験もあり、市町村対抗駅伝大会の練習もあったから、生徒会執行部の部室で作業をして、教室に戻って受験勉強をして、時間になったら町営グラウンドに行って、ということをしていた。「大丈夫?」なんて気遣ってくれる先生もいらした。

 文化祭の閉会式で生徒会の引き継ぎが行なわれるのが慣習であった。だから会長の仕事は文化祭にはじまって文化祭に終わる、ということになっていた。文化祭では新旧生徒会執行部が顔を合わせて仕事をすることになっていたのである。

 会長になった当初は仕事を教えてもらいながら、生徒会執行部の部室で遅くまで作業をした。旧執行部の先輩と一緒になって仕事をすることも多かった。女子の先輩とふたりになることもあった。「一緒に帰る?」なんてこともあった。ドキドキであった。

 そうして会長を1年務めた。この間、学校のあり方、生徒会のあり方などについて先生方と話し合った。面倒くさい奴だ、と思われたかもしれないけれど、先生方は話を聞いてくださった。先生方に異見を唱えたときに、われわれの味方をしてくれた先生もいらした。そういう先生方のなかで生徒会活動ができたというのは心地よかった。


 こうして感じたことは、「『先生』っていうのは大切なんだなあ」である。「『教育』っていうのはそういうことなのかなあ」である。

 ここに第2の契機の一部がある。全部ではない。第2の契機を語り終えるには、もうすこし文章を重ねる必要がある。ただ、お気付きのように、第2の契機はハシモト少年が先生の大切さ、教育の大切さを実感したことに求められる。


 (まだ続く)


@研究室
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by no828 | 2009-04-28 13:16 | 問題意識 | Comments(0)
2009年 04月 27日

問題意識 3 ――「世界は広い」

 「国際社会を舞台にして教育というテーマで仕事がしたい、という思いをわたしに抱かせたのは、大きく2つの経験である。

 ひとつは、中学1年の夏に2週間弱という短い時間ではあったけれど、アメリカに行ったこと。
 もうひとつは、中学時代に両親や先生から「教育」の大切さを学んだこと、「だから教育は大切なんだ」という実感が得られたこと。

 この2つである。

 第1の点から書きたいと思う。が、あと3分で16時である」

と書いてからしばらく経ってしまった(参照:2009年2月26日エントリ「問題意識 2」)。

 あと3分で18時20分になるところだが、続きを書きたいと思う。

 第1に書いたように、わたしは中学1年の夏――1994年のことだ――にアメリカに行った。当時通っていた英語学校――この英語学校はわたしが通った私立幼稚園の園長先生が開いていたのだが――が主催した「第4回学習旅行」という名目でアメリカのオハイオ州とフロリダ州に行くというものであった。

 英語学校には小学校4年の途中から通いはじめた。友だちが数人通っていたこともあったが、英語に何となく惹かれたことのほうが通いはじめの理由としては大きく、自分から母親に「行きたい」と言った。たしか授業は週2回で――それにしては月謝は安かったと思う――、中学3年まで通った。

 英語学校の先生はほとんどが女性のネイティヴであった。園長先生自らがアメリカに行って面接をして連れてきた人ばかりであった。

 園長先生がどのような人か詳しくはわからないのだが、授業中に断片的に話してくれた内容によると、オハイオ州の大学に行ったらしい。それまでは荒れた少年時代を過ごし、母親にはたいへんな苦労をかけた、と言っていた。園長先生は、英語学校の先生だけでなく、キリスト教の牧師もされていた。

 だからわたしの通った幼稚園でも、その教育理念はキリスト教から導かれていて、お弁当を食べる前にはお祈りをして「アーメン」と言っていたことをいまでも憶えている。

 園長先生とオハイオの大学でできた友だちとの親交はずっと続いてきたようで、英語学校の先生の募集も――あるいは英語学校をはじめること自体も――その人との縁によって行なわれたようだし、また、「学習旅行」もその友だちの家――というか、教会――を頼って若者――主に中学生、ときどき高校生――を連れて行くことにしたのがはじまりらしい。

 日本から若者が行く年と、アメリカから日本に若者が来る年とを交互に繰り返しながら、相互の学習旅行が続けられてきた。わたしが中学1年の年が偶然日本から行く年にあたった。中学2年のとき、中学3年のときにそれがあたっていたら、果たして行ったかどうか。母は「絶対に行け」と言ったと思うが、わたしは英語と同じくらいに駅伝が好きであった。

 夏休みは秋の駅伝大会に向けた強化期間であった。午前と午後の2回練習が行なわれた(いま思うと、すべてにおいてわれわれを尊重してくれた顧問の先生と、顧問ではないのに総出で練習に付き合ってくれた保健体育科の先生方、ときどき練習を見に来てくださったその他の先生方にはたいへんなご苦労があったであろうことがよくわかり、だからいまでもたいへんな感謝をしている)。わたしは中学2年のときから正選手として大会を走った。けれど、中学2年のときはわたしが抜かれたせいで準優勝に終わり、県大会に行くことはできなかった。悔しかった。中学3年のとき、悲願であった地区大会で優勝することができた。6年ほど遠ざかっていた県大会では、一桁の順位でゴールすることもできた。中学3年のときは、受験もあり、英語弁論大会もあり、いま思うと本当にばたばたとした夏休みを送った。

 そういうわけで、アメリカに行く年が中学1年のときであったことは幸運であったと思う。そして、アメリカに行くことができて、よかったと思う。 
 
 わたしはアメリカでこう体感した。

 「世界は広い。世界は船引だけじゃないし、福島だけでもない。ましてや日本だけでもない。世界は広いんだ」

 船引はわたしの地元の町の名前である。以前にも幾度か書いたかもしれないが、「ふなひき」ではなく「ふねひき」と読む。

 小学校を終えたばかりのわたしの空間感覚は、せいぜい小学校区ぐらいなものであった。小学校の学区と言えば、半径2kmぐらいの空間である。それで精一杯であった――そう、まさに精一杯であったのだ。だから、中学に入って別の小学校からやってきた人たちをめずらしかった。「小学校、どこ?」である。だから、郡山(こおりやま、と読む)という隣の隣の市に行くのは、ものすごい冒険であった。

 わたしの空間感覚はそのぐらいの規模に留まっていた。

 だから、学区から福島とか日本とかをすっ飛ばして、いきなりアメリカに行ったことはものすごいインパクトをわたしに与えた。「世界は広い」の意味はそのぐらいに強い。

 それなら、と思った。それなら、将来は世界を舞台に仕事をしよう、と思った。船引だけでも福島だけでもダメだ、日本だけでもダメだ、それでは狭すぎる、日本だけよければそれでよいということにはならないんだ、世界のことを全部考える必要があるんだ、と思った。不思議と「アメリカはすげえ」とはあまり思わなかった。もちろん「すげえ」とは思ったけれど、それよりも「世界は広い。日本だけじゃない」であった。

 中学1年の夏、ハシモト少年はそういう体験をした。

 そこから毎日新聞の国際面を読むことになる。世界で何が起きているのかに敏感になっていった。「国際公務員」という仕事があるらしいということを知り、それを目標にした。調べたら、国際公務員になるためには修士号が必要なことを知り、ならば大学院に行く必要があり、そのためには大学に行く必要があり、高校に行く必要がある、そのように考えた。「高校には行かないとダメだ」と考えた。しかし、その段階では世界を舞台に自分は何をするのか――それは曖昧であった。進路などを本当に具体的に考えるようになったとき、「自分は何がしたいのか」と問うた。

 その答えに両親や先生方からの「教育」が係わってくる。それがわたしを教育開発に向かわせた第2の経験ということになる。


(さらに続く)


@研究室
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by no828 | 2009-04-27 19:15 | 問題意識 | Comments(2)
2009年 02月 26日

問題意識 2

 16時から研究室の打ち合わせがあり、17時から研究会があり、その続きで20時まで読書会がある。だから、16時まであと30分、行かれるところまで行っておきたい。

 わたしの「問題意識」についてである。

 前回「問題意識」を書いたのが、今年に入った2009年1月2日である。そこでは学問とはいえ、研究とはいえ、結局は自分の思いが大切なのであり、だから学問や研究は実は信仰と紙一重なのではないか、ということを書いた。客観性を確保することは求められるけれど、その前には主観があり、それは消すべきものではない、そのようなことを書いた。

 それから多くの時間が経過してしまった。

 そのあいだ、わたしの問題意識は深まったのか、広がったのか、あるいは問いなおされたのか、わからない。これまで問題意識であると自分で思ってきたことが実はそうではなかったということもありうるのかもしれない。そのいずれにせよ、言葉にすることで今一度自分の問題意識を見つめなおしたいと思う。

 
 「開発途上国」と呼ばれる国に子どもがおり、教育があり、そうではないとされる国にわたしがいるとき、わたしは彼/彼女らの教育に何をなすべきか、なすべきではないか――
 わたしがいま研究している分野に――研究者としてではなく――実務者として係わろうと、漠然とではあるが思い立ったのは中学校1年生のとき、1994年のことである。もちろん、そのときは「教育開発」という言葉も知らなかった。国際社会を舞台にして教育というテーマで仕事がしたい、そう思っていた。

 そう思ったのはなぜか、というところから書きはじめるべきであろうか。

 国際社会を舞台にして教育というテーマで仕事がしたい、という思いをわたしに抱かせたのは、大きく2つの経験である。

 ひとつは、中学1年の夏に2週間弱という短い時間ではあったけれど、アメリカに行ったこと。
 もうひとつは、中学時代に両親や先生から「教育」の大切さを学んだこと、「だから教育は大切なんだ」という実感が得られたこと。

 この2つである。

 第1の点から書きたいと思う。が、あと3分で16時である。

 とりあえず、ここまで。


 (続く)


@研究室
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by no828 | 2009-02-26 15:57 | 問題意識 | Comments(0)
2009年 01月 02日

問題意識

 正月早々、しかもいきなりで恐縮であるが、「問題意識」――と呼ばれるものが研究においては問われる。だが、それが常に問われるわけではないし、それが薄い研究も多いし、だからそれがなくても研究できないこともない。「あなたはこの研究をしてください」、それではじまる研究もある。しかし、「問題意識」は研究にとって大切なものである、そう見られていることもたしかである。

 では、「問題意識」とは何か。

 「問題意識」とは、「わたしが<問題>だと感じていること」である。

 「これを見過ごすわけにはゆかない」、「わたしはこれに怒っているのだ」、「これはおかしいだろ」、「どうしてこんなことになっているんだ」、……それが問題意識である。理性ではなく感性で捉えられていること、それが問題意識である。だから、感性を理性へと転換する営み、それが研究であり、学問なのかもしれない。感性を感性のままに、それが芸術なのだとしたら、感性を理性に、が研究――というより、学問――なのかもしれない。

 あるいは、問題意識は思想・信条によって形成されるのかもしれない。「これはおかしいだろ」という思いの表現にもっと言葉を費やすならば、そこには「わたしはこれを大切だと思っている。なぜ大切かは説明できない。わたしが大切だと思っているから大切なのだ。それ以上は遡れない。ただ、それが大切なのだ。しかし、その大切なものが失われている、傷ついている。それはおかしい」、そのような思いが感性を、問題意識を支えているのかもしれない。

 ただ、問題意識は感性や思想・信条に宿るという捉え方は偏っているかもしれない。研究/学問には、そこまでの怒りや悲しみや悔しさがなくてもよいのかもしれない。純粋な――あるいは自然科学的な――「なぜ?」からはじまる研究もあろう。そこには怒りなどはないかもしれない。

 だが、わたしは、すくなくともわたしの研究は、感性からはじまっている。「思想・信条」からはじまっている、とまでは自信を持って言えないけれど――だって「わたしの立場は~主義(ism)です」と明確に言うことはまだできないから――、感性からはじまっているとは言えそうな気がする。

(それゆえに以前にも書いたように、「研究」は純粋に中立的で客観的であり、そこには「真理」がある、ということにはすぐにはならないのだ。研究にできるのはあくまで、「わたしは(これまでの方々とは違って)このように考えた」までである。)

 それではわたしの問題意識とは何なのか。

 博士論文をまとめてゆくにあたって、今一度問題意識まで戻り、それを確認することは必須のように感じられる。

 というわけで、わたしの問題意識を確認しながら書こうと思っていたのだが、前置きが長くなったせいもあり、どうやら時間切れのようである。餃子を包むように、との母からの指示が聞こえたからである。今夜は餃子なのである。

 (つづく)


@福島 
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by no828 | 2009-01-02 19:03 | 問題意識 | Comments(2)