思索の森と空の群青

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カテゴリ:映画( 31 )


2014年 09月 17日

備忘の10作品

c0131823_20573290.jpg 映画の記録が滞っています。

 最後のエントリは、2010年12月19日の「森崎書店の日々」(→ )です。とりあえず、備忘のために昨年2013年の夏から観たものを挙げるだけ挙げておくことにします。2010年冬から2013年夏まで何も観ていないのか、観ているような気もしますがすぐにはわかりません。本当に観ていないのかもしれません。

 以下、たぶん観た順番に並べられると思います。


 ・「南の島の大統領——沈みゆくモルディブ」@新宿K's cinema
  ドキュメンタリー。政治の実際。COP15(気候変動枠組条約第 15 回締約国会議)の裏側。

 ・「ハンナ・アーレント」@岩波ホール
  思考せよ。思考を放棄するな。「理解」と「支持」とは異なるのだ。

 ・「ワレサ——連帯の男」@岩波ホール
  人はふとしたことから中心に。「支え」について。

 ・「チョコレートドーナツ」@シネスイッチ銀座
  実存、社会的カテゴリ、生きにくさ。

 ・「世界の果ての通学路」@新宿武蔵野館
  それでも学校に通いたい、通わせたい、という思いについて。

 ・「アクト・オブ・キリング」@シアターイメージフォーラム
  映画の映画。主人公たちは何を、なぜ、したかったのか、よくわからない。マツコ・デラックス。

 ・「みつばちの大地」@岩波ホール
  人間の都合、利益の追求。「畸形」のみつばち。

 ・「大いなる沈黙へ——グランド・シャルトルーズ修道院」@岩波ホール
  本当に静かな映画、淡々とした映画。静かな修道院、単純な生活。憧れたことも事実。

 ・「思い出のマーニー」@TOHOシネマズ渋谷
  成長の物語。現実と空想との境界線の曖昧。その人形が紛らわしい。

 ・「NO」@ヒューマントラストシネマ有楽町
  「広告」とは何か。暗い事実よりも明るい喜び。人を動かす、ということについて。

 以上。並べてみたら10作品になりました。こうしてみると、1作品、趣の異なるものが含まれています。その作品以外はプログラムを購入しています。プログラムも700円くらいします。学割の使えない状況になり、映画はもう少し安くならないものかと改めて思います。

@研究室
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by no828 | 2014-09-17 21:43 | 映画 | Comments(0)
2010年 12月 19日

ほぼ1ヵ月前の「森崎書店の日々」

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 ※ 左のバナーをクリックすると公式サイトが開きます。




 前売り券を買っていたということがたぶんにあって、先月観てきたのであった。

 映像に映し出される本のたくさんある雰囲気はとても好きだし、映画からは神保町にある素敵な喫茶店の情報も入手できた。

 内容にかかわることを以下に書きますよ!

 物語のあらすじは、主人公・貴子の失恋 → 失恋の相手が会社の先輩 → 貴子は会社に居づらい → 会社を辞める → これからどうしよう → 叔父さん(悟)の営む古書店に転がり込む → だんだんと前を向くようになっていく。

 ここまでは予告編からも十分にわかることではありますが。

 気になったのは、失恋相手との関係が物語内部で必要以上に(とわたしには感じられた)強調されたことである。

 乾燥機のシーン(2度)は不要ではないか、とか、叔父さんが貴子を連れて男のところに文句を言いに行くシーンはあれほどに必要であったか、とか。

 たしかに、貴子を振った男は最低最悪最愚最劣最陋最卑である。その最低最悪最愚最劣最陋最卑の男は貴子とは別の女性とも付き合っていて、その人とは結婚するつもりで、しかし貴子とも“付き合い”、それは“遊び”。叔父さんが怒るのはものすごくわかる。でも、「貴子ちゃん、彼にきちんと謝ってもらおう。今から彼のところに行こう」と言って、半ば無理やり貴子を連れて彼のところに行って「貴子ちゃんに謝れ」と言って、しかしその彼は、繰り返すけれども最低最悪最愚最劣最陋最卑なわけであるから、謝るなんてことにはならない。

 叔父さんはどうしてここまで熱くなってしまったのか、ということをわたしは考えた。作中では触れられるぐらいでしかなかったのだが、叔父さんは好きな人と結婚して、しかしそのあと振られた、出て行かれた、という経験を持っているようで、それは叔父さんが喫茶店のマスターに「あのとき止めたらどうなっていたかな」と、つまり奥さんに出て行くなと、俺と一緒にいろよと、そう言っていたら、状況は変わっていたのではないかと、そのように言う場面がある。マスターは、「それは誰にもわかりません」と言う。

 過去は変えられない。これをしなかったら悔いるかもしれない、と思って、しかしそれをせずに過ごしてしまうことがある。そしてそれを振り返って悔いる。日々納得して、できるだけ多くのことに納得して、そうして生きることはむずかしい。だが、これだけは、ということもあるはずで、それを逃すと人は後悔にずっと付きまとわれる。貴子の叔父さんのように。

 叔父さんは、自分の恋愛に関して、後悔がある。取り戻せるなら取り戻したい過去があるのだ。

 だからこそ、叔父さんは貴子の“終わっていない恋愛”に介入したのであり、それを“終わった恋愛”にしようとした。自分のように後悔してほしくないから。きちんと納得して次に進んでほしいと思ったから。

 わたしはそのように考えた。だから、叔父さんが貴子を連れて怒鳴り込みに行くあの場面は必要であったのだとは思う(でも、乾燥機は要らない)。

 自分が大切だと思ったことを自分の大切な人に伝えたいと思う——これは教育の原型でもある。


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 写真は「森崎書店」になった建物。空きビルを使って撮影して、今も何も入っていない。本当に小さな建物。撮影時の古本は全部近くの古本屋から運んだということです。




 作品に関して気になったことはもうひとつ。叔父さんのお店の古本の値段は叔父さんが付けるわけだが、1冊、どうしても値段が付けられない本が出てくる。叔父さんは貴子に向かって、「読んで、好きな値段を付けていいよ」と言う。貴子は最終的に値段を付けて、それがいくらであったかは明かされず、だからその値段も気になるのだが、しかしそれ以上にその本が一体何であったのかがわたしにはものすごく気になるのである。さらには、その本は当然商品としてお店の本棚に並べられるわけだが、それを貴子が店番をしているときに手に取る客が現われ、“もしかしたらこの客=若い男と貴子との新たな恋がはじまるのか!本が結ぶ恋愛か!素敵じゃないか!”と思わせておきながら、しかしその男は結局買わずに出て行く、そんなどきどきさせる場面が物語の最後の方にあり、その大事な本を手に取ってはみるけれども買わないという、ただその演技をするために出演したのが吉沢悠であったりもする。“吉沢っ!それだけかっ!”とわたしは内心思った。

 
@研究室
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by no828 | 2010-12-19 19:31 | 映画 | Comments(0)
2010年 10月 14日

森崎書店の日々

 本!本!本! こういう映像の雰囲気好き。観に行きたい。

 映画「森崎書店の日々」

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 上記バナーをクリックすると、公式サイトが開きます。そして、そのまま予告編がはじまります。音が出ます!


@研究室
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by no828 | 2010-10-14 21:15 | 映画 | Comments(0)
2010年 09月 02日

おいしいコーヒーの真実

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 公式サイト

 コーヒー(某スタバのではない)を飲みながら「おいしいコーヒーの真実」について書く。

 上映されたときに観たいと思ったのだが時期を逸し、先日 DVD を借りて観た。

 率直な感想は、“某スタバでコーヒー買うの躊躇ってしまうなぁ”である。というのも、生産者への利益の分配比率が低いからである。低すぎる、と言っても決して過言ではないであろう。こういうの、「搾取」って言います。

 しかし、わたしは“商品としてのコーヒー”についてはあまり知らない。この映画で得た知識ぐらいしかないと言ってもよいぐらいだ。だからここでの感想は一面的を免れないかもしれない。

 “もらえるお金が5円増えたらうれしい、子どもを学校に行かせられる、10円ほしいなんて言っていない、5円でいいんだ”という生産者と、“わたしはスタバで店長として働けることを誇りに思うわ”と(生産者のことなんかまったく知らないわという顔で)話すアメリカの女性。その対比的な見せ方がうまいと思った。

 教育に引き付けて言えば、“子どもを学校に行かせること、子どもに教育を受けさせることがどうしてそんなに価値があると見なされているのか”という疑問を持った。コーヒー豆の生産者たち(映画ではエチオピアの)は、口を揃えて“子どもを学校に、子どもに教育を”と言っていた。学校は、教育は、やはり立身出世の階梯なのか。学校教育を経由しないと“適切な労働”にアクセスできないようになっているのか。

 しかし、子どもを学校に行かせる必要は本当にあるのか。

 西欧列強による植民地支配が行なわれるまで、アフリカにはいわゆる西欧型の近代学校教育はなかった。日本の寺子屋と比するのが適当かどうかわからないが、アフリカにも学校的なものはあった。だが、それは今日の学校教育とはまた別なものであった。そこに西欧型近代学校教育が入ってきた。植民地時代が終わっても、現地政府は学校教育への就学を奨励し、あるいは義務化する。すると、親には子どもを学校に行かせないという選択がしにくくなる。学校に行かせることが標準になるからだ。学校に行かせないことは逸脱だ。だから、子どもを学校に行かせるようになる。

 それでよいのか。

 開発業界でよく言われることに、“現地の人のニーズを”がある。わたしはそれを即座に承認しない。理由はふたつ。ひとつは、現地の人の声を「ニーズ」であるかどうかを判断するのは現地の人ではなく開発者だから。逆に言えば、開発者がニーズだと受け取らないものは、たとえそれが現地の人のリアルな声であるとしてもニーズとしてカウントされない。理由のもうひとつは、そのニーズがどうして発生したのかまで考える必要があると考えるから。ニーズは何かの規準に照らして生活上の不足を感じたときに自覚されるものである。では、その規準となっているものは何か。それはどこから来たのか。

 子どもを学校に行かせられない、だからコーヒー生産者は満たされない、あるいは自尊心も持ちにくい。“僕は学校に行きたい、お父さんみたいにコーヒー生産者にはなりたくないからだ”と子どもに言われたらどうであろう。彼/彼女らが自尊心を持つためには、子どもを学校に行かせられるようになるか、もしくは“子どもを学校に行かせる”という強迫的な言説を相対化するかのいずれかが必要だ。

 しかし、“子どもを学校に行かせる必要はないのだ”と言ってしまうことにもわたしは躊躇いを覚える。“子どもを学校に行かせるかどうかを決めるのは現地の人だ、親だ。わたし(たち)が決めることではない”と言うことはあまりにも簡単だ。子どもを学校に行かせられないと悩む人を見ている、知っている者は何をすべきなのか。


 ニーズでも欲望でも欲求でも何でもよいのだが、それだけを沸き立たせておいて、しかしそれを充足するための手段や条件は用意しない。手段や条件のない現地の人は満たされないから自尊心も傷つく。力もなくなる。そこに“エンパワーメント”を掲げて開発者が入っていく。“あなたたちの足りないものはこれだったんですね”と。足りなくさせたのは一体誰なんだ、何なんだ。

 だが、それこそが開発の本質なのかもしれない。


@研究室
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by no828 | 2010-09-02 16:22 | 映画 | Comments(9)
2010年 09月 01日

フリーダム・ライターズ

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 わたしが「パリ20区、ぼくたちのクラス」を紹介し(と言っても、研究室のホワイト・ボードにパンフレットを貼っておいただけだが)、それを観た留学生にすすめられたのがこれ、「フリーダム・ライターズ」。「「パリ20区」と似てますよ」。

 たしかに。子どもが、教師が、学校が、置かれた状況はよく似ている。どちらも、移民が多く、人種的な対立もあり、低所得者層が多く。ただ、フランスとアメリカ。国家が違う。銃の保持が合法化されているアメリカのほうが、“対立”は激しいように見えた。

 両者からわたしが受けたインパクトも違う。「パリ20区」からは教育の無力、絶望を見て取らざるをえなかった(もちろん、それしかなかったというわけではない)。しかし、「フリーダム」からは教育の希望が伝わってきた。わたしはやはりどこかで教育の力を信じているところがあるのだなぁと、「フリーダム」を観ながら、2度ほど涙が頰を伝いそうになりながら、思った。再確認した。

 話は、新任の英語教師が荒れた高校に赴任し、生徒のあいだに人種的な対立があることを見て取る。「ホロコーストを知らないの?」そこから生徒のあいだにある他者への憎しみ、あきらめを少なくし、消して行く、そういう授業を行なっていく。生徒もはじめはなめてかかっていた教師に敬意を抱きはじめるとともに、自分への敬意、自尊心を持つようになっていく。そういう話。

 具体的に、こういう場面がある。

 カンボジア系の生徒集団のいるスーパー。アフリカ系の生徒がひとり。そこにヒスパニック系の生徒集団がやってくる。そのヒスパニック系のひとりがアフリカ系の生徒を撃とうとする。しかし、銃弾は外れ、カンボジア系の生徒の胸に。犯人としてアフリカ系の生徒が疑われる。現場を目撃したヒスパニックの別の生徒は証言を求められるが、同じヒスパニック系の家族・仲間からは偽証するように迫られる。たしかに“同じヒスパニック系”という仲間意識はあり、結局……。

 カント先生であれば、コミュニタリアンであれば、といろいろ考える。倫理的ディレンマ。なぜ同じ“人種”の人間を特別扱いするのか。われわれが“特別な愛着を抱く”とは、一体いかなることなのか。

 教育には無力なところもある。だが、子どもの絶望を希望に変える力も教育にはある。教育には権力がはらまれる。だが、子どもの絶望を希望に変える力も教育にはある。さっきも書いたけれど、わたしはやっぱり教育に賭けているところがある。


 ちなみに、「フリーダム・ライターズ」は実話を元にした映画です。

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@研究室
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by no828 | 2010-09-01 17:30 | 映画 | Comments(0)
2010年 08月 03日

パリ20区、僕たちのクラス

 パリ20区、僕たちのクラス

 2008年/フランス映画/第61回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞

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 公式サイト
 岩波ホール
 * 岩波ホールでの上映は8月6日(金)まで!

 舞台はパリ20区の公立中学校。フランソワ先生が受け持つ「国語」——フランス語ね——の授業が主な場面である。フランス語をきちんと身に付けなさい、先生には敬意をもって接しなさい、規律、規律、規律などなどの教師側からの“命令”と、それに対する生徒の反発。いろいろあっても、しかし最後はまとまっていくような印象を与える映像が終局近くでは続くのだが、最後の最後、“教育って何なの?”という根源的な問いを発せざるをえないようなセリフが生徒から……。わたしであればどう応えたであろうか、と思う。

 ちなみに、パリ20区はいわゆる“下町”で、移民の多い区域。低所得者層の多い地域と言ってもよいかもしれない(移民=低所得者層というイメージはあまり喚起したくないが)。そうした低所得者層の多い地区を、フランス政府は(たぶんブルデューの再生産理論に依拠して)1981年に「教育優先区域(Zone d'Education Prioritaire: ZEP)」に指定し、たとえば1学級20人程度にするなど、低学力児童生徒の底上げを目指す政策を採用した。20区もこのZEPのひとつ。それから、劇中に垣間見えるフランスの教育制度は日本のそれとは異なっており、“へぇー”と思いながら観た。

 感想。ドキュメンタリーを観ているのかと思うぐらいにリアル。でも、フィクション。すべて演技。“まぁ、役者を揃えたってことか”と思ってパンフレットを読んだら、フランソワ先生以外の登場人物は、24人の生徒も先生も親もすべて、20区に現実に存在するフランソワーズ・ドルト中学校の生徒で先生で親であったと書いてある。フランソワ先生も元教師で今は著述業、この映画の原作者でもある。つまり、演技は全員素人であったわけですね。

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 マジですか?

 演技が限りなく日常に近付くと、ああいうふうになるのかな。

 教育関係者、教育学関係者のみなさんは、ぜひ、映画館に行きましょう。

@研究室 
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by no828 | 2010-08-03 20:31 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 27日

借りぐらしのアリエッティ

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 公式サイト

 スタジオ・ジブリ最新作「借りぐらしのアリエッティ」を7月25日のレイトショーで観てきた。

 内容的にはまっすぐ、ひねりなし。この作品に込められている考え方は、劇中で翔くん(アリエッティを見つけてしまう男の子です)が結構しゃべっていたようにわたしには思われた。

 わたしが、あるいは勝手に受け取ったメッセージは、“主人公(と他の登場人物)の成長”と“人間の相対化”。とくに後者を強く受け取った。題名に絡めて言えば、「借りぐらし」しているのは本当は誰なのか、小人は人間の家に借りぐらししている、だがその人間はどうか、実は人間も借りぐらししているのではないか、人間も地球に借りぐらししているのではないか、地球からいろいろ借りて暮らしているのではないのか、それなのにそういう意識が希薄になって人間こそが地球の主人公だと思い上がってはいないか、人間の大きさではなく、その小ささを、今一度想起してみよう——そういうことがメッセージとしてあったようにわたしには思われたのである。

 先に挙げたふたつのメッセージ(だとわたしが思っているもの)は、ジブリ作品を通底するものでもあるように思われる。わたしはジブリ作品すべてを観たわけではないが、少なくとも観たことのあるもの、印象に残っているものには、濃度・程度の高低はあれど、それらが含まれているように思われる。

(* 作品におけるジブリ側の意図は、公式サイトで解説されているらしいです。わたしは映画を観る前にそういうのを読むのも、観たあとすぐに読むのも避けたいと考えているので、まだ読んでいません。もう少し咀嚼できたら読んでみたいと思っています。)

 あ、それから恋ね。恋は大事です。

 恋ね、というか、どうしたって叶わぬ恋、ね。

 これは切ないね。(でも、思い返してみると、ジブリ作品に結構あるよね。)

 でも、恋はしてしまうものなんだよね。“恋しよう”とか、“恋をすべきだ”とか、“恋をしなくてはならない”とか、そういうものではなく、端的に“してしまうもの”。それに気付いたとき、そしてそれが叶わないものだと気付いたとき、切ないなぁ、やりきれないなぁと思うわけです。

 もちろん、「耳をすませば」の雫ちゃんと聖司くんみたいに、成就する(であろう)恋もある。ハッピー・エンドだ。ただ、「耳をすませば」ついでに言えば、それの最後の場面の「しずくー、結婚しよう」(厳密には覚えていないけれど)というセリフは、わたしとしては“なし”だ。物語の物語性が一気に“軽く”なってしまう気がするからだ。

 で。

 今回もそういうのがあった。詳しくは避けるが、最後の方の場面で翔くんがアリエッティに言う言葉。「君は僕の〔……〕だ」。これもちょっと“軽く”してしまうセリフではなかったかと、わたしには思われたのであります。

 とはいえ、総じて言えば、「アリエッティ」のような“ありえなさ”はわたしは好きだし(ありえなさ一般が好きだということではない)、観たことによって内面が浄化される感覚も好きだ。


@研究室
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by no828 | 2010-07-27 19:58 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 18日

みんなでひとつのことをするときのひとりひとりの揺らぎと輝き——スウィングガールズ

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「スウィングガールズ」、2004年公開日本映画。

 先日ジャズに触れる機会があって、それで触発されて。ジャズがはじまったのにはやっぱり背景があって、そこにやっぱりある考え方(思想)があって、そういうのを前に少し勉強して、ジャズっていいなあと思った。

 スウィングしたくなりました。

 みんなでひとつのものを作り上げるというのに憧れる。そういうのが好き。それなのに、中学・高校と部活は陸上競技(中・長距離)という個人競技、研究も“理系”の研究室単位のチーム・プレーではなく“文系”の個人プレー。だから余計に憧れる。

 あとは、“学校”っていいなあとも思った。いや、厳密に言うと、学校全般がいいなあと思えるのではなく、いいなあと思える学校もあるし、そういう学校を作ることもできるはずだなあということ。大切なのは出会いであって、その出会いからいろいろ気付いていくってことだと思う。それが「成長」なんじゃないか。


 蛇足だが、小学校のときに生でトランペット演奏するのを聴いて感動して、それからしばらく「トランペット習いたいトランペット習いたい」と母に言って、母もそれならと思ったのだけれど近くに習わせてくれるところがなくて断念したという経緯があります、わたし。

 さらに蛇足だが、「スウィングガールズ」に西田尚美さんがちょっとだけ出演されていました。


@研究室
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by no828 | 2010-07-18 18:05 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 17日

透けて見える沖縄の姿——ナビィの恋

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(期せずして画像が大きくなってしまいました。どんまい)

「ナビィの恋」、1999年公開日本/沖縄映画。

 観たいと思っていた映画なので、先日某TSUTAYAが旧作1週間レンタル100円セールをしていたときに借りて観た。

 沖縄は(と言ってどこまで含めるかという問題もあるが、ひとまず)独特の文化圏だ、というのが率直な感想。日本という枠組みで見れば、沖縄は“辺境”に位置するわけだが、その“辺境”から日本を、世界を考えるという視点の置き方が大切なように思われた。何か、いろいろひっくり返るような気がする。

 まずは沖縄に行ってみたい!(行ったことがないので……)


 感想は、おじいの恵達(登川誠仁)の人柄が好き、あと西川尚美はやっぱり素敵だと思った、ということであります。
 
 ちなみに、ご覧になったことのない方のために、ですが、表題の「ナビィ」は奈々子(西川尚美)のことではありません(わたしはナビィ=西川尚美だと思っていました)。おばあ(平良とみ)の名前です。「ナビィ」は日本語(標準語)だと「なべ」になるみたいで、当時の主な女性の名前のひとつであったようです。「ナビィの恋」はそのおばあナビィの恋のお話です。もちろん、奈々子の恋のお話も出てくるのですが、あくまでナビィがメインですので、奈々子の気持ちの描写にはあまり割かれていません。


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@研究室
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by no828 | 2010-07-17 19:25 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 13日

他でもない“君”の存在——君のためなら千回でも

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 公式サイト

「君のためなら千回でも」、2007年アメリカ映画(日本での公開は2008年)。監督はマーク・フォースター(有名らしい)。原作はアフガニスタンはカーブル(カブール)出身のカーレド・ホッセイニによる小説。

 物語は、アフガニスタン人作家アミールの幼少時代から青年時代までを描いたもの。時間軸はおよそ20年間。1978年、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻、アミールのアメリカへの亡命、アメリカでの生活、アフガニスタンにおけるタリバン独裁、アミールのパキスタンへの訪問、アフガニスタンへの訪問、アメリカへの復帰。

 民族問題やソ連侵攻、タリバン独裁など、政治・軍事の暴力・破壊力とそれに翻弄されるリアルな顔を持つ個々人の生活が底流にあり、それとは別に主人公アミールが幼少時代に親友ハッサンに対して与えた精神的な(そして間接的には身体的な)傷、また、それによって自らも負った精神的な傷が物語の中で所々交錯する。


 子どもの心理というのをうまく描いているなあという印象。あとは、政治・軍事などマクロな次元で語られがちなことは、名も知られぬ多くの個人の生活、個人と個人との関係に大きな影響を及ぼすのであり、そのことを決して忘れてはいけないのだということを再確認した。“アフガニスタンがどうなった”とか、“タリバンがどうした”とか、そういう語り口の背景には数えきれないほどの個人の感情があることに思いを致すべきであろう。


 なお、主人公ハッサン(の青年期を演じたハリド・アブダビ)が誰かに似ているなあと思っていたのだが、それが“彼”だということに気付いた。

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 ハッサン(ハリド・アブダビ)

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 野口健


@研究室  
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by no828 | 2010-07-13 15:40 | 映画 | Comments(0)