思索の森と空の群青

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カテゴリ:人+本=体( 1007 )


2018年 02月 18日

開高健は、戦場という極限に身を置くことで、愚直なまでに人間そのものと向き合った。だからこそ戦場を書きつづけたのである——平松洋子『野蛮な読書』

 平松洋子『野蛮な読書』集英社、2011年。27(1094)


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 読書エッセイ。とりわけ気になった本は、開高健『戦場の博物誌』。『歩く影たち』をもとにした1冊らしい。

 学習は教育によってのみ引き起こされるのではやはりない。ならば教育とは何のためにあるのか。

15)「久瀬は焼酎の瓶を床におき、少年の顔を見て、死者の眼を覗くことがいかにはやく人を育てるかに愕きをおぼえた。教えてやれそうなことはもう何もない。もともとそんなものはなかったのだ」 ※「能登とハンバーガーと風呂上がり」 ※『戦場の博物誌』所収「岸辺の祭り」から重引

26-7)ところで、『戦場の博物誌』は、能登からもどった日のうちに読み終わっていた。いや、本に「読まされた」のだ。
 開高健の本、ことに戦場をテーマに書かれたものは、短編でも長編でも一気呵成に読み通す。途中ではけっしてやめられない。本を置けなくなるのは、開高健が自身に突きつけた匕首の切っ先から目を離せなくなるからだ。この切っ先はどこに動くのか。しょせん傍観者でしかいられない作家が、なんども戦場に赴いたのはなぜか。戦場で見た、聞いた、嗅いだ、触れた、食べた、皮膚に刻んだすべてのことがらの意味はなんだったのか。ひとを殺すとは、ひとに殺されるとはなにか。樹皮が飛び散る機関銃の連射のただなかにしゃがみこんで洗面器の飯を食らう人間とはなにか。開高健は、戦場という極限に身を置くことで、愚直なまでに人間そのものと向き合った。だからこそ戦場を書きつづけたのである。
『歩く影たち』の刊行は一九七九年。『輝ける闇』の刊行から十一年後、最初のベトナム戦争従軍から十五年後である。その長い歳月を越えて書かれたこの本は、自身にとってついに訪れた結着でもあったろうか。後半「戦場の博物誌」「玉、砕ける」を、わたしはこんかい風呂上がりに読んだ。珠玉の湯にもすっかりなごんだが、旅からもどって浸かる家の風呂もかくべつだ。冬の夜、冷えたからだをあたためて、いよいよ終章「玉、砕ける」。掌のなかで自分の分身が無に帰する、さいごのあの一瞬。がらんどうの空虚さえ呑みこむ圧倒的な静寂に、何度読んでもわたしは身じろぎもできなくなる。 ※「能登とハンバーガーと風呂上がり」


@S模原

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by no828 | 2018-02-18 21:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 17日

今までコンゴ貧しかったのは、ここで生産されるもの、ほとんどヨーロッパ人持っていったためだ——筒井康隆『アフリカの爆弾』

 筒井康隆『アフリカの爆弾』角川書店(角川文庫)、1971年。26(1093)

 版元サイトなし

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 開発に対する眼差しの更新が表題作によってもたらされるのではないかと思って読んだ。全篇すごい短篇集。


43)大通りからかすかに聞こえてくる車のクラクション以外、あたりに物音はなかった。彼はじっとしていた。しばらくじっとしていた。「脱出して見せるぞ」と、彼は呟いた。「ブラウン管の向こう側へ」
 だが、彼が脱出しなければならないのは、だいいちに彼のタレント意識であったし、よしんばそこを脱け出たとしても、さらにこのテレビ・エイジという情報社会が彼の周囲をとりまいているのだということに、彼はまだ気がついていなかった。 ※「脱出」

164)「退屈な映画だ」
「退屈だって」郵便屋は、こんな面白い映画が退屈だなんてとても信じられないと言いたそうな声を出した。「おれなんか、この映画をもう百回以上見てる。だけど退屈だなんて思ったことは一度もない。村の連中だって、みんなそうだよ」
「同じものをそんなに何度も見て退屈しないなんて、おれには信じられないね」
「初めて見る映画だと思って見ればいいのさ」
「初めて見たって退屈だ。ストオリイに発展がないじゃないか」
ストオリイに発展があったり、結末があったりしては、それこそ一度きりしか見ることができないじゃないか。観客が空想できる余地の多い映画ほどいい映画なんだよ。見るたびに別のことを空想すれば、何回だって見ることができるだろう。だいたい現実ってものがそうなんだよ。現実にあるものは発展だけじゃないだろう。だいいち現実に結末なんてものがあるのかね。そんなもの、ありゃしないじゃないか」 ※「ヒストレスヴィラからの脱出」

236-7)「あの少尉は、どうしてあんなにしゃちょこばってるんだ」私は酋長の耳に口を寄せて訊ねた。
アフリカへ赴任してきた当座、誰でも黒人馬鹿にしている」と、酋長は説明しはじめた。「ところが黒人というものなかなか馬鹿でなく、自分より利口な奴ざらにいるらしいことにある時突然はっと気がつくと、みんな反動であんなになる。これ、イギリス人に多いよ。中にはいつまでも黒人馬鹿と思いこんでいた白人もいる。昔アンドレ・ジイドいう偉い人こんなこといった『白人が知的に水準が低ければ低いほど、彼には黒人がより馬鹿に見えるものだ』これ、アメリカ人に多いよ ※「アフリカの爆弾」

237-9)「われわれの部落、部族社会ではない。ほんとの部族社会、いちど滅亡した。今、われわれ部落、あれ利益社会〔ゲゼルシャフト〕」
「いちど滅亡したんだって」
「そうだ。ヨーロッパ人の侵略、征服なければ、それまで立派な文明持っていたわれわれの部族社会、破滅することなかった。〔略〕あの繁栄、あのまま続いていたら、われわれ、あんな建物、工場、とっくに持っていた
「だって、コンゴは貧乏なんだろ」
「コンゴ貧乏ない。ダイヤモンド、コバルト、域、銅、ウランまで出る。今までコンゴ貧しかったのは、ここで生産されるもの、ほとんどヨーロッパ人持っていったためだ。最初ポルトガル人来た。数百万人のアフリカ人、奴隷にされて連れて行かれた。これ十六世紀はじめから一八八五年ベルリン会議の時まで続いた。そのつぎレオポルド王来た。〔略〕とうとう一九八二年国連軍介入してきて、それから五年かかって全コンゴ制圧した。コンゴ共和国、国連の信託統治地域になった。平和になると、観光客まで来るようになった。都会にいた若い連中、部落戻ってきて観光客の案内はじめた。そこで私は考えた。部族社会発展させる道これしかない。観光に来た馬鹿の白人いくらでも金落として帰る。やりかたひとつで金ぜんぶ使って帰る。これから観光の世の中。遊んでいて金儲かること観光事業以外にない。白人働いて貯めた金、われわれ何も仕事しないでぜんぶ吸いとる。タイコ叩いて踊って吸いとる。馬鹿の白人それで喜ぶ。こっちも金できる。八方まるくおさまる。これ生活の知恵。いずれは賭博場作ってルーレット置く。もっと金儲かる。白人お愛想いってどんどん金とる。私日本えらい思う。特に日本のタイコモチえらい思う。私、タイコモチ見習う」 ※「アフリカの爆弾」

248)「猛獣出てきても、殺すいけない。猛獣われわれ財産。猛獣残り少ない。おどかして追っ払うだけにする。猛獣殺すくらいなら、土人のひとりふたり猛獣に食われた方がよい
 とんでもないことをいう酋長だが、考えてみればこれは実際無理のない話なので、猛獣が絶滅してしまうとアフリカへ来る観光客も減ることになるから、現在では土人たちもけんめいに猛獣を保護しているのである。 ※「アフリカの爆弾」


@S模原

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by no828 | 2018-02-17 21:30 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 16日

ほかの被災者より苦しみが軽いとか重いとか、そういうことは関係ないわ——碧野圭『書店ガール3』

 碧野圭『書店ガール3——託された一冊』PHP研究所(PHP文芸文庫)、2014年。25(1092)

 文庫書き下ろし

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 東日本大震災下の本のあり方、書店のあり方。

173)「それは……辛い経験をされたのね」
 そういう経験をした人とそうでない人と、その後の人生は確実に変わるだろう。沢村のどこか底知れぬ鬱屈というのも、そこに端を発しているのだろうか。
「いや、俺の経験なんてたいしたことじゃない。津波に直接遭った人たちはみんな俺より酷い目にあっているし、もっと凄まじいものを見ている。芙美子さんにしても、津波で家族や財産を全て失い、希望のない毎日を生きている。俺は津波の起こした悲惨さにちょっと触れただけだ。家も仕事もちゃんとある俺が、辛いなんて言える立場じゃない
そんなことはない
 理子は即座に否定した。
あなたも大事な人を喪ったのだし、その人の死にまつわる悲惨な記憶を持っている。それが辛くないはずはない。ほかの被災者より苦しみが軽いとか重いとか、そういうことは関係ないわ
 それを聞いた瞬間、沢村の顔が歪んだ。嗚咽を堪えるように必死で歯を食いしばる。だが、みるみる目に涙が潤み、いまにも零れ落ちそうになり、慌てて右手で顔を覆った。

181)だが、ほんとうに感謝するのは自分の方だと理子は思う。自分がいままで頑張れたのは、亜紀が背中を見ていると思ったからだ。自分が意気地のない行動をとれば、亜紀は自分を軽蔑するだろう。ほかの部下もそうだが、ことに亜紀にだけは軽蔑されたくはない。いまでもそう思っている。

188)悩める余地があるということは、恵まれている状況にある。それに亜紀は気づいているだろうか。どちらかに決められないということは、どちらにもそれなりによい面があるということだ。それを自分で選ぶ権利があるということだ。それに、たとえ仕事を辞めたとしても、彼女には妻として母として生きていくという選択もある。
 自分にはそんな選択する余裕はなかった。とにかく自分を食わせていくために、いまの仕事で走り続けるしかなかった。それを後悔してはいないけど、もっとゆっくり歩むことをしていれば、別の人生というものもあったのかな、と思わないではない

231-2)「そもそもただの本屋が被災地支援をする必要があるのか、という見方もあるわ」
支援が第一目的じゃないです。本屋だから、うちの店で売れそうなものは売るということです。これは商品としても出来がいいし、被災者が作ったというストーリーも付加できます。東京はこれだけ人が多いんですから、それに反応してくれる心優しい人の数も少なくないはず。それを売ってうちの儲けになって、おまけに人助けまでできるなら、最高じゃないですか。それが東京の本屋の在り方でしょう
東京の本屋としての?
そうです。東京には人がたくさんいて、お金もたくさん動く。それがちょっとでも現地に流れるように私たちが手助けする、そういうことだと思うんです。売りましょう。いえ、売らせてください。私がそのフェアを仕切りますから」

251-2)「こうして本という形にしておけば、見たい時にはすぐ取り出せる。だから、安心して忘れることができるんです
安心して、忘れる?
ええ、辛いことにいつまでも意識を向けるわけにはいきませんからね。そこばかり見ていたら、前に進むことはできないし
「ああ、そうか。もしかすると、被災地で震災特集が売れたのも、同じ理由かしら」
「たぶんそうだと思います。それを見ることよりも、それを手元に残しておくことの方が大事なのかもしれない」〔略〕
「だけど、写真ならデータを集めたファイルを残しておけばいいんじゃないの? そちらの方が場所を取らないし、データもたくさん保存できるでしょう?」
データはデータですしね。パソコンがなければ、あるいは停電しただけでも、見られなくなるんですよ。今回のことで、我々はデジタルなものの危うさを嫌というほど体験しましたから

253-4)「本を誰かからもらうって、特別なことだと思いませんか?」
「特別?」
「贈り手は、自分が受けた感動をその人と共有したいとか、自分の考えを相手にも理解して欲しいとか、そういう気持ちで贈るでしょう?」
「ええ、まあ、そうでしょうね」
だから、それを受け取る方にもそれ相応の覚悟がいる、と思うんです。本のように、相手の感情や思考にまで影響を与えるようなプレゼントはほかにはない。本を贈るのはほかのものを贈るのとはちょっと意味が違う、と僕は思ってるんです

263-4)「言葉って強いわね。こうして断片的にいろんな人の言葉を並べてあるだけなのに、それに触発されて自分の中にもいろんな記憶が蘇ってくる」〔略〕
「震災体験というと、もっと悲惨な経験談を集めがちだけど、私たちに身近な話を集めているのがいいわね」
これが東京の震災、いえ、東京でも西の、吉祥寺の人間のリアルな被災体験だと思うんです。〔略〕」
「吉祥寺の被災体験、確かにそうね」
東北の人たちが見れば笑っちゃうようなささやかなエピソードかもしれないけど、ここら辺の人には身近な話だから、自分自身の体験に重ねられると思うんです
 亜紀の言おうとすることは、理子にもよくわかった。
 語られないドラマがある。口に出せなかった想いがある。新聞記事にもならず、ネットにも書かれないささやかな出来事。だけど、その人にはかけがえのない記憶なのだ。
「東京だって、あの震災で影響がなかったわけじゃない。だけど、その時私たちが感じた恐怖や悲しみや不自由さを何倍にもしたものを、東北の人たちは味わっていたってこと。いや、いまでもそれは続いているってことを思い出してもらえるといいわね」
 そう、震災はひとごとではなかったはずだ。年に一度くらい振り返ってもいいじゃないか、と理子は思う。絆という言葉は手垢にまみれた気がするし、強制されるのも嫌な感じだ。だけど、あの瞬間、東北の人たちを案じた気持ち、犠牲の大きさを悼んだ気持ちは嘘ではなかった。ほとんどの日本人が真摯な、一途な想いで東北を見守っていた。それは事実だ。それを思い起こさせることが、結果的に支援に繋がるんじゃないだろうか


@S模原

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by no828 | 2018-02-16 21:49 | 人+本=体 | Comments(1)
2018年 02月 15日

猫が鼠より強ェな解る。だけどもよ、猫が鼠より偉ェってこたあねェぞ——京極夏彦『前巷説百物語』

 京極夏彦『前巷説百物語』角川書店(角川文庫)、2009年。24(1091)


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 二進も三進も行かなくなるとはこういう状況のことを言う。又市の若かりし頃。又市の思想形成の原点。

「前巷説」は「さきのこうせつ」。


108)「人の真実は、その人の中にしかないのです。外の巷は夢。この世は全て、幻のようなものです。ならば——お葉さんはこれからもずっと、その己の中の現をこそ生き続けるべき——なのではありませんか」
「所詮この世は夢幻——かい」
「はい。私どもは、その巷の夢——巷説を作ることで、ほんの少しだけお葉さんが生き易くなるよう、手助けをしただけです

120)「いいかな、又市殿。精神を尊ぶなら戦わぬことだ。剣は人の道と申すなら、刃物を交わし命のやり取りをする必要など毛程もなかろう。刃を翳すということは、相手を傷付ける、殺すということだ。違うかな」

122)「退路を確保しておくことは兵法の基本だぞ。三十六計逃げるに如かずというのはな、腰抜けの兵法ではない。戦いを回避することが一番賢い策であることは、火を見るよりも明らかだろう。将棋はな、一手も指しておらぬ時の布陣が一番強いのだ。指せば指す程弱くなる〔略〕敵味方なんて言葉は、莫迦な侍の言葉だぞ。苦呶いようだが戦いは莫迦のやることだ。敵と戦う、己と戦う、世間と戦う、どれもこれも詭弁だ。いいかな、勝負なんてものはな、モノゴトを莫迦みたいに単純化しないとつけられぬものであろうが。違うか
 違わない。
 白黒明瞭しているものなど、世の中にはない。

126)「正義というのはな、己の立場を護りたい小物の使う方便に過ぎぬのだぞ

127)又市は依頼人に同情し、的を憎むことで、己の疚しい行いを正当化していたのかもしれぬ。

207)「物を扱うのでも金を扱うのでもない、人を扱う仕事というのはな、決して割り切れないものなのだ。あちらを立てればこちらが立たず、必ずどっかに歪みが出る。人はな、もとより歪んでいるものだからな。ただ暮らしているだけだって、人は悲しいぞ。違うか」

235)「憎むってなあよ、どうなのかなと思ってよ。人ってものはよ、見上げたり見下げたりして生きるもんだろ。でもな、見下げられて肚ァ立てるのは見下げてェ奴だけだろう。人を見下げてェ奴は人から見下げられると肚ァ立てる。逆様に、見上げていてェ奴は見上げられると怖くなるもんだ。抱き寄せようとしていきなり殴られりゃ頭に血も昇るが、殴るを承知で抱き寄せる分にゃどうもねェやな」

242)「ただ、心疚しき者心穏やかならぬ者が、己の気持ちを目に映してな、生前の形を見るだけじゃ

263)「世の藪医者は、知が足りぬか技が足りぬか、いずれ何かが足りぬのですよ。知らぬ病は治せない。それでも治せると——嘘を言うのが、藪ですね

337)「あれ、稲妻と謂うでしょう。あれは、稲の花が咲く時期に雷が多いからなんだな

339)「ただね、又市さん。在って欲しいもの、在るべきだと考えられるもの——というのはね、これ、ないのに在るんですな」 ※傍点省略

359)「だから——神仏は要るのです」
「何だと」
「いいですか。人が人を裁く、人が己の物差しで他人を測る——これ、必ず不平が出ます。人の心は人には量れません。それぞれ基準が違う。だから、人は法だの掟だのを作る。作るけれども、所詮は人が作ったものですからね。でもね、それが神の下した裁きなら、どんなに不公平でも納得せざるを得ないでしょう」 ※傍点省略

393)「八方塞がりだろうが何だろうが、手はある筈だろうぜ。あちら立てればこちらが立たず、それでも双方立てるのが——知恵ってものじゃねェのか

399)「何方が何方を責めることも出来まい。人は己の寸法でしか世の中を見られぬし、他人の寸法を当て嵌められると歪んだり曲がったりするものだ。己以外は皆他人なのだからな、人は少なからず歪むよ。その歪みを堪えられる者もいるし、堪え切れず潰れる者もいる。泣き乍ら我慢する者もいれば、弾けて壊れる者もいる」

458)流行りものの如くそれを受け入れ、徒に持て囃すことなど、決してしてはならぬことだろう。
 何しろ人が死んでいるのだ。どんな仕掛けかは別として、死んでいることだけは事実なのである。死ぬと判っていて利用するのは、仮令手を下していなくても人殺しと変わらない。変わらないと志方は思う。
 信じ念じて書こうとも、何も信じずに軽軽しく書こうとも、どうであれ絵馬に名を書くことは御政道に楯突く悪行、人倫に背く凶行なのである。
 だが——実際には一切手を下さないでいいという手軽さこそが庶民を凶行に走らせているのであろうし、手を下していない以上、絵馬に名を書いた者を書いたというだけで罰することが出来ないことも事実である。
 実際に書いた通り人が死んで——。

471)だが。
 ——殺す意思は何処にある。
 手を下した者の心中は、凡そ計り知れぬ。志方には想像することさえ叶わない。奸計謀略があるのだとしても見当が付かない。だから、考えるだけ無駄である。この場合、手を下したという事実だけを認めるしかあるまい。殺人を実行した者は、どうであれ下手人である。
 でも、死んでいるのは絵馬に書かれた者達であり、その者達は実行犯とは——多分——関わりがないのだ。
 ならば。
 殺意は、絵馬に名を書いた者にこそある、ということになるのだろう。
 すると矢張り、名を書いた者こそ罰せられるべき——なのだろうか。絵馬は——絵馬の指示通りに凶行を働いた下手人は、この場合単なる凶器に過ぎないことになるからである。
 ※傍点省略

569)「青臭くなくッちゃあ他人の面倒までは見られませんよ

577)「脅しや暴力だけで人は縛れませんよ。飴を与えなくちゃあ人心は必ず離れる。〔略〕猫は強い。鼠は弱い。しかしね、窮鼠却って猫を噛むと謂う。追い詰められれば鼠だって猫に噛み付く。そういうものです。齧られりゃ猫だってただじゃ済まない。違いますか」


578)「命を捧げる鼠が居るからこそ、野や里の鼠どもは生き永らえることが出来る——山に登って死んだ鼠だけ見ていれば慥かに損なのだけれども、鼠全体としてみれば
得になってるてェのかい
 棠庵は首肯いた。
「そういうことじゃあないでしょうか」
「身を捧げる鼠——かよ」
 喰われるしかないのか。
「そんな——得はねェ」
 又市は言う。〔略〕「猫が鼠より強ェな解る。だけどもよ、猫が鼠より偉ェってこたあねェぞ

579)「鼠だからというだけで猫に礼を尽くさなければならぬ謂れはない、ということです。そんな道理はない。まるでない。鼠どもはそこを忘れている。鼠が猫の王に礼を尽くさねばならぬのなら、猫も鼠の王に礼を尽くすべきなんです。対等と知れば——」
 諾諾と死ぬことはない。
そりゃつまり——嚙めるんだから嚙み返せって意味じゃねェんだな
 はい、と棠庵は再度首肯いた。

615)「ご定法ってのは、守るべきもんですが、護ってくれるもんでもありやしょうぜ。旦那ァ盗っ人でも人殺しでも、ちゃんと捕まえて、裁いてくれるじゃねェですか。貧乏人のくだらねえ訴えにだって耳ィ貸してくれやしょう。下下は文句ばっかり言ってる訳じゃねェんですよ。有り難ェ有り難ェとも思ってるんで。でもね、ありゃ——」
 万三は櫓を指差す。
「あんなことされちまっちゃあ、如何ですよ。奉行所なんかに頼っても無駄だ、お役人は護ってくれねェぞと、あれは、そういう意味なんじゃねェんですかね

623)「人死には出すな。死んで取る得、殺して取れる得はないと、お前さんは先からそう言ってただろ。真理だよ。欠けた命の穴ァ、他のものじゃ埋められないわなあ


@S模原

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by no828 | 2018-02-15 21:46 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 14日

「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である——村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

 村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?——紀行文集』文藝春秋、2015年。23(1090)


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 アメリカ、アイスランド、ギリシャ、フィンランド、ラオス、イタリア、そして日本。題名にあるセリフは、村上春樹本人のものではない。

 アメリカ東海岸で勉強したかった、というか、勉強したい気持ちに改めてなった。

 引用文中の「哲学」は「理念」や「箴言」のほうがよい。「哲学」を「理念」や「箴言」の意味で使うのはやめたほうがよい。それは哲学ではない。哲学は、たとえば“旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行かもしれない”とも考えてみることだ。

12)夏には並木がこの遊歩道の路面に、くっきりとした涼しい影を落とす。ボストンの夏は誰がなんと言おうとすばらしい季節だ。ハーヴァードやBU(ボストン大学)の学生たちが必死にレガッタの練習をしている。女の子たちは芝生の上にタオルを敷いて、iPodを聴きながら、すごく気前のいいビキニ姿で日光浴をしている。アイスクリーム売りがヴァンの屋台を出している。誰かがギターを弾いて歌を歌っている。犬がフリスビーを追いかけている。でもやがてニューイングランド独特の、短く美しい秋がそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスウェットパンツを重ね着するころになると、枯れ葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という堅く乾いた音があたりに響きわたる。そのころにはもう、リスたちが冬ごもりのための食料集めに目の色を変えて走り回っている。

51-2)でもたとえ大きな樹木がなくても、茫漠と広がる溶岩台地がどこまでも苔の緑に包まれ、あちこちに小さな寒冷地の花が可憐に咲いている様は、なかなか美しいものだ。そういう中に一人で立っていると、時折の風の音のほかには、あるいは遠いせせらぎの音のほかには、物音ひとつ聞こえない。そこにはただ深い内省的な静けさがあるだけだ。そういうとき、我々はまるで、遠い古代に連れ戻されてしまったような気持ちになる。この島には無人の沈黙がとてもよく似合っている。アイスランドの人々は、この島には幽霊が満ちていると言う。でももしそうだとしても、彼らはとても無口な幽霊たちなのだろう。

106-7)実を言えば、自分では今でもまだ「若手作家」みたいな気がしているんだけど、もちろんそんなことはない。時間は経過し、当然のことながら僕はそのぶん年齢をかさねた。なんといっても避けがたい経過だ。でも灯台の草の上に座って、まわりの世界の音に耳を澄ませていると、あの当時から僕自身の気持ちはそれほど変化していないみたいにも感じられる。あるいはうまく成長できなかった、というだけのことなのかもしれないけど。

111)次にこの島を訪れるのはいつのことだろう? いや、もう二度とそこを訪れることなんてないかもしれない。当たり前のことだが、どこかに行くついでにふらりと立ち寄るというようなことは、島についてはまず起こりえない。僕らは心を決めてその島を訪れるか、それともまったくその島を訪れないか。どちらかしかない。そこには中間というものはない。

132)「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である。

151)さて、いったい何がラオスにあるというのか? 良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。 ※原文省略

165-6)ルアンプラバンで歩いてのんびり寺院を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ目で追っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。
 でもルアンプラバンでは、僕らは自分が見たいものを自分でみつけ、それを自前の目で、時間をかけて眺めなくてはならない(時間だけはたっぷりある)。そして手持ちの想像力をそのたびにこまめに働かせなくてはならない。そこは僕らの出来合の基準やノウハウを適当にあてはめて、流れ作業的に情報処理ができる場所ではないからだ。僕らはいろんなことを先見抜きで観察し、自発的に想像し(ときには妄想し)、前後を量ってマッピングし、取捨選択をしなくてはならない。普段あまりやりつけないことだから、初めのうちはけっこう疲れるかもしれない。でも身体がその場の空気に馴染み、意識が時間の流れに順応していくにつれて、そういう行為がだんだん面白くなってくる。

229)そうそうそれから、この街にいるあいだに、川上哲治氏が人吉市の出身であることをふと思い出した。ずっと昔、『川上哲治物語 背番号16』という映画を見た。人吉の学校の野球部で投手として活躍していた川上少年は、「こんな田舎にいては、せっかくの才能が埋もれてしまうから」と、熊本市内の野球強豪校にスカウトされる。そして故郷の人吉を離れる。川上少年もきっとバットとグラブを大事に抱え、僕が乗ったのと同じ肥薩線のSLに乗り、球磨川の美しい流れを眺めながら、不安と夢を胸に一路熊本に向かったんだろうな。

240)実際の話、害になるどころか、そのトピアリーの居並ぶ光景に惹かれて思わず車を停め、ついでに店に寄ってトウモロコシを買って食べてしまう観光客が数多くいるわけだし(僕らもまさにその一員だった)、このトピアリーの群れは営業的見地から見て、大いに有益であると断言してかまわないと思う。それを「芸術」と呼ぶことはおそらくむずかしいだろうが、少なくとも「達成」と呼ぶことはできるはずだ。そして我々が住むこの広い世界には、批評の介在を許さない数多くの達成が存在するのだ。僕らはそのような達成、あるいは自己完結を前にしてただ息を呑み、ただ敬服するしかない。


@S模原

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by no828 | 2018-02-14 22:42 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 13日

望んだものを手に入れているとうぬぼれるときほど、われわれは望みから遠ざかっていることはない——ゲエテ『親和力』

 ゲエテ『親和力』実吉捷郎訳、岩波書店(岩波文庫)、1956年。22(1089)

 原題は、Die Wahlverwandtschaften、原著刊行は1809年 

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 お互いに好きな人ができて夫婦生活が破綻する物語、とまとめてしまってよいのかためらいも残るが、そういう話だったのか、というのは率直な感想に含まれる。

16-7)「冷静な、分別のある、なぐさめになるようなお手紙をね。」とシャルロッテが云った。
「というと、なんにも書かないのと、同じことになる。」とエドアルトが答えた。
「それでもたいていの場合、」とシャルロッテが応じた。「書かないよりも、いっそのこと、書かないも同然な手紙を書くのが、必要とも親切ともいうわけですのよ。

73)「ぎせいにしなければならないものと、利益になるべきものとの重さを、人間が正当にはかるのは、じつにむずかしいことだ。目的を追うと同時に、手段をかえりみるのは、じつにむずかしいよ。多くの人は手段と目的をとりちがえて、目的を念頭におかずに、手段をたのしんでいる。どんなわざわいでも、現われてきた個所でとりのぞくことになっていて、その本来のみなもとをなす点、その作用のもとをなす点というものは、なおざりにされている。だから相談するということが、じつにむずかしいわけさ。

104)「われわれは、良心というものとも、やはり結婚してはいませんかな。良心からのがれたいと思うことが、よくありますね。それはね、良心のほうが、われわれにとって、夫なり妻なりがうるさいよりも、もっとうるさく感じられるからなのですよ。」

138)憎悪はかたよりやすいものだが、愛情はさらにそうだ。

162)かれはもう一度こじきのほうを見た。「おお、おまえはうらやましいやつだ。」とかれはさけんだ。「おまえはまだ昨日の施物をたべることができるが、おれはもうきのうの幸福をたのしむことはできないのだ。

193-4)「なぜ世間の人が、死んだ者のことは、卒直にほめるのに、生きている者のことは、いつでも用心しながら云うのか、という疑問をわたくし聞いたことがありますの。その答えは、死者からは何をされる心配はないが、生きている者には、まだどこでめぐりあうかわからないから、というのでした。他人を思い出すときの心づかいは、それほど不純なものですのよ。それはたいてい自己中心のたわむれにすぎませんわ——それと反対に、生き残っている人たちの関係を、いつも生きて動くものにしておくのが、神々しい真剣な仕事だとしましたらね。」

220-1)われわれに恩を受けている人に出会うと、恩をかけているということが、すぐこちらの頭にうかんでくる。こちらが恩を受けている人に出会っても、われわれはそれを考えずにいることが、どんなに多いことか。

238)われわれはこの世の中でどんな人をも、その人がよそおっている通りに判断する。しかしどんな人でもじっさい、何かをよそおわずにはいられないものだ。われわれはつまらない人たちを大目に見るよりは、不愉快な人たちをがまんするほうがすきなのだ。

240)礼節の表面的なしるしには、かならずふかい道義的な根拠がある。真の教育とは、このしるしとこの根拠を同時に伝える教育である。


240)望んだものを手に入れているとうぬぼれるときほど、われわれは望みから遠ざかっていることはない。

240)自由でもないのに、自分は自由だと思っている人は、もっとも奴れいになっている人である。

241)おろか者とりこう者は、同様に無害である。ただ半ばかと半りこう、これこそはもっとも危険な人間なのだ。

241)むずかしさというものは、われわれが目的に近づけば近づくほど、つのってくる。

241)たねをまくのは、とりいれをするほどには骨が折れない。

260)「しかし知識階級になると、この使命は非常に複雑なものになります。わたしたちは、さらにせんさいな、さらに微妙な、とくに社交的な関係を、考慮に入れなければなりません。だからわたしたちのほうは、弟子たちを外部へむかって教育する義務があります。その際適度を超えないことが、必要であり、不可欠であり、またおそらく充分のぞましいことでしょうね。なぜといって、子供たちをさらに広い社会のために教育しようと思っているうちに、わたしたちは、そもそも内的な本性が何を要求しているかに注目しないで、ややもすれば、子供たちを無際限にかり立てやすいものですからね。この点にですね、多かれすくなかれ教育者が解くか、または解きそこなうかする問題があるのですよ。」

261)「わたしはいったんこの仕事に身をささげてしまった以上、こういう敬けんな願望を禁ずることができません——つまり、だれか忠実な女の助手とふたりで、いつかは、教え子たちが自身の活動と自立の領域に移ってゆくときに必要とするものを、その人たちの心に純粋なかたちできずき上げることができたら、と願うのです。この意味ではこの人たちの場合、教育は完成したのだ、と自分で云えるようになりたいのですよ。もちろんそれにはくり返しくり返し、もうひとつ別の教育がつながってきます。この教育は、われわれの生活が年を重ねるごとに、といってもいいくらい、われわれ自身の手によってではないとしても、それでも周囲の事情によって誘致されるものなのですよ。」

270)「わたくしたちは自分の力で行動したり、自分の活動や娯楽を勝手にきめたりしていると、思っていますのね。でもむろん、くわしく考えてみれば、それはただ時代の計画や傾向で、わたくしたちは否応なしにそれを実行させられているだけですわ。

283)愛のない生活、愛する者を身近にもたぬ生活は、ひきだしのついた教訓、ひきだしのたくさんある愚劇にすぎない。人は次々にひとつずつ開けてはまたしめてから、急いで次のひきだしにとりかかるのである。いいものや意味ふかいものが出てくるとしても、すべてはおぼつかなくつながり合っているにすぎない。どんな場合でも、はじめからやりなおさなければならないし、いたるところでおしまいにしたくなる。

344)「自分がどんなにいろいろな試練をきりぬけてきたか、そしてその試練も、その後に受けなければならなかったものにくらべると、どんなにくだらないものだったかを、わたくしあの学校へ行って、ふり返って見ようと思いますの。わたくしどんなに明るいきもちで、若い生徒たちのなやみごとをながめたり、子供らしい苦しみを見てほほえんだり、そっと手をかして、いろいろと小さな迷いから救い出してやることでしょう。幸福な人間は、不幸な人間を監督するのに、ふさわしくありませんのよ。人間の天性として、自分のうけとったものが多ければ多いほど、自分からも他人からも、ますます多くを要求するものですわね。ただ立ちなおった不幸な人だけが、たいしてよくないものでも、心からよろこんで味わうのがほんとだという感じを、自分のためにも他人のためにも、だいじに育てることができますわ。


@S模原

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by no828 | 2018-02-13 22:43 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 12日

「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます——村上春樹『職業としての小説家』

 村上春樹『職業としての小説家』新潮社(新潮文庫)、2016年。21(1088)

 単行本は2015年にスイッチ・パブリッシング

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 村上春樹にとって“小説を書く”とはどういうことなのか。“研究する”とはどういうことなのか、ということを考えた。 

25)小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。

42)結局のところ、その〔学生運動の〕激しい嵐が吹き去ったあと、僕らに心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。

77)自分があくまで僕という「個人の資格」でものを書き、人生を生きてきたことについて、僕なりにささやかな誇りを持っている

101)そのスタイルの質がどうこうという以前に、ある程度のかさの実例を残さなければ「検証の対象にすらならない」ということになります。いくつかのサンプルを並べ、いろんな角度から眺めないと、その表現者のオリジナリティーが立体的に浮かび上がってこないからです。たとえばもしベートーヴェンがその生涯を通じて、九番シンフォニーただ一曲しか作曲していなかったとしたら、ベートーヴェンがどういう作曲家であったかという像はうまく浮かんでこないのではないでしょうか。 ※傍点省略

148)僕はもともとが長距離ランナー的な体質なので、いろんなものごとがうまく総合的に、立体的に立ち上がってくるには、ある程度のかさの時間と距離が必要になります。本当にやりたいことをやろうとすると、飛行機にたとえれば、長い滑走路がなくてはならないわけです。 ※傍点省略

104-5)僕は誰かに批判されるたびに、できるだけ前向きにそう考えるよう努めてきました。生ぬるいありきたりの反応しか呼び起こせないより、たとえネガティブであれ、しっかりした反応を引き出した方がいいじゃないか、と。

107-8)自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。

113)考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。 ※傍点省略

120-1)それで僕は思うのですが、小説家になろうという人にとって重要なのは、とりあえず本をたくさん読むことでしょう。実にありきたりな答えで申し訳ないのですが、これはやはり小説を書くための何より大事な、欠かせない訓練になると思います。小説を書くためには、小説というのがどういう成り立ちのものなのか、それを基本から体感として理解しなくてはなりません。「オムレツを作るためにはまず卵を割らなくてはならない」というのと同じくらい当たり前のことですね。〔略〕実際に文章を書くというのもおそらく大事なことなのでしょうが、順位からすればそれはもっとあとになってからでじゅうぶん間に合うんじゃないかという気がします。その次に——おそらく実際に手を動かして文章を書くより先に——来るのは、自分が目にする事物や事象を、とにかく子細に観察する習慣をつけることじゃないでしょうか。まわりにいる人々や、周囲で起こるいろんなものごとを何はともあれ丁寧に、注意深く観察する。そしてそれについてあれこれ考えをめぐらせる。しかし「考えをめぐらせる」といっても、ものごとの是非や価値について早急に判断を下す必要はありません。結論みたいなものはできるだけ留保し、先送りするように心がけます。大事なのは明瞭な結論を出すことではなく、そのものごとのありようを、素材=マテリアルとして、なるたけ現状に近い形で頭にありありと留めていくことです。

122)小説家に向いているのは、たとえ「あれはこうだよ」みたいな結論が頭の中で出たとして、あるいはつい出そうになっても、「いやいや、ちょっと待て。ひょっとしてそれはこっちの勝手な思い込みかもしれない」と、立ち止まって考え直すような人です。「そんなに簡単にはものごとは決められないんじゃないか。先になって新しい要素がひょこっと出てきたら、話が一八〇度ひっくり返ってしまうかもしれないぞ」とか。

126)頭の中にいろんなことをそのまま放り込んでおくと、消えるべきものは消え、残るべきものは残ります。僕はそういう記憶の自然淘汰みたいなものを好むわけです。僕の好きな話があります。詩人のポール・ヴァレリーが、アルベルト・アインシュタインにインタビューしたとき、彼は「着想を記録するノートを持ち歩いておられますか?」と質問しました。アインシュタインは穏やかではあるけれど、心底驚いた顔をしました。そして「ああ、その必要はありません。着想を得ることはめったにないですから」と答えました。たしかに、そう言われてみれば、僕にも「今ここにノートがあればな」と思うようなことって、これまでほとんどなかったですね。それに本当に大事なことって、一度頭に入れてしまったら、そんなに簡単には忘れないものです。

140)健全な野心を失わない

143)もしあなたが小説を書きたいと志しているなら、あたりを注意深く見回してください——というのが今回の僕の話の結論です。世界はつまらなそうに見えて、実に多くの魅力的な、謎めいた原石に満ちています。小説家というのはそれを見出す目を持ち合わせた人々のことです。そしてもうひとつ素晴らしいのは、それらが基本的に無料であるということです。あなたは正しい一対の目さえ具えていれば、それらの貴重な原石をどれでも選び放題、採り放題なのです。こんな素晴らしい職業って、他にちょっとないと思いませんか? ※傍点省略

154)長編小説を書く場合、一日に四百字詰原稿用紙にして、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。僕のマックの画面でいうと、だいたい二画面半ということになりますが、昔からの習慣で四百字詰で計算します。もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないなと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。

154)小説家というのは、芸術家である前に、自由人であるべきです。好きなことを、好きなときに、好きなようにやること、それが僕にとっての自由人の定義です。

158)長編小説を書くときには、仕事をする時間ももちろん大事ですが、何もしないでいる時間もそれに劣らず大事な意味を持ちます。工場なんかの制作過程で、あるいは建築現場で「養生」という段階があります。製品や素材を「寝かせる」ということです。ただじっと置いておいて、そこに空気を通らせる、あるいは内部をしっかりと固まらせる。小説も同じです。この養生をしっかりやっておかないと、生乾きの脆いもの、組成が馴染んでいないものができてしまいます

164)ここで僕が言いたいのは、どんな文章にだって必ず改良の余地はあるということです。本人がどんなに「よくできた」「完璧だ」と思っても、もっとよくなる可能性はそこにあるのです。

165)つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。作家が「ここをもっとうまく書き直してやろう」と決意して机の前に腰を据え、文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます。それに比べれば「どのように書き直すか」という方向性なんて、むしろ二次的なものかもしれません。 ※傍点省略

182-3)そのきっかけがどうであれ、いったん小説を書き始めれば、小説家は一人ぼっちになります。誰も彼(彼女)を手伝ってはくれません。人によっては、リサーチャーがついたりすることはあるかもしれませんが、その役目はただ資料や材料を集めるだけです。誰も彼なり彼女なりの頭の整理を整理してはくれないし、誰も適当な言葉をどこかから見つけてきてくれません。いったん自分で始めたことは、自分で推し進め、自分で完成させなくてはなりません。最近のプロ野球のピッチャーみたいに、いちおう七回まで投げて、あとは救援投手陣にまかせてベンチで汗を拭いている、というわけにはいかないのです。小説家の場合、ブルペンには控えの投手なんていません。だから延長戦に入って十五回になろうが、十八回になろうが、試合の決着がつくまで一人で投げきるしかありません。〔略〕孤独な作業だ、というとあまりにも月並みな表現になってしまいますが、小説を書くというのは——とくに長い小説を書いている場合には——実際にずいぶん孤独な作業です。ときどき深い井戸の底に一人で座っているような気持ちになります。誰も助けてはくれませんし、誰も「今日はよくやったね」と肩を叩いて褒めてもくれません。その結果として生み出された作品が誰かに褒められるということは(もちろんうまくいけばですが)ありますが、それを書いている作業そのものについて、人はとくに評価してはくれません。それは作家が自分一人で、黙って背負わなくてはならない荷物です。

185)それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか? それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです——基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。

187)体力が落ちてくれば、(これもあくまで一般的に言えば、ということですが)それに従って、思考する能力も微妙に衰えを見せていきます。思考の敏捷性、精神の柔軟性も失われてきます。僕はある若手の作家からインタビューを受けたとき、「作家は贅肉がついたらおしまいですよ」と発言したことがあります。これはまあ極端な言い方で、例外的なことはもちろんあると思うんですが、でも多かれ少なかれそういうことは言えるのではないかと考えています。それが物理的な贅肉であれ、メタファーとしての贅肉であれ。多くの作家はそのような自然な衰えを、文章テクニックの向上や、意識の熟成みたいなものでカバーしていくわけですが、それにもやはり限度があります。

200)自分の内なる混沌に巡り合いたければ、じっと口をつぐみ、自分の意識の底に一人で降りていけばいいのです。我々が直面しなくてはならない混沌は、しっかり直面するだけの価値を持つ真の混沌は、そこにこそあります。まさにあなたの足もとに潜んでいるのです。

203-4)強固な意志を長期間にわたって持続させていこうとすれば、どうしても行き方そのもののクォリティーが問題になってきます。まず十全に生きること。そして「十全に生きる」というのは、すなわち魂を収める「枠組み」である肉体をある程度確立させ、それを一歩ずつ着実に前に進めていくことだ、というのが僕の基本的な考え方です。〔略〕フィジカルな力とスピリチュアルな力は、いわば車の両輪なのです。それらが互いにバランスを取って機能しているとき、最も正しい方向性と、最も有効な力がそこに生じることになります。〔略〕どれだけ立派な構想が頭にあり、小説を書こうとする強い意志があり、豊かな美しい物語を作り出していく才能があなたに具わっていたとしても、もしあなたの肉体が、物理的な激しい痛みに間断なく襲われていたとしたら、執筆に意識を集中することなんてまず不可能ではないでしょうか。まず歯科医のところに行って虫歯を治療し——つまり身体をしかるべく整備し——それから机に向かわなくてはなりません。僕が言いたいのは簡単に言えばそういうことです。

220)学校に通っている間、よく両親から、あるいは先生から「学校にいる間にとにかくしっかり勉強をしておきなさい。若いうちにもっと身を入れて学んでおけばよかったと、大人になってから必ず後悔するから」と忠告されましたが、僕は学校を出たあと、そんな風に思ったことはただの一度もありません。むしろ「学校にいる間にもっとのびのび好きなことをしておけばよかった。あんなつまらない暗記勉強をさせられて、人生を無駄にした」と後悔しているくらいです。まあ僕はいささか極端なケースかもしれませんが。

221-2)もし人間を「犬的人格」と「猫的人格」に分類するなら、僕はほぼ完全に猫的人格になると思います。「右を向け」と言われたら、つい左を向いてしまう傾向があります。そういうことをしていて、ときどき「悪いな」とは思うんだけど、それが良くも悪くも僕のネイチャーになっています。そして世の中にはいろんなネイチャーがあっていいはずです。でも僕が経験してきた日本の教育システムは、僕の目には、共同体の役に立つ「犬的人格」をつくることを、ときにはそれを超えて、団体丸ごと目的地まで導かれる「羊的人格」をつくることを目的としているようにさえ見えました

232)ものごとを自分の観点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきます。〔略〕でもいくつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると、言い換えれば、自分という存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは人がこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。

236)「子供たちの想像力を豊かにしよう」なんていうのがひとつの決まった「目標」になると、それはそれでまたまた変なことになってしまいそうです。僕が学校に望むのは、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」という、ただそれだけです。それで十分です。ひとつひとつの個性に生き残れる場所を与えてもらいたい。そうすれば学校はもっと充実した自由な場所になっていくはずです。そして同時に、それと並行して、社会そのものも、もっと充実した自由な場所になっていくはずです。

242)小説を書くには何はともあれ多くの本を読まなくてはならない、というのと同じ意味合いにおいて、人を描くためには多くの人を知らなくてはならない、ということがやはり言えると思います。

279)ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクはこのように語っています。「私が言いたいのは、君のやりたいように演奏すればいいということだ。世間が何を求めているかなんて、そんなことは考えなくていい。演奏したいように演奏し、君のやっていることを世間に理解させればいいんだ。たとえ十五年、二十年かかったとしてもだ


@S模原

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by no828 | 2018-02-12 22:38 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 11日

勉強をしないとは、自分が知っている小さな世界にとどまり、何ら進歩がないことだと僕は思います——『松浦弥太郎の仕事術』

 松浦弥太『松浦弥太郎の仕事術』朝日新聞出版(朝日文庫)、2012年。20(1087)

 単行本は2010年に同出版

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“仕事をする”ということについての自省の契機に。

38-9)「仕事=競争」とは決して思いませんが、仕事においては「自分を選んでもらうこと」が不可欠です。〔略〕選ばれ続ける方法はたった一つ。常に勉強し続け、たゆみなく自分を磨いていくしかないのです。

42)勉強をしないとは、自分が知っている小さな世界にとどまり、何ら進歩がないことだと僕は思います。

55)単に約束を守るだけでなく、それで相手を喜ばせることができたら、仕事はぐんと、よいものになります。

65-6)僕は、「仕事の基本は何ですか?」と尋ねられれば、迷わず「健康管理」と即答します。そのとおりだと信じ、日々実践しています。どんなに火急の仕事より、どんなに重要なプロジェクトより、どんなに難しいクライアントより、最優先すべきは自分の体と心の健康です。〔略〕「本当に大切な仕事なら、心身を犠牲にしてでも成し遂げるべきだ」世の中にはこういった価値観をもつ人もいますが、単なる悪しき習慣だという気がします。

67-8)全財産をはたいて、車を購入したとします。買い替えはきかず、生涯乗り続けるための、唯一無二の一台です。あなたはその車に、不純物だらけの明らかにエンジンを傷めるような適当なオイルを入れて、平気でいられるでしょうか?
 体はいかなる高級車よりも長く使うし、はるかに価値があるものです。このシンプルなのに忘れやすい事実を思い出しましょう。いいものを食べて、できるだけ注意深く、自分という車を良質の燃料で動かしてやろうではありませんか。
 特別なオーガニックフードや高級食材でなくとも、きちんと人の手でつくられたものを食べる。それだけで体は素直に違いを感じ取ってくれます。

74-5)自分の「行うべきこと」を自分で決められない人は、やがて不本意であろうと、上司やクライアントなど、「誰かに決められたこと」に常に従って、命じられるままに動くしかなくなります。〔略〕休日に最優先すべき「仕事」とは、目の前の業務ではなく、オフタイムを存分に充実させることです。数時間ぶんのルーティンワークをこなすより、一生にわたって影響する仕事のセンスを磨くほうが、はるかに大切だと僕は感じます。〔略〕「何があっても、仕事であなたの生活を犠牲にしないでください

77)「やる気になったときにやろう」と思っていたら、仕事の責任は果たせません。

82)僕はスケジュール帳に、アポイントメントとして「一人の時間」を記しています。仕事関係の人や友人はもちろんのこと、その日は家族にも会いません。仕事場に一人こもって、「何もしない状況」に自分をもっていくのです。そんな無為のとき、自分が何を思い、何を考えるかを時折点検することが、バランスを保つために不可欠となっています。

137)ことに「考える、勉強する」という大切な行為であれば、音楽を聴きながら、あるいは電車の中で行うのは、根本的な間違いではなかろうかという気すらします。本当に大切で本質的なことは、効率を追求するような安易な構えでは、決して手に入れられません。考えることも、本当に大切で本質的なこと。何かをしながらできるような軽い行為ではないのです。

157)時間の制約の中で、時間に追われることなく、どうやって自分の納得いく仕事ができるかを考えていくと、答えは一つ。時間を追い越してしまえばいいのです。
 僕はたいてい、締め切りの遅くとも二、三日前には原稿を渡してしまいます。よほどのことがない限り、約束の時間よりも十五分前には待ち合わせ場所に着いているし、仕事上のさまざまなことも、だいたい期日より先に上げていきます。

162)「運がいい人と悪い人」という表現がありますが、突然、運がめぐってきたそのとき、ぱっとつかめるか否かは、日頃から準備をしているかどうかで決まるのではないでしょうか。いつ代打を命じられてもヒットが打てる補欠選手のごとく、日頃から素振りをしておく。準備にはこうした意味合いも含まれています。物理的にも、心でも、「準備しておくことの大切さ」を気持ちの端っこに留めておこうと僕は考えています。仕事の本質のほとんどが、準備という行いと知りましょう。

165)午前中はパソコンを立ち上げないと決めています。できる限り、外と接することなく自分の仕事に集中するためです。

207-8)劇的な出来事が起こり、ある日突然、自分の理念に反することをしなければならない。こんな事態は滅多に起こりません。理念は静かに侵食されていきます。
「忙しくて」と走り続ける毎日。
「わかっているけど仕方ない」という言い訳。
「瀬戸際だから、そんなのんきなことを言っている場合じゃない」という開き直り。
 こうした小さな砂粒が積もり積もって、理念をなし崩しにしてしまいます。

221-2)「勇気のない人は、なりたいものにはなれない」〔略〕自分で原因をつくらない限り、結果を生み出すことはできません。誰かが結果をもたらしてくれるのをじっと待っていたのでは、なりたいものになど、なれるわけがありません。格好悪くなりましょう。勇気を出して仕事をしましょう。

227)私たちは人とのつながりという関係性によって、生きている幸せや喜びが得られるのです。幸せとは誰かと深くつながることができたときに一番強く感じるものです。お金で買える何かを手にしたときの喜びなんて一時のものです。

237)このように混沌として不透明な時代状況だからこそ、どこにベーシックなものを求めるのかという姿勢は重要である。依拠すべき基盤がない時代だから、自分で自分の基盤をつくっていかなければならないからだ。 ※佐々木俊尚「解説」

243-4)断食はひとつの例にすぎないけれども、これも確かに「基本に立ち返る」ということだ。醤油や味噌はなくてはならない調味料だと思い込んでいるけれども、本当は必要ないのかもしれない。素材の味で十分なのかもしれない。それと同じように、いまこの人生の中で「必要だ」と思っているものの多くは、実は単なる思い込みにすぎないのかもしれない。それらのほとんどは、ぬぐい去り捨ててしまうことが可能なのではないか。そしてそれらをすべてぬぐい去ったあとに残るものを大事にしていくべきなのではないか。残るものとは何か。それは自分の理念であり、他者への尊敬であり、素朴で清潔な生活である。そういう基本的なことを、松浦さんは本書でていねいに、本当にていねいに綴っているのだ。 ※佐々木俊尚「解説」


@S模原

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by no828 | 2018-02-11 21:57 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 10日

自分の人生、生と死、人類の未来、などなど、大切なことを真剣に考えていたら、何もできなくなってしまう——森博嗣『奥様はネットワーカ』

 森博嗣『奥様はネットワーカ』メディアファクトリー、2002年。19(1086)

 イラストはコジマケン

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 大学で起きた殺人事件について。

94)けれど、そもそも一番重要なことを棚に上げて生きているのが人間ではないのか。自分の人生、生と死、人類の未来、などなど、大切なことを真剣に考えていたら、何もできなくなってしまう。生活とは、すなわち逃避、仕事もまた同様だ。

171)殺人犯は、自分とは遠い存在だと考える。誰でも、そう考えようとする。理解できない異常な思考を持った人間、として解釈しようとする。身近にそんな人間が存在すると知ることこそ、ショックなのだ。殺人自体よりも、そちらの方がインパクトが大きい、ともいえる。

205-8)「ええ、直接でも間接でも、私が関与したことですから、もちろん責任は取るつもりです。だけど、こういう責任って、個人の躰だけで、たとえば、私の命だけで、償えるものでしょうか? たとえば、私が反省して、私の気持ちが変わっただけで、責任が取れるものでしょうか? 私が謝れば、それで済むものでしょうか?
一部であれば、償えるかもしれません」刑事は言った。「ないよりは、ましです
「そういうものですか?〔略〕そうですね、そういう考えもあるかもしれませんね」


@S模原

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by no828 | 2018-02-10 22:32 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 09日

この重要性を認識しているのなら、簡単に、イエスかノーかなどと、人にきいたりはしないでしょう。もしご関心があるのでしたら、どうか、お願いですから、答を出さないで下さい——森博嗣『そして二人だけになった』

 森博嗣『そして二人だけになった』新潮社、1999年。18(1085)

 http://www.shinchosha.co.jp/book/139431/ ※読んだのは単行本

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 研究者と密室殺人。

62)「その場面場面によって、僕の言う意見は変化します。自分はこう思う、という意見は常に一定とは限りません。心に思っていることが、言葉として口から出るときに、違うものになることだってありますね。これが大事なことです。まず、このことを忘れないで下さい。さて……、僕が今ここで言える意見はとても簡単です。自殺しようが、病気で死のうが、事故で亡くなろうが、差はありません。その人が生きているときに何をしたのか、ということで、その人を評価するのが正しいと思います。死に方には、あまり関係がありません。それから、もう一つ……。自殺はいけない、というように、自分の意見を一つに絞ろうとする必要はないと思います」
自殺をしようとしている人を、どんなふうに助けてあげたら良いですか?
お友達に、そんな人がいますか?
悩んでいる子がいます
そのお友達が死んだら、貴女は嫌ですか?
はい
では、そのお友達に、あなたが死んだら私は困る、と言ってあげなさい。自殺という行為が、善か悪かという議論をする必要はどこにもありません。個々の死について、その一つ一つについて、貴女がどう感じるのか、そのときそのときで、判断すれば良いでしょう」

139)「仕事をしているかどうかなんて、人間の価値にはほとんど無関係ですよね? それよりも、呼吸しているかどうか、の方がずっと重要だし、自分の目でものを見ているかどうか、に比べても……、大したこととは思えない。そうですね……、仕事を持っている、というのは、自分でシャツを着ることができる、くらいの価値かな
仕事ができる、ということは、自分一人で生きていける、という意味ではないでしょうか?
いいえ、違いますね」勅使河原は簡単に否定した。「自分一人で生きていける人間なんていません。仕事をする、という行為自体が、そもそも他人に依存しています。経済的に自立している、という言葉もよく耳にしますけど、定義の曖昧な概念というか、ほとんど妄想ですね。経済的に自立しようと思ったら、孤島で一人で暮らす以外にない。社会的な保証を受けることだって、施しの一種なのです。それに、自立なんて何の価値もありません。それとも、乞食のような自立を言っているのか、親から小遣いをもらう子供のような自立でしょうか? サラリーマンもまったく同じメカニズムですよ。そういう意味でしたら、主婦だって、会社の社長のように、旦那さんを働かせているわけですから、立派に自立していますね。とにかく、仕事をしていたら偉いんだ、という考えは時代遅れです

175)否、生き残ることが目的では、おそらくない。
 何かを見届ける、あるいは、もっと重要なシステムの一部として、生かされる、のであろう。
 人間の生とは、そういうものだ。
 勅使河原潤が、そう語った、と姉から聞いたことがあった。そのとき姉は、そのもっと重要なシステムとは何か、と彼に質問した。勅使河原は、人間の意地である、と答えたという。
 人間の意地が、そんなに重要なのだろうか?

184)「教育というのは、現象としては、ある情報が、人から人へと伝達されるだけのことです。一種の通信行為ですね。そして、その基本とは、発信と受信にあります。発信するのが教育者、受信するのが学生ですが、この通信行為におけるクリティカルな問題は、受信機のスイッチが入っているか、という点と、受信が可能な信号を発信側は送っているのか、という点の、二点に集約できるでしょう。教育に関するあらゆる問題は、この二つの問題を論じることになります
「博士は、どうすれば、そういった問題が解決できるとお考えですか?」
「解決はできません」勅使河原潤は首を一度だけ横にふる。「スイッチが入るまで待つ、あるいは、受信できる信号であることを信じて発信する、という以外にないでしょう」彼はそこで微笑んだ。「そもそも、教育とは、その二つの条件が自然に成り立つことを前提としている行為なのです。教育者が、もし、どんな子供でも自分がなんとかしてみせよう、などと考えているとしたら、それは虚しい幻想、あるいは、単なる思い上がりです

213-4)「これらすべてのことを考えに入れても、僕には、イエスかノーかの判断はできません。たとえ、絶対安全な原子力の管理方法が確立していても、それが五十年後にも完璧に機能している、という保証はない。僕の生きているうちは大丈夫でも、五十年後、百年後には、極めて致命的な問題となって、そのときの、あるいは、さらに未来の人たちの生活を脅かすかもしれないんです。それをですよ……、どうして、僕が、今、少ない情報だけで、簡単に賛成だ、反対だと言えるでしょうか。それが正しいことなのか、間違っていることなのか、誰が知っているでしょう? 何年も何年も、大勢の研究者が、その問題に取り組んでいるのです。新しい方法が見つかれば、新しい問題が発覚する世界中で繰り返し議論されている。いいですか? とても重要な問題なのです。貴方がもし、この重要性を認識しているのなら、メニューを選ぶように、簡単に、イエスかノーかなどと、人にきいたりはしないでしょう。もしご関心があるのでしたら、どうか、お願いですから、答を出さないで下さい

413)「何故あんな橋を建設するのか、と皆は反対した。造りたいから造るのだ、と答えても誰も賛成してくれない。ところが、……大橋の建造で、沢山の労働者が雇われ、彼らは仕事にありつける。さらに、建造することによって、多くの技術革新がなされるだろう。といった理由を挙げて、人々は納得したんじゃなかったかな。そう……、この二つが本当の理由ならば、できてしまった橋など、壊してしまった方が良い。復旧工事のために、再び労働力が必要になるし、技術的な進歩だってまたなされるだろう。けっこうなことじゃないか。いったい、何が失われた? 物質は何一つ失われていない。なくなったのはエネルギィだけ。そんなものは、原子力なり、核融合なりで、いずれ解決してしまうことだ」


@S模原

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by no828 | 2018-02-09 23:37 | 人+本=体 | Comments(0)