思索の森と空の群青

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カテゴリ:日日( 624 )


2017年 11月 15日

S台で「キル・ビル」

 先週末は某学会大会のシンポジウムへ出席するためにS台へ。土曜に移動、日曜に本番。シンポジウムに登壇するのははじめてだ。

 当初は当日入りする予定であったが、結局前泊。シンポジウムは13時開始、事前打ち合わせがお昼休みに入るかもしれないから12時には会場に到着するようにしようと調べたら7時の特急に乗れば間に合うことがわかって、それで行こうと思っていた。ただし、電車が少し遅れて乗り継ぎできないと遅刻する。当日が近づくにつれて遅刻の不安が大きくなり、直前の金曜にS台駅の近くでホテルを探して予約した。

 S台に到着してすぐに、S台駅はパ○ソニック駅か西島○俊駅に名称が変更されたのかと思った。

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 出張先で余裕があれば古本屋を訪れるのが好きだ。今回はそれほど余裕がないからひとまずBからはじまってFで終わるところを調べたら駅の近くにあった。到着後に余裕があったら行こうと思った。学生へのお土産を買ってもいいかなという優しい気持ちも持ち合わせていたので、一応補助としてトートバッグも持っていった。

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 駅に着いてホテルまでの道のりを調べていたら、そのBからはじまって途中Oを通る古本屋がホテルの隣のビルに入っていることがわかった。行かざるをえない、と言わざるをえない。

 T北大学があるからか、学術書が豊富で、かごを持たずに棚を周りはじめたらすぐに持てなくなった。「世界の名著」シリーズを3冊。1冊200円。ベルクソン、バークとマルサス、あと1冊は忘れてしまった。デューイでないことはたしかだ。なぜならデューイはあきらめたからだ。箱から本を抜き出したら小さな虫の死骸が複数見受けられたからだ。

 その土地ならではの本があれば買うようにもしていて、今回はK北新報社についてのものを——震災のことに意図的に触れようという気持ちは正直高まらないが——かごに入れた。

 結局単行本6冊、新書1冊を購入した。文庫を中心に、とも思ったものの、ほとんどまったく引きがなく、大きなものばかりになってしまった。「世界の名著」がとりわけ厚くて重い。

 その後にホテルへ戻って本を置き、近くの「R久」へ。ホテルからもらった一品(小鉢)無料チケットが使えたので、そして一時期S台にいた弟からも推薦されたのでこのお店にした。お酒は飲まなかった(もう2週間くらい飲んでいない)が、ホテルへの帰路にノンアルコールビールを買った。風呂上がりに飲んだ。

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 T北大学へは割と最近できた地下鉄で向かった。2008年に別の学会大会で来たときはこの地下鉄はなく、雨のなかバスで、坂を上って向かった記憶がある。今回は青葉通○番町駅から乗車した。ホテルがS台駅と青葉通○番町駅のあいだくらいにあり、青葉通○番町駅のほうが近かったからだ。S台駅だと戻るかっこうにもなってしまう。

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 キャンパス名を冠したK内駅で下車するようにとプログラムに案内があった。車両は4、5両くらいの短い印象(本当はもっと多くて長いかもしれない)。ただ、ホームと車両のあいだにほとんど隙間がなく、段差もなく、すばらしいと思った。ホームにも柵が設けられていた。

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 シンポジウム当日の打ち合わせでは、以前からお名前だけは存じ上げていた、そしてメールではやりとりさせていただいていた先生方にお目にかかることができた。「名刺かっこいいですね」と、名刺交換するたびに言われて恐縮した。100枚で大体500円です、ウェブ上で自分で作成して印刷して送ってもらうサービスです、とお答えした。ある先生からは「ハシモトさんは見た目いかついのに、振る舞いは控えめで、発表内容はアグレッシブで「キル・ビル」みたいだね」と言われたが、「キル・ビル」を観たことがないのでよくわからない。反応も希薄であったかもしれない。「アグレッシブ」かどうかもわからないが、これまでの自分の研究を紹介するだけではまず自分がつまらないと感じるし、何か新しいことを、何か論点を、と思って取り組んだ内容ではあった。

 話は当然ながら発表内容に及ぶわけで、その話をしながら研究上のつながりはやはりおもしろいと感じた。今日これが終わってしまうのは残念だとも、このときにすでに感じた。

 聴衆は50、60人ほどであったかもしれない。階段教室というかちょっとしたホールで、真ん中から後ろにかけての席は埋まっていたという印象だ。

 会員ではない学会であり、参加するのもはじめての学会であり、この学会の雰囲気や作法といったものがまったくわからなかった。発表のはじめにジョークを入れようかと準備していたが、話す順番になって前に立ってみると“ここはそうではない”というメッセージを受け取ってしまったので取りやめた。

 登壇者3名の発表後、休憩を挟み、その時間にフロアから紙で質問が募集された。質問は登壇者に満遍なくあった。再開してまずはそれらに応答し、その後に質問がオープンに募集された。わたしに対するやや攻撃的な質問があり、正直に言って趣旨とはややずれたものだと感じたが、何とか応答を試みた。

 シンポジウム後に参加者の方何人かとお話ができた。わたしにやや攻撃的な質問を投じた方はすぐに帰られてしまい、お話ができなかった。企画者の先生とも改めて言葉を交わした。この学会に入るかどうかは別にして、こういうやりとりは続けていきたいと改めて思った。

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 今回、会員でもない学会からお声がかかったのは、大会校の先生方がこの本(  )を読んでくださって、わたしの章にご関心を持ってくださったからだ。研究で生まれるつながりはとても嬉しい。

 結局、学生へのお土産は買えなかった。古本を入れたトートバッグにはわずかな隙間しか残されなかった。

@研究室

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by no828 | 2017-11-15 19:59 | 日日 | Comments(0)
2017年 10月 20日

N須塩原のサックス

 今月の3連休には従姉妹の結婚式・披露宴。場所はN須。9時30分集合のため、K府からの当日入りは無理。T川、O宮経由でN須塩原へ前日入り。T川で途中下車し、Bックオフに15分ほど立ち寄る。目当ての本があったわけではなく、あ行からただただ目を移行させる。こうした時間は最近ほとんどまったくない。この前本当に久しぶりに持てた(→ ⚫︎)。そこでの気分の上昇が持続していて、今回の途中下車となった。時間の贅沢な使い方だ。この日は1冊だけ単行本を購入し、そのぶん荷物を多くして、重くして、また電車に乗り込む。

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 T川駅改札前にはH根駅伝予選会の宣伝の一画。母校の幟も発見。

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 N須で前泊するホテルをY叔父——わたしの母の弟——一家総勢8名と同じにした。とはいえ、わたしの部屋は別館で、ビジネスホテルの一室といった具合。N須塩原駅からタクシーでホテルに向かい、部屋で荷物を解き、それから本館の叔父たちの広い、きれいな部屋へ行き、そこで一杯すすめられ、19時から夕食をともにする。夕食後も叔父の部屋でまた飲む。別館に戻ったのは24時。

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 当日はタクシーで、まずは結婚式場へ向かう。式自体は撮影禁止であったため、写真はない。親族紹介で、新婦の父であるK叔父——わたしの母の妹の夫——が親族ふたりの名前を間違えた。緊張ぶりがうかがえた。式と披露宴会場は離れていて、式後の移動では、Y叔父たちの車に便乗させてもらった。

 上の写真は披露宴会場の様子で、全体的にピンク色とDィズニー色の装飾になっていた。新郎新婦ふたりともにDィズニーは好きなようであったが、とりわけ好きなのは新郎で、それは幼い頃から毎年ご両親に連れていってもらっていたからだそうだ。新しい家族でもその慣わしは続けたいと言っていた。

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 新郎新婦の登場にあたっては、会場の外に出て、そこでウェルカムスピーチや祝辞や乾杯もなされた。こういうやり方ははじめてだ。

 披露宴でとりわけ感動したのは、新婦の父、つまりK叔父のいわゆるサプライズ演出で、それはN島みゆきのあの歌のサックス演奏というものであった。今年の5月にまったく演奏できないところから習いはじめ、新婦である娘が好きでもある曲を月に3回、誰にも言わずに練習してきたらしい。とはいえ、演奏は正直ぎこちなかった。が、そのぎこちなくも懸命に演奏する姿がむしろよかった。

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 従姉妹たちとは、幼い頃はよく集まっていたが、わたしが中学に入ったくらいから——だと思うが——なかなかそういうわけにもいかず、だからわたしの従姉妹の印象は小さいままだ。その後にももちろんたまには会うことがあり、その小さい印象は更新されてしかるべきだが、それはうまくいっていない。しかし、みんな大きくなっている。わたしも年を重ねている。意識が実年齢に追いつかない。

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 Aやの、結婚おめでとう。新郎が優しそうな人でよかった。歓びのある日々を。

@研究室

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by no828 | 2017-10-20 18:33 | 日日 | Comments(0)
2017年 10月 12日

パンにはチキン、コーヒーには泡

 某翻訳・出版の検討会を2日間合宿形式で実施。場所はK分寺。投宿先はK分寺で確保できず、T川。K府からだと初日の開始時間に間に合わないため、前泊(6時すぎの鈍行に乗ると間に合うようだが、それは辛い。早いし、時間がかかりすぎる)。T川には21時頃到着。



 お昼休憩やK分寺駅までの帰路に古本屋を散策。K分寺だと下掲写真のお店が——少なくともわたしの研究関心に照らすと——よいという印象。古本だとN荻窪駅界隈がよいと聞くものの、まだ1度も行ったことがない。

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 T川駅前(=ホテル前)のラーメン店街にも行ってみた。

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 宿泊は朝食付きのプランであったが、ホテル内で朝食を摂れるわけではない。チェックイン時に、近隣のBックスコーヒー(など)へ行かなければならないと説明された(そんな説明を予約のときに読んだ気もする)。初日は朝食券か、クオカードの選択(お店が狭くて混雑するためクオカードも用意した、と説明を受けた)、2日目はなぜか朝食券のみ(お店が変わるわけではないのにクオカードは示されなかった)。両日ともに悠長に朝食を摂る余裕がなかったため(普段もヨーグルトとバナナくらいしか食べないし)、食べずにK分寺へ向かう。そういえば、そのときのクオカードをまだ使っていない。2日目の朝食券は朝食の時間帯を過ぎても使えるということであったので、K府への帰路T川で途中下車して夕食券として使用した。

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 パンにはチキン、コーヒーには泡。

@研究室

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by no828 | 2017-10-12 19:22 | 日日 | Comments(0)
2017年 09月 14日

乾杯はSではなくOに

 先の週末は3泊4日で某学会大会のあるM庫川女子大学へ行ってきた。昨年と同じ場所だ。(来年も同じらしいという噂もある。)

 行程は往復ともにS尻・N古屋経由。K西方面へ行くのに、なぜいったんN野を経由しなければならない——方角としては北上することになる——のか、という若干の憤懣はあるものの、所要時間はH王子・S横浜経由とそれほど変わらない。運賃もH王子・S横浜のほうが高い。というわけで、以下の写真はそのS尻駅のホーム。

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 宿はO阪U田。そこからH神でN尾へ2日間通う。急行から各駅への乗り換えはあるものの、所要時間は20分程度。去年と同じ方法。大会でご一緒したI澤さんには「U田好きだね」と言われた。そういうわけでもない。O阪駅・U田駅周辺の地下空間は混み入っていてすぐには慣れない。

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 懇親会を除いて大会日程のすべてに参加。この学会はわたしのなかで知り合いも少なく、まだ場違いな感覚が強い。1度だけ懇親会にも参加したことがあるが、少々辛いものがあった。

 今回は、初日のお昼にわたしの直接の知り合いの方とその方の知り合いの方と5人で食事をした。直接の知り合いの方とは午前中の部会でたまたま近くの席になった。少し話して、お昼ご一緒しませんか、とお誘いいただき、ぜひ、と応じた。ただ、わたしの想定では、昼食はその方とわたしの2人であった。そこから派生して5人で少し歩いたところにある——実は遠回りしていた——Gストへ行った。5人は(たぶん)同世代ということもあり、研究の話もしやすかった。帰りは最短距離——だと思う——で会場まで戻った。

 実はこの日、わたしは昼食を準備していた。大会校であるM庫川女子大学の周辺には食事ができるところがほとんどないため、コンビニなどで昼食をご準備のうえご参加ください、と事前に案内があったからだ(だから去年もコンビニ対応した)。が、それは伏せてGストへ行った。準備したコンビニおにぎりは夕飯としてホテルで食べた。夕飯のためにH神地下で惣菜も買った。

 2日目のお昼は、大学院の先輩でもあるH井さんとご一緒した。初日の午後にお目にかかって(H井さんは午後からいらしていた)、明日お昼一緒に食べよう、とお誘いいただいた。Gストがそう遠くないところにあることが初日にわかっていたので、どこで食べるか心配することはないと思った。今度は最短距離でGストへ向かった。が、途中で「自家製麺」ののぼりがあることにH井さんが気づかれた。そこはラーメン屋で、ふたりで豚骨系のラーメンを食べた。ふたりとも1回替え玉をお願いした(2玉まで無料らしかった)。わたしにとっては人生初の替え玉となった。ラーメンで大盛りを頼んだことはあるが、替え玉を頼んだことはこれまでなかった。替え玉方式のラーメン自体を食べたことがないのかもしれない。

 2日目の夜は、大学院の後輩であるS口とU田で合流した。彼はいまH庫教育大学に勤めている。そこから高速バスで来てくれた。昨年も一緒に飲み食いした、駅にもバス・ターミナルにも近いビルの地下街へ向かった。

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 ほぼ1年ぶりのS口の近況などを聞く。今回は“本当に聞きたいこと”というか、“真偽を確認したいこと”があり、かなり間接的に水を向けたりもしたのだがなかなか思うようには展開しなかった。あるいは偽なのかもしれない。自発的な告白に委ねようとはじめから思っていたからそれでもよい。本当はS口に乾杯したかった。が、果たせなかった。でも「O阪に乾杯」は飲んだ。かなり爽やかな味がした。(付記:帰路、S大阪駅で「O阪に乾杯」350ml缶を2本買った。お土産売り場というよりはコンビニのようなところに売っているはずだ、という目星を付けていた。そのとおり、そうしたところにあった。)

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 S口は22時の高速バスで帰っていった。21時50分までお店にいて、バス・ターミナルまでふたりで走った。わたしは走る必要はなかったし、そのように言われもしたのだが、ひとり走らせるわけにはいかないと、酔ったところでむくむくと湧いてきがちな義侠心のままにわたしも走った。バスには間に合った。S口は1番前の席、しかも窓側にすでに人が座っているところの隣に座った。バスの後部の座席はまだまだ空いていたからそのように手ぶり口ぶり(?)で伝えようとしたが、S口は動かなかった。そのときは不思議であったが、座席は指定されていたのかもしれない、とあとから思った。

 大会自体はかなり情報量の多いもので、まだ消化しきれていないところがある。問題意識の段階で追いついていないものもある。その続きこそが聞きたいのだ、ということもある。が、刺激を受けたことは事実だ。もっと勉強しなければならない——この大会へ行くといつもそう強く思う。

@研究室

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by no828 | 2017-09-14 19:59 | 日日 | Comments(0)
2017年 06月 04日

学園とざる蕎麦

 5月後半の土日は2週連続でT川大学T信教育課程「K育原理」集中講義。1コマ100分、休み時間10分、計15コマ+試験という時間割の組まれ方にはじめのうちは慣れずに戸惑っていましたが、何とか終えることができました。教室は学園入り口すぐのところにある“Pルテノン神殿”のような建物にありました。学園はさらに奥に敷地が広がっていて、規模がとても小さな本務校とは異なる広々としたキャンパスを羨ましくも思いました。

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 対象は約25名。主にK員免許の取得を目指す、いわゆる社会人の方々でした。H育士の資格はお持ちの方、Iンターナショナルスクールなどの現場ですでに経験を積まれている方もいました。わたしより年下の方も多かったですが、なかには人生の先輩も含まれていました。かつて夜間の専門学校で非常勤講師をしていた際の“学生”も資格取得を目指す社会人の方々で、そのときのことを思い出しました。

 ※直下の写真は神殿から最寄駅方面を臨むの図。

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 社会人としての歩みをすでにはじめられているなかでいわば人生を賭して、目的を明瞭に立てられたうえで受講されているその様子はまさに真剣で、本務校の学生たちにも見せてあげたい——というか、見習わせたい——と強く思いました。ときに頷きながら、ときにメモを取りながら講義を受けるという風景が当たり前のように見られました。1コマごとに書いてもらっていたリフレクション・ペーパー——コメント・ペーパーとかリアクション・ペーパーなどと呼ばれるものをわたしはそのように呼びたい、位置づけたいのですが——の書きぶりにも熱が込められていて、休み時間になっても、お昼休みになっても書き続ける方がたくさんいました。それでわたしの休憩時間もなくなってしまい、本来1時間のお昼休みも、朝コンビニで買って控え室に置いておいてぬるくなったざる蕎麦を——蕎麦は冷たいほうがやっぱりおいしいなと思いながら——急いですするという事態になったわけですが、それはそれで味わい深いものでした。nコマ目の冒頭にn−1コマのリフレクション・ペーパーの内容を口頭で紹介するようにしましたが、それもメモを取りながら聴いていて、“本学だとこの時間はだらけるだろうなあ”と思ったりもしました。「K育」について伝えたいことがあるのだ、受講生同士がお互いに学び合うという状況も大切にしたいのだ、というこちらの意図と、「K育」について学び(合い)たいという意図とが、うまく合致していたように感じます。幸せなことです。受講生のみなさんの熱にわたしも励まされ続けた、支えられた4日間でした。

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 夏季にまた別の科目で講義が6日間連続(!)であります。そちらもがんばろうと思っています。まずは今季「K育原理」のレポート・試験の採点・成績評価です。

@F沢

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by no828 | 2017-06-04 11:16 | 日日 | Comments(0)
2017年 04月 23日

私は決して書き逃げはしないし、私も共にここで生きていくのだ——渡辺一史『北の無人駅から』

 渡辺一史『北の無人駅から』北海道新聞社、2011年。42(1040)


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 北海道の無人駅を結節点とした人びと、風景、動物の歴史と物語。「地方」とは何なのか——本書にはそれを理解するための手がかりが豊富に含まれています。気づかされた点が多々ありました。

775-8)あとがき
 もっと「本当のこと」を書かなければならない——。この20年間で、私が見たこと、感じたこと、考えたことのすべてをこの本の中に封じ込めたい。この本の取材と執筆に取り組みながら、私が憑かれたように思い続けてきたのは、そのことだった。
 書きながら、考え、悩み続けていたことがもう一つあった。
 それは、「地方」を描くとは、「地方に生きる人たち」を描くとはどうあるべきなのか、ということだった。〔略〕
 結局のところ、私がとった方法は、長いスパンでその地域を見続けること、そして時間をかけて取材対象者とつきあっていくということでしかなかった。私は決して書き逃げはしないし、私も共にここで生きていくのだ、という絶えざる働きかけの中で、私がそう書かざるをえなかった理由を、私の人間性とともに、彼らに、そして読んでくれる人にも納得してもらうほかないのだろうと思っていた。〔略〕自分の定めた目標に対してウソはつかなった、ごまかさなかったという思いだけはある。とにかくこの8年、私は寝ても覚めてもこの本を完成させることだけを考え続けていた。この本一冊のために、一度もさわやかな朝食を口にしなかった。

106-7)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 しかし、六花に泊まり、夜ごと話をしてみると、田中さんの言うことはいちいちもっともで、何よりその信念を曲げない姿勢に敬意を抱くようになった。
 ただ妥協を許さないそのやり方が、知らない人には偏屈だと思われがちなのだ。
「誤解が多くて大変でしょうね」私がいうと、
「いやもう、誤解どころか、ごかい、ろっかい、超高層ですよ」と笑った。「でも、私には私の基準っていうのがあって、それを手放したら、もう自分でなくなっちゃうからね
 それにしても、私はこの「茅沼ツル騒動」を思い出すたび、
《疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを》
 という古い謡曲の一節を思い浮かべる。
 もめごとのタネは、つねに人間の側にあるのであって、タンチョウや自然の側にはない。タンチョウを狩猟の獲物にしたり、かと思えば一転、手厚い保護の対象にしたり、観光の客寄せに利用したり…と、ものごとを複雑にしているのは、いつも人間の方なのだ。

121-2)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 タンチョウは、自分たちを追いつめた人間の手を借りて生き延びることになった。それが人工給餌である。皮肉といえば、あまりに皮肉な話なのだ。だから、「その哀しみを、もっと深く受け止めなければならない」と田中さんはいう。
人からエサをもらってる場面というのは、タンチョウにとって、じつは屈辱的な場面なんですよ。本来であれば、こうやってトウモロコシをあげてる間に、われわれはタンチョウが住める環境に戻して、返してあげなきゃいけない。なのに、人間はなにも進歩してない」
 それどころか、タンチョウへの給餌を、あたかも「人とタンチョウの共生」であるかのように美談として語ったりする。〔略〕
「歴史の哀しみを、もっと深く受け止めなければならない」〔略〕
せめて釧路湿原くらいは、もうすべてタンチョウに解放してあげたらいいんですよ。そして、人間は一切立ち入らない。タンチョウが野生を取り戻せるように、湿原をタンチョウに返してあげたらいいんですよ
 もし釧路湿原をタンチョウに丸ごと返すというのなら、自分も一切の給餌から手を引いて、この場から立ち去ってもいい、と田中さんはいう。〔略〕田中さんは「給餌」ではなく、「給仕」という言葉を使うべきだと主張する。タンチョウにとって、トウモロコシは「餌」ではなく「食べ物」だという信念があるからだ。
 タンチョウに“給仕”をしながら、田中さんは「アンタは食べる権利がある、私は持っていく義務があるんだ」と思っているという。

160)「タンチョウと私の「ねじれ」」
一番だいじなのは気持ちの問題。やさしいだけだと馬だって蹴ってきますし、噛んできます。マルチーズだって牙を剥いてきます。動物はつねに順位関係を見てますから。〔略〕『乗るぞ』オレがおまえの主人。『よろしくねー、重いけどごめんねー』っていうくらいなら乗らない方がいいですね。感謝してかわいがるのは降りたあとでいいんです。ムツゴロウさんみたいに『よーしゃ、しゃしゃしゃ』って」
 事実、降りたあとの馬への感謝とかわいがりようは堂に入ったものだった。この桑原さんの懐の深い包容力が、日々の動物たちとの暮らしを支えているのである。
 しかし、そうした気持ちのメリハリが、私を含めた現代人の最も苦手とするところではないか。

165)「タンチョウと私の「ねじれ」」
 桑原さんがシカを撃つのは、人間がオオカミを絶滅させてしまった以上、その代役を果たすのは人間の責任であるとの考えからだ。しかし、その際に重要なのが、すべてを人間の都合だけで考えるのではなく、生態系のピラミッド全体を見渡した自然保護だと説く。
「何よりも大切なのはバランスなんです。
 それぞれのメンバーが適正数そろって、初めて豊かな森、健康な森がつくられる。森が健康かどうかは、地球が健康かどうかのバロメーターだと思います。であるのなら、シカが増えすぎれば間引きする。また、数が減りすぎたら全力で保護する。全体をバランスよく見渡した上で物事を考えていく必要があると思います
 また、日本では、ハンティングという行為は自然保護から最も遠い行為と思われがちだが、本来、第一級のハンターは第一級のナチュラリストでなければならないと桑原さんはいう。

168)「タンチョウと私の「ねじれ」」
「シカがかわいそうとは思わないですか」
 私が単刀直入にそう訊ねると、桑原さんは思わず私の顔を見て、そして、ひと呼吸ついてからいった。
「思いますね。ものすごく残酷なことをする。一般的にいうと、かわいそうなことをするってことです。そこを曖昧にすべきではないですね。
 ぼくは、殺すことが全然『いいこと』だとは思わないし、ウマに乗って笹を踏み分けながら森の中へ入っていくと、シカのすぐ間近まで寄れるんですね。そんなとき、シカはすばらしくきれいな美しい動物だと思います。その美しいシカの命を、この手で奪うということです。だから、狩りをしながらも、つねに葛藤の連続ですね
 桑原さんの言いたいことはよくわかる。つまり、それが「肉を食う」ということの本質なのだろう。そして、殺すからこそ畏れの感情も抱くし、シカの血の一滴さえムダにしないという獲物に対する感謝や慈しみの感情も生まれる。
 逆に、普段から肉食しまくっているくせに、自分の手を血にまみれさせることがない現代では、狩猟を他人事のように「残酷だ」と感じてしまうのだろう

174)「タンチョウと私の「ねじれ」」
「だけど、人間が悪い、人間が自然をおかしくした、すべては人間のせいだって、よくいいますけど、じつはそう語ってるのも人間なわけですよね。
 あくまで人間を除外するわけにはいかない。人間としてどう自然の中で生きていくか。それはやっぱり人間が考えていくしかないんですよ。
 今まで、人間が自然に手を加えすぎておかしくしたんだから、これからはいっさい手を加えずに温かく見守りましょう。表現的にはすばらしいですね。温かく見守りましょう。
 でも、自然のバランスをこれだけ崩しておいて、あとのことは知らない、あとはいっさい手を加えずに見守りましょうでは、あまりに勝手すぎませんか。
 まずは、自然にさらに手を加えてでも、人間の英知によって崩れたバランスを取り戻す。それが人間の責任なんじゃないですか

417-8)風景を「さいはて」に見つけた
 もともとユースホステルという発想は、今から100年も前にドイツで生まれたものである。発端は、ドイツの小中学校の教師だったリヒアルト・シルマンという人が、子どもたちを長期の野外遠足に連れ出そうとしたことから始まった。
 20世紀初頭のヨーロッパは、とりわけ工業都市などの公害が発生し、煤煙や排気ガスなどで大気が汚染され、肺結核などの病気にかかる子どもが増加していた。そこで子どもたちを都市郊外へ連れ出し、豊かな自然の中で学ばせたいとシルマンは考えたのである。
 しかし当初、この考えは同僚教師や親の無理解、反対にあい、なかなかうまくいかなかった。何より問題だったのは、泊まるところが見つからなかったことで、農家と交渉して納屋に寝泊まりさせてもらうなど苦労を重ねていた。
 そんなあるとき、シルマンは神の啓示を受けたかのようなひらめきを得る。
夏季休暇などで使用されていない学校の教室を、子どもたちの宿泊施設として利用できないだろうか。そして、それをドイツじゅうの学校に呼びかけてネットワーク化できないか
 これがのちのユースホステル運動となって世界へ広がっていく発想のもととなった。
 シルマンがこの着想を得たのが1909(明治42)年8月26日で、この日は「ユースホステル誕生の日」(シルマンデー)として関係者の間でメモリアルデーとなっている。
 しかし、こうしたシルマンの発想もまた、当初は多くの人に迷惑がられ、反対にあったという。

420)風景を「さいはて」に見つけた
 本来、ユースホステルとは「サービス業」ではなく、「青少年育成」のための活動であり、むしろそこに営利目的の旅館やホテルとは違ったユースの独自性があったわけだ。禁酒や消灯時間はもちろん、中には食器洗いや部屋の清掃を義務づけているユースもあった。
 しかし、同時にそのことが、「ユースは安心して泊まれる健全な宿」という信頼感を利用者に抱かせ、とりわけ女性の旅行者にとってユースの存在は大きかっただろう。

423)風景を「さいはて」に見つけた
 とはいえ、利用者に迎合して変わっていけばそれでいいのか。設立当初の崇高な理念を手放して、単に気楽な「安宿」として活動を維持できればそれでいいのか。
 ここにユースホステルの抱える大きな悩みもある。
しかし、それは百年にわたるユースの長い歴史と伝統から必然的にもたらされた悩みであり、大切な悩みでもあると私は思う。関係者が悩みぬいて結論を出していくしかないのだろう。

607-8)「陸の孤島」に暮らすわけ
「国道が開通したら、《町ア忙しくなる、銭こは落ちる》っていうのは、実際はどうだったんですか」
 私が訊くと、「ゼニコかい? 落ちないさ」と飛内さんは無表情でいった。
だって、道路ができたらみんな素通りだも。昔は『陸の孤島』で秘境だったから、珍しく来てたのさ。逆に、今こう便利になったら、秘境でもなんでもない、ただの田舎だから
 飛内さんの率直な物言いに私は笑い声を立てたが、飛内さんはいたってまじめな表情だった。
「道路ができて、逆に悪くなった?」
 私がなおも訊ねると、今度は飛内さんが笑い声を立てた。
「悪くなったなんちゅうもんでないよ。道路できる前だら、あんた、雄冬丸に鈴なりになった観光客乗って来たんだから。して、ここ行き止まりだったから、来たらみんな泊まってくしょ。だから、民宿だとか商店だとか、そのへんの経済はよかったんだ」

704-5)村はみんなの「まぼろし」
都会なら、浮動票(特定の支持政党や候補者を決めていない人の票)や無党派層っていうのが必ずあるでしょ。それはね、誰に投票しようが生活に大差ないから。ところが、こういう田舎は、浮動票っちゅうのが一票もないです。都会と違って、選挙結果がすぐ形になってあらわれるから。役場に物言っても、すぐいろんなことの反映がくるし、そのへんが、もうモロに感じる部分。そして、その反動も大きいしね」

743)村はみんなの「まぼろし」
 神さんは、ことあるごとに「ケージ飼いのニワトリ」という言い方で、日本の地方行政のあり方を表現してきた。檻に入れられ、エサ箱に与えられるエサを食べることだけに慣らされたニワトリ。自分から檻の外に出ようとはせず、国にただ分け前を主張するだけのニワトリが、これまでの地方と地方の行政マン、そして、われわれ住民のあり方だったのではないか、と。
「自治って、自分たちで治めていくものだという、このことに、国民は気づいていなくて、生かされてる私たちになってるのよな。だから、上からカネが下りてこなくなったら、もうやっていけねえんだと。すぐそういう判断へ走るわけですよ

@研究室

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by no828 | 2017-04-23 15:11 | 日日 | Comments(0)
2017年 04月 22日

桜の木の下で雨が降りはじめた

 最近は昨年読んだ本についてのアップロードが続いています。まだ終わっていないという体たらくです。今回は近況について少し書きます。

 4月12〜13日とまだ雪残る標高1,400メートルでの1年生向けオリエンテーション合宿に参加し(小さい大学は全教員が参加するのです)、大学に帰ってきてからすぐに教○実習の説明会を開き、14日から本格的な講義がはじまり、という具合で新年度が本格的に稼働してから約1週間が経過しました。授○評価の責任者を引き続き務めることになり、業者や学内の各部局への連絡・依頼なども頻繁になってきました。

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 非常勤での講義も、前期の通常開設のものだと1大学・1看護学校で合計2科目受け持ちます。写真は2枚ともその大学の今週の風景です。講義が終わって外に出たら、雨が降りはじめたところでした。ちなみにその日は、M鷹駅からバスで向かいましたが、昨年度と乗り場のバス停の位置が変わっていました。昨年度までのバス停の系統に異なる番号が示されていたので、運転手の方に「○野は停まりますか」と訊いたところ、「停まりません。5番です」と言われました。大学に着いて、教員ラウンジへ行ってみるとドアを開錠するための暗証番号があやふやになっていることに気づきました。番号はよく覚えていないものの、数字などの配列盤を前にすると何となく指を動かす順番を思い出してきて、無事に1回で開けることができました。

 この大学は講義をはじめて4年目に入りました。まだ就職できなかった頃にお話をいただき、その後K府に行ってからもC央(本)線で通勤可能であるため、続けています。

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 昨年度の受講生に4年生がいました。単位のために取ることにした、ということでしたが、講義が進むにつれて毎回書かせているリフレクション・ペーパーにも熱が入っていくのがわかりました。後半になって話しかけてくれるようになり、講義について考えたことや自分の進路などについて語ってくれました。

 わたしの講義は、最後10分くらいでそのリフレクション・ペーパーを書かせ、5分経過した時点で“終わった者から静かに帰ってよい”ということにしています。最後の講義で、その学生は5分くらいで書き終わり、教室を出ていきました。しかし、全員が書き終わって教室から学生がいなくなるのを確認するとまた教室に入ってきて(つまり、外で待っていたということです)、この講義全体の感想や自分の置かれた状況などをまた話してくれました。そこで「4年間で1番おもしろい授業でした。先生の講演会とかあったら行きます」と興奮ぎみに言ってくれました。とてもうれしかった。平たく言ってしまえば、教員冥利に尽きるということですが、非常勤も含めてこれまでの教員としてのキャリアのなかで、教壇に立つとはどういうことか、いろいろと考え、消極的になったこともなかったわけではありません。教員であることに慣れないようにしているところもあります。しかし、それでも先の言葉はとてもうれしかった。

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 教室へ行ってみると、受講生数は昨年度の3〜4倍ほどでした。まだ履修登録の途中でしょうし、変動はあるかもしれません(たぶん減ります)が、これはもしかしたら昨年度の4年生が「この授業、後輩にすすめておきますから」と言っていた、その影響かもしれません。

 ちなみに、本務校では立場上、学生との接点はあまりありません。教○課程の学生のみ、と言ってよい状況です。それでも、1年生のときに講義をした学生がいま3年生になり、「先生、読書会をしてくれませんか」と言ってきたりもしています。これもとてもうれしいことです。ここにいる以上は、こうした限られた接点を深いものにしていきたいと思っています。ただ、上から降ってくる、横から流れてくる研究・教育と直接関わりのない事務的な業務よりも講義をしたいという自分の気持ちを大切にしようとしたとき、ではこれからどうするべきなのか——そうしたことも考えています。

 さて、今回書いたことは○○ルに○実した事柄に含まれるでしょうから、いまの趨勢だと顔本に書くものなのかもしれません。でも、まだしばらくはこちらに書き残していきたいと思います。

@研究室

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by no828 | 2017-04-22 16:43 | 日日 | Comments(0)
2017年 04月 02日

しかし逃げて生きることを選択した人々の生き方にも別の輝きがあると私は思う——星野博美『みんな彗星を見ていた』

 星野博美『みんな彗星を見ていた——私的キリシタン探訪記』文藝春秋、2015年。27(1024)


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 良書。リュートを演奏したい、日本のキリシタンの歴史を学ぶ、長崎へ行く、バスクへ行く、というすごい展開の本です。

 事実は想像力がないと理解したことにはならないと思いました。想像力を働かせても理解したことにはならないかもしれないが、あったほうが理解は深まる。日本には「島原」など伝道師やキリシタンを殺した歴史があり、それを知ってはいますが、その意味を理解できていなかったこと、それが自分のなかに位置づいていなかったことを思い知らされました。

 本書318ページ(本ページ下から4番目の引用)に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産推薦について言及があります。長崎県のウェブサイトを調べてみたところ、「「長崎の教会群」の推薦書取り下げについて」というページがありました。

 先生は腕組みをしながらしばし考えを巡らせ、メモ帳に鉛筆を走らせた。
 キリスト教(求道中)——
「求道中なら、キリスト教に興味はあるが、まだ洗礼は受けていない、という状態を示している。まったくの嘘ではないし、誇張でもない」
 私は先生の知恵にうなった。さすがは大人だけあって、自分には思いつきもしない語彙を知っている。〔略〕
「いい? もし面接で聞かれても、求道中だということをアピールするのよ」
〔キリスト教主義指定校推薦の〕願書の宗教欄には、言われたとおり「キリスト教(求道中)」と記入した。
 推薦試験の当日、面接では宗教に関する話題は何一つ出なかった。そして、入学は許可された。「仏教」と書いていたら結果がどうなっていたのか、知る由もない。もしかしたら大丈夫だったのかもしれないし、思いきりつっこまれて不合格とされたのかもしれない。しかし進路がかかった局面でそれを試す勇気は、当時はなかった。
 ただ、自分が宗教を利用したことに変わりはない。(16-7)

 しかし「レコンキスタ」という言葉自体、キリスト教徒側の一方的な目線である。イスラーム王朝は同じ「啓典の民」であるキリスト教徒にもユダヤ教徒にも改宗を迫ることはなく、三者は共存していた。それがキリスト教の熱狂に覆われることになった。
 一四九二年というと、「コロンブスのアメリカ大陸発見」で覚えている人が多いだろう。私もそうだった。しかしこの年スペインでは極めて重大な出来事がたて続けに起きている。一月二日のグラナダ王国陥落。そして三月三一日に出されたユダヤ人追放令だ。この三つが同じ年に起きたのは象徴的で、スペインは多文化・多宗教・多民族を棄て、カトリック一色に染まった非寛容な単一宗教国家となってゆく。(47)

 イエズス会のパードレたちは、当時のヨーロッパでトップクラスともいえる極めて高い教養を持った多国籍軍団だった。現在のような国境概念ではないにせよ、ポルトガル、スペイン、イタリアなど、出身地は様々。高い教養のバロメーターであるラテン語は誰もが自在に操ったが、様々な言語で文章を書いた。いまもヴァチカンのイエズス会歴史研究所や古文書館には膨大な量の書簡や報告書が保管されており、日本語に訳されているのは限られた一部なのだそうだ。日本史の一端を担う「キリシタン史」を専門にする研究者が少ないのは、この多言語の壁がネックだといわれるのもうなずける。(48)

 ちなみに〔山下暁彦氏は〕いまは楽器を一切弾かない。制作者は楽器を弾くな、というのが親方の信条だった。
弾く人それぞれに音の好みがあり、その音を実現させるのが制作者の仕事。自分が弾いてしまうと、どうしても人の音色を批評したくなってしまう。制作者は、それではだめなんです」(60)

 また、この楽器はどんな名前でどういう形をし、何本の弦で形成され、どう弾く、という定義はみな、あとの時代の人間が考えたことであり、当時はそれほど厳密ではなかったという。〔略〕
 こう想像してみてください、と山下さんはいう。
 旅する吟遊詩人や演奏家の中には、ちょっと目立ちたがり屋の人が必ずいる。人と違うことをして、今日こそ目立ってやろうと思っている。昨日までは手で弾いていたが、弓を使ってみたらおもしろい音が出た。爪を使ってみたら、また一味違う音色になったが、思ったほど聴衆の反応がよくなかった。しかし違う村に行くと爪が好評だった。弾いているうちにもっとたくさんの音階が弾きたくなったが、弦が足りない。だから弦を増やしてみる。形も少し変えてみたら具合がいい。(62-3)

 ローマ教皇に会った最初の日本人は、天正遣欧使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンである。一五八五年三月二三日のことだ。
 いや、それは必ずしも正しくない。教皇グレゴリウス一三世の謁見式の日、ジュリアンは熱を出して式典から外され、教皇に正式に謁見したのは三人だけだった。〔略〕しかし教皇はジュリアンを忘れなかった。ローマに到着するや彼は教皇の元に運ばれ、祝福の抱擁を受けた。だから教皇に最初に会った日本人はジュリアンということになる。
 タッチの差でジュリアンが先に教皇に会ったことを論ずるのはあまり意味がなかろうが、華々しい謁見式という祝祭の場で教皇に跪いた三人と、熱に冒された身でひとり教皇から抱擁されたジュリアンとでは、教皇に対する思い入れは異なったのではないだろうか。それから半世紀近く後、壮絶な殉教を遂げたのはジュリアン一人である。(91-2)

 しかし、だからこそといっていいかもしれないが、国家を背負っていないから広東語が好きなのだ。普通語は否応なしに中国という国家を意識させられる。広東語を話す時、私はどこの国家も意識しない。(108)

 島原に入部した松倉氏〔重政・勝家親子〕は、当初はキリシタンを黙認したものの、石高に見合わないほどの豪華な城〔=島原城〕を建て、挙句の果てにはマニラ攻略という無謀な野心を抱き、苛政を敷いて無理な年貢を民に押しつけた。抵抗する者は「キリシタンに立ち返った」という理由で容赦なく殺した。そんな苛政に対する不満が、島原の乱を引き起こすことになる。この城壁の石ひとつひとつに島原の乱の怨念が詰まっていると思うと、怖くて近寄る気がしない。〔略〕
 雲仙温泉では、小さな穴をいくつも開けたひしゃくに温泉の熱湯を入れ、棄教しないキリシタンの体にかけることを繰り返し、息もたえだえになったところで煮えたぎった谷底に突き落とすという、筆舌に尽くしがたいキリシタン責めが行われた。今回の列福者のなかには、雲仙で命を落としたキリシタンが多数含まれている。もともと温泉は好きではないが、私が日本で最も行きたくない温泉こそ雲仙温泉なのだ。(191)

 信仰を貫いて潔く死ぬことは強さかもしれない。しかし逃げて生きることを選択した人々の生き方にも別の輝きがあると私は思う。(227)

 少数派の人たちが、自分たちの理解を越えた不気味な行動に走っている。当時の非信徒の日本人の心性を想像してみると、それはたとえばいまでも私たちが、ある種の新興宗教や、自分とは縁のない異宗教に対して送る視線と似てはいないだろうか、と思うのだ。
 私はこれまで、徳川幕府が徹底したキリスト教=邪宗という洗脳を行ない、宗門改めを行なって思想統制を行なったからこそ、民の間に邪宗観が広まったのだと思いこんでいた。
 それが強化した側面はあるだろうが、それだけで広まったわけではないのかもしれない。
 日本人にはなかなか受け入れられない感覚が、当時のキリスト教にあったことは確かではないか、といまでも思えるのである。(233)

 つまり異教の地へ布教に出る外国人宣教師は、殉教可能地域へ行くことがあらかじめ織りこみ済みだった。殉教するかもしれないが行く、ではなく、殉教する可能性があるからこそ行く、だったかもしれない。彼らが思い描く世界地図には、殉教可能地域と殉教困難地域の色分けがあったと、私は思っている。(237-8)

 私個人はカトリック教会の教義にはついていけない部分がある。しかし少なくとも、この「あなたの存在を忘れない」というすさまじいほどの執念には目を見開かされる。
 列福調査の複雑なシステムや度重なる神学的議論は、突きつめれば殉教者を「記憶する」という一点に行き着く。
 記憶するために、調査し、記録する。そして、伝え続ける。
 それはそっくりそのまま、私たち日本人が最も不得意、あるいは意図的にやろうとしないことではないだろうか。

 とりわけ歴史を忘れやすいといわれる私たちは、ただ忘れっぽいのではなく、積極的に忘れてきたのだと、数百年の時を越えてマルチルたちが伝えているような気がするのだ。(248)

 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、今回の〔「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の〕世界遺産推薦は、「キリシタンの世紀」を「信徒発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように思える。また日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 仮にこれらが世界遺産となり、富岡製糸場のように観光客で賑わうことになったとしたら、弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。(318)

 キリシタンの中には、最後まで信仰を貫いた誇り高い武士もいれば、貧者もいた。つまりある特定の社会階層にだけ存在したわけではないのである。ましてや殉教者の中には、朝鮮半島出身の「高麗人」が少なからず含まれている。それだけ幅広い出自を持った人々に、武士道精神の発露を見ようとするのは、多少無理があろう。信仰はあくまで個人の意志表明だったと考えるほうが自然ではないだろうか。〔略〕
 殉教者は武士だから誇り高かったのではなく、日本人だから誇り高かったのでもない。キリシタンだから誇り高かったのだと、私は思うしかない。(327)

 後世に残された絵や演奏の逸話は、南蛮文化の頂点というより、血なまぐさい迫害がすぐ背後に迫った、最後の一瞬のきらめきだったのである。それは、突然空に現れて夜空を照らし、それを見たある者は珍しくて美しいと言い、ある者は不吉だと言う、彗星のようでもある。(362)

 彼らはパードレの人間性に惹かれたのではないだろうか。
 そしてパードレもまた、キリシタンから影響を受けていた。ハシント〔・オルファネール〕は、こんなことを書き残している。
キリシタンが深い信心を抱いて私たちを迎えるために生命を危険に晒し、或る所では焼き殺される危険があるのに私たちを迎えてくれるのを見るとき、私たち修道士が彼らの模範とならずにいられるでしょうか? またこのキリシタンたちを尊敬せずにいられるでしょうか?」(一六一九年一〇月二五日)
「管区長よ、私は価値のない人間であるのに、この立派な人々の中に住むようにし功徳となる多くの機会を与えて下さった台下に御礼を申し上げます。いま私が感じているこの感謝は一生私の心に残るでしょう。」(一六二〇年三月)
 彼らはみな地上から姿を消し、天上の星となった。
 私は彼らが最期に迎えた、殉教というむごい結末ばかりにとらわれていた。しかし天に召される前、互いに心を通わせる幸福な瞬間があったはずだと、その時、思えたのだった。
 ラ・ハナでそう思えたことこそ、ハシントの贈ってくれたプレゼントだろう。(429)

@研究室

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by no828 | 2017-04-02 15:20 | 日日 | Comments(0)
2017年 03月 29日

人も生きよという

 先日、映画「風は生きよという」をI城市で観てきました。S谷区の映画館で上映されているときに行きたかったのですが、都合がつかず。本作はDVDとして販売されているわけではないので、観るためにはどこかの上映会へ赴くか、自身で上映会を企画するか、です。後者をするにしてもまずは前者が必要と思い、公式サイトの上映情報をときどき確認していました。ようやく何とか行けそうであったのがI城市でした。

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 呼吸器なしでは生きられない人、身体の可動域が大きくない人が与えられた家族から離れて暮らす——その実際が映されていました。また、当事者がそれをどう捉えているのかも映されていました。以前読んだ、渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ——筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(北海道新聞社、2003年)や横塚晃一『母よ!殺すな』(生活書院、2007年)などを思い出しながら観ていました。また、大野更紗さんのお話をうかがったときのことも思い出されました。

 当事者が何を考えているのか、それを実際に知る機会は残念ながらそれほど多くありません。その機会を得られたのがまずはよかったです。しかし、そうした分離構造になっている社会を積極的に変えようとしていない自分にも気づきます。積極的に変えようと思う人たちが出てくるには、そもそも同じところで生活する/できるという状況が広がなければならないのかもしれません。個々人のなかで何を「普通」とするのか、その初期設定がどうなっているのかは重要だと思います。本編のなかで、自分の姿を晒すことが仕事だ、といったセリフがあったように記憶しています。学校で小学生相手にお話をされている場面がありました。小学生たちに車椅子を担いでもらいながら階段を降りられている場面がありました。それが「普通」の初期設定を変えていくのだと思います。そうやって自分自身がいわゆる教育に役割を求めるのも、子どもたちに期待し、すでに大人であるわれわれを免罪するようで、自身に対して推奨するには気が引けるところもありますが、自分に(も)できることは何かと考えたとき、それは間違いなくひとつの方法ではあります。

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 ないものねだりになりますが、介助者の方々が日々何を感じていらっしゃるのか、それも映像のなかに出てきてほしかったと思いました。介助者が傲慢だ、という不満が本編でも漏らされていましたが、介助者のなかには遠慮がちな人はいないのか。介助する/されるその関係性とはどういうものなのか。その機微を知識や想像だけで感得することはできないでしょう。ほかにもたとえば、今回映画にも出られた四肢麻痺の方が車椅子に乗って講演をされました。介助者の方が、お話をされる方の口の付近にマイクを近づけていました。マイクを持ちながら何を思っているのかが気になりました。端から見ていて、腕が辛そうだ、と思い、ピンマイクではいけないのかな、とも思いました。存在しているけれど存在していないかのようだ、という印象も持ちました。

 近くで、はなかなかないと思います。少しだけ遠くで上映がある際は、ぜひご覧になってみてください。また、映画に出られていた海老原宏美さんには『まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』(現代書館、2015年)というご共著がありました。わたしは映画のあとに購入しました。これから読みます。

@研究室

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by no828 | 2017-03-29 18:32 | 日日 | Comments(0)
2017年 02月 27日

「私たちが国境を越えたのではない! 国境が私たちを越えたのだ!」——町山智浩『99%対1% アメリカ格差ウォーズ』

 町山智浩『99%対1% アメリカ格差ウォーズ』講談社(講談社文庫)、2014年。24(1021)

 単行本は2012年に同社

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 だいぶ前に買って積んでいました。手に取ったのは、大統領選が控えている、ということが頭の片隅にあったからかもしれません。その前提や文脈を理解するための知識を図らずも本書で得ることができました。〔と書いたのは2016年の4月です。2017年2月27日記〕

 報道の中立性ということについても考えさせられる内容でした。すべての立場には偏りがあるわけで、それは報道も例外ではなく、彼の国でもそれは明らかなわけです。中立的な報道を、ではなく、報道は中立的ではありえない、ということが重要でしょう。あえて「中立性」という言葉を使うなら、“主張の中立性”はありえなくて、ありうるとすればそれは“根拠の中立性”でしょう。中立的な根拠のうえに中立的ではない主張が出てきます。同じ根拠から異なる主張が出てきます。Xである、だからYである、なのか、Xである、だからZである、なのか。問われるべきは主張ではなく、根拠だとも言えます。

 ティーパーティー
 ←(動員)ディック・アーメイ(共和党下院院内総務)@フリーダム・ワークス(保守系政治団体)
   ←(母体)CSE(健全な経済を求める市民)(保守系シンクタンク) ↑(寄付)
      ←(創設)チャールズ&デヴィッド・コーク兄弟(コーク・インダストリーズ)

 1963年夏、マーティン・ルーサー・キングJr.牧師の呼びかけで20万人が首都ワシントンに集まりました。キング牧師はそこでこう演説しました。「私には夢がある。いつの日にか、私の子供たちが肌の色ではなく、人格の中身によって判断される国に住むことを」と。8月28日のことでした。

アメリカでは、「自由」がハンドルを握って国を走らせ、ついに破綻すると、今度は「平等」がハンドルを奪って、また破綻するまで突き進み、今度は「自由」が……という運転を続けてきた。(17-8)

 そんな根も葉もない中傷と戦ってきたアニタ・ダンはついにキレた。
FOXニュースはCNNのような報道機関ではありません。共和党の翼賛団体だと言っても間違いではないでしょう」(33)

 ヴードゥーはアフリカの民間信仰がカリブ海の奴隷の間で発展したもので、呪いの人形や死体蘇生(ゾンビ)で知られる。これはキリスト教徒から見れば黒魔術、魔法、邪教、悪魔崇拝になる。だから〔米国クリスチャン放送網(CBN)の〕パット・ロバートソン牧師は、219年前に悪魔の力を借りて革命を起こしたハイチに地震で罰が当たったと言ったのだ。
 この発言はあらゆる意味でバカげている。現在、ハイチは全人口の65%がカトリック、16%はプロテスタントで、世界で最もキリスト教的な国の一つである。そもそも人間を奴隷化することのほうが悪魔の仕業ではないのか?
 なぜ彼はそんな発言ばかりするのか。福音派の源であるプロテスタントには「予定説」という思想がある。「この世に起こることはすべて神の計画通りだ」という考えだ。天災も神の意志だと。だからロバートソンは地震の被災者を罪人呼ばわりし、キリスト教の教えに反する人々は天災で死ぬと脅すのだ。しかし、そんな暴君のような神が崇拝に値するだろうか?(49-51)

彼ら〔ティーパーティー〕は「政府が史上最大の財政赤字を抱えている時に国民に増税して支出を増やす政権を容認できない」とオバマを批判するが、その論理は理不尽である。まず、この赤字を作り出したのはオバマではない。富裕層と大企業に減税しながらイラク戦争で莫大に浪費したブッシュ政権が作ったものだ。この赤字は支出を抑えるだけでは減りはしない。だからオバマは増税しようとしているのだ。しかも増税の対象になるのは富裕層のみ。国民の95%は逆に減税の対象になる。オバマの景気刺激策予算にはこの減税が算入されている。ティーパーティー支持者で増税の対象になる人はほんの一握りしかいない。(56)

マチューテ』の予告編で感動的なのは、ジェシカ・アルバがフランス革命の女神のようにメキシコ系の蜂起を煽動するシーンだ。
私たちが国境を越えたのではない! 国境が私たちを越えたのだ!
 それは06年頃からメキシコ系労働者のデモで聞かれるスローガンだが、ハッタリでも何でもない歴史的事実だ。〔略〕
 かつてメキシコだった土地にメキシコ人が入って何が悪いのか。そもそもメキシコ系はアメリカ先住民の血を濃く継ぐ人々だ。アリゾナの白人どもには「我々が先祖代々住んできた土地から出ていけ!」と言っちゃえばいいのにね。(103-4)

ほんの一握りだけが金持ちで、他はすべて貧しいのが第三世界です」(アリアナ・ハフィントン.121)

 コムキャストに限らず、巨大企業の経営者たちには共和党支持者が多い。共和党は自由市場競争と規制緩和を党是としているからだ。しかし、自由市場競争は資本の集中独占を招き、かえって多様性が失われる傾向がある。その問題を指摘した〔バーニー・〕サンダースはアメリカで初めて社会主義者であると宣言したうえで選挙に当選した上院議員。こんな政治家もいるうちは、アメリカの多様性は健在だね。(130)

 FOXニュースの人気司会者ショーン・ハニティ(ニューズウィーク誌の政治コメンテイター番付3位)はカイロのデモの映像に怯えて、思わず口走った。
このような民衆の蜂起が民主的な体制につながった例があるしょうか? 私はひとつも思いつきません
 えーと、いっぱいあるけど、民衆の武装蜂起で建国した民主的な国でいちばん有名なのは、アメリカ合衆国だよ。(153)

 他人への共感の完全な欠如は、精神医学上、サイコパスの特徴である。アイン・ランドは人の本能は利己だと主張するが、そうだろうか? 見ず知らずの人の痛みを感じ、見ず知らずの他人のために自分の命を捨てることさえできるのが人間ではないのか。
 サイコパス的な思想がティーパーティーを、いや、現在の共和党を動かしていると考えるとぞっとする。ロン・ポールは小さな政府を求めるあまり地震や台風対策を行う政府機関FEMA(連邦緊急事態管理庁)まで否定した。災害すら「レッセフェール」なら、国家なんか要らないし、あなたのような政治家も要らないのだ。
 ちなみに福祉と富の再分配を嫌悪していたランド自身は晩年、ガンになって高額な医療費に苦しみ、社会保障とメディケアの支給を受けていた。彼女は税金の再分配を受けながら、社会や国家が何のためにあるか、わかっただろうか。(212)

 1953年、アイゼンハワー大統領は最高裁長官にアール・ウォーレンを任命した。ウォーレンはアイゼンハワーと共和党の大統領候補指名を争ったライバルで、保守的な言動で知られていた。しかし、最高裁長官になってからは次々とリベラルな判決を下した。特に54年の「ブラウン対教育委員会裁判」では、白人と黒人が同じ公立学校に通うことを禁じたカンザス州法が合衆国憲法修正第14条「法の下における平等」に反していると判決し、南北戦争以降100年も続いてきた南部の人種隔離政策に風穴を開け、60年代の公民権運動の起爆剤になった。
 また66年にウォーレンは「ミランダ対アリゾナ州裁判」では容疑者に黙秘権があることを告げずに得た自白は無効であると判決し、以後、警察は犯人逮捕時に「君には黙秘権があり、弁護士を雇う権利がある」という「ミランダ警告」をすることが義務付けられた。
 アメリカの60年代におけるカウンターカルチャーを支えたウォーレン長官の最高裁は「ウォーレン・コート」と呼ばれ、それを引き継いだウォーレン・E・バーガー長官も、73年、「ロー対ウェイド裁判」で、人工中絶を禁じる州法を合衆国憲法修正第14条が保護する個人の自由の侵害であると判決した。〔略〕
 その後、判事は少しずつ入れ替わり、92年には9人のうち8人を共和党の大統領に任命された判事が占めることになり、共和党に有利な判決が下されることが多くなった。レーガンからブッシュ・ジュニアにいたるアメリカの保守黄金時代は最高裁によっても支えられていたのだ。
 決定的だったのは00年の「ブッシュ対ゴア裁判」だ。2人は大統領選挙を僅差で争い、フロリダ州の得票で勝敗が決することになったが、1784票しか差がつかなかったのでゴアが票の数え直しを要求、ブッシュはそれを憲法修正第14条の平等保護に違反すると訴えた。郡ごとに票の数え方が違うから、というよくわからない論理だが、共和党に任命された判事が7人を占める最高裁はそれを認め、ブッシュを大統領とした。この判決がなければイラク戦争もサブプライムローン問題も財政赤字もなかったのかと思うと、本当に罪な話だ。(269-71)

 マイケル・サンデルのハーヴァード大学での講義に感銘を受けた人は少なからずいると思う。かくいう私もサンデルに私淑し、アメリカ政治哲学を学んでもうかれこれ四半世紀を超えるが、あれをアメリカの社会的知性の成熟のかたちと思い做してはならない。むしろ政治哲学は「防災インフラ」みたいなものと捉えられるべきものだ。あらゆる事象に関して、ああした“フェアでオープンな”討議がなされ、かつ妥当な結論に辿り着くようなプロトコルを通有しておかないと、すぐに破綻してしまいかねない社会の危うさが背景にある。(284-5)

@研究室

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by no828 | 2017-02-27 15:58 | 日日 | Comments(0)