思索の森と空の群青

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2007年 09月 30日

いきなり寒くなって雨まで降り出す週末に私は本を読んでいた ― 9月25日から30日までの読書

20 平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳<3>又右衛門の女房』(講談社文庫)、講談社、1994年。
― シリーズ3冊目。根岸肥前守にお鯉が仕えることになって新八郎もちょっとあたふた。

21 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』改版(中公文庫)、中央公論新社、2002年。
― 舞台は東京大学が入学試験を中止した頃の東京。
「そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。つまりその先生と話していると、このぼくまでもがそのちっちゃな精神の翼みたいなものをぼくなりに一生懸命拡げてとびまわり出すような、そんな生き生きとした歓びがあったんだ。そしてそんな自由でのびやかな快感に酔うと同時に、ぼくはうんと勉強して頑張って、いまにこの先生をワアーッと言わせてやるぞ、なんてえらく緊張してファイトを燃やしたりしちゃって・・・・・・」(pp. 33-34)。

最近「知性」とか「知識人」の役割について考えています。


22 内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)、角川書店、2007年。― 内田本はそろそろ終わりかもって言っていたのにね。
「ホッブズやロックが近代市民社会論を書いたときに近代の市民に対して『利己的にふるまう』ことも勧めたのは、人々が自分の幸福を利己的に追求すれば、結果的には必ず自分を含む共同体全体の福利を配慮しなければならなくなる、と考えたからです」(pp. 20-21、強調は原文、ただし原文では斜体字ではなく傍点で表記)。

反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが『公人』の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた『自分の支持者たちだけ』を代表する人間は『公人』ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても『私人』です」(p. 176、強調は原文、ただし原文では斜体字ではなく傍点で表記)。

今の日本に「公人」はいるのであろうか。今の世界に「公人」はいるのであろうか。


23 佐藤可士和『佐藤可士和の超整理術』日本経済新聞出版社、2007年。
― 著者はアートディレクター/クリエイティヴディレクターで、「サムライ」の設立者。会社名の「サムライ」は、著者の名前「可士和」のうち、「可(possible)」と「和(peace)」は英語にできるが「士」はできない、というところから来ていると以前どこかで読んだ。
「・・・・・・自分の思考回路の整理をきっちり行うようにしたら、・・・・・・ピシッと論理の筋道が通ったのです。・・・・・・作品が完璧に自分のものになったのです」(p. 37)。

「・・・・・・問題の本質を突き止めることとは、『何がいちばん大切なのか』を見つける、・・・・・・ことなのです」(p. 54、『』は原文ではクオーテーション・マーク)。

「本質を探るということは、一見、物事の奥深くに入り込んでいくようなイメージがあるでしょう。でも実は、どんどん引いて離れていくことだと思うのです」(p. 125)。

僭越ながら「わかるー」と思いながら読んだ。研究に通ずるところが多々ありました。


24 日本能率協会マネジメントセンター(編)『本200%活用ブック』日本能率協会マネジメントセンター、2007年。― 読書の方法論について書かれている。ビジネスのために、という点が強調されていたのが少し気になった。研究のために、という点を強調した『本活用ブック』はもっと出ていいと思う。それから「整理の仕方」といったテーマで雑誌に特集が組まれたりするけど、それもビジネスのために、がほとんどである。本質はそう変わらないと思うのであるが、「研究者のための研究室と文献の整理の方法」も読んでみたい。
 みき、よろしく(売れるかどうかはわからないけど)。


追記
25 角田光代『空中庭園』(文春文庫)、文藝春秋、2005年。
― ダーク。著者の意図が私には見えない。


26 興梠一郎『現代中国―グローバル化のなかで―』(岩波新書)、岩波書店、2002年。
― 中国の方々と議論するために。内容は主に内政について。
 結論は、「中国はよくわからない」である。中国共産党は一体何がしたいのであろうか。「そこに生きる人びとを振り回しているだけではないか」、私にはそう思えてならない。
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by no828 | 2007-09-30 23:35 | 人+本=体 | Comments(8)
2007年 09月 28日

「わかりたい」という情動を表現する方法を間違えると「決戦の金曜日」がやってくるのかもしれない

2限は「教育哲学」で、引き続きテーマは「愛 philia」。

今日のソクラテスは、「愛」の分類に着手していた。

テクストが難解であったので、そのテクストを踏まえた私の「愛」の分類を示したい。

1 「私」は「あなた」を愛しているが、「あなた」は「私」を愛していない。ここに愛は存在するか。

2 「私」は「あなた」を愛していて、「あなた」も「私」を愛している。ここに愛は存在するか。

3 「私」は「あなた」を愛していないが、「あなた」は「私」を愛している。ここに愛は存在するか。

どうであろう。

それからソクラテスは今日も、「愛」を実利的に捉えていた。
すなわち、「私」は「あなた」から何か善きものが得られるから「私」は「あなた」を愛する、というのである。

ソクラテスは「善人と善人のあいだでは愛が成立しない」という命題を次のように論証しようとする。

愛とは何らかの善を求めることである。
善人はすでに善に満たされている。
ゆえに善人には欠如がない。
それゆえ善人は欠如を満たそうとはしない。
したがって善人は愛を求めない。

どうであろう。

ここから逆説的に導き出されることは、人間は善人ではないのであるから他の人間を愛するのである、という命題であろう。

これは説得的であるように思われる。

しかしながらこの命題は、

善人ではない→欠如がある→その欠如を埋め合わせるために愛を求める→その欠如を埋め合わせることができる誰かを愛する

となって、「あなた」は「私」の欠如を埋め合わせるだけの存在として見なされることになる。

これはちょっといただけない。


5・6限は「生涯学習・社会教育学」。テーマは中国の住民組織について。

テーマについて書かれた論文を読むかぎり、

「中国において住民組織と呼ばれる組織は行政組織である。中国には日本語で規定されるような住民組織は存在しないし、存在しえないのではないか」

という大変に挑戦的な(と後から気づいた)指摘を中国の方々を前に行なう。

どうやらこれは直球ど真ん中の表現であったらしい。
他の院生のひとりはこのことを婉曲的に表現する方法を模索していたらしい。

こういったセンシティヴ・イシューは議論においても回避されることがある。

私は回避しない方がよいと思う。
というのも、回避せずにセンシティヴ・イシューについてのお互いの了解事項を開示し合うことによって、要らぬ誤解や先行するイメージを崩すことができるからである。そのためにはストレートに議論した方がよいと思うからである。

とりわけ研究者同士ではそれが必要であると思う。
私も相手が中国の行政官であったならば、先のような直接的なことは申し上げなかった(はずである)。

授業に参加するのは、研究のプロでありセミ・プロである。
だから私は直接的に申し上げた。
そこには、批判や非難は含まれていない。ただ、「わかりたい」というだけである。

この気持ちが先方に伝わったかどうかは、しかし私にはわからない。

月曜日が少しこわい。
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by no828 | 2007-09-28 20:10 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 27日

ゼミナールのないゼミナール

研究会(ゼミ)で博士論文の構想発表をした。

研究会には当該研究分野の教員と院生が参加することになっている。
私の属する研究分野は実証研究が主流である。
したがって、参加する教員も院生も実証研究者である。
しかし、私は実証研究をしようとしていない。

四面楚歌である。

前にも書いたとおり、規範理論研究者と実証研究者のあいだで対話を成り立たせるためには相当の忍耐が必要である。
議論をしても文字どおり話が噛み合わないからである。
だから、対話/議論には相当の労力を割かねばならない。
それをしないと、「ダメだ」とか「何をしようとしているのかわからない」といった非建設的な言明の応酬に終始することになる。

これを「指導」とは普通は呼ばない。まして「教育」とは呼ばない。

ご承知のように、「ゼミ」は本来「ゼミナール(seminar)」である。

「ゼミナール」の原義は「培養基」である。
すなわち、植物の芽が出るように環境を整え、その芽が伸び伸びと成長するように適切な栄養を与える場所が「ゼミナール」なのである。

したがって、いわゆる「ゼミ」とは、本来、学生の芽が出るように環境を整え、その芽がぐんぐんと成長できるように適切な指導を行なう場所なのである。

「ゼミナール」とは「培養基」のことであると私たちに教えてくださった先生は、まさにそのようなご指導をされていたし、私もそのようなご指導をいただいた。

しかし、この点を真にご承知の教員が今、大学にどれほどいるであろうか。

私は知らない。
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by no828 | 2007-09-27 22:40 | 思索 | Comments(0)
2007年 09月 26日

雨に濡れながら2人で歩く夜はもう来ない

9月24日(月)

ひろきとなかやまゆうがこちらに来る。久闊を叙す(かおるとあきとこうちゃんとまみも一緒に)。
20時から呑み始めて、結局1時過ぎまで店にいた。

店の外に出たら雨。
傘を持っていなかったひろきと私は雨に濡れながら足早に帰途につく。

夜のこの街をひろきと雨に濡れながら歩くなんてことはこれが最初で最後かな、なんて考えたらちょっと切なくなった。


9月25日(火)

昨夜は結構呑んだのにもかかわらず、まったく残っていない。
ビールをはじめの2杯に抑えて、焼酎中心に呑んだからかもしれない。

トルシエから「ビール呑みすぎると痛風になるぞ(俺はもうなりかけてるぞ)」と脅かされて以来、私はビールを控えているのである。


9月26日(水)

明日のゼミで博士論文の構想発表をするので、昨日に引き続きその準備をする(その合間に読書会で読み進めているミシェル・フーコー『知の考古学』の一部をレジュメにまとめる)。
10月末に専攻の発表会があって、その申込(タイトル明記の上)が明後日28日なのである。

内容は、先日の目黒での研究発表のさいにいただいたコメントを踏まえながら、ひとまず構想した。章構成を見るかぎり、大きなところでの論理の展開はわかりやすいのではなかろうか。その流れに何を乗せるかも、おおよそ固まっている。

各章には、学会誌に投稿した2万字程度の論文を充ててゆく。
今のままでは当然足りない。
だから、新たに論文を書かねばならない。
しかし、そのテーマは決まった。調べて書く、それだけである(こう書くとすごく簡単そうだ)。

ただ、博士論文のタイトルをどうするか。

私は論文のタイトルを付けるのが苦手である。不得手である。

どうしよう。うー、どうしよう。
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by no828 | 2007-09-26 21:07 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 25日

私を江戸に連れてって ― 9月18日から24日までの読書

17 竹田青嗣・橋爪大三郎・小林よしのり『ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論―自分と社会をつなぐ回路』径書房(*) 、1997年。(*)「こみちしょぼう」と読む。
― 鼎談集。古本屋で竹田・橋爪・小林という論者に惹かれて購入する。竹田は現象学者、橋爪は社会学者、そして小林は漫画家。竹田・橋爪の本は読んだことがあった。また、今年のお盆に放送されていたNHKの憲法9条に関する討論番組に出演していた小林を観て以来、私は彼が気になっていた。
 私は「正義」や「国家」、「(戦争)責任」に興味があるので、面白く読んだ。また、市民社会論にも(とくに竹田から)言及されていて、この点についても勉強になった。

18 諸田玲子『あくじゃれ―瓢六捕物帖』(文春文庫)、文藝春秋、2004年。
― 時代小説。舞台は江戸。同心・弥左衛門と囚人・瓢六の関係が深まってゆくところが心を温かくする。

19 平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳<2>江戸の海賊』(講談社文庫)、講談社、1993年。
― 時代小説。舞台はやはり江戸。身分分け隔てなく接する与力・隼新八郎の人間性が魅力的。

そういうわけで、江戸時代に行きたくなりました。
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by no828 | 2007-09-25 22:20 | 人+本=体 | Comments(0)
2007年 09月 25日

厳しさと温かさに触れた真夏のような土曜の午後

9月22日(土)の途中から

この日は東京は目黒にある某研究所で開かれた研究会で個人研究の発表をする。

発表を通じて痛感したことは、規範理論研究(私の場合で言えば教育本質論)と実証研究のあいだには対話が成立しにくいということである。

今回私が行なった主張の要点は、教育開発研究においては実証研究だけではなく、教育本質論の地平から問いを投げ掛けてゆく必要がある、というものである。

つまり、私は規範理論/教育本質論の観点から今日の研究動向を批判し、その観点からはこれまで放たれることのなかった問いが生まれるが、その問いは本質的であるがゆえに回答することが容易ではない、しかしそのことはこの問いを発しなくてもよいということを含意しない、と申し上げた。

しかし、これがなかなかわかっていただけない。
全否定の勢いでコメントをくださる先生もいらっしゃる。

中には、「あなたの問題意識はわかったし、この問いは私は必要だと思う。ただ、今回は論じ方がまずかった。無防備なまま論じてた。素直すぎた。戦略を練って論じなきゃダメよ」と言ってくださった先生も何人かいらっしゃって、少し元気が出た。

研究会後は呑みに行ったのであるが、そこでも(部分的に)議論の続き。

呑んだ勢いで「あんなの卒論レヴェルだ」コメントもいただく。

そのコメントに沈み気味の私に対し、S井先生は「コメントを全部受け止めようとしないで、言い返しなさいよ。あの問いは大事なんだから。『あなたたちはこの問いすらすっ飛ばしてきたでしょ!』って言い返しなさいよ」と元気づけてくださった。

M山先生は、「元気出してください。応援してますよ」と言って焼きそばを取ってくださった。
M下先生からは、「僕とかと問題意識は近いよ。ただ、この問題意識にストレートに応える論文を書くことは難しい。僕はそういう論文を書いていたときは落とされ続けたから」という(たぶん)励ましのお言葉をいただく。先のS井先生からも、「この問いは退職する前に答えるような大きな問いなのよ。その前にやっておくことがあると思うわよ」という現実的なアドバイスをいただく。
S藤先生は、帰り際に「元気出せよ」って背中を叩いてくださった。

「なぐさめられると泣きたくなる」(@桜木花道)。

実際、なぐさめられたからではなく、こうして温かいコメントを私のような若輩者に掛けてくださる先生方のまさにその温かさに、私はちょっと泣きそうになった。

いい研究をしないといけない。
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by no828 | 2007-09-25 21:42 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 23日

愛とは何かに始まった9月のある日の私の出来事

9月21日(金)と22日(土)の途中まで

両日とも引き続き暑い。

21日は2限に「教育哲学」の授業。テーマは(ソクラテスの)「愛(philia)」。
この philia は、philosophy や Philadelphia にその痕跡が認められる。
前者は 知への愛を、後者は兄弟/姉妹愛を意味する。

(教授による)ソクラテスによれば、人が他者を愛するのは、その他者が自らに何らかの快楽をもたらすからである。
また、人が他者を愛するのは、その他者が自分よりも知識/専門性を有しているからである(ここには患者による医者への信頼なども含まれる。これはソクラテスの主知主義に通ずるところであろう)。

しかし、少なくとも「知識があるがゆえに愛する」という後者の定式は、「親は子を愛する」という例でもって反駁できる。子どもは親よりも知識が少ない。にもかかわらず、親は子を愛する。知識は愛の源泉にはなっていない。

だが、前者の「快楽があるがゆえに愛する」はどうであろう。これはなかなかに説得力があるように私には思われる(美しくはないけど)。「私はあなたといると心地よいからあなたを愛する」とは意識していなくても、「私はあなたを愛することによって、結果として心地よさを手に入れている」というのは事実ではなかろうか。とすると、「私はあなたといると心地よいからあなたを愛する」という言明を全面的に否定することは難しいように思われるのである。

このような議論の続きと「愛」とは何かという一般論を、お昼を食べながら大学院の同輩と後輩と行なう(白熱しました)。

白川静によれば、「愛」の字義は「後顧」である。つまり、「愛」とは、後ろ、過去を顧みるということである。
私によれば、「愛」とは「くすぶり続けること」であり、「気になって気になって仕方がないこと」である。

「くすぶる」も「気になる」も、過去における「その人」との出来事を(あるいは「その人」も憶えていてくれているであろうと思いながら)記憶し続けることによって生じる情動である。
つまり、「後顧」(無意識に、でも)によって「くすぶる」「気になる」は生起するのである。

これらのことと、人間が常に未来に向かって生きる(生きざるをえない)存在であるということを踏まえるならば、「愛」とは「未来のための過去である」とは言えまいか。
何らかの過去の出来事によって愛が生まれ、何らかの過去の出来事によって愛が育まれ、何らかの過去の出来事によって愛が増幅される、この過程は未来に向かってなされる(なされざるをえない)のである。

どうであろう。


5・6限は「生涯学習・社会教育学」の授業。「共同性から公共性へ」がテーマ。

「共同性から(いろいろあって)公共性が生成される」という教授の論に、私は1学期からずっと異論と反論を差し挟んでいる。この日も「別に無理やり共同性から公共性まで持っていかなくとも、共同性のままでよろしいのではないか、それで問題はないのではないか」とかなり挑戦的なことを申し述べる(私は共同性より公共性の方が好きです)。

このような異論と反論を許容する授業の雰囲気(これは教授の雰囲気に大きく依拠する)というのは大切である。

異論と反論を差し挟みにくい授業もある。これってある意味アカデミックじゃないってことだと思う(私も含めてね。アカデミズムなら雰囲気のせいにしてはいけない)。


授業後、1時まで土曜の研究会発表用のレジュメ作り。帰宅して3時まで見直す。
7時30分に起きて研究室に行って、11時までレジュメを手直しして、配布用のコピーをする。
12時41分の快速で上京し、14時に目黒駅着(研究所は目黒)。
眠かったのでスターバックスで「本日のコーヒー」(豆はコロンビアでした)を買って飲みながら研究所を目指す(行儀が悪いですね)。

研究発表については・・・また今度。
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by no828 | 2007-09-23 23:11 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 20日

俳句調でタイトルを書こうと思ったが思いつかないのであきらめた

暑いぜ。

今は9月下旬ではなかったのか。

大学の集中管理冷房はすでに入らない。



授業の発表はどうであったのか、少し書いておきたい(読者のなかには1人ぐらい気になっておられる方がいるかもしれない。いないかもしれない)。

結論から述べる。議論にまでは発展しなかった。

英語論文ということもあって内容に関わる確認等に終始し、私が議論したかったことについては少し触れるだけで終わってしまった(この授業で議論にまで発展することはそもそも希少なのであるが)。

しかも、議論はおおよそ先生と私のあいだで完結していた。

このようなときに私の胸に残るのは切なさだけである。いとしさと心強さは残らない。

懐かしのメロディ。
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by no828 | 2007-09-20 21:26 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 19日

上がるけど 切なくなるのは なぜであろう

明日の授業の発表用のレジュメを作り上げる(A4で5枚)。
内容の要約よりも、内容に対する私のコメントの方が分量が多くなってしまった。

そういえば、いつもそうである。「コメントの方が長いじゃない」と先生にも言われた。

でも、私はそれでよいと思う。
論文はみんな読んできているのであるから、内容の要約は最小限に留められるべきである。
むしろ、内容を踏まえて何を言うかが問われるべきである。
そのように思う。

明日午前中に赤入れして人数分コピーすることにしよう。


気分を上げるために、マザーハウスのテーマソングであるINOSISの the Sense of Wonder を聴いた(イベントでライヴがあって、そのときにCDをもらったのである)。

上がるけど、切なくなるのはなぜであろう。

CDを聴くとイベントのときの自分の情動を思い出す。

けれど、音楽自体はイベントのときほど響いてこない。あのときの音楽は身体の中枢に響いた。

ライヴは違うぜ、と改めて思う。


土曜のレジュメも作らないといけないぜ、と改めて思う。
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by no828 | 2007-09-19 22:26 | 日日 | Comments(0)
2007年 09月 18日

揺さぶられた軸との付き合い方

論文の英文摘要のゲラに赤入れして郵送する。
摘要であるから長くはなく、本文校正のときよりもはるかに短い時間で終わった。
精神的負荷も少なくて済んだ。

今週は木曜に授業で発表があり、土曜には東京の某研究所で発表がある。

ちなみに授業では、ある論文を読んで、それについて発表することになっている。
その論文とはこれである(たまには学術的な文献も挙げておかないと)。

Waters, Tony and Kim Leblanc, "Refugees and Education: Mass Public Schooling without a Nation-State," Comparative Education Review, vol. 49, no. 2, 2005, pp. 129-147.

土曜に行なうのは自分の研究発表である。
私がどのような研究を行なっているのか、それを発表することになっている。
だから、当然のことながら私がどのような研究を行なっているのかを知らない方が聴きに来られるわけである。

発表自体は学会発表標準の20分に合わせたいと思っている(長くても30分まで)。
8,000字(から10,000字)程度に内容を詰める計算である。

主張したいことはすでにある(舞浜で感じた揺れはまだ収まってないけど)。

それをどう説得的に論ずるか。
私(の研究)のことをまったく知らない人が聞いても、「なるほどね」「言いたいことはわかった」って言ってもらえる文章を書かねばならない。

揺れながら書くってきついかもしれない。
でも、揺れているからこそ書けることもあると思う。
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by no828 | 2007-09-18 21:00 | 日日 | Comments(2)