思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2007年 10月 ( 26 )   > この月の画像一覧


2007年 10月 31日

自分のゴールに自分の行き方で飛び込もう

博士論文の発表会が無事に終了する。

いくつかのご指摘をいただくが、研究が覆るようなことは言われなかった(はずだ)。

このまま行っていいよ、ということかしら。

ご指摘いただいた点のうち、卒業論文を書いている方(少なくとも1人はこのブログを見ているはずだ)、修士論文を書いている方(誰も見ていないはずだ)、そして博士論文を書いている方(少なくとも私は見ているはずだ)と共有できそうなことをここに記しておこうと思う。

① ある人の理論を取り上げて少しでも議論を展開するときは、その理論を取り上げる理由を明確にすること。その人のその理論でなければならない理由を挙げること。

② 自分の研究がどのような研究分野に位置づくのかを自覚すること。これは何を先行研究として扱うかということとも関わってくるから注意すること。教育を研究しているのに、物理学ではこんなことが言われてきましたと言ってもまったく意味がないので注意すること。

③ ②とも関連するが、自分の研究がどのような研究分野と隣接しているかを知ること。自分の研究がその隣の研究分野に思いがけない一石を投じることになるかもしれないことを少し想像してみること。

以下は私が思うこと。

① 自分のしなければならない研究をすること。

② そのために自分のしなければならない研究が何であるかを知ること。

③ そのために自分の問題意識を研ぎ澄ますこと。

④ そのために自分の問題意識を知ること。

⑤ そのために自分の心の真ん中を見つめること。


発表会後に呑みに行こうという話になっていたようだが、私は行かないことにした。
せっかく<わたし>が思考モードになっているのであるから、それを酔わせてしまってはもったいない。


自分のゴールに自分の行き方で飛び込もう。
[PR]

by no828 | 2007-10-31 19:50 | 思索 | Comments(0)
2007年 10月 30日

決戦前夜

朝からレジュメの推敲、と思ったら大幅に書き直す箇所も出てきたりで、一通り書き上げたのはさっきである。

不十分ではあるが、自分の思いを論理的に書くことができたように思う。

明日一緒に発表する同期のあきの様子を見に研究室に行ったら、まだいた。
先生に問題の所在を書き直すよう命じられたらしい。
22時ぐらいにまた先生に見てもらうらしい。

私は完成版を誰にも見てもらうことなく発表することになるであろう。

ま、私は私。

と、決意を新たにした矢先、レジュメに書き忘れていたことが判明する。



が、今日はもう帰る。帰って時間を計りながら読みの練習をしなければならない。

発表会は午後から。発表15分、質疑25分。質疑25分は長い。反対の意をここに表明したい。


さて、明朝11時にコピーすることにして、それまでは粘ろう。


そういえば「大学院に進学する資格」について。

それはたぶん、問題意識の強烈さ、だと思う。
[PR]

by no828 | 2007-10-30 21:31 | 日日 | Comments(0)
2007年 10月 29日

あることが正しいことかどうかは、そのあることが終わったあとにしかわからない

朝から発表会用のレジュメを書く。

とりあえず通して書いてみた。が、推敲が不可欠である。明日は可能なかぎり。

それにしても「書く」という行為にはものすごく時間がかかる。

今日はおよそ6,000字書いて、机にはおよそ12時間向かった。

単純に計算すると、1時間で500字のペースである。

そ、そんな・・・。

三浦知良はかつて「足に魂込めました」と言った。

「言葉に魂込めました」と、前を向いて言えるようになろう。


ところで、在インドネシアの後輩からメールが来た。

「大学院に進学する資格は何ですか?」

難しいことを訊く後輩である。

今の私であれば、次のように考える(まだ十分に考えきれていないし、当の後輩はこのブログを見ていないと思うのであるが、とりあえず書いておく)。

何かを前にして、「これは問題だ」とか「わからない」って思ったときに、次に取りうる行動は2つある。

動くか、動くことをためらって考え込むか。

後者を選択したのなら、思考するための場を選んだ方がよいと思う。

もちろん、大学院の役割も変わってきているし、修士課程に進むのか博士課程に進むのかでも変わってくる。


そもそも進学に「資格」が必要なのかということを含め、もう少し考えを詰めてから返事を送ることにしよう。


あることが正しいことかどうかは、そのあることが終わったあとにしかわからない。

と誰かが言っていそうな気がする。
[PR]

by no828 | 2007-10-29 23:50 | 日日 | Comments(0)
2007年 10月 28日

論理と感情

博士論文で何がしたいのか、そのために何を・どのような順番で論じるか、それを考えている。

今日は論文の構成(章構成)をひとまず仕上げた。

構成を考えるということは、論文のアウトライン(のさらにアウトライン)を考えるということであり、思考の展開の仕方を考えるということである。

それを(とりあえず、ではあるが)終えて、少し楽になった。

明日は、なぜこのような構成にしたのか、この構成で何を・どうしたいのか、そもそもこの研究は行なう意味があるのか、というところを説明する「研究の枠組み」について書くことにする。

それにしても、研究とは内省の連続であると強く思う。

研究の場には論理と同時に、どうしても感情が連れ出されてきてしまう。
論文の構成を考えながら、いろいろなことを考え、思い出した。

そこにはバングラデシュの子どもがいた。

そこには、お金をせがむ子どもを前に、ごみをあさる子どもを前に立ち止まり、「俺には何ができるのか、何をしてよいのか」と自問し、そのような子どもがいるという現実を前に、にもかかわらず一歩引いて「調査」「研究」をする私の存在する意味(無意味)について考えた私がいた。

そして今・ここには、そのときの私とやはり同じ私がいる。



いけない、少し感傷的になっている。

今日はもう帰ろう。
[PR]

by no828 | 2007-10-28 21:57 | 思索 | Comments(0)
2007年 10月 28日

他者への態度

秋晴れ。

なのに今日も研究室。どこか遠くに行きたい。

遠くに行く理由は、実はあった。今日は某教育学会が某大学で行なわれていたからである。そこに行くという選択肢はあったのである。

が、行かなかった。

行かずに論文の構想を練っていた。

今日は、自己決定(権)について書かれた論文、自由と責任について書かれた論文、ケアの倫理について書かれた論文などに目を通して刺激をもらう(もらいすぎた)。

私の研究のテーマは、すごく大きなところで言うと「他者への態度」になるのかな、とか考える。

他者に対して何ができるのか、何をしてよいのか、あるいは何もしない方がよいのか、むしろしてはならないのか、そのように判断する規準は何か。

それを、自らの具体的な研究のテーマに重ねながら分節化して、ひとつの論になるよう整理する必要がある。

問いの難しさは研究を止める理由にはならない。


発表は31日である。そろそろまとめにかからねば。
[PR]

by no828 | 2007-10-28 18:59 | 日日 | Comments(0)
2007年 10月 27日

「もしもしみきちゃんめぐみです」by ぴ○改めめぐみ

昨日10月26日はぴ○改めめぐみの誕生日でした。おめでとう。

ここで祝辞を述べることができなかったのは、昨日が大体こんな日であったから。

8時過ぎ:研究室着。新聞を読む。

9時―10時:博士論文構想レジュメ執筆。

10時10分―11時25分:教育哲学の授業。『リュシス』におけるアポリアについて。『リュシス』には教育論や知識社会学を考えるうえでのヒントが散りばめられていますね、と申し上げる。デュルケームが教育について何と言っていたのか気になる。勉強せねば。

11時25分―13時:博士論文構想レジュメ執筆。

13時―15時:博士論文構想レジュメ検討会。自分のなかで思考が整理されていないことを痛感。指摘をくれた院生諸賢に感謝。

15時―15時:30分:16時45分からの授業の課題論文を読みながら昼食(遅すぎ)。

15時30分―16時45分:博士論文構想レジュメ書き直し。

16時45分―19時過ぎ:生涯学習・社会教育学の授業。「能動的市民」とか「主体性」のはらむ問題について指摘するも、中国の方(と括るのも乱暴であるが)との考え方の違いを改めて認識する。

19時過ぎ―20時過ぎ:生涯学習・社会教育学の授業で読む論文の選定作業に参加。

20時過ぎ―21時30分:博士論文構想でうーうー。

21時30分―10時過ぎ:買い物して帰宅。

10時過ぎ―:ビールで祝杯。めぐちんおめでとう。酔っぱらった気がしたのでブログを書かず。

ビール呑む前に書けよ、と自分で思う。反省。

今日は雨のなか博士論文構想でうーうーうー@研究室。台風が来ているらしい。

あ、明日までにてる夫妻の結婚パーティの出欠について連絡せねば(まだの人、気をつけて)。
ちなみに私は「出席します」と伝える予定です。
[PR]

by no828 | 2007-10-27 19:30 | 友人 | Comments(2)
2007年 10月 25日

言葉に気持ちを乗せる

研究室には今日も8時30分着。

しかし朝の空は青く、空気は透きとおっていた。

明日こそは。


午前中は、子どもの自己決定に関する論文と、インドの宗教的マイノリティの識字をめぐる問題に関する論文を1本ずつ読む。

12時15分―13時30分で授業、17時―19時で研究会。

あいだの時間で博士論文の構想発表用レジュメに取り組む。

まだ煮詰まっていない。言葉に気持ちが乗っていない。

このままでよいか。

よくない。

が、ひとまず明日ある検討会のためにかたちにしなければならない。

そこでうーむと考え込みながら本を開いて飛び込んできたひとつの術語によってこれまで微妙な距離を保っていた思考の要素がつながった(ような気がする)。

ぴ、ぴぴぴぴぴ (註:つながった音)

研究会が始まる前に、図書館で自己決定に関する論文のコピーと予約資料の受け取り。
そのあと書籍部で本を2冊購入、「教える」について、「自由」について。


勉強すればするほど自分の不勉強さに気づかされる。逆に勉強しないと自分の不勉強さには気づかない。

ああ、この逆説。ああ、この反比例。
[PR]

by no828 | 2007-10-25 23:53 | 日日 | Comments(0)
2007年 10月 24日

行ったり来たりはするけれど、振り回されるのは好きじゃない

秋晴れ。朝の空気の冷たさが心地よい。

8時30分に研究室へ。

30分の遅れが心地よくない。

午前中に教育管理についての論文を1本読み、そのあと博士論文の構想レジュメに取り掛かる。
13時30分から先輩と博士論文構想の検討会、のはずが先方の都合で遅れに遅れて16時過ぎから。

振り回されるのは好きではない。
行なうなら時間どおりに、遅れるなら行なわない、どちらかにしようと思った。

ぽっかりと空いてしまった時間に自己決定についての論文を1本読む。が、とくに斬新なことは言っていない。がっかりする。

17時から読書会。テーマはケア、テキストはネル・ノディングズの『学校におけるケアの挑戦』。
初回の発表を拝聴して、ケア(ノディングズにおいてはケアリング)論と正義論の関係(敵対関係?)をもう少し詰めて考えたいと思った。

また、ケア論の大枠を学んで、そして読書会での議論を通して、私はどちらかというと正義論に近いことに気づいた。
これまでは正義論の勉強しかしてこなかったため、正義論の外から自分の立ち位置を眺めることができていなかった。新たな視座から自分の位置を確かめるという作業は、自らが依拠(しようと)する思想を相対化する機会を与えてくれる。

内側を掘り進める作業と同時に、外側から眺める作業が不可欠である。
この内と外の行ったり来たりが大事なのである。
[PR]

by no828 | 2007-10-24 23:33 | 日日 | Comments(0)
2007年 10月 23日

アポリア再論

アポリアについて再び。

昨日は私の問題の引き取り方がまずかったようである。

「アポリア」とは行き詰まりであると述べた。
別言すれば、「アポリア」とはここからどう展開すればよいかわからない状態を言う。

これはアポリアかもしれない、という状況においてまず行なわなければならないことは、

それは本当にアポリアか、あるいはそれをアポリアと呼んでよろしいか

という懐疑である。

なぜなら第1に、アポリアとは、少なくとも思考におけるアポリアとは、それほど簡単に出会うものではないからである。
そして第2に、「これはアポリアだ」は「思考するの、やめた」に容易に転化してしまうからである。

したがって、それが本当にアポリアかどうか、逡巡する、すなわち、ためらうことがまず必要である。

それはもしかしたら行き詰まったわけではないかもしれない。
それは先がはっきり見えないことへの不安なのかもしれない。

不安であるということは、自分が臨もうとしていること・ものが何であるか知っている、少なくとも感づいているということであり、自分が臨もうとしていること・ものの「すごさ」をある程度知っているということである。
その「すごさ」を知らないと不安にすらならない(子どもが無鉄砲にいろんなことをしてしまうのは、そこにあること・ものの「すごさ」を知らないからである)。

このことを逆に言えば、そのこと・ものの「すごさ」と今・ここにいる<わたし>のあいだには距離があるということである。
距離があるということは、まだ詰める余地があるということである。

勿論、この距離は完全には縮まらない。
しかし、近づくことは可能である。そして十分に近づいたときにはじめてアポリアと出会うのである。

もうちょっとなのに・・・

アポリアはそのとき立ち現われるのである。

しかし、ここであきらめてはいけない。
もうちょっとなのに・・・は、まさにもうちょっとであることを報せる合図なのである。

「行き詰まりは展開の第一歩である」、そう言ったのはたしか吉川英治ではなかったか。

もうちょっとなのに・・・は、次なる展開を報せる合図でもあるのである。
[PR]

by no828 | 2007-10-23 23:28 | 思索 | Comments(0)
2007年 10月 22日

そこにはアポリアがあると指摘することの意味

今日は8時30分に研究室に着く。

8時着という原則から30分の遅れである。

うう。反省。

しかし、朝の風景は30分でとても変わるものである。


さて、「私もアポリアです」コメントをこちらで引き取って、ふと考えたことを書いてみたい。

「アポリア(aporia)」とは、先だっても書いたように、

あ、これ答えないかも。どうする?ねえ、どうする?

である。

いわば「行き詰まり」である。

そういえば、ある先生(誰であるかは私も存じ上げない)に、

「君がこの論文でしたいことは、『ここにはそう簡単には解決できないアポリアがある』ということを指摘するということではないか。ならば『ここにアポリアである』ということを強調するような論の運びにした方がよいのではないか」

というようなことを論文の査読コメントとしてご指摘いただいたことがある。

たしかにおっしゃるとおりである。しかし、当時の私は(と言っても数ヶ月前の話であるが)、

「アポリアがあることを指摘しても意味がない。なぜならそれは建設的ではないからだ。研究とは少しでも未来を向いたことをしなければならないのだ」

とか何とか思って、コメントに従わなかった。若気の至りとは、こういうことを言う。

今はそのようには必ずしも考えない。つまり、「アポリアがある」という指摘も意味があると考える。

というのも、「アポリアがある」という指摘は、そこにはなかなか答えの出ない問題があるにもかかわらず、そのような問題があたかも存在しないかのように論じていることへの、あるいは実践していることへの批判になりうるからである。

そこにはすごく難しい問題があるんだからさ、ちょっと待ってよ

ということである(ただし、これを言うためには、「ちょっと待ってよ」な現状があることが前提となる)。

ここにおいて、「アポリアがある」という一見後ろ向きの指摘も、実はよりよい未来に向けた批判として活きてくる。

したがって、「あ、アポリアだ」(と書くととても軽いのであるが)と気づいたのであれば、ある程度逡巡したのちに(これは不可欠である)、「ここにアポリアがあるということそれ自体を結論にしよう」と展開してもよいように思われるのである。

あ、こんなことは聞いてない?
[PR]

by no828 | 2007-10-22 18:40 | 思索 | Comments(2)