思索の森と空の群青

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2007年 12月 31日

ブログを始めて50冊 12月23―31日の読書

以下、今年最後の読書録。

49 ディケンズ、チャールズ『クリスマス・キャロル』(光文社古典新訳文庫)、光文社、2006年。(新刊)

 クリスマスのお話。

 <わたし>の過去と現在と未来。

 <わたし>の周りの<あなた>の<わたし>。

 温かい気持ちでクリスマスを迎えることができると思います。


50 宇江佐真理『玄冶店の女』(幻冬舎文庫)、幻冬舎、2007年。(古書)

 時代小説。帰省の電車と汽車のなかで。

 「我慢おし。いつかいいこともあるからさ」(p. 165)。

 「『今まで当たり前のように、お花やお喜代や青木先生があたしの傍にいたじゃないか。それがあっと言う間に皆いなくなる。仕方のないことと思いながら、あたしはつくづく世の中が恨めしいよ。去られてみて、あたしは自分にとって、お花やお喜代や、青木先生がどれほど大事だったか、どれほどそれによって倖せだったかを思い知らされたのさ。もちろん、小梅もあたしにとっては大事な友達だよ』
 そう言うと小梅はしゅんと洟を啜った。
 『ああ、ごめんよ、泣かせて』
 お玉は慌てて謝った。
 『ううん、小母ちゃんの言うこと、よくわかる。あたいも傍にいる人を大事にしなきゃと思うもの。いつどうなるか知れないから、せめて一緒にいられる間はなかよくすることだよね』
 『小梅・・・』
 お玉は自分の気持ちが通じたことに、ひどく感動した」(pp. 311-312)。

わたしの隣では、母が「カステラ食べたくなってきた」と言いながら年賀状を書いています。

 そんな2007年、大晦日の夜。

 みんなに感謝。ありがとう。来年もよろしくお願いします。
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by no828 | 2007-12-31 22:41 | 人+本=体 | Comments(2)
2007年 12月 31日

「サラエボの花」は咲いたのか

2007年12月16日「サラエボの花」@岩波ホール。

映画は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに住む母エスマと娘サラの生、ことにその夫=父をめぐる生の物語である。

物語の背景には、1992年に起きた「ムスリム人」「セルビア人」「クロアチア人」をめぐる「民族紛争」がある。

「サラエボの花」のパンフレットによれば、「この紛争では、女性への暴力行為だけでなく敵の民族の子供を産ませることで、所属民族までを辱め、後世に影響を残すことが作戦として組織的に行われた」(p. 19)。

エスマの夫=サラの父は誰なのか。

エスマは知っている。サラは知らない。

サラはエスマに訊く。「わたしのお父さんは誰なの?」


悲しい物語である。


しかし、これは現実に起こったことである。


映画の最後、わたしにはエスマとサラの絶望が、少しだけ希望に変換されたように思われた。
そのように思わなければ、わたしの絶望は絶望のままであり続けたのかもしれない。
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by no828 | 2007-12-31 22:13 | 映画 | Comments(3)
2007年 12月 30日

少年への注意を躊躇するわたし

晴れ。

昨日の夕方、電車と汽車を乗り継いで無事に実家に到着する。
おおよそ5時間の旅程となった(電車と汽車のなかでは本を読んでいたので苦ではなかった)。

某浦駅までは某氏に送ってもらう(某氏は100%グレープフルーツジュースが好きらしい)。
>某氏:ありがとう。

某ひらがな3文字の駅で乗り換えのさい、お手洗いに行った。
すでに人がたくさんいたので並んで待っていたのだが、その順番を待つわたしの横を5歳ぐらいの某少年がすり抜けて行った。

ん?抜かされた?

大いなるもの:うん、おまえは抜かされたのだよ。

ここは教育的指導をしなければ教育学専攻の名が廃る、と思って注意をしようと思ったが、ここでふと立ち止まってしまう。

「並んで待つ」とか「順番を守る」は果たして正しい行ないなのか。
正しい行ないであるとすれば、その正しさはどのように説得的に論じられるのか。

順番を守るわたし(以下、わたし):少年よ、大志を抱く前に守るべきことは守りたまえ。
順番を守らない某少年(以下、少年):守るって何を?
わたし:順番を、だよ。
少年:どうして順番を守らなければならないの?
わたし:ど、どうしてって・・・それは守らなければならないからだよ。
少年:そんなの説明になってないよ。
わたし:たしかに・・・あ、自らの理説の不備を認めてしまった。ぐ。

わたしは用を足す少年を見つめながら以上のようなシミュレーションを行なった(わたしは一体何をしているのだ)。

しかし、このような道徳に関わる行ないに「理由」を見出すのはなかなかに難しいように思われる。
「・・・であるから、~しなければならない」とは言えないのではないか(実際、今日の哲学・思想の世界においても、「・・・であるから」の部分を重要視する「基礎づけ主義」の旗色は悪いのだ)。
道徳とは、「~しなければならないから、~しなければならない」としか言いようがないのではないか。

(このように考えると、「道徳を教え込む」は成立するが、「道徳を教育する」は成立しえないようにも思えてくる。が、この点についてはこれ以上深入りしない。)

さて、「並んで待つ」「順番を守る」は果たして正しい行ないか、正しいとすればそれはなぜか、ということであった。

以上より、後者への回答の困難性、すなわち正しさの理由を定立することの困難性は明らかのように思われる。

では、前者の問い、「並んで待つ」「順番を守る」は正しい行ないなのかどうか。

これらの行ないの原理は、単純化して考えれば「早い者勝ち」である。
そこに早く「着いた」者が取る(コロンブスとか「開拓」とか「資本主義」とか)、そこに早くから住んでいる者が取る(そういえば今年9月に「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択された)、などが「早い者勝ち」の例である。

先にそこに並んだ者が優先される、というのも「早い者勝ち」の例に漏れない。

しかし、なぜ「先にそこに並んだ者が優先される」のか。なぜ「早い者勝ち」は正当化されるのか。
理論的にはさまざまな立場から理由づけできるが、わたし自身からは説得的な理由を提出することができない。


と考えていたら、某少年は手も洗わずにトイレを出て行った。

あ、夕食の時間だ。手を洗って準備を手伝おう。
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by no828 | 2007-12-30 19:26 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 28日

現在へと向かう過去の情感を知らされる雨の夜

晴れていたのに今は雨。

今日は研究室の机周りの整理整頓をする。
何とか片付いた。が、コピー/ダウンロードした論文の整理は終わらず。

改めて思うが、論文の片付けはそう簡単に裁くことができるものではない。
とりわけ、どのようにファイルして保存するか、という点においてもう少しの試行錯誤が必要である。


ところで明日帰省することにしたのであるが、持ち帰る本と論文の選定に時間がかかる。

とりあえず「これ」というのを準備するが、結構多くなってしまう。

うう、どうしよう。

と言いつつ、たぶん全部持って帰ることになると思う(これまでもそうであった。そしてその大半は読まれないという残念な結果に終わるのだ)。

ああ、成長していないわたし。
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by no828 | 2007-12-28 21:31 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 27日

「学生注目」って言ったじゃないか

晴れ。

大学は今日から冬休みである(たぶん)。そして図書館も今日から閉館(これは確実)。

図書館閉館はなかなかに痛い。


少し振り返ると、昨日は某卒論指導を行ない、院生4人の某呑みに参加したのであった。

某呑みは某呑み屋で行なった(と書いて、この文章はあまり、というかほとんど説明能力を持っていないことに気づく。が、そのままにしておく)。

うすうす予想はしていたのであるが、某呑み屋には今年最後の授業を終えた某学類生たちがなだれ込み、「がくせーちゅーもーく」などと叫び始めることになる。

わたしも「がくせー」であるのでその声の方を注目したのであるが、残念ながらわたしに関係のあるアナウンスはまったくなかった。

何だよ、注目させるなよ。

がっかりしたわたしたちは場所を某ココスに移す。

結局1時頃まで某ココスにいて、帰宅したのは2時。

しかしながら今日は朝から研究室に来る。ちょっと眠い。

『現代思想』2008年1月号に特集・掲載されている「民意」についての論文を読む。「ポピュリズム型ナショナリズム」など。某卒論指導も。

夕方から文献の整理。あまり進まず。明日も研究室の机・本棚周りを片づけるつもり。
帰省のさいに読む本と論文を選ぶ作業もせねば。

新しい年をきれいな環境で迎えられるように。
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by no828 | 2007-12-27 19:43 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 25日

クリスマス

メリー・クリスマス。


拒まなければ、そこに愛はあるのかもしれない。
愛がないと感じられるのは、それを自分が拒んでいるからかもしれない。

成就しない恋はあっても、成就しない愛はないのかもしれない。

と考えていたら、以下の文章が思い出された。

「どうしても孤独がいやだと思うなら反省してみてください。あなたは自分しか愛していないのではないですか。こういう相手じゃいやだなどと、自分で愛を拒んでいませんか。自分以外のものを愛しなさい。犬でもゴキブリでも、愛すれば友達になってくれます」(土屋賢二『紅茶を注文する方法』文藝春秋、2002年、p. 175)。


今夜映画を観たい人には「ラヴ・アクチュアリー」を。
今夜小説を読みたい人には『クリスマス・キャロル』を。


人の温かさは、きっとそこにあるはずだ。
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by no828 | 2007-12-25 19:59 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 23日

今日中にディケンズの『クリスマス・キャロル』を読もう——12月4日〜22日の読書

昨夜から降り続いた雨は上がったようだ。外が明るくなってきた。

てるちえの結婚パーティのアンケートに答えたついでに、貯めてしまった本の記録を書いてしまおう(註:この記事は少し長いです)。


40 筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店、1990年。(古書)

 引用箇所はとくにない。大学の先生になりたい人、文学に興味がある人、現象学や記号論や構造主義やポスト構造主義に興味がある人は面白く読めるはず。


41 諸田玲子『月を吐く』(集英社文庫)、集英社、2003年。(古書)

 時代小説。徳川家康の正室である築山殿の物語。「身分」が大きく立ちはだかる時代に、その「身分」を越えて誰かに思い焦がれることのつらさ・切なさ。


42 石井光太『神の棄てた裸体——イスラームの夜を歩く』新潮社、2007年。(新刊)

 おすすめ。実際に「イスラーム」を訪れて書かれたノンフィクション。バングラデシュについても記されている。以下は同国の首都ダッカについて述べられたところ。

 「私が泊まっていたゲストハウスの周辺にも、路上で暮らす子供たちの姿があった。日本でいえば、幼稚園児ぐらいから小学校高学年ぐらいまでの子がほとんどだった。/子供たちはいつも、明るくはしゃぎまわっていた。彼らにとっては道に落ちているものすべてが、遊び道具だった。野菜や果物の皮が落ちていれば二手に分かれて投げ合い、ビニール袋があれば頭から被って追いかけっこをしていた。/この頃、私は宿の従業員をガイドとして雇い、頻繁にゲストハウスを出入りしているうちに、近隣の浮浪児たちと顔見知りになっていった。彼らはとても人懐っこく、私を見つけると駆け寄ってきて、腕や服を引っぱる。そして、遊ぼうよ、遊ぼうよ、と雨の中へつれだそうとするのだった。・・・そんな交わりのなかで、彼らについて一つ、気がついたことがあった。貪欲なまでに甘えたがるということだ。顔見知りであれ、通行人であれ、怒っている相手であれ、とにかく相手にしてもらわなければ気がすまないのだ」(p. 258)。 

 わたしにもそうされた経験がある。通りを歩いていたら、女の子がずっとわたしのあとをついてくるのだ。わたしはそのとき、どうしていいか本当にわからなかった。

 「貪欲なまでに甘えたがる」・・・それは人の優しさ・温かさ、あるいは愛が欠けているからだ、とフロムなら言うであろうか。


43 土屋賢二『ツチヤの軽はずみ』(文春文庫)、文藝春秋、2001年。(古書)

 「人間が能力に振りまわされる根底には、『能力というものは発揮しないと損だ』というケチくさい考え方がある・・・。この考え方をさらに進めて、与えられた能力を最大限に発揮することが人間のつとめであるし、それが実現されることが人間の幸福だ、と考える人もいる。ここから『人間はこれこれの能力を与えられている。ゆえにこれこれのことをすべきである』という誤った哲学説も出されてきた。
 この考え方によると、100メートルを七秒で走る能力をもっている男は、非常に下手なピアノ弾きになることを希望していても、オリンピックに出るべきだということになるだろう。しかしそういえるだろうか。・・・
 人間は道具とは違う。道具なら、『これこれの目的のために存在している』といえるが、人間についてはそういういい方はできない。・・・人間なら、何ができるかということより、何をしたいかによって進路を決めた方がいい」(pp. 85-86)。

 自分の才能・能力を無視して生きることもひとつの生き方である、ということか。
 
 そのように言い切ることがわたしにはできない。


44 開高健『知的な痴的な教養講座』(集英社文庫)、集英社、1992年。(古書)

 タイトルがよい。実際の内容も、知的で痴的。周りに人がいるところでは音読しない方がよい。
 
 近年の「偽装」問題に通ずる文章があった。それを引いておこう。章のタイトルは「クラフトマン・シップ」。

 「いったい、わたしが思うに、会社がいろんなことに手を出して、マルチになる。客の好みと関係なしに資金の流動があって、買収・合併というようなことが着々と行なわれているんだけれども、クラフトマン・シップに憧れて、その頑固さを愛するわたしのような客もたくさんいるだろうと思いたい。が、諸君はどうだ?」(p. 169)。
 わたしも、ひとつのものを作り続ける、そういった一貫性はとても大切だと思います。

 「人間、物に愛着が持てないようでは、暮らしが浅くなるぞ。『玩物喪志』という言葉があって、物をいじっているうちに志を失ってしまうことをいう。しかし、志を失わせるぐらいのいい物があるかどうか、というのが問題なんだよ。諸君」(p. 170)。

 「玩物喪志」は『書経』にある言葉らしい。「人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う」。
 なお、「玩物喪志」は「現実から離れた学問」のことも言うらしい。


45 中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 増補版』(朝日文芸文庫)、朝日新聞社、1994年。(古書)

 「通りの立ち飲みに一人で入って、完全な匿名性の中で黙々として酔っていくのはいいものだ。/ただ、こんなことはそこで生活していない、通過する者の無責任な感傷であって、街自体にとってはそれどころではないのだと思う」(p. 109)。

 「通過する者の無責任な感傷」に、がっと胸を掴まれた感じ。

 「ただ、こうして生きてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回ぐらいしかないかもしれないが、『生きてきてよかった』と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。だから『あいつも生きてりゃよかったのに』と思う。生きていて、バカをやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも『まんざらでもない』瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。あんまりあわてるから損をするんだ、わかったか、とそう思うのだ」(pp. 194-195)。


46 古市幸雄『「朝30分」を続けなさい!』アスコム、2007年。(新刊)

 朝の使い方をどうしようかと思って。

 「勉強のモチベーションを維持するコツはあなたの大切な人のためにがんばることです」(p. 107、強調は原文)。
 「勉強」を「研究」に置き換えても同じことが言えると思った。「自分のため」も忘れてはいけないが、「自分のため」だけではやはり限界が来ると思う。

 「つまり、あなたを取り巻く現状が、あなたの考え方を示す何よりの証拠なのです。・・・/あなたの考え方の結果が、現在のあなた自身であり、あなたの周囲の状況なのです」(p. 166、強調は原文)。


47 古市幸雄『「1日30分」を続けなさい!』マガジンハウス、2007年。(新刊)

 「・・・後に不本意な結果に終わるパターンになるのは、決断できなかったことが大きな理由です。・・・逆に言うと、自分が決断さえすれば、目標や願望の半分はもう手に入ったのと同じなのです」(p. 169)。

 そう思います。


 ただいま某点検の方が来室中。いろいろ検査されている。

 ぴこぴこぴこ。

 終了。お疲れさまでした。


48 渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ——筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』北海道新聞社、2003年。(古書)

 おすすめ。考えさせる。目頭も熱くなる。理性にだけ訴えかけるわけではなく、かといって感性にのみ訴えかけるわけでもなく。
 
 「ボランティアは『人のため』というが、それ以前に、みんな自分をどうにかしてほしいと思って飛び込んでくるのかもしれない」(p. 92)。

 「・・・ボランティア心理について話題になったとき、誰かが本の一節かなにかを引用して教えてくれたことがあるんです。/『一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる』っていう言葉なんですけど・・・この言葉の意味、わかります?」(p. 120)。
 
 ええ、わかります。

 「一人の不幸な人間は……」の出典がわかる方、いらっしゃいましたら教えてください。

 「『アメリカでは、障害者でも仕事に就けるんですか?』
『もちろん簡単なことではない。でも、アメリカでは、「何ができないか」ということよりも、「何ができるか」が問題なのだ。だから、「できる」と主張する人には、どんな援助をしてもそうさせるだろう』
『主張すれば与えられる。主張しなければ与えられないということですか』
『その通りだ。だからこそ、主張することを恐れてはいけない。・・・』」(p. 175)。

 「何を悩んでいるのか。私は何を悩んでいるのか。
 それをこれから順を追って話していかなければならない。
 それにしても、健常者(つまり私)が、障害者について語るというのは、なかなかに難しい問題をいくつか含んでいるものだと思う。どこまで障害者の『立場』に立ってものが言えるのかという問題がまずある。また、彼らの生に厳しさをもたらしてきたのは、いつも健常者中心で物事を運ぼうとする社会なのだろうという負い目もある。そもそも障害者に対する『やさしさ』や『思いやり』とはいったい何だろう、などと考え始めると、それこそ際限がない」(pp. 298-299)。

 だから考えても意味がない、ということには、しかしながらならない。が、「立場」については、わたしも悩むところ。「そこ」にいる〈あなた〉と「そこ」にはいない〈わたし〉。「立場」は常に排他的である。代表=表象の問題など、もっともっと考えよう。

 「つまり、健常者である自分の生活感情・信条を基盤にして『おかしい』ことは『おかしい』と言えばいいのだが、同時に『おかしい』のはひょっとしたら自分なのかもしれない、という視点を手放してはならない。常識的に応対すればいいのだが、常識を疑ってみることも大切である」(p. 316)。

 「『でも、斉藤さん自身は、どうしてやめずに最後まで〔ボランティアを〕つづけられたんでしょう』
『結局ね、それはもうシカノさんに情が移ってたからじゃないかな。情が移ってたから、としか言いようがないんですよ。・・・/それと当時は、シカノさんのお母さんがしょっしゅう来て、ボランティアの食事を作ってくれてたんですけど、あのお母さん見てたら、これはもう、つべこべ言わずにやんなきゃしょうがねーと思っちゃったんですよね』」(p. 400、〔〕内は引用者)。

 「つべこべ言わずにやんなきゃしょうがねー」に撃たれる。
 「つべこべ言わずにやんなきゃしょうがねー」は、前に言及した「止むに止まれぬ」気持ちとかなり近いのではないか。
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by no828 | 2007-12-23 15:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2007年 12月 22日

研究会後の下降

雨降りの土曜日。今日はすごく寒い。

午後から某大学での某研究会に参加する。

意味のある質問・コメントができずに落ち込む。自分で納得の行く質問・コメントができずに落ち込む。
研究会後にみんなは食事に行ったようであるが、わたしは行かなかった。というよりも、行けなかった。
それぐらい沈む。

そういう日もある、と言えればよいが、ゼミや研究会のあとはいつもこうだ。
――自己肯定感の喪失。自己否定感の増幅。

このことには即効性のある解決策は存在しない。少しずつ歩を進めていくしかない。


外では雨が、相変わらずよく降っている。
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by no828 | 2007-12-22 23:43 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 21日

少しだけ親鳥の心境

晴れ。

今日で大学の某短期雇用の仕事は終わり。

2限は教育哲学。「偽装と教育」。

テーマに無理があったと思う。

「偽装の原因は不十分な教育にある」という主張はわかりやすいが、かなり乱暴である。
何か「問題」が起こったさいに、その問題の原因を教育に(だけ)求めるのはいかがなものか。
このような推論の前提には、「教育万能論」が潜んでいる。
しかし、教育は万能ではない。「万能な教育」というのがあるとすれば、むしろそこには危うさを見出すべきである。

昼は史学を勉強している友人と中華料理。昨日の史観の話など。勉強になる。


メールを開くと、某卒論生から「無事に提出しました!ありがとうございました!」。

某学類は昨日が本文提出日で、今日が要約の提出日であった(らしい)。
「らしい」と付けたのは、要約の提出があることを知らされていなかったので。しかし、無事に提出できて何よりである。


研究室で文献を読んでいたら、別の某卒論生が来る(お菓子もいただく。ありがとう)。
「無事に提出できました」。

よかったよかった。

来月半ばに口頭試問があるとのこと。その前に少し受け答えの練習をしようと伝える。

この某来室卒論生は4月から某人材派遣会社で働く(先の某メール卒論生は修士課程に進学する)。
卒業論文の執筆という研究上の営みが終われば、それとは少なからず位相の異なるところで生きていくことになるのである。

わたしの立場からすれば、それはすごく寂しい。

卒論で論理立てて説明した内容については将来の仕事と関係ないかもしれない。
だから内容については忘れてもいい。
ただ、この卒論を君に書かせた疑問や不満や憤りといった問題意識は仕事にも通じると思う。だからその問題意識だけは忘れないでね。

以上のようなことを伝える。
そして「よくがんばったね」「ありがとうございました」なんてやり取りをしていたら、ちょっと涙が出そうになった。

教え子が巣立っていく姿を見守る先生の気持ちが、少しだけわかったような気がした。
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by no828 | 2007-12-21 18:38 | 日日 | Comments(0)
2007年 12月 20日

「わからない」とどう向き合うか

晴れ。

昨日は夕方から「ケア」に関する読書会があった。
今年最後ということで、会のあとに鍋やおでんやビールを研究室にて。


今日は3限から比較・国際教育学の授業。「オリエンタリズム」について。
「史家」の眼からテクストが読み解かれると、そこにはまったく新しい世界が広がるのであった。


5限は某関係で某学類の某「史学」の授業に出る。
毎回1人の史家を取り上げて概説するようである。

今日は宮崎市定(1901-1995、専門は東洋史、ことに中国制度史)。

宮崎は東洋史が専門とはいえ、常に世界史(世界の動き)を念頭に置いて歴史を見ていた、と説明がなされる。
「視野を広く持て」という研究上のメッセージを宮崎から(勝手に)拝受する。

授業の後半では、マルクス主義史観との関係で宮崎の歴史観が語られ、大変興味深く拝聴する。

1950~60年代の日本の歴史学はマルクス主義史観が席巻し、それ以外の史観の居場所がなかったようである。
そのような状況で宮崎は、明示はしていないにしても、反マルクス主義史観を唱えたようだ(厳密には、そのように「唱えたと解釈できるそうだ」)。

そのほか、「あ、なるほど」と思うことがいくつかある。

「今・ここ」であるからこそ、「わかる」ことがあると思う。
今日の授業を、18歳の頃のわたしが聴いてもまったくわかっていなかったであろう。

あの頃もっと勉強していれば・・・と悔やむ日々。


17時過ぎにインドネシアから戻った某後輩が研究室に来る。

インドネシアでの経験、そこで何を感じ、何を考えたのか、進路をどうするか、など。


そういえばお土産に粉末状のインドネシア版生姜湯の素(と説明される)をもらった。
たしかに生姜湯の味がする。

おそらく、であるが、商品名は Bandrek か、あるいは hanjuang (商品説明もインドネシア語のみなので正しく読解できない)。

そこには UNTUK DEWASA と書いてある。
「FOR ADULTS という意味です」との説明を受ける。

「なぜ FOR ADULTS なのか」という疑問が当然浮かぶわけであるが、この点については彼女も知らないようであった。


世界は「わからない」で満たされているのだ。
その「わからない」とどう向き合うか。
「わからない」ものを「悪」と呼ぶような近年の某国政府の動きに鑑みるに、そして「わからない」を「わからない」まま放置することに何のフラストレーションも感じない近年の日本の若者の態度に鑑みるに、これは思考すべき問いであるように思われるのである。
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by no828 | 2007-12-20 21:06 | 日日 | Comments(0)