思索の森と空の群青

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2008年 02月 29日

論文と通訳と急すぎるご案内

晴れ。穏やかに。

今日は午後から某研究所の先生の留学生向け出張講義のお手伝いをする。
日―英の通訳のお手伝いである。

実はこの「某研究所の先生」とは、わたしの研究発表を「卒論レベルだ」と切り捨てた先生であり、わたしの『***研究』掲載論文を読んでコメントまでくださった先生であり、「わたしの論文の草稿を送るから、これについては逆にコメントをもらえるとうれしい」と言ってくださった先生のことである。

それにしても、である。英語を話すのは久しぶりである。

不安なので、講義の前にBBCのインターネット・ラジオを聴いたり、英語論文を音読したり、「アリー」のシーンを思い浮かべたりして英語の気分を高める。

それがさっき終わった。
講義のすべてを英訳するわけではなかったし、留学生からの質問のすべてを和訳する必要もなかったので、それなりに任務を遂行できたように思われる。

そういうわけで午前中は、その先生が送ってくださった先生の論文の草稿を大急ぎで再読する。
講義とは関係ない論文なのであるが、「あれ、どうだった?」と訊かれたときにお応えできるように。
論文のテーマは「日本の国際教育協力の政策史」で、そのときどきの政策をめぐる省庁レヴェルの議論も紹介されていた。
外務省と文部省の主張の根拠の違いなど、知らないことがたくさん書いてあって勉強になった(外務省・対・文部省という対立構図を勝手に描いてみると、やはりわたしは文部省の考え方に近いようだ)。
きちんとコメントを考えて先生にお送りしなければならない。

そういえば、わたしの「専門」領域の論文を読んだのも久しぶりな気がする。

もちろん、だからといって先生の論文を読んで「わからない。ついてゆけない」と思ったわけではない。しかし、研究動向を把握するためにも最近の「国際教育協力」分野の論文を読んでおかねばならない。そう思った。


講義を終えられた先生をバス停までお送りしたとき、「ちょっと時間あるなら、センターのあたりでお茶でも飲みながら〔=酒も呑みながら―引用者註〕論文のこととか話しませんか?」とお誘いを受けた。

これには、講義の直後に先生とわたしを含め4人でお茶を飲む時間があったのだが、そこでわたしの論文について議論するわけにもゆかなかった(だって他の人もいるし)という背景がある。

そういうわけで喜んでお供したかったのであるが、「残念ながらこれから読書会がありますので、また東京の研究会のときによろしくお願いいたします」というかたちでお断りしなければならなかった。

そう、これから読書会なのである。


あ、急すぎますが、以下のようなシンポジウム(?)が、明日、あります。
当日の飛び入り参加も可能なようです。

もう少し早くご案内できればよかったのですが、わたしも今日の昼に申込のメールを送ったぐらいなのです。

■「国際協力における社会起業家の役割」■

【日時】
 3月1日(土) 14:00~17:00(受付開始13:30)
【場所】
 早稲田大学西早稲田キャンパス14号館201教室
 地下鉄東西線早稲田駅より徒歩8分
 都営荒川線早稲田駅より徒歩5分
 http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html
【内容】
 基調講演 「社会、そして国際協力における社会起業家の役割」
 パネルディスカッション 「『選ぶ』国際協力へ~社会起業家という選択~」
 ファシリテーター:日本経済新聞編集委員 原田勝広氏
 パネリスト:
 (株)イオンフォレスト ザ・ボディショップ 藤田紀久子氏
 (株)マザーハウス 山口絵理子氏
 (株)ユナイテッドピープル イーココロ! 関根健次氏
 NPO法人かものはしプロジェクト 村田早耶香氏
【参加費】
 無料
【申込】
 下記申込フォームにご記入のうえ、
 social.entrepreneur.symposium@gmail.com
までメールでお申込ください。
 ※ 当日の飛び入り参加も可能になりました。
【問合・申込先】
 ジャパン・プラットフォーム学生ネットワーク(イベント班)
 MAIL: social.entrepreneur.symposium@gmail.com
 URL: http://www.japanplatform-studentnetwork.org/

――お申込フォーム―――――――――――――
氏名:
所属:
PCのEmailアドレス:
パネリストへの質問:
―――――――――――――――――――――
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by no828 | 2008-02-29 18:46 | 日日 | Comments(2)
2008年 02月 28日

「愛する」と「信じる」について、あるいは対話の位相について

晴れ。昨日よりも暖かさは増したような気がするが、相変わらず風が強い。

昨夜は3月に卒業する学類の後輩=友人と夕飯を食べた。
夕飯で外食するのは久しぶりである。

まずは忘れないうちにお互いの論文を交換する(わたしは詩集ももらった。ありがとう)。

友人は「けんちん蕎麦」を食べながら、わたしは「鶏の唐揚げ定食」を食べながら、さまざまなことを話した。たとえば、以下の3つのこと。


1. 「愛する」と「信じる」の(概念的)差異について。

キリスト者は(という一般化は難しいことは承知のうえで)、「信じる」の対象として神を、「愛する」の対象として人間を措定しているのか、とわたしが問う。
そのような極端な使い分けはしていないでしょう、と友人が応える。
たしかに、「信じる」と「愛する」はまったく異なる概念・実践ではなく、連続的であるようにも思われる。たとえば「信じ(てい)る」がゆえに「愛する」のように。

しかしながらわたしのなかでは、「愛する」と「信じる」には差異もあるはずで、それはどのあたりであろうかという疑義が払拭されずにいる。


2. キリスト者における「神への愛」と「人間への愛」の差異について。

キリスト者が「神も愛し、人間も愛する」というとき、そこでの「愛」は同一のものなのか。

ここに1組の夫婦がいるとしよう。話を単純化するために、夫が非キリスト者、妻がキリスト者であるとしよう。
こうした場合、妻が第1に愛するのは神なのか、夫なのか。それが神であるとした場合、夫は神に(かなり卑近な言い方になってしまうが)嫉妬しないのであろうか。

また、神を第1に愛する妻は、どうして夫と結婚したのであろうか。神を直接的かつ具体的に愛することができないために、神の「身代わり」として夫と結婚したのか。とすれば、夫への愛は常に神を媒介してのみ成立することにはならないか。

もちろん、「愛」に順番なんか付けられないのかもしれない。
どちらも1番に愛する、でよいではないか、親が3人の子どもを平等に愛するように。
とするならば、どうして「浮気」や「不倫」が断罪されなければならないのか、とも問いうる、理論的には。2人の男/女を同時に同じくらい愛している、はなぜ認められないのか。

こうしたときに、「神への愛」と「人間への愛」の関係はどのように考えればよいのか。


3. 神は人間を信じているのかどうか。

非キリスト者からすれば、キリスト者に「課せられた」さまざまな「ルール」(戒律、と言うのかな)はキリスト者を「束縛する」もののように見える。

なぜ、神は人間に「ルール」を「課した」のか。

神が人間を信じていないからだ、という理由付けも、理論的には可能ではないか。

もちろんキリスト者からすれば、神の「ルール」は生きてゆくうえでの「里程標」であってルールではない。
ここでキリスト者と非キリスト者の議論はすれ違ってしまうのであるが、それでもなお、もし神が人間を信じているのであれば「ルール」を課さずともよかったのではないか、と問うてしまうのである。


以上のようなことを、基本的に何もわからないわたしが訊いて、友人に応えてもらった。

脳の奥底の理性と感性が交差するところを使って、今にも発火しそうなその交差点を使って話ができたように思われる。

このような話をしてくれる友人がいることが、わたしにはすごくうれしい。
このような話をしてきてくれた友人がいることが、わたしにはすごくうれしい。


このような話ができたのは、おそらく、互いの思考・発話の位相がそれほどずれていなかったからである。つまり、「対話の位相」が成立していたためである、とわたしには感じられる。

これは、互いに異論を差し挟まない、とか、反論しない、ということではない。
そうではなく、相手の言葉をその言葉が発せられた地平において受け止める、ということである。その地平において相手の言葉を受け止めたのちに、それに対して異論・反論を展開することは十分可能である。
しかし、まずは相手の発話の地平に立たないことには対話は続かない。

もちろん、あえて異なる地平から発話してゆくことも必要な場合があろう。
相手の発話の地平からずれることで、対話を思いがけない方向へと持ってゆくこともスリリングな体験であるように思われる。

だが、そのときでも、まずは相手の言葉の位相で相手の言葉を受け止めることが求められる、そう思うのである。
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by no828 | 2008-02-28 18:39 | 思索 | Comments(0)
2008年 02月 26日

意志と身体 精神と肉体  映画「潜水服は蝶の夢を見る」

晴れ、ではない。少しの明るさと、それより少し多いぐらいの暗さ。


さて、日曜日に観た映画のこと。残効性が強いうちに書いておきたい。

もちろん時間が経っても、観た映画(そして読んだ本)がわたしに与えたものが消え去ることはない。それは微量に、しかし決してなくなることはなく、わたしのなかに堆積される。そして、わたしはわたしになってゆく。もしかしたらそれこそが、映画(そして本)の「強さ」なのかもしれない。

だから、すごく時間が経ってから書いてみるのも意味があるのかもしれない。だが、「今だから」ということもあるはずで、その「今だから」をここに書いておきたいと思うわけである。


観たのはフランス映画、「潜水服は蝶の夢を見る」であった。

主人公の名はジャン=ドミニク・ボビー、通称ジャン=ドー、雑誌ELLEの編集長であった。

ジャン=ドーは、42歳のときに突然脳梗塞で倒れ、意識が戻ると左目以外は動かない状態になっていた。

ロックト・イン・シンドローム(locked in syndrome、閉じ込め症候群)

意識はある、以前と同様に思考することもできる、意志もある。しかし、身体をその意志によって動かすことができない。だから言葉を発することもできない。麻痺。動かせるのは、左目だけ。潜水服。

しかしながらジャン=ドーは、言語療法士たちとともにコミュニケーションの手段を身に付けてゆく。左目を使った、左目だけを使った、コミュニケーションの方法である。

それは話しかけられたとき(質問されたとき)、その答えが「はい」であれば瞬きを1回、「いいえ」であれば瞬きを2回するというものである。

さらには、利用頻度が高い順にアルファベットを読んでもらい、「E, S, R, I, N, ...」、選びたい文字に来たら瞬きを1回するというものである。それを繰り返して単語が作られ、文章が作られ、そして最終的には本が作られた(本は邦訳がなされている。ジャン=ドミニック・ボビー(河野万里子訳)『潜水服は蝶の夢を見る』講談社、1998年)。

ジャン=ドーは、こうしたコミュニケーション方法で自らの意志を伝える。

 死にたい。

それは絶望である。死にたくても自分ひとりではそれもできない。
しかし、ジャン=ドーはここから這い上がる。

 自分には自由に使えるものが2つある。「記憶」と「想像力」だ。

彼は「記憶」と「想像力」を使って蝶になる。


わたしであったら、と考える。

意志はある、にもかかわらず、それを自分ひとりで発現・表現・体現することができない。
意志はある、にもかかわらず、それを身体的に発現・表現・体現することができない。

わたしには絶望することしか残されていないのではないか。「受け入れる」なんて無理だ。


意志、それを少しのあいだ「精神」と言い換えてみる。

精神だけで生きられたらどれほど楽であろうかと思うときがある。
身体がなければどれほど楽であろうかと思うときがある。

修士論文を書いているときに強くそう思った。
身体は要らない、精神が、思考力が、意志が、あればよい。

頭痛がない、空腹がない、排泄する必要もない、眠くならない、物理的距離も関係ない、気温も関係ない、見た目で人を判断することもない、・・・。

しかし、わたしは、わたしたちは、身体を持っている。持ってしまっている。身体が消えてもなお精神だけは残る、かどうかも定かではない。だから身体とともに生きていかざるをえない。たとえそれが「自由」に動かせなくとも。

ある種の「諦念」?それは「受け入れる」と同じこと?

人間に身体、というより現にここにあるこの肉体を与えたのは何だ?誰だ?
なぜ精神だけで生きさせてくれない?
肉体がなければ、人はもっと自由に・美しく生きられたはずだ。


わたしは、この映画を観てそのようなことを考えた。意志と身体。精神と肉体。


窓の外を見る。降るはずの雨はまだ降っていない。肉体がなければ、雨に濡れるなんてこともないんだ。
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by no828 | 2008-02-26 19:53 | 映画 | Comments(0)
2008年 02月 25日

靴紐の切れる土曜日 映画を観る日曜日 「はしもとさーん」な月曜日

晴れ。空気の乾き。


土曜、朝から以下のセミナーに参加するため東京・市ヶ谷へ。

「EFAグローバルモニタリングレポート2008セミナー EFA達成に向けた日本の取り組み」
@国際協力機構・国際協力総合研修所

会場に着いたら左の靴紐が切れた。

この瞬間にわたしが思い出したのは、漫画『SLAM DUNK』である。

安西先生が倒れられたとき、三井の靴紐がぶちっと切れたのだ。

それを読んで以来、わたしのなかでは靴紐が切れることは嫌な予感の訪れを意味するようになっている。

だが、それを「厄落とし」とする解釈も成り立ちうる。

たしかに。

「厄落とし」のほうが気分が晴れやかになるので、そちらの解釈を採用してセミナーに臨む。

国際協力・援助の方法論・技術論に終始するという予想どおりの内容であった。
パネリストも、フロアからの質問・コメントも。

このような議論を理論的に批判するためにはどのようにすればよいか、と考えながら聴いていたら、途中から楽しくなってくる。
論文のテーマとして育ててみたい小さなテーマがいくつか思い浮かぶ。

会場からの帰り道はものすごく風が強かった。


日曜。晴れ。

12時50分から映画「潜水服は蝶の夢を見る」を観る@シネプレックス。

前々から気になっていた映画であるが、情報収集を怠っていた。
それが金曜日の呑みの席で、先生から「『潜水服は蝶の夢を見る』はよかった。シネプレックスでやってるよ」との情報をいただいたので、早速観に行ったわけである。

映画の内容については別便にて書こうと思う。

映画のあとは、映画館の近くの靴屋で靴紐を買い、印の無い良品店でクリアホルダーを買う。


日曜の夜、18時30分から大学院生4人の呑み会。何だか最近呑んでばかりな感じがする。

呑みでは研究の話なども出る。

たとえば、「哲学って何?勉強したいとは思うんだけど、難しい言葉が並んでいるし、~主義とかよくわかんないし、一回その世界に入り込んだら戻って来れない気がしてさ」。

わたしなりの説明を試みる。「ああ、それならわかるわ」と言ってもらえたのでよかった。

結局0時近くまで。徒歩で帰宅、部屋に着いて時計を見たら、0時30分を少し過ぎていた。


月曜、朝、晴れ。

研究棟に向かって歩いていたら、「国際総合」の看板を持った学生たちが集団で固まっている。

あれは受験生の応援かな。ということは、前期試験は土日じゃなくて今日なのか。

と思いながらその集団の横を通り過ぎたら「おはようございまーす」との声が集団から発せられる。

しかし、その「おはようございまーす」の名宛人は受験生であってわたしではないはずだ、と思ってそのまま歩き去った。

だが、その数秒後、後ろのほうから「はしもとさーん」と大声で呼び止められて、思わず振り返る。

な、何だ?

学生集団が一斉にわたしのほうを見ているのでかなり恥ずかしい。

わたしは学類生とそれほどのつながりがあるわけではない。勉強会を通じての知り合いが何人かいるぐらいである。だから、「おはようございまーす」な学生集団のなかでわたしを直接知っているのは、1人か、多くて2人であろう。しかし、その1人か2人をいつもの勉強会という文脈=背景から離脱したところで認識することは至難である。

じっさい、困難であった。

というか、認識することは不可能であった。

「誰だ?」と思いながらも、笑顔で挨拶されて嫌な気分になるわけもなく、わたしは軽く会釈をしてそこを立ち去ったのであった。

あれは一体誰であったのか。はしばさん?なかがわさん?あるいはまきのさん?

今度訊いてみよう。


月曜の午後、某発送作業を途中まで。
このようなときに研究室にわたししかいないのはなぜなのか。

そのあと「社会政策」と「参加」についての論文を1本読む。
「ああ、なるほど」と思うところが1ヶ所あったのでよしとする。


そんな3日間。
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by no828 | 2008-02-25 20:42 | 日日 | Comments(0)
2008年 02月 22日

学生注目はひさしぶり

晴れ。暖かくてまことによい天気。

2限に教育哲学の授業のはずが、先生が来られない。
学生もわたしと後輩の2人だけ。

一体何があったのか。

10分経って先生が来なかったら研究室に戻ろうと考えていたら、後輩から思いがけず研究についての相談を持ちかけられる。

結局そのあいだ誰も来ず、2限の時間をまるまる使って、わたしの研究に対する態度と、後輩(と言っても年齢は彼のほうが上なのだけれど)の修士論文について話をすることになった。

こういう時間はあってよいし、もっとあってよい。

物理的かつ制度的な研究室に縛られる必要はないのだ。

前に紹介した本にも書いてあったように、研究者は研究室に閉じこもるだけでなく、大学という空間――というより場所と言ったほうがよいか――を活用して、さまざまな人と議論することが必要であると思う。

もちろん、それが難しい場合もあろう。
むしろ積極的に、大学(あるいは専攻)のような空間性・場所性を飛び越えてもよいであろう。


そのような議論空間をこーちゃんがインターネット空間に作ってくれた。

> こーちゃん
 改めてありがとう。さっき「学生注目」しました。

おおいに活用して、互いに高めあっていければと思う。


さて、これから授業。

今日は授業後にそのまま呑みに流れる模様なので、このような早めの時間に書いたのでありました。
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by no828 | 2008-02-22 15:01 | 日日 | Comments(4)
2008年 02月 21日

わたしの直感・直観が「そこ」と告げたのだ

晴れ。相変わらず。しかし、空を見上げると気持ちがよい。見上げて気持ちのよい空である。


今日は5限に史学のテストがあったため、午前中はノートを見直しつつ歴史哲学の勉強をする。テキストは、野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年。

新たに得られた知見を少し書いておこう。

「歴史哲学」も含まれるであろう「科学哲学」では、直接的には観察できない対象のことを「理論的存在(theoretical entity)」、あるいは「理論的構成体(theoretical construct)」と呼ぶ。

たとえば、われわれは直接的に「日付変更線」を知覚することができない。それと同様に、「フランス革命」のような歴史上の出来事も直接的に知覚することができない。

しかし、概念化・理論化することで「日付変更線」は「存在する」ことになり、「フランス革命」は「存在した」ことになる。

だが、「日付変更線」と「フランス革命」は<時間>において異なる。「存在する」と「存在した」という点で異なる。

そもそも歴史(過去)は「知覚」できない。だって、そこにはもう「ない」から。

そこで求められるのが「想起」である。「構成的行為」とされる「想起とは、すでに『ない』ものを、かつて『あった』ものとして捉える働きにほかなりません」(p. 94)。

テキストから離れて少し乱暴に言ってしまえば、「歴史」とか「過去」は現在においてしか存在しえないのである。


以上のことは、もちろんテストには出なかった。残念ながら。

テストでは、「外国史研究の意義について、具体例を挙げながら、自らの考えを述べよ」と問われた。

これまでの授業をとおして、外国史研究の意義についてはおおよそ3つの立場から論じられていたように思われたので、まず、それを書いた。

① 「日本人(らしさ)」の観点から「外国史」を捉えることによって、「外国人が見た外国史」では浮かび上がらない側面に光が当てられること。

② 「日本(の近代化)」のために、すでに近代化を達成した外国の歴史に学ぶこと。

③ 自分の人間性をより豊かにできること。

回答では、①と②にそれぞれ反論を加え、消極的ながら支持できるのは③であると書いた。

しかし、そもそも問題にすべきは「外国史研究の意義」ではなく、「外国史研究の意義を問わざるをえない状況」である、と最後に書い(てしまっ)た。

これは、いわば問題の次数をひとつ繰り上げる作業であって、「外国史研究の意義について書け」という指令を(少し?すごく?)ずらして受け止め、そして返答していることになる。「禁じ手」であるように感じられたが、でも、そう書きたくなってしまったのであるから仕方がない。

その点と関連して、さらに次のようなことを書き加えてしまった(余計なことを書いてしまったということだ)。

昨今の大学改革は、国家がこれまで行なってきたことから国家を撤退させ、撤退させたことによって生じた空白に市場原理を流し込み、「自己による自己への統治」というネオリベラリズムの思想的基盤に乗っている(もちろん、撤退すべきところは撤退すべきだ。問題はどこから撤退すべきか、である)。

ネオリベラリズムの大学改革では、「実用主義」や「政策志向」の言葉が多用される。つまり、役に立つかどうか、その規準で学問のよしあしが決せられる。そこでは、「史哲」は真っ先に切り捨てられることになる。

しかしながら大学とは、「学問は実用主義や政策志向という規準で評価されてよいのかどうか」という原理論的地平から問いを発すべき場所であるはずだ、現状に対して常にメタ的な位置取りをしなければならないのが大学ではないのか。

そのようなことを書いた。

書いてしまった。

書いちゃまずかったかなあ、と少しだけ思うけれど、でも、いいのである。


テストの前にあった3限の授業では、ひさしぶりにたくさん話してしまった。

論文には一般に、

「取り上げて議論すべきところ」



「取り上げなくてもよいところ(= 取り上げたらみんなに「え、そこかよ?」という冷たい視線に晒されるところ)」

がある。

今日は論文自体が面白かったので、「取り上げて議論すべきところ」を議論したいと思った。
だから、「取り上げて議論すべきところはここなんじゃないですか」ということをそれとなく言ってみた。

ある程度議論を深めることができたのではないか。

もちろん、実際に取り上げて議論したところは「わたしにとっての『取り上げて議論すべきところ』」であるので、「例外なくみんなにとって『取り上げて議論すべきところ』」であったかどうかはわからない。

でも、いいのである。わたしの直感・直観が「そこ」と告げたのだ。
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by no828 | 2008-02-21 19:26 | 思索 | Comments(0)
2008年 02月 20日

思考は結局、普遍性へと行き着くのである

晴れ。

午前中、新聞を読み、「社会」「社会民主主義」「福祉国家」「連帯」などが関わってくる論文に取り組む。

論文における最大の問いは、社会民主主義を思想的に蘇生させるにはどうすればよいか、であったように思われる。

蘇生が必要であるということは、社会民主主義はすでに死につつあるということである。

この前提を確認するにあたって、論文では英国の事例――それは言うまでもなくアンソニー・ギデンズ=トニー・ブレア労働党政権の採用した「第三の道」――を分析している(なお、論文は2001年に出された)。

この事例については、「第三の道」は社会民主主義ではなく advanced liberalism であったと説得的に論じられている(ちなみに、advanced liberalism とは neo-liberalism とかなり近い概念であるように見受けられた。「それ」を英国では advanced liberalism と呼び、米国では neo-liberalism と呼ぶのか、と考えたりしたが、どうなのか)。

advanced liberalism であったというのは、「社会民主主義」の名の下で実際に行なわれたことが、「自己」を決定の主体として・引責の主体として・労働の主体として立ち上げる一方で、決定・引責・労働できない主体を「主体」から排除するというものであったからである。

このような議論は、今日の日本の状況に対しても示唆的であるように思われる。

さて、論文の結語からは、社会民主主義を思想的に蘇生させることは困難であると述べられていた(ような印象を受けた)。その困難さの理由は、そもそも社会民主主義が前提していた(福祉・国民)国家のありようがいわゆる「グローバリゼーション」によって変化しているからである。

わたしの研究テーマに引き付けて今後考えるとすれば、国家を前提にしない社会民主主義をどのように構想できるか、それを先行研究を参照しながらわたしなりに検討する、ということになる。
国家を前提に社会民主主義が構築されてきたからといって、社会民主主義を再構築するために国家が必要であるということには必ずしもならないはずである。

もちろんその前に、わたしが社会民主主義で行くのかどうかをまず考えなくてはならない。


午後、お昼を食べたあと図書館に行って論文をコピーする。「再分配」について。
その「再分配」論文の前に「ポストモダン」についての論文が掲載されていたので、ついでにそれもコピーする。

さらにその雑誌の次の号で、現代思想への理解を深めるために読んでおくべき本の紹介がテーマ別に(「正義」とか「公共性」とか「ポストコロニアル」とか)なされていたので、しばし読み耽ってしまう。

「あ、これは読んでみようかな」という本と、「あ、やっぱりこれは読んでおかなければならないのだな」という本が、数冊ずつあった。


そのあと「国際立憲主義」の続き。
そして明日の授業の課題論文、ジュディス・バトラー、それは「ヴァルネラビリティ」を機軸に普遍性を志向するものであったように思われた。もちろんバトラーであるから、そこでの「普遍性」は常に変化に晒されるものとして構想されている。


「普遍性」・・・われわれは、わたしは、ここに何を込めればよいのであろうか。
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by no828 | 2008-02-20 21:14 | 日日 | Comments(2)
2008年 02月 19日

それは壊されたままか

晴れ。

今日は新聞を読んだあと、お昼まで「福祉国家」「公共性」「連帯」「ベーシック・インカム」をキーワードとして抽出できるであろう論文を読む。

著者も認めているように、その「論文」は概論的な内容であり、積極的に、そして説得的に議論を展開しているものではなかった。
しかし、「ああ、たしかに。なるほどね」と思うところが(少なくとも)1ヶ所あったのでよかった。
その部分はとりわけ「福祉国家」と「連帯」に掛かってくるのであり、以前に読んだあの本に感じた「連帯」への違和を言語化してくれていた。


久しぶりに2食でお昼を食べてから書籍部まで歩き、買おうかどうしようか迷っていた本をやっぱり買う。

最上敏樹『国際立憲主義の時代』岩波書店、2007年。

題名のとおり、「国際立憲主義」について。
第1章を読んだだけであるが、国際秩序は「道徳」ではなく「法」によって構築・維持されなければならない、それが著者の問題意識であるように思われた。

しかし、「道徳」と「法」は対立する概念なのであろうか。

道徳 = 主観的・個人的

法 = 客観的・普遍的

という構図が描かれていた(紹介されていた?)が、本当にそうなのか。

わたしの疑義は、法も何らかの道徳に基づいているのではないか、というところにある。

「法 = 客観的・普遍的」とは、何らかの「道徳」が何らかの「手続き」に基づいて人びとの合意=客観性・普遍性を獲得することの結果生まれる等式なのではないか。

とするならば、「法」も何らかの「道徳」に基礎付けられていることになり、それゆえに「道徳」と「法」の差異は「手続き」を踏んだかどうかに求められることになる。

すると、わたしはここでも次のような疑義を呈することになる。

手続きを踏んだら何をしてもよいのか。
手続きを踏もうが踏むまいが、行なわねばならないことはあり、行なってはならないこともあるのではないか。

しかし、行なわねばならないこととは何で、行なってはならないこととは何なのか。

仮に「それ」が手続きを経て合意されたとしても、「それ」が主観的・個人的であることに何ら変わりはないのではないか。
主観的・個人的であることの周りに「客観的・普遍的」という幕が張られただけではないのか。

ならば「道徳」も「法」も変わりないではないか。「道徳」か「法」か、という2項対立的な問い方はできないのではないか。

こうして議論は行き詰まりを見せることになる、少なくともわたしのなかでは。

それはわたしが「法」についてよく知らないからかもしれない。


しかし、知れば次の段階に進むことができるのであろうか。


壊された建造物の「内装」や「外壁」を整える作業に、わたしはまだ進めないでいる。
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by no828 | 2008-02-19 20:49 | 思索 | Comments(2)
2008年 02月 18日

わたしが・わたしを・わたしのために、メタ認知

晴れ。

午前中新聞を読み、昨日に引き続いて論文の校正を行なう。

結局3回見直してから提出する。しかし、「まだどこかに・・・」という不安は払拭されない。

そのような後ろ髪を引かれる思いで昼食を取ったのが14時30分。

そのあと図書館に本を返して書籍部まで歩く。新書と文庫を1冊ずつ買う。

研究室に戻ってきて、貯まった新聞の切り抜きと論文のファイリング。
先週無○良品で買ったクリアホルダーを取り出し、積まれた論文をぱらぱらとめくりながら、どのようなテーマで論文を分けるか考える。

ファイルの背表紙用シールに、ペンで、また、仮の場合は鉛筆でテーマを書いてゆく。

「参加型市民社会論の陥穽」
「公共性・公共圏」
「ケア」
「正義(仮)」
「リベラリズム(仮)」
「主権(仮)」
「ガヴァナンス(仮)」

あれ、これだけ見るとわたしの専攻は政治哲学か社会思想になってしまうぞ。

もちろん専門領域の論文はすでに穴あけ式ファイルに保存されている(それらも近々クリアホルダーに移す予定である)。

今日クリアホルダーに整理したのは、比較的最近読んだものである。ということは、最近のわたしは、政治哲学とか社会思想の論文を比較的多く読んでいるということである(金曜日の発表のテーマも「参加型市民社会論の陥穽」であった)。

たしかに、言われてみるとそうかもしれない(「言われてみると」って、言っているのは他ならぬわたしであるが)。

哲学や思想のほうから教育開発研究・実践を判断するという「型」がわたしのなかにできてきたということか。

そういえば今日校正した論文の脚注に挙げた先行研究にも、philosophy の付く雑誌が多かった。


整理すると「わたし」がよく見えてくる。

「わたし」から逃げるな。
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by no828 | 2008-02-18 21:11 | 日日 | Comments(1)
2008年 02月 18日

2冊の分母は「他者との共生」だと思った 読書 no. 7―8

貯まってしまうその前に。手元にある本から。

7(57) 三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)、光文社、2004年。(1月30日読了)

今さらながら。「なるほど」と思う箇所が結構あった。男性も、というより、男性こそ、読んだほうがよいのではないかと思った。

筆者の問題意識はこのあたりに。
「私は、女性の『他者を受けとめることのできる力』というのは、月経や性、そして出産を豊かに経験することで次第に身に付いてくるものだと思っています。ところが、それらの体験の重要性は、すっかり忘れ去られてしまいました」(p. 30)。

「誰にでも、全部選択の自由を渡して、何でも自分の意思で好きなようにやりなさい、というのは、じつはとてもしんどいと感じる人も多いのではないかと思います。・・・ですから、ある程度道が決まっていて、だいたい人生こういうふうに生きていけば、最終的にはそのなかで自分の人生の研鑽もできて、役割も果たせて、一生を平穏に終えて、次の世代にも何かを渡せるというような人生のオプションもないと、つらい人も多いと思います。なんでも自分で選んでいい、ということになってとても当惑している人も多いのではないでしょうか」(pp. 141-142)。

「だから『結婚しなくていいよ』とか、『いい仕事があったら子どもなんか産まなくてもいいよ』というメッセージというのは、やっぱり『中性として生きろ』というメッセージなのです。中性として近代産業社会に奉仕せよ・・・・・・それでよいのでしょうか」(p. 150)。

「『援助交際』の話について見聞きしたときには、中・高校生の女の子と、おじさんたち、という、誰からも抱きとめられない世代同士のなぐさめあいのように思えたものです。・・・/人間は根源的なところで、誰かにふれてもらいたい、抱きとめてもらいたい、という欲望がありますから、それが満たされなかった人たちが、しっかりとしたからだのふれあいを求めてやっていることなのかな、と援助交際について聞いたときは感じたものです。お金が絡んでいますから単純に言えないところもありますが、・・・」(p. 229)。

「私たちは、もともと受けとめられているのです。生まれてきたということだけで十分に受けとめられている存在なのです。ですから、親に受けとめられなかったとか、配偶者に受けとめられなかったとか、上司に受けとめられなかったとかいうことは、じつは大したことではないのです。・・・」(pp. 236-237)。


8(58) 内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』文藝春秋、2008年。(2月4日読了)

タイトルがよい。やや文脈が異なるかもしれないが、とある番組で、精神科医の斎藤環がニート・フリーター「問題」を念頭に置きながら、「胸を張って脛をかじれ」と言っていたのを思い出した。

「それは『公的なもの』は磐石であるから、いくら批判しても構わないし、むしろ無慈悲な批判にさらされることで『公的なもの』はますます強固で効率的なものに改善されるであろうという楽観です。/私は正直言って、この『楽観』の根拠がわからないのです」(p. 11)。

「批判を受けたときに、『どうもすみません。何とかします』ということを自分の本務だと思っている人が一定数いないと、社会秩序は保ちません。批判が生産的であるためには、批判をまっすぐに受け止めて『ごめんなさい。何とかします』という人がいなければならない、ということについては、譲るわけにはゆきません。/批判者がその語の真の意味で批判的であり続けるためには、『批判を受け止める人』たちをきちんと再生産する制度を担保しておかなければならない」(pp. 16-17)。

「労働はほんらい『贈りもの』である。すでに受けとった『贈りもの』に対する反対給付の債務履行なのである。労働はその初発のあり方において l'un pour l'antre なのである」(p. 89)。
「私たちの労働の意味は『私たちの労働成果を享受している他者が存在する』という事実からしか引き出すことができない・・・」(p. 94)。

「しかし、現在の若年労働者たちが置かれている劣悪な労働環境は、『自社の利益さえ上がれば、日本の若者たちなんかどうなってもいい』と思ってきた企業人たちの近視眼的な自己利益追求行動の帰結そのものではないのか。・・・もしほんとうの意味で学生たちに生涯にわたって労働し続けるモチベーションを賦活するような『キャリア教育』があるとすれば、それは『私の労働を喜びとする他者がいる、私からの労働の贈り物を嘉納してくれる他者がいる』という考え方を内面化することに尽くされると私は考えている」(pp. 115-116)。

ディプロマ・ミル(Diploma mill)あるいはデグリー・ミル(degree mill)について。
「だが、グローバリズムのロジックでは、『いかがなものか的ニーズ』であっても、現にニーズがある以上、それに応えることで利益を得ることは『キャピタリスト的にコレクト』とされる」(pp. 163-164)。
そうそう。しかし、だからといって「どのようなニーズであれば聴き入れるに値するか」と問うてしまうと答えがなかなか見つからなくなる。では、どう問えばよいか。わたしにはまだわからない。

「移民をシステマティックに非合法化すれば、彼らは地下に潜ってしまい、警察の目の届かない『アンダーワールド』を作り出してしまう。それよりは『日の当たる場所』において、行政の管理下に置いたほうがいい。/しかし、法律的に移民を受け入れるということと、彼らが社会に統合されるということは別のレベルの問題である」(p. 173)。

「国民的統合の達成が『いまは持っていない』受益機会を生み出すと信じている『弱者』と、『いま持っている』受益機会をさらに増大すると信じている『強者』の連合によってナショナリズムは亢進する」(p. 179)。
これで、赤木智弘『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』(双風舎、2007年)の言い分が「すとん」と落ちる。


長くなってしまった。とりあえず、ここまで。
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by no828 | 2008-02-18 20:26 | 人+本=体 | Comments(0)