思索の森と空の群青

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2008年 04月 29日

郵便受け

郵便受け(仮設置)


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宛先:no828 あっと excite.co.jp
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by no828 | 2008-04-29 20:51 | 連絡先 | Comments(0)
2008年 04月 29日

吹っ切れないわたし

晴れ

にもかかわらず、研究室。

貯めてしまった新聞の切り抜きをして、それから研究者のポジショナリティ・当事者・知識人の役割について勉強する。

勉強していると、自分の研究テーマとして追ってゆく必要があるかもしれない、と思う。

ポスト・コロニアル研究は、とくに先進国≒旧宗主国の研究者の開発途上国≒旧植民地への視線の注ぎ方を問題化し、研究者に「自省せよ」と迫った。

第三世界フェミニズムは、たとえば女子性器切除(Female Genital Mutilation:FGM ないし Female Genital Surgery:FGS)の問題について、「同じ女性として」発言する第一世界のフェミニストに「おまえが言うな。おまえに語る資格はない」と言った。

その現象・問題について誰が語ることができるのか。

これはわたしにとって見過ごすことのできない問いである。

だが、上述の問いかけは発話主体の限定を迫るものであり、逆に意図に反した問題を呼び込むことになりかねない。したがって、常に有効な問い方であるとは言えない。

しかし、わたしにとっては重く響く問いである。

というのも、その問いが「開発途上国」と呼ばれる国々――もしかしたらそのような国はないのかもしれない――の子どもの教育について研究するわたしに向かって、「おまえに彼の地の子どもの教育について語る資格があるのか」と訊いてくるからである。

「ある」と言いきることはできない。が、「ない」とも言いきれないのではないか。

それが現時点でのわたしの答えである。

バングラデシュの首都ダッカで、わたしは幾人もの大人から、子どもから手を差し出された。目を見つめられながら手を差し出された。

わたしはどうすればよいのかわからなかった。いまでもわからないし、だからといって「なかったこと」として廃棄できる経験でもない。

忘れることができない。

なかには、組織立った「仕事」として物乞いをする人びともいたであろう。子どもを「借りてきて」、その子があたかも自分の子どもであり、あなたからの「施し」がなければこの子は生きてはゆけないのだ、という顔でわたしを見た女性もいたであろう。

しかし、すべてがそうであったとも言いきれない。まさにエマニュエル・レヴィナスの言う<顔>としてわたしに迫ってきた人びともいたのではないか。

だが、そうして「あなたには応答責任があるのだ」と迫られていたのだとしても、そこから「わたしは何をすればよいのか」はすぐには導かれない。いまでも導くことはできない。

それ以前に、そもそも「わたしに応答責任があるのか」という問題もあろう。レヴィナスの説からは外れることになるが、それへの答えはやはり先と同様に、わたしに(だけ)応答責任があるとも言いきれないし、同時にないとも言いきれない、というものである。

そのような状況で――それはわたしが勝手に作りだした独りよがりな「状況」かもしれない――、「教育」を通して何らかの、たとえば「援助」なり「協力」なりの関与を行なうことはできるのかどうか、してよいのかどうか。

わたしにはやはりわからない。

しかしながらこの「わからなさ」は、やはりわたしの作りだした独善的な「状況」であるからこそ帰結されるものなのかもしれない。だからその「状況」を取っ払えば、わからないことなど何もないのかもしれない。


彼の地の人びとはしたたかに生きている。研究者の存在がその生を左右するということもない。研究者などいなくても、とくに人文社会科学の研究者などいなくても、人びとが困ることはない。だから、関与したい人が関与すればよいし、関与したくないのであれば関与しなければよい。関与の有無、あるいはその程度の高低によって、人びとの「幸せ」に大きな違いが出るわけではない。だから悩みたいのであれば勝手に悩めばよい。どうせ居ても居なくても変わりはないのだから。


わたしは何にこだわっているのであろう。

わからなくなってきた。

だから、研究者のポジショナリティとか当事者とか知識人について勉強したいと思うのは、結局は自分のことをわかりたいためなのではないか。

自分のため?

研究は、結局はそこからしか始まらないし、そこでしか終わらないのかもしれない。

けれど、「この研究は自分のためにします」なんて論文には書けないから、「これはみんなで考えたほうがよいことなのです。みんなの問題なのです」という振りをして論文を書くのだ。ある意味で偽装だ。

たしかに「自分ではない誰かのため」という動機もあろう。わたしはそれを否定しない。しかし、「誰かのため」と思っているのはほかならぬこの「わたし」である。「誰かのため」が満たされたときに同時に満たされるのは「誰かのため」と念じていた「わたし」である。だから「誰かのため」は、結局は「誰かのため、と思っている自分のため」にならざるをえない、少なくともその側面を否定しつくすことはできない。

ならば自分のためでよいではないか。

とは吹っ切れないわたしがここにいる。


@研究室
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by no828 | 2008-04-29 20:21 | 思索 | Comments(0)
2008年 04月 28日

Aであり非Aである、と同時にBであって非Bでもある というのが読書会の結論だと思うんだ

晴れ


26日、土曜。

8時に研究室に来る。

ちなみに、金曜日は24時近くまで研究室で粘る。

研究発表用のレジュメを書いていたら、てる・ちえ夫妻からメールが着信。

ご飯を食べていたらあなたのことが話題に上ったからメールしてみたよ。

「早くあなたの子どもが見たい」、「いいお父さんになる」と言われる。

あ、ありがとうございます。ただ、結婚・子どもについてはもうしばらくお待ちください。

ふたりはどんな会話をしていたのであろう。

メールの内容も――かなり唐突ではあったが――もちろんうれしかった。けれど、それよりも「あなたのことが話題に上ったからメールしてみたよ」というのが何だかうれしかった。

土曜日は8時に研究室に来て13時まで。

13時30分に研究室を出て研究会の会場に向かう。

発表自体は「空振り」と評される。「気持ちはわかるけれど……」問題の本質に迫れていないということである。

教訓:批判をするなら内在的に。外在的な批判は相手にダメージを与えない。

個人的な思い、感情、感傷、それらを学問の俎上に載せるにはどうすればよいか。改めて考える。「個人的なこと」を「みんなで考えたほうがよいこと」まで持ってゆくにはどうすればよいのか。

しかし、「みんなで考えたほうがよいこと」も結局は誰かの「個人的なこと」にすぎない。というか、世界は「個人的なこと」が「みんなで考えたほうがよいこと」の振りをして成立しているだけなのだ。

そう考えると、「拠りどころ」がないな、と思う。拠りどころがない世界をどう生きるか。

いずれにしても、全面的に改稿しなければ。

研究会のあと、先輩と軽く食事。「研究って何ですかね」という相談に乗ってもらう。

「研究が進む」という感覚がわからない。「これ以上『先』に進めない」という感覚がある。同じところをぐるぐる回っている。突き抜けていない。閉塞感?それでもよい。難問にアンダーラインを引きつづけることにも意義はある。しかし、わたしはずっとアンダーラインを引きつづけるのか。何か言いたい。付け加えたい。だが……。


27日、日曜。

朝起きたら頭が痛い。薬を服用して本を読みながら少し休む。

痛みが治まったので、15時頃に外出。少し遠出。久しぶりに「市街地」らしきところに行く。


28日、月曜。

研究者のポジショナリティについて、日曜に紐解きはじめた本で勉強する。

勇気をもらう。

だが、そこでの議論も「感傷的」と評されうるものであったように思う。わたしはそのような議論が好きだけれど、「それは学問ではない」と言う意見も無碍にはできないところがある。

18時30分から21時近くまで勉強会。開発における「参加」について。

内的自由?既存の主義・思想に「汚染」されない「自由意志」はあるのか。「汚染」されているのなら、その意志は「自由」か。「汚染」されてもなお、というより、「汚染」を「影響」に留めながら「自由」であるとはどういうことか。

前に「新自由主義」のところで少し言及した「主体的な参加」と「動員されての参加」の違いにも話が及ぶが、それはやはりわからないという議論になる。

「上意下達」と「草の根」、「動員」と「参加」、「グローバリゼーション」と「ナショナリズム」、「国家」と「市民社会」……

このような構図で議論することがすでに限界なのかもしれない。

問いの立て方、論点の設定の仕方、そこから再考したほうがよい気がする。

それから、「教育」「開発」の傲慢さについても。


@研究室
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by no828 | 2008-04-28 22:01 | 日日 | Comments(0)
2008年 04月 25日

とりあえず大風呂敷を広げておくことも大事だと言ってくれ

晴れ

今日は1日、明日の研究発表に取り組む。

目下、発表用レジュメを作成中。

明日は、6月末の学会発表に向けた発表になる。

6月末の学会大会で発表するには、以下のようなステップを踏む必要がある。

学会員になる(当たり前) → 発表題目を提出する(4月上旬) → 発表要旨を提出する(5月下旬) → 発表する(6月下旬)

したがって、ひとまず取り組まなければならないのは発表要旨の作成であるが、要旨であるからには発表全体の見通しが立てられていなければならない。

全体があってはじめて要旨が存在する。少なくとも論理的にはそうでなくてはおかしい。が、全体がなくても要旨を書かねばならないときが実際にはある。というか、大体はそうである。だから大風呂敷を広げてしまうときもある。

さて、その見通しである。

見通しを考えながら、今レジュメを書いている。逆に言うと、見通ししか書いていない。

だから明日は、見通しを述べるに留まる可能性が非常に高い。

つまり、考察を深めるまでには至らないということである。

まずいではないか。

と思いつつ、しかし同時にそれでもよいと思ってもいる。

早めにコメントをいただくことで軌道修正も容易になるからだ。

今回の発表の構想は誰にも聴いてもらっていない。処置は早め早めに施しておいたほうがよい。

締切間近の論文に手を入れることほど難しいことはないのである。


明日は研究会は14時から。

午前中まで粘ろう。


@研究室
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by no828 | 2008-04-25 21:13 | 日日 | Comments(0)
2008年 04月 24日

司会のくせにしゃべりすぎる木曜日

雨 のち くもり

研究室に来て新聞を読み、某事務手続きをしていたら11時になってしまう。

携帯電話を見ると「留守電あり」の表示あり。

新しい携帯電話で留守電を再生するのははじめてであったため、そして以前の携帯電話と操作方法が異なるため、しばし苦心する。

「1学書籍部です。ご注文いただいた本が入荷しました」

amazon に裏切られた本が到着したのである。

書籍部に拍手。

昼休みに入って授業を終えて外に出てくる大勢の学生たちの間隙を縫って書籍部に行って本を購入し、途中「学生多すぎ。自転車多すぎ。駐輪の仕方もよろしくない」と思いながら昼食用のぱんを買って研究室に戻る。

今日はこの昼休み中に食べてしまわないと、19時まで食べる時間が取れない。

そういうわけで急いで食べて授業。新自由主義。12:15―13:40。

「主体的に同意する」と「操作されて同意する」はどう違うのか、を考える。

「主体的」とは何なのか。

すべての人は何らかの「操作」を含む影響を受けて生きている。影響をすべて排することはできない。影響を受けつつも「主体的」であるとはどういう状態を指すのか。「主体的」な判断なんてそもそも可能なのか。「自己決定」なんて幻想ではないのか。など。

「すべての人間は操作されている」。しかし、それだとあまりにも希望がない。


次も授業。生涯学習・社会教育学。2限ぶっ続け。13:45―16:50。

生涯学習・生涯教育・社会教育(概念多すぎ)における「公共性」について。

よくわからない。

社会教育行政を残すために流行りの「公共性」を持ってきて論じているようにしか見えない。

と個人的結論を出して、別の論文を数本読む。なかには「学習は私的消費か?」という魅力的なサブタイトルを持つ論文も含まれていた。

結論は「学習は私的消費ではない」であった。その理由は「学習は私的に生産・供給されるわけではないから」であったが、わたしにはあまり説得的には響かない。

しかし、「学習は私的消費か?」という問い自体はおもしろいと思う。だから「学習は私的消費である」論を組み立ててみたりする。立てられそうな気がする。

と同時に、次のようにも問うてみる。ならば教育は公的生産か?教育は公的消費か?

cost-benefit analysis では、とくに初等教育についてはそうなると思うけれど……

教育はそんなにわかりやすいものではない。


この次は研究会。17:00―19:10。

司会をする。司会のくせにしゃべりすぎる。


で、今。

土曜日の研究発表に向けて、今日はもう少し粘る必要がある。


風邪をまだ引きずっている。


@研究室
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by no828 | 2008-04-24 20:08 | 日日 | Comments(0)
2008年 04月 23日

遠回り ゴールをどこに置くか、ということか

晴れ。

今日も1日文献を読む。非政府組織論、自立社会論+援助論、市民社会論、現象学など。

また、明日の授業のために、生涯学習論と新自由主義論も読む。

脳が「ないまぜ状態」である。

だが、少なくとも前三者はあるひとつの関心に基づいて読んでいるので、そこまでごちゃごちゃではない。

後二者は、ごちゃごちゃ。

しかし、読んだ論文の内容は交差するものであった。やはり「あの辺り」で重なってくるのだ。

重なるかどうか、あるいは多様なものをひとつのテーマのもとに結集できるかどうか、それは別にして、いろいろなテーマの論考を読むのはよいことである、と思う。

たしかに、あるテーマの研究をするためにはそのテーマの論考を原則的に特定的に読めばよい。だから、多様なテーマのものを読むということは「遠回り」にはなる。

が、わたしはその「遠回り」が結構好きである。

ここに書いたかもしれないし、どこかで言ったこともあるはずだけれど、<わたし>の「主張」は「腐葉土」から芽を出す植物のように、雑多な知識のもとに生成するような気がしている、というより、そう信じている、と言ったほうがよいかもしれない。

ひとつの要素しか含まない土からはそれほど元気な芽が出てこないように、ひとつの専門の知識からは勢いのある「主張」は生まれてこないのではないか。

そのように思うからである

と言ったりして、実はわたしは自分を擁護しているだけかもしれない。


ひとつのことに没入しなければならない時期も、やっぱりあるよね。


@研究室
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by no828 | 2008-04-23 21:19 | 思索 | Comments(0)
2008年 04月 22日

「救う」ということ

晴れ。

今日はずっと文献を読んでいる。さすがに疲れてきた。

ちひろがブログで紹介してくれた

『アジ研ワールド・トレンド』(特集:開発援助と人類学)、2008年4月号(第151号)

所収の論考もいくつか読んだ。S根先生も「人類学的」について書かれている。


読んだ文献と関連する本を rakuten で注文する。

注文した本の著者名を見て、この人の書いた論文は読んだことがあるぞ、と思って、本棚を探す。

出てきた。

修士論文を書いていたときに参照した文献のなかで、わたしの心まで届いたものは実はそれほど多くない。

それは、わたしが「よい論文」をそれほど読んでいないからかもしれないし、「よい論文」を読んでいたにもかかわらず、それをよい論文であると感じなかっただけかもしれない。

いずれにしても。

この論文はその数少ない論考のひとつである。

宮地尚子「難民を救えるか? 国際医療援助の現場に走る世界の断層」、稲賀繁美編『異文化理解の倫理にむけて』名古屋大学出版会、2000年、pp. 269-286。

すべての人を救えないなら誰も救わない方がいい、そんなばかなことはありません。救うということが一方的な行為であったとしても、逆の選択肢が死や抹殺でしかないのなら、それを文化帝国主義とか傲慢さの裏返しだと批判するのは白々しいことです。恣意的に選ぶこと、ある意味で無思慮に行動すること。それを抜きに『救う』という行為はあり得ないのかもしれません。そして一人を救うことが、数多くの救われずにいる人たち、その場に残され、殺され、痕跡を消された人たちを、忘却や無関心の縁から甦らせることにつながるのかもしれません」(p. 283)。

他者を尊重するということは、ただ眺めていることではありません。異文化理解の倫理とは、非倫理的な世界で倫理的でありたいと願うこと、倫理的に行動しようと試みることです」(p. 285)。


こういう位相で物事を考えていきたい。


@研究室
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by no828 | 2008-04-22 20:06 | 思索の森の言の葉は | Comments(2)
2008年 04月 21日

脅かされず踊らされず踊る

晴れ。

「掲示板」というカテゴリーを設けてみた。

というのも、学類同期のちひろから「秋野豊メモリアル・コンサート」の連絡があったからである。

■■■
「秋野豊メモリアル・コンサート」
開催日:2008年7月19日(土)
時間:15:00(開場)、15:30(開演)
場所:つくばノバホール (つくばエクスプレス「つくば駅」A4出口 徒歩5分)
入場料:5,000円(全席指定 定員1,000名)

詳細はこちらをご覧ください。
「秋野豊メモリアルコンサート公式サイト」 http://akinomemorial.com/

もちろん一般のお客さまも大歓迎です。
■■■
* ちひろのブログも参照。http://quotidienne.seesaa.net/

わが学類で教えられていた秋野豊先生が、タジキスタンで凶弾に倒れられてから10年が経つ。

わたしは直接秋野先生に教えてもらえなかった。

秋野先生の言葉、秋野先生とともに仕事をされた先生方の言葉、そして秋野先生のもとで学んだ先輩方の言葉を読むたびに、「秋野先生に教えてもらいたかった」という祈りにも似た思いが湧きあがる。

わたしの研究室の机の上には、『脅かされず踊らされず踊る 秋野豊追悼文集』が置いてある。

行き詰まりを感じたとき、勇気がほしいとき、読み返す。


 重要なのはまず「野生の良心」だ。漠然とした不安に屈して、手軽で狭い「確実」に身を委ねるな。サンタクロースがパパだと知ったら、今は自分がシンデレラになれないことを悟る時だ。今の自分で漠然の海を泳ぎきれ。

 希望をもって生き、良き助言を活用し、自らを激励して下さい。人生は結構なものです。甘く見くびって生きましょう。人に対して威張るのは馬鹿でもできるのですが、馬鹿な奴には絶対に威張らせないのは天才のわざです。できるだけ、間抜けな顔をすることは重要です。しかしくだらないことにはこだわること。これが私の哲学です。さて。


秋野先生に会いたかった。


@研究室
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by no828 | 2008-04-21 20:25 | 掲示板 | Comments(2)
2008年 04月 20日

風邪を引いたり誕生日が一緒であったり

くもり。

19日、土曜。

風邪をひく。

朝起きたら鼻と喉がおかしい。

乾燥か、そうだ乾燥だ、と思い込もうとしたが、鼻も確実におかしい。落胆しつつも風邪であることを認める。

朝食後に薬局に行って風邪薬と栄養剤を買って服用してマスクをして、本を読みながらしばし休む。

夕方になって電動ヒゲ剃りを買いに、そして携帯電話のプランおよび機種の変更のために外出する。

ヒゲ剃りは無事に購入する。「剃る」「刈る」「整える」機能が付いたもの。

携帯電話のほうはやや手間取る。

というのも、はじめ「中央店」に行ったが希望していた機種がなく――「あ、これだ」と思って選んだものは、わたしが欲しかった機種の新種であった。むむ、紛らわしい――、「学園店」に移動することになったからである。

「学園店」で対応してくれた店員さんに

「あ、誕生日一緒です」

と言われる。手続きのためにいろいろと個人情報を提供したのである。

「めずらしいので思わず言ってしまいました。乙女座ですよね」。

「ええ」

ちなみに血液型も同じO型。さらにはふたりともマスク装着。

あれれ、共通点が多くないか。

だからこちらも思わず「生まれ年は?」と訊きそうになってしまったが、それは差し控える。

女性に歳は訊かないことになっているからね。

ところで、手続きをしていて新たにわかったことがある。携帯電話の本体価格がものすごく高いということである。

「分割で2,400円/月になりますね」

と言われ、「?」となった。分割?なぜ?1,000円~2,000円で購入できるのではなかったか。

訊くと、本体価格は70,000円ぐらいするらしい。




20日、日曜。

相変わらず風邪っぴき。

午前中に洗濯して米を炊いて珈琲を飲む。

お昼を食べてから研究室に来る。

新聞の切り抜きをしてから「援助(関係)」について勉強する。

途中まで「これはあまり使えないかなー」と思っていた論考であったが、「あ、なるほど」と思うところが1ヶ所あったのでよしとする。

メール・ボックスを開くと某 rakuten から着信あり。頼んでいた本が某コンビニに到着したとのこと。

今日はそれを受け取ってから帰宅し、20時以降の宅配便を待機する。

宅配される荷物は3つ。黒猫が1つ、ペリカンが2つ運んでくることになっている。

玄関で鉢合わせしても、喧嘩はしないでね。


@研究室
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by no828 | 2008-04-20 18:57 | 日日 | Comments(11)
2008年 04月 18日

思索の森の言の葉は

昨夜からずっと大雨と強風。

傘も壊れた。


さて、以前 words and phrases というカテゴリーを設け、ブログ開設以前に読了した本、学術書、新聞、雑誌などから言葉を引用することにし、実際に幾度か引用を行なってきた。

しかし、その行ない自体は意味のあるものと思いつつも、words and pharases というカテゴリーの命名には、実は設定当初から納得していなかった。

さっき文献を読んでいて、「この問題には唯一絶対の解はやはりないなー、思考しつづけるしかないなー」という(何度目かの)覚悟というか、納得というかをしたとき、ふと「思索の森」という単語が出てきて、その森のなかで出会った言葉にわたしは勇気づけられ、手招きをされ、<いま・ここ>まで来たのであり、「その先」に行こうとしているのだな、と思った。

そういうわけで、カテゴリー名称の変更を思い立つ。

「思索の森の言の葉は」

森には葉っぱがたくさんあるしね。


かつて京大の先生たちが東大を圧倒して、総合雑誌なんかでもバンバン執筆していた頃がありました。いわゆる京都学派ですね。なぜ東大に勝っていたかということ、彼らは夜な夜な飲み屋に行っては、法学部も理学部も文学部も入り交じって、一杯やりながら丁々発止の議論を交わしていた。かたや東大の先生方は、研究室を出てまっすぐ家に帰ったら、あとは書斎に籠もってしまう。〔……〕
 一人でいたんじゃ、思いがけない考えなんて出てこないですよ。自分の中でもまだ熟していない生の考えみたいなものは、一人でいくら考え続けても駄目。周りからの刺激を受けることで、面白いアイディアが飛び出してくるんです。
 それは、京都の人たちの偶然による知恵です。京都の街は狭いから、自然と人が集まりやすい。それに、学者や学生を大事にする気風がある。毎週行ける安い飲み屋があって、そこで酒を飲んで、みんなとしゃべったら、これは楽しいですよ。
 自分の考えていることを伸ばすには、共感してくれて、なんとなく温かい雰囲気がないと駄目なんです。調子に乗せてくれるような空気があると、ふだん一人で考えていたのでは出てこないことが、ポッと出てくる。いわゆる知的生産というのも、こういう雰囲気の中から生まれてくるものじゃないでしょうか
」(外山滋比古「何歳になっても思考力は鍛えられる」『中央公論』2008年5月号(第123巻5号)、p. 139)。

本当に楽しそう。

「共感」と「温かい雰囲気」と「調子に乗せてくれるような空気」は、実体験から言っても大事だと思う。

大学の先生になれたら、そういうゼミを作りたいです。


@研究室
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by no828 | 2008-04-18 18:32 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)