思索の森と空の群青

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2008年 05月 31日

秋野先生に手紙を送りましょう

くもり ときどき 雨

寒い。

昨夜、秋野豊メモリアル・コンサート関連で作成するという文集(秋野先生への手紙)に寄せる文章を書いてメールで送信した。

ちひろからのメールに添付されていた綾部先生のメッセージに、「2、3行でも、長文でも結構ですから、書いてください」とあったので、「書かねば」と思った。「書きたい」というよりも「書かねば」という感覚であった。

大切なときって、「~したい」よりも「~せねば」という感覚に突き動かされる。それは「使命感」と呼ぶこともできるかもしれない。授業やシンポジウムでも、「発言せねば」と命ぜられた(誰に?)ときは発言するようにしている。逆に言えば、「発言せねば」と命ぜられてないときは何も言わない。わたしはこの感覚を大切にしている。

そういうわけで、「書かねば」という感覚に襲われたわたしは、「手紙」を書いて文集チームに送信した。

今日、メール・ボックスを開いたら、綾部先生からお返事が来ていた。

「先日はお目にかかれて嬉しかったです」



わたしは綾部先生が退職されてからお会いしていないはずだが……

おそらくコンサート準備委員会のどなたかと間違われていらっしゃると思われるが、このようなときにどう応答すればよいのか。

ど、どうしよう……

しかし、手紙を書いてくれてありがとう、というのがご返信の趣旨であったので、それはとてもうれしかった。先生は、もしかしたら手紙を送った人に1通1通お返事を書かれているのかもしれない。


この文章を読まれた方で、秋野先生に手紙を書きたいという方は、急いで下記メール・アドレスまで手紙を送ってください。

letter あっと akinomemorial.com
* あっと を半角記号 @ に置き換えてお送りください。

締切りは今日5月31日です。「遅れそうな場合は上記文集チームアドレスまでご連絡ください」ともありますので、思い立った方はひとまずメールを送りましょう。


@研究室
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by no828 | 2008-05-31 19:41 | 日日 | Comments(0)
2008年 05月 30日

ランジェ公爵夫人

くもり

4月12日(土)に観たオノレ・ド・バルザック原作の映画「ランジェ公爵夫人」について。

観てから1ヶ月以上も経ってしまった。

しかし、書くことは決まっていた。

それは、よくわからない、である。

なぜ、よくわからない、のか。それはたぶん、「ランジェ公爵夫人」の時代背景、慣習などについての知識が足りないからである。「ランジェ公爵夫人」を受け止めるだけの準備がわたしにはできていなかったのである。しかし、知識があっても、「わかる」という感覚にまでは至らなかったようにも思う。何というか、まったく異なった世界の物語で、そこには想像力も及ばないのである。

その別世界の物語は、1819年末から始まる。モンリヴォー侯爵とランジェ公爵夫人の恋の物語である。

が、恋の物語っぽくない。

なぜなら、焦らし合ってばかりだからである。

好きなら好きって言えばいいのに、とわたしは思ってしまう。

直接的に「好きだ」とか「愛してる」とか言わずに、回りくどい表現を言い合う。その焦らし合いが最後まで続く。

What are you doing?

その焦らし合いの舞台は、いわゆる「社交界」である。

あー社交界ね、と思いながらも、そもそも社交界って何だ?とも思う。

今日「社交界」と呼ばれる世界があるのかどうかわたしにはわからないが、ある部分的な世界を「学界」とか「教育界」といった言葉で呼ぶことはある。

学問の世界を学界、教育の世界を教育界。

この発想で考えると、

社交の世界を社交界

と呼ぶことになる。

これには違和を感じざるをえない。

というのも、社交は界を区切らずとも、どこにおいてもなされるものだからである。

「社交」を「コミュニケーション」と言い換えてしまうと、どこででも、の意味がはっきりする。

逆に考えると、社交界は社交だけしていればそれでよかった、ということにもなる。映画のなかでも、ランジェ公爵夫人は夜な夜な舞踏会に出かけていた。

社交だけで成立する世界があるのか……。その社交は何の上に成立していたのか……。

当時のフランスには、圧倒的な身分の差があったはずである。また、圧倒的な身分の差があるということを人びとは実感することができたはずである。その実感があったからこそ、革命が起きえたのである。

そのようなことに思いを馳せると、焦らし合ってばかりの恋ができるのも、とても特権的なように見える。文学作品として、とか、映画として、という評価もあろうし、むしろそちらのほうが評価としては適切なのであろうが、その文章から、その映像から零れ落ちた人びとの暮らしのほうにわたしは目を向けたいと思った。


@研究室
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by no828 | 2008-05-30 20:32 | 映画 | Comments(0)
2008年 05月 29日

他者への想像力 たぶんそれが公共性

うー、寒いぜ。朝から雨だぜ。

授業曜日の木曜日。

午前中に新自由主義の勉強。

人権は、個人に理念的・政策的な照準を合わせる。人権保障の第一義的な主体は国家である。
新自由主義も、「自己責任」といったかたちで個人に照準する。市場を機能させるために国家の介入を要請する。
人権も新自由主義も、個人に焦点を合わせる点で、そして国家を呼び出す点で同じである。
したがって、人権の論理が新自由主義の論理に絡め取られる可能性がある。
また、新自由主義がその原理とする市場によって、個人を覆っていた保護膜が取り外され、国家の眼前に個人が裸で晒されることにもなる。

中間団体を呼ぶか?「人権」を止めて「国民の権利」にするか?「保守派」や「共同体主義者」と呼ばれる人びとの意見も聴いてみよう。

と、12時15分―13時30分の授業でも考える。


13時45分―16時30分の授業は教育の公共性について。

よくわからない。

地域に根ざした教育が大切だ、と論文の筆者は言いたいようなのだが、それがきちんと論証されていない。

「はじめに」と「おわりに」のあいだに挿入される本論はなくてもよい、と思った。

本論で書かれていることと言えば、「わたしはいろいろな論者のいろいろな考え方を知っています」という自己顕示以外の何ものでもなく、論理としての体をなしていない。

だから、「地域に根ざした教育が大切だ、なぜなら地域に根ざした教育が大切だとわたしが思うからだ」としか言っていない。

筆者が部分的にせよ依拠するリベラリズムの考え方では、理由 reason を大切にする。なぜ、あなたはそれに価値を置くのか。その理由に耳をすます。というのも、リベラリズムは基本的に価値の多元性を「事実」として前提するからである。人はそれぞれに価値を置く事柄が異なる。だから、人びとによって実際に選択された価値同士を比較して、「そっちはいいけど、こっちはダメだね」とは基本的には言えない(絶対ダメなこともあると思う)。だから、その価値を選んだ理由を聴いて、それで周囲の(どこまで?)人びとが納得するかどうかに委ねる。

筆者はそれが大事だと言いながら、自分では理由を開示していない。

それから、協同性を媒介にした公共性の創出、のようなことが書かれていたが、なぜ公共性を創出する必要があるのかが書かれていない。協同性のままではなぜいけないのか。

書かれていることは、結局協同性は大切だ、であり、わざわざそれを「公共性」という言葉で言い換える必要があるようには思われない。逆に言えば、「公共性」でなければ議論できないこと、がそこで議論されているわけではない。協同性のままでよい。

公共性が流行っているからといって、それに飛びつく必要はないはずである。


と言われないように、理由をきちんと明示する必要があると思う(この授業、来週発表なんだよな……)。


18時から20時まで研究会。発表はひとり。

ここでも理由が開示されない。「AとBは不可分です。なぜなら、AとBが不可分だとわたしは思うからです」としか言っていない。

わたしはいちごのショートケーキが好き!だって、好きだから!

論理的にはこれと同じことである。


ただ、ショートケーキの場合は、「だって、好きだから」でよい。わざわざ理由を訊くことでもない。好きだから好き、それでよい。

しかし、理由を訊かなくてはならないときもある。

誰に?

<あなた>に、である。

いつ?

<あなた>と<わたし>にかかわる問題があるときに、である。


地域で生きることも、研究をすることも、<あなた>を想定してはじめて成立するものである。

だから、<あなた>を想像し、まだ来ぬ<あなた>のために、席を常に空けておく必要がある。席に着く前も着いた後も、<あなた>の声に耳をそばだてる必要がある。

――<あなた>への想像力

「他者への想像力」「他者への共感」と言い換えてもいい。それが「公共性」だと思う。


@研究室
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by no828 | 2008-05-29 21:01 | 日日 | Comments(2)
2008年 05月 28日

青いツバメに思う

くもり

半袖だと、すこし肌寒い。

昨夜は18時30分から20時まで、学内で上映された「青いツバメ ―秋野豊 タジキスタンからのEメール―」を観に行った。「青いツバメ」は、2005年2月27日(日)にテレビ朝日系で放映されたものだが、わたしはそのとき観ることができなかった。なお、この企画は、秋野豊メモリアル・コンサート実行委員会の学生支部によるものであった。

わたしは、秋野先生のことを写真や言葉を通じて知っていたが、肉声を聴いたのははじめてであった。

想像していたよりも高い声であった。

秋野先生は、タジクの国連事務所近くに住むおばあさんのピラフが大好きで、よく食べに行っていたそうだ。おばあさんも、秋野先生のことをよく覚えていた。

また、国連事務所の守衛のおじさんも、秋野先生と庭で珈琲を飲んだりしたことがあるそうだ。


秋野先生が命名した国際総合学類紹介誌『明日のExecutive』の編集にわたしは関わった。そこでみんなから「言葉」を募集した。そして、できるだけ掲載した。

そのなかに、「歴史に名を残す」と、「語り継がれる存在になる」という、一見対極にあるようにわたしには思われた言葉があった。もちろん、同じ人物から出されたものではない。わたしの記憶が正しければ、前者が Y. O. 、後者は C. S. の言葉であったはずで、後者の言葉を強く推したのは、F. T. ならぬ Y. S. であったはずである。

「青いツバメ」の秋野先生を観て、そのことを思い出した。秋野先生はこのふたつの言葉を同時に体現したのだ、と思った。


また、学者として何ができるか、学問には何ができるか、という問いに向き合う秋野先生の姿勢には感銘を受けた。


うまくは言えないけれど、秋野先生はまさにその全存在を賭けて、わたしたちに多くのことを教えてくれたのだと思う。もちろん、秋野先生はそれを教えようと思って教えたわけではないかもしれない。しかし、そこに何らかの「教え」を見出し、何かを「学び」とろうとすることをわたしは止めることができない。学生にそうさせるのが「先生」なのだと思う。だからわたしは、直接秋野先生に教えてもらったことはないけれど、半ば勝手に「先生」と呼びたいと思うのである。


@研究室
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by no828 | 2008-05-28 19:42 | 日日 | Comments(0)
2008年 05月 27日

「秋野豊 メモリアル・コンサート」追加情報

連続投稿

ちひろから「秋野豊 メモリアル・コンサート」の情報が流れてきたので、ここにも掲載しておきます。

当日のスケジュールなどは前回の投稿記事をご覧ください。この記事同様、「掲示板」のカテゴリーに入っています。


■チケット購入方法
前回のメールで未詳のままだったチケット購入方法につき、以下のとおりご案内いたします。

公式ウェブサイトより、以下のいずれかの方法でご購入いただけます。
公式ウェブサイトチケットページ
→ http://akinomemorial.com/contents/concert.php

なお、利便性ではチケットぴあやイープラスが便利ですが、チケット事務局であるデュオジャパンか、ノバホールでのご購入が、手数料などの面ではお得です。

①【店頭販売】 ノバホールに出向いて購入。
置いてあるチケットの中から、好きな席を選んで購入できます。

②【デュオジャパン】 電話、FAX、インターネットで注文。
席の場所に関し、多少は希望を言えると思います(前の方がいいとか)。
代金を振り込んで、チケットは郵送してもらうことができます。

③【チケットぴあ】 電話、インターネット、チケットぴあ店頭(ぴあスポット)、提携コンビニで購入可。会員登録(無料)が必要。
電話かインターネットで予約を行い、チケットは郵送してもらう、もしくはコンビニ
や、ぴあスポットで直接受け取ります。

④【イープラス】 インターネットで購入可。会員登録(無料)が必要。
クレジットカードやインターネットバンキング、コンビニでの支払いが可能。
チケットは郵送してもらうか、セブンイレブンで発券。

⑤【ちひろがまとめて購入】 私(ちひろ)が取りまとめて実行委員会から購入。
当日もしくは事前にチケット受け渡し。代金はチケット購入前か受け渡し時にいただきます。

※ ②~④についての詳細は、それぞれのホームページでも詳細をご確認ください。
問い合わせ先: デュオジャパン
03-5428-0571 / info@duojapan.com / http://www.duojapan.com/


■本コンサートに関心のある方、まずはご一報ください。
「当日(7/19)、行けるかどうかまだ分からないけれど・・・」という方も、
お手数ですがご連絡ください。おおよその来客人数を把握したいので、
宜しくお願いします。

→ http://quotidienne.seesaa.net/


以上。


@研究室
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by no828 | 2008-05-27 17:47 | 掲示板 | Comments(0)
2008年 05月 27日

5月末の一段落

晴れ

昨日26日(月)は、某申請書類提出のために上京、某大学へ。

そのため、25日(日)も研究室で書類の内容を詰める。結局23時過ぎまで詰めて、思考と注意力が散漫になってきたので帰宅。すこしだけ「情熱大陸」を観て、同世代の人びとの情熱を傾ける姿勢に感動しながら1時に就寝。

翌26日は5時30分起床で6時30分過ぎに研究室へ。

昨夜の文章を読みなおして最終稿を作って6部印刷、ほかの書類と合わせてステイプラー止め。某先生が書いてくださった評価書の入った封筒も机に置く。

忘れ物のないよう何度も確認して書類を鞄に詰め込む。

9時41分の快速に乗りたかったが間に合わず、挙句はO氏に駅まで送ってもらって10時11分の快速にギリギリで乗り込む。

某大学着。

教育学部の場所がわからずに案内図を見たら、その案内図の看板のすぐ裏が教育学部であった。某先生が教員用ポストに入れておいてくださった評価書を拝受して事務室へ。担当の方に書類全部で7部と評価書2部をお渡しする。その場でチェックしてくださる。

「はい、大丈夫ですよー。ご苦労さまでしたー」

え?チェック30秒ぐらいだったし。本当に大丈夫なんですか?

とちょっと心配になるが、わたしも何度も確認した書類だし、プロが大丈夫と言うのだから大丈夫なのだと言い聞かせて某大学を後にする。

そのあと神保町乗換えで新宿に向かう。

神保町駅で評価書を書いてくださった某先生をお見かけする。

あれ?先生?と思ったが、距離があったのと「本当に先生か?」という確信のなさからご挨拶のタイミングを逸する。

新宿着。紀伊国屋で某チケットを受け取る。

はじめ本店に行くが、「あ、これは本店ではなく新宿南店になりますね」と言われる。

え?新宿に2店舗もあるんですか?1店舗でよくないですか?

と言いそうになるが、そこはぐっとこらえて南店まで歩く。

7階でチケットを受け取り、今度は映画を観るため渋谷に向かう。

スイス映画「ビルマ、パゴダの影で」@UPLINK X

渋谷に着いた時点で14時を過ぎており、お昼ごはんを食べようと思ったが、まずは映画のチケットを入手すべし、と考えて映画館に行く。

が。

「チケットの販売は上映1時間前からになります」と言われる。

現在14時40分。

ってことは、今は買えないと。15時45分にならないと買えないと。そういうわけですね。

そういうことです。

ウェブサイトにも書いておいてください。

映画館を出て少し歩いて某定食屋に入り、読みかけの新書を読みながら生姜焼き定食を食べる(疲れているときには豚肉がよい、と言うでしょ)。

新書読了。

ぶらぶら歩いていたら15時45分になったので映画館に向かってチケット(というか整理券)を買う。

映画館の下のカフェの200円割引券ももらったので、そこでアイスコーヒーを飲みながら小説を読む。ゆっくり小説を読むのは久しぶりだ。

16時30分になったら番号順にお呼びします、と言われていたので、「2番」のわたしは16時28分にカフェを出て階上の映画館に入る。

入ったらその狭さに驚く。40席ぐらいしかない。しかも、椅子の種類がばらばら。籐の椅子もあれば、カクカクとした椅子もある。スクリーンも上から下りてくるタイプの(学会発表で使うような)スクリーンであった。

上映終了。感想は別途書きたい(と言って、「ランジェ公爵夫人」と「実録・連合赤軍」もまだ書いていない)。でも、一言だけ。映画は、ミャンマー軍事政権による国内少数民族への弾圧を描いたドキュメンタリー。製作は2004年だが、デモ弾圧、ジャーナリストの殺害、今月のサイクロン被害とそれにかかる国際人道援助の軍事政権による受け入れ拒否もあって、意図せずして今日的状況との重なりのなかで観ることになった。最近のニュースによると、援助の受け入れが軍事政権によって表明されたようだが、政権(個人)の意向に人命が左右される状況というのは許すべき状況ではないと思う(日本の死刑執行も大臣の意向に左右される)。この点についても別途書きたいと思う。

映画館を出たのは18時20分。外はまだまだ明るい。

渋谷駅のほうに向かうとものすごい人で、駅に入る気が失せる。

歩いて表参道まで。

20時過ぎにこちらに戻ってくる。

ただ、大学に戻る気力はなく、帰宅して神保町駅(「人望懲役」と誤変換)でお見かけした某先生に「書類提出しました。お世話になりました。ありがとうございました」とメール。「先生のこと、神保町でお見かけしましたよ」とは書かなかった。


ベッドに横になったら、いつの間にか眠ってしまっていた。


@研究室
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by no828 | 2008-05-27 17:44 | 日日 | Comments(0)
2008年 05月 24日

「はしもとさんの文章は文学的ですね」と留学生に言われたことがあるが「文学的」とはどういうことか

雨と思いきや、日中は思いっきり晴れる。
夕方になってくもり、雨もすこしだけ降った。

今日はお昼前から研究室。来る前に某栄養剤とお茶を買う。

新聞を読み、新聞の切り抜きをすこししてから(貯まってきたので)、某申請書類に取り組む。

すっきり書けていないと思うところがあって、そのあたりの知識を整理するために新たに本を読んだり、昔読んだ本を読みなおしたりする。

うーむ。

「これ」と「あれ」がうまくつながっていないのか……だからひとつの課題としてうまく構造化できていないのか。

わかりやすく、読みやすく。

「推敲のさなかに『もうこの辺でいいだろう』と中途半端なところで妥協してはいけない。自分がすっかり納得できるまで、書き直しをすることが、文章上達の秘訣である」(野村進『調べる技術・書く技術』講談社(講談社現代新書)、2008年、p. 150)。

目下のところは某申請書類を完成させることが目標であるが、そのさきには(あるいは、そのなかには)「文章上達」という目標がある。たしかに、研究者なのだから「よりよい研究」を目指すべきである。しかし、人びとがわたしの研究を「よりよい研究」と認めてくれるためには、その研究を論文なり学会発表なりで、いずれにしても言葉にして相手に伝えなければならない。「なるほど、わかったー」と思ってもらう必要がある。その意味で、「文章上達」は「よりよい研究」のための手段である。だが、それは欠かすことのできない手段=目標なのである。

修士論文までは、「文章」というものにいまほどのこだわりはなかった。たとえば、研究会で発表すると質問やコメントをいただくわけだが、そのなかに「この表現は止めたほうがいい」「ここは段落を分けたほうがいい」といったご意見を頂戴することもあった。あるいは、「わたしは『見る』ではなく『みる』を使いますけどね」といったご意見を聴くこともあった。

そのようなとき、わたしは「そんなことどーでもいいんじゃねーの。文章変えたからって世界は変わんねーんだ。世界を変えるためには文章にこだわっている暇なんてないんだ」と思っていた(わたしは現在の世界に不満がある。当時もそうであった)。

若かった、と思う。

たしかに文章を変えたからといってそれが直接世界の変革に結びつくわけではない。しかし、文章にして伝えないことには、読んでもらわないことには、「わたしの考え」は存在しないことと同じになってしまう。

(逆に言えば、文章にこだわらなかった当時のわたしは、はっきりとした「わたしの考え」がなかったのかもしれない。)

ならば、文章なんて書かずに直接行動に出ればよいではないか、と自分でも思う。

しかし、わたしは研究、そしてそれを表現するための言葉にすこしこだわってみたい。

というのも、直接行動に出れない者の逃避的行動が研究だ、との思いが完全に払拭されたわけではないが、研究の「意義」もすこしは感じられるようになってきたからである。

研究が楽しい(孤独だけど)、というのが、そう感じる理由かもしれない。

本を読んだり、現地調査をしたり、人と議論したり、そうすることで自分の世界観が広がってゆくと感じられる瞬間がある。「あ、ちょっと違う自分になれたかも」「すこしはましな人間になったかも」と感じる(わたしは、「本を読む」「旅に出る」「人と会う」が大切だと思っている)。

これは紛れもない自己満足なのだが、まずは自己満足があったほうがよいのではないか。

あなたも満足わたしも満足、を原理に動いている世界もあるが、「ひとまずわたしは満足」で押し通せる世界もあってもよいのかなと思ったりもする。「誰が反対しようが、わたしはこーなんだ」も(すこしは、ね)あってよいのではないかと思うのである。

もちろんわたしはそこまで「強く」はなれない(たぶん)。共感が得られたほうがうれしいから。

しかし、どこかで「ここから先は譲れない」「これは守る」という信念というか思い込みというか、そういったものが研究(者)を下支えするようにも思うのである。

話がやや脱線気味に流れてきてしまったが、そういうわけでわかりやすく読みやすい文章を書くべし、ということなのである。


あ、また雨が降ってきた。今度は本降りだ。


@研究室
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by no828 | 2008-05-24 20:04 | 日日 | Comments(0)
2008年 05月 23日

公民館の使い方 あるいはアクセスの一元化と多元化について

晴れ

暑い。29℃まで上がったらしい。

相変わらず喉が痛いので、昨夜は久しぶりにトローチ(医薬品)を買って口に入れた(「トローチ」という発音をわたしはたいへん久しぶりに行なったような気がする)。

今日もトローチ。

今日はしかし、事務作業に時間が取られた。大学内の某短期雇用の書類を書いて提出したりとか、ここのところ取り組んでいる某申請書類の申請者情報をウェブ上で入力したりとか(1回情報がすべて飛んでしまった。むー)。

それに、某研究会のために某公民館(「暴行民間」と誤変換)の予約にも行った。

はじめて公民館の予約をしたが、あまり合理的な予約手続きにはなっていないことが明らかとなった。

そう思った理由はふたつ。


(1) 使用希望日の5日前までに実際に公民館に出向いて印鑑を添えて申込みをしなければならないこと。

電話で部屋の空き状況は教えてくれるのだが、予約はあくまで職員さんとの物理的対面においてなされなければならない。

何とかカードを持っている人はインターネットでも予約できるのだが、それもあくまで仮予約で、本予約をするためには使用日の前に実際に公民館に来なければならない。

面倒である、と言わざるをえない。

なぜ、このような手続き方法を採っているのか。

それが2番目の理由につながる。


(2) 公民館に出向いたさい、公民館の使用目的、使用団体の性格、使用人数とその男女比などを根掘り葉掘り、その場で訊かれること。

何か尋問されてるみたいであった。何か審査されてるみたいであった。

どうやら「公民館の使用条件」が公民館側にはあるようで、それを使用者側がクリアしているかどうかを確認するらしい。

まさに尋問であり、審査である。

が、面倒である。

思うに、予め「当公民館では以下の条件を満たさない活動を許可しない」というかたちで使用条件を提示しておいていただきたい。

そのうえで、

① ウェブ上に公民館使用条件を掲載する/使用申込みフォーム(目的とか団体の性格とか使用人数とか)を設置する。
② 使用者がそれに記入して電子メールで/申込みフォームから送信する。
③ 公民館側がそこに書かれたことを自らの使用条件に照らして、使用を許可する/しないを決める。
④ 結果を使用者に連絡する。

という手続きも認める、というのはどうであろう。

もちろん、この提案(と言っても公民館関係者は見ないであろうが)は、従来の予約方法を無用化するものではない。従来の方法のほかに、上述の方法もあったらよいと思うのである。というのも、ウェブのみにしてしまうと、インターネットにアクセスできない人びとを排除してしまうことになるからである。

すこし余談になるが、当今のラジオ番組はそれへの視聴者のアクセス方法をインターネットに特化しすぎである。たしかに資源(紙とか費用とか)という観点からすると、ファックスや葉書を使うことはなかなか正当化されにくい。たしかに「メールで」のほうが資源は使わない。しかし、インターネットにアクセスできない人びとはそれによって「ラジオへの参加」からも排除されてしまう。

まとめてしまうと、アクセスの一元化は人びとを排除することになる、ということである。

たとえばこれは、教育へのアクセスの一元化は人びとを排除することになる、にも応用できる。

義務教育によって学校に通わねばならなくなった(法律上は義務は保護者に課せられる。つまり、学校に通わせなければならない、となる。しかし、それによって通わねばならなくなるのは子どもである。だから結局子どもが学校に通わねばならなくなるのだ)。
義務教育によって学校教育にアクセスすることが規範化された。
学校は通ってもいいし通わなくてもいい、ではなく、通わなければならないところ、になった。
それによって、学校教育以外の教育(ノンフォーマル、インフォーマル)の価値が低められることになった(のではないか)。
とすると、学校以外の場で教育を受けている子ども(や成人)も「学校に通っていない」という理由だけで劣った存在として見なされるようになる(これはよくない)。

しかし、学校だけが教育を行なう場ではない。

教育へのアクセスを多元性のもとに開いてゆくことで、承認される人びとが増えるのではないか。それが大切だと思うのは、承認されることが人間として存在するために最低限必要なことだと思うからである。

そういうわけで、公民館の使用申込み方法も多元化していただきたいと思う。可能なかぎり排除しない、それが「公」への姿勢だと思う。


そういえば、職員の方から「誰か講師の方を呼んで、その方の本を売ったりとかはないですよね?公民館なので『公』のことを……」と言われて、「あ、それはないです。大丈夫です」と答えたが、そこで言われる「公」とは何かを訊きたくなった。

ところでいま「公のこと」とおっしゃいましたが、それは何ですか?

しかし、そんなことを訊いたら使用許可が下りなくなるから(わかんないけど)、ぐっとこらえた。

「公」か。公民館におけるそれはきっと、「行政が許可できること」なんだろうな。


あ、学会発表用の要旨は無事に先方に届いた模様。

あとは某申請書類である。この週末に内容的に詰めて、月曜日にそれこそ直接出向いて提出する。そのため、月曜日は上京です。


@研究室
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by no828 | 2008-05-23 19:55 | 思索 | Comments(0)
2008年 05月 22日

郵便的不安 ベーシック・インカム 母の誕生日

昨日に引き続き、晴れ。暑い。

昨日21日は9時前に大学に来た。20日にせっかく6時30分に来たのに、「普通」に戻ってしまった。

「普通」になってしまったのは体調がすぐれなかったからである。

実は20日の夜、ここで文章を書いてすこししてから帰宅してしまった。寒気がしたからである。

帰宅途中に葛根湯とポカリスエット(ポカリスウェット?スウェットと書くと何かあれだ)を買い、帰宅後軽く食べて葛根湯とポカリスエットを飲んで寝た。

ここで身体を壊すわけにはいかない。

21日の朝起きたらよくなっていた、というわけではなく、寒気は消えたものの頭痛と腰痛と喉の痛みに苦しむことになった。喉は普通は痛くないのだが、唾液や食べ物飲み物を飲み込むときに痛くなる。声は変わっていない。扁桃腺?

しかし、やらねばならないことが多々あるので大学に来て、23日必着の学会発表の要旨を仕上げる。

喉が痛い。頭も痛い。腰も痛い。

21時頃切り上げて郵便局に行き、速達+配達記録で要旨を郵送。対応してくれた職員の方(アルバイト?)が仕事の不慣れさを前面に押し出したような人で、きちんと処理してくれているのか不安になる。

帰宅して某栄養剤(はじめ「防衛用材」と変換されて驚く)を飲んで寝る。

あ、5月21日はてっぱんの誕生日ではなかったか。あれ……違ったかな。


22日、今日、8時30分過ぎに研究室に来る。頭痛と腰痛はほとんど消えたが、喉の痛みがずいぶんと残っている。

要旨の郵送についての不安が払拭されないので郵便局に電話。「そういうわけで不安なので確認していただけますか?」と言ったら確認してくれて「間違いなく速達+配達記録です。23日の午前中には着くはずです」とのこと。

不安が完全に払拭されたわけではない。郵便的不安は消えない。が、確認してよかった。

それから授業用の論文を高速で6本ほど読み、お昼からの授業に備える。木曜日は授業曜日。

お昼を食べるのを忘れる。

すこし早めの12時から始まった授業では、新自由主義との関連で、NHKが製作した「激流中国 富人と農民工」(放送日時は2007年4月1日(日)21時~22時)を観る。鄧小平が進めた改革開放によって広がった(とされる)今日の格差に焦点を当てた番組である。

中国では不動産といった分野を中心に文字どおりの億万長者が増えている。
その一方で、出稼ぎする人びと(農民工)が増え、それによって人手があまるようになり、日雇い労働さえできない人びとも増えている。

金融資本を増殖させて一瞬にして何億と稼ぐ富人と、息子の複雑骨折した右腕の手術代30万円を支払うことのできない農民工の夫婦。

不動産をどんどん買って資産を増やす富人と、娘の学費を稼ぐために出稼ぎに来る農民工の父。

救いがない、と思った。

何をどうすればこういった現状を変えることができるのか。

富人が稼ぐための情報は、富人の輪のなかでしか流通しない。それは決して農民工には伝わらない。農民工が株を買って30万円を稼ぐことはできない。そもそも株を買う余裕が農民工にはない。

救いがない。

情報とカネの偏在。


これを観てわたしは、労働と所得を分離させる必要があるのではないか、と改めて思った。

働く、ことによって、所得を得る、という構図を崩してもいいのではないか。

そもそも「働く」と「所得を得る」のあいだに論理的必然性はない。たしかに昨今の「ワーキングプア」と呼ばれる人びとのように、働いても生きるに必要な所得が得られないことは問題である。しかし、働かなくても所得を得る、は採りうる選択肢として考えてみてよいのではないか。

働いている/いない、にかかわらず、年齢や性別に関係なく、(ある範域に住む)人びとに生きてゆくうえで最低限必要な所得を(国家が)保障すべきだ、という議論が実際にある。

「ベーシック・インカム」論である。

わたしはこれに関心がある。というのも、すべての人が生きてゆくということを最大限尊重するならば、そして生きてゆくためにカネが必要であるならば、そのカネを保障しようという考え方は真剣に議論されてよいと考えるからである。

それに、「労働しなくてもよい」状況がある。

失業率が高いと言われる。しかし、それでも社会は回っている。働かない人がいても社会は回る。そこには働けない人がいる。働き口を準備できない社会がある。労働力はもう要らない、とさえ言いうる状況がある。

そのような状況でなお、労働と所得を結びつけたままでいればどのようなことが起こるか。カネがないから人間の尊厳を傷つけるようなことをしなければならない、あるいは死を選ばざるをえない。そのようなことが起こる。

生きるということに最大限の敬意を払うならば、上述のことは容認されない。だから、労働と所得を切り離し、人間がこの世界に存在していることをもって、その存在に必要な手段=カネは保障すべきだ、という考え方が生まれる。

「ベーシック・インカム」論とは、そういうことであるとわたしは思っている。だから関心があり、勉強したいと思っている。


ということを「激流中国」を観ながら考え、そのあとの授業中も考えていた。

18時から20時前まで研究会。


Last but not least...

今日は母の、んー回目の誕生日である。おめでとう。


@研究室
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by no828 | 2008-05-22 21:19 | 日日 | Comments(6)
2008年 05月 20日

研究室に来てまもなく12時間というときに

朝、大雨。昼過ぎからすこしだけ晴れ間が出るものの、あとはずっとくもり。

蒸し暑い日。

今日は5時30分に起きて、6時30分に研究室に来た。

以前、6時30分には研究室に来たい、というようなことを書いていたが、それがようやく達成できた。

しかし、8時ぐらいに眠くなって15分ほど机に覆いかぶさるように寝て、15時ぐらいにまた眠くなって15分ほど机で寝る。

そしていま、頭が重くなってきたので気分転換にこれを書いている。


朝、誰も居ない研究室に来てからは、まず新聞を読み、それから某申請書類のためにデモクラシーについて勉強。新書を1冊読む。わたしが考えていたことを後押しするような記述があったので自信になる。が、たぶんそれで自信を付けてはいけない。というのも、研究に不可欠な「オリジナリティ」という面では、すでに言われていること・すでに誰かが考えていることをわたしも考えたに過ぎないのであって、それは評価されないからである。たしかに、自分なりに思考して辿りついたひとまずの結論が、すでに言われていること・書かれていることと一緒であっても、自分で考えて行き着いた結論、そしてそれまでの過程には代えがたい意味があると思う。だが、それは「研究」において評価されることではない。

そうして誰も言っていないこと・誰も考えていないことを言うため・考えるために研究するのだが、そのプロセスは孤独以外の何物でもない。

研究は孤独なプロセスなのである。

だから、わたしは土日のチーム・プレーを楽しく感じたのかもしれない。

しかし、とここで立ち止まってみる。チーム・プレーを楽しく感じるのは逃げではないか。

わたしは中学・高校と、陸上競技(中・長距離)という個人競技に取り組んできた。わたしはそのなかで、駅伝がもっとも好きであった。しかし、「駅伝が好きだ」と思うときには同時に、「駅伝っていう団体競技なら自分が多少ブレーキしても他の選手がカバーしてくれるから何とかなるって思っているのではないか。それは単なる逃げなのではないか。正々堂々個人競技で勝負すればよいではないか」と思っていた。

ずっと個人競技をしてきたわたしからすると、チーム・プレーをする、チーム・プレーを楽しく感じるのは、すなわち自らの力量のなさを他のメンバーに補ってもらおうとしている、ということにつながってしまう。
だから、研究という個人競技をしているときに、しかも佳境に入っているときに、「チーム・プレーって楽しいな」と感じるのは、「逃げたいな」という気持ちの表われということになる。

わたしはチーム・プレーを個人競技よりも劣位に置こうとしているわけではない。以上で述べたことは、個人競技をしてきたわたしが団体競技をするときに感じてしまうこと、それだけである。

どこまでを自分で引き受け、どこからを他者に頼ってよいのか。「自立」にかかわるそのことがわたしにはわからない。わたしは自立していないのかもしれない。

と考えつつ、今日締切りの学会発表の申込みを行なう。電子メールで送信。

そのあと、それとは異なる学会発表の要旨を書きなおす。頭が重くなってきたのは、この書きなおしを行なっていたときである。

が、某申請書類もあるし、休んでばかりもおれない。

さて。


@研究室
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by no828 | 2008-05-20 18:30 | 日日 | Comments(0)