思索の森と空の群青

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2008年 11月 30日

この世のことを、おめえ一人で全部背負い込むわけにはいかないんだよ——宮部みゆき『日暮らし』

晴れ

今年に入ってから77-1冊目(ウェブログを始めてから127-1冊目)
宮部みゆき『日暮らし 上』講談社(講談社文庫)、2008年。

(読了日:2008年11月23日)

時代小説。

「すると、おでこは尋ねた。『先生、人は死ぬとどうなりますか』
 幸庵先生は答えた。『わたしはまだ死んだことがないからわからん』
 『だが、おまえの場合は、死んだらどうなるか、はっきりわかる』
 『どうなりますか』
 『迷惑になる』
 こんなわけもわからないことでおでこが死んでしまっては、政五郎夫婦は悲嘆にくれるだろう。自分たちに何か悪いところがあったのかと悩むだろう。どうにかしてやれなかったろうかと悔やむだろう。それが迷惑だと幸庵先生は言ったのである」(pp. 13-14)。

「『人は欲深いものだと、叔父上はよく言います』と、弓之助は言った。『わたくしが、生き物と別れるのは嫌だ、だから飼わないというのも欲だと』
 『欲……?』
 『はい。一度自分が親しく思ったものが、どんな理由であれ離れてゆく。それが我慢できないというのも、立派な欲だと。それでも、その欲がなければ人は立ちゆかない。そういう欲はあっていいのだ。だから、別れるのが嫌だから生き物と親しまないというのは、賢いことではない――』
 弓之助は頭を動かし、空を仰いだ。
 『そして、いつか別れるのではないかと、別れる前から怖れ怯えて暮らすのも、愚かなことだと教わりました。それは別れが怖いのではなく、自分の手にしたものを手放したくないという欲に、ただただ振り回されているだけのことなのだから
 お恵は首筋が寒くなった。これもやはり、今のお恵の気持ちを言い当てているのではないのか?
 佐吉の心は、もうお恵の上にはない――ないかもしれない、なさそうだ。お恵はそのことに、ずっとずっと怯えて――」(pp. 120-121)。

「『おまえはどう思う?』
 弓之助は少々及び腰になった。『何をでございますか?』
 『人を好きになるとはどういうことか』
 美形の顔が、ちょっと歪んだ。『さあ、わかりません』
 『わからないなら考えろ』
 『叔父上――』
 『おめえなら見当がつくはずだ』
 〔……〕
 急に子供こどもした風情になって、弓之助は指で鼻の下をこすった。『好きになると、ずっと一緒にいたくなるでしょう』
 『うん、それから?』
 『その人と楽しく暮らしたくなります』
 『それから?』
 『その人の笑う顔が見たくなりますし、困っていたら、助けてあげたくなります』
 平四郎はおとよに目を向けた。『どうだ、得心がいったかい?』
 おとよは依然、きょとん顔だったが、今度は本当のきょとんだった。初めて弓之助によそ見をせず、平四郎を見ている。
 『そういう気持ちになったことが、これまであったかい?』
 『ありません』
 『そうか。でも、これからなるかもしれないぜ。縁談相手を嫌いじゃないなら、試してみる価値はある』
 『それじゃ、嫌いというのはどういうことなんでございましょう』
 おとよが平四郎に直に訊ねた。平四郎は笑った。『今の逆さ。その人と一緒にいたくないし、楽しく暮らせなくてもかまわないし、笑う顔は見たくないし、困っていても放っておける』」(pp. 252-254、傍点省略)。


77-2(127-2) 宮部みゆき『日暮らし 中』講談社(講談社文庫)、2008年。
(読了日:2008年11月23日)

「言葉を形にするために、平四郎も拳を握ってみせた。
 『あるいは、おまえはただ今度のことに巻き込まれただけで、葵を手にかけてはいないということだって、充分にあり得る。そのときにもまた、おまえは正直にそう話してくれるはずだ。そのことも、同じように強く信じている。だからこそ、おまえとこうして話せるときを待っていた。お恵もきっとそうだったろう』
 佐吉は手をあげて、目のまわりをごしごしとこすった。目の縁が赤い。
 『きれいなことを言うならば、お恵も俺も、最初からこう言うべきなんだろう。佐吉、俺たちはおまえを信じている。おまえは、何があったって人を殺せるような男じゃない。そう言ってやるべきなんだろう』
 平四郎はゆっくりとかぶりを振ってみせた。
 『だがな、それはまやかしだ。なぜなら、お恵も俺も、弓之助も知っているからだ。おまえが葵に、湊屋に、長いこと騙されてきたことを。それがどれほどおまえを驚かせたか、傷つけたか、苦しめたか、知っているし察することもできるからだ。だから、きれい事は言えない。おまえは人殺しなんかする男じゃないという、大雑把に明るいことは言えない。相手が葵だったなら――何なら湊屋総右衛門だってもいいぞ――もしかしたらおまえが腹立ちと悲しみのあまり、手にかけてしまうことがあっても無理はないと考えざるを得ないんだ』
 ここで平四郎は声を強めた。
 『だがそれは、おまえを信じていないということじゃあない。絶対に違うんだ。お恵も俺も弓之助も、おまえを信じているからな。俺たちには、おまえが必ず本当のことを打ち明けてくれると信じているからな。もしかしたら、あの芋洗坂の屋敷で対面したとき、不幸な掛け違えが起こって、おまえが葵を殺めてしまったということならあり得る。だが、おまえが俺たちに嘘をついてそれを隠すということは、絶対にないと信じているからな』
 それじゃ不服かと、平四郎は静かに問いかけた」(pp. 130-132、傍点省略)。


77-3(127-3)宮部みゆき『日暮らし 下』講談社(講談社文庫)、2008年。
(読了日:2008年11月26日)

「『小作人の住まう小屋というのは……貧しいものでございますね』
 思い出し、思い浮かべているのか、弓之助の瞳の焦点が遠くなった。
 『わたくし、畳の一枚もないおうちというのを、初めて見ました。壁の羽目板はすかすかで、どこに座っても隙間風が吹いてきます。土間は泥だらけで、庭とも呼べない荒れた庭先に、痩せっぽちの鶏がよろよろ歩いているのです。台所も、その、何と申しますか、ろくな道具がないのです。食べ物らしいものも見当たらないのです』
 『だろうな』
 『おはつちゃんの着物ときたら、わたくしの家では雑巾にしてしまうような古着でございました。いえ、おはつちゃんだけでなく、あの子のお父さんお母さんも』
 〔……〕
 『子供たちは履物なぞ持っていません。みんな裸足です』
 『長屋の子だってそうだ』
 『それは元気で遊んでいるからで、買おうと思えばいつだって草履のひとつぐらい買えるじゃありませんか』
 『それは、おめえがまだ、本当に貧乏な長屋の子を見てないってだけだよ』
 らしくもない、怨むような上目遣いになって、弓之助は平四郎を見た。平四郎は背中がぞわざわしてきた。
 『やめてくれ、その目つき』と、素早く起き上がった。『小作人の暮らしが苦しいのは、俺のせいじゃねえんだからさ』
 〔……〕
 『わたくし……少々取り逆上せてしまいまして』弓之助は声を振り絞る。『ほんの刹那でございますが、こんな苦しい暮らしをしている人たちの前では、誰が葵さんを殺そうが何が理由であろうが、そんなの、たいした問題ではないと思ってしまいました。いえ、本当に、おはつちゃんの身が危ないということさえなければ、葵さん殺しの下手人探しなど放り出して、おはつちゃんの家が少しでも楽に暮らせるにはどうしてあげたらいいのか、そっちの方にこそ頭を使いたくなりました』
 握り締めたようなくしゃくしゃの顔をしている。依然、油の切れた弓之助行灯の頭を、平四郎はぽんと掌で打った。
 『それはそれ、これはこれだ』と、穏やかに言った。『この世のことを、おめえ一人で全部背負い込むわけにはいかないんだよ』
 〔……〕
 『佐々木先生も、同じようにおっしゃったことがございます。〔……〕』
 『ふうん。いい先生じゃねえか』
 『ただ、背負い込んではいけないが、忘れてもいけないと』
」(pp. 163-168)。


@自室
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by no828 | 2008-11-30 22:16 | 人+本=体 | Comments(0)
2008年 11月 28日

マサヒロ

雨 のち くもり


昨夜は研究室で呑み会。

「研究室で呑み会」というのは、「研究室のメンバーで呑み会」ではなく、「わたしたちの研究室という場所を使って呑み会」ということである。



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おいしいビール

色・味ともに濃いめ



さまざまな学年の院生が6人集まって呑む。

話をしていると、いつの間にか研究の話になって、それがすごくたのしい。

分野はまったく違うけれども、実は研究の動機はすごく近いところにあったり、「ああ、そこに問題意識があるのね」というふうに、あるいは「グローバルな、とか、国家、とか、言ってるから抽象的でよくわからんと思ってたけど、いまの話聞いてすーごくよくわかった」というふうに、論文やレジュメからは読み取ることのできない思いを発見したり、発見されたり、そういうことがたのしい。



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マサヒロとビール

マサヒロよ、俺たちの話を聞いているか?





雨が上がるのを待って自転車で来た大学の途中で。

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今日は推薦入試のようで、母に連れられた高校生をよく見かけた。


@研究室
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by no828 | 2008-11-28 11:16 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 27日

ひとりで読む本 みんなで読む本

くもり のち 雨


昨日のゴミ収集は「ペットボトル」で、今朝は「ビンとスプレー缶」であった。

このような、ゴミのなかではマイナーな(と言うとペットボトルとビンとスプレー缶に失礼だが)ものは、なかなか出すことができない。その理由は、ゴミが出にくいから捨てなくても邪魔にならないから、というよりも、そうであるがゆえに面倒くさがってゴミ出ししないから、である。これは意志の問題である、ということなのである。

しかし、最近思うのは、「ゴミを捨てる」というのは、物質的な衛生のうえでも望ましいことであると同時に、精神的な衛生のうえでも望ましいということである。捨てるとすっきりする。だから、最近どんな小さな・少ないゴミでも、捨てるべきときにきちんと捨てるようにしている。

文章の乱れは思考の乱れ

とたしか国際政治学のS木先生がおっしゃっていたが(そして論文を書くようになったわたしは「たしかに」と思うわけだが)、

部屋の乱れは心の乱れ

ということもあるのかもしれない。

と思いながら大学に来る。

10時30分から読書会。読んでみたら「みんなで読むことなくない?」という内容であった。

読書会を活用するなどして「みんなで読んだほうがよい本」と、逆に「ひとりで読めばよい本」があるように思われる。

その違いをうまく言語化することはできないのだが、感覚としてはわかる。

そのように分けた場合、秋休み中にもかかわらず(そもそも秋休みは院生には関係ないが)開催された授業で読んでいる本は明らかに「ひとりで読めばよい本」で、さらにひどいことを言ってしまうと「読まなくてもよい本」である(なぜならば「あれ」は、著者たちの好悪というか信条を述べているだけで、論を展開しているわけではないからだ)。

そうした本を使って、そして3時間ぐらい使ってみんなで議論することに意味を見出すことはできない。あえて見出そうとすれば、そこには「無意味」という意味しかないであろう。

だから今日も、わたしは別の本を読んだ。

「それなら授業出るの止めればいいじゃん」とも思うわけだが、そこまでの勇気がわたしにはない。

授業中にテキストとは別の本を読むほうが勇気要るよ、という意見も一方ではあるけれど。


@研究室
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by no828 | 2008-11-27 16:36 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 26日

お湯が出ない

晴れ


朝、シャワーを浴びようとしたらお湯が出ない。何度試してもお湯が出ない。

温度をデジタル表示する画面が意味不明な点灯を繰りかえす。



水しか出ない。水が温かくならない。寒い。いまは冬だ。水を浴びるわけにはゆかない。

だからシャワーをあきらめる。

基本的に夜もシャワーを浴びて汚れは落としてあるからよい。朝シャワーを浴びるのは、身体を起こすためと、寝ぐせを直すため。

部屋でお湯を沸かそうと思っても、コンロの火が点かない。



問題はシャワーにあるのではなく、ガスそれ自体にあるようだ。

というわけで、ガス・ボンベのところに行く。「ガス止め」とデジタル表示されている。



いろいろいじるが「ガス止め」の表示は消えない。

しかし、アパートのガスの元に問題があるということは、入居者全員がガスの恩恵に与れていないということである。

どうするか。選択肢は2つ。

(1) 大家さんに電話して事情を説明する。
(2) ガス会社に直接電話して事情を説明する。

だが、ここで新たな問題が浮上する。(1)と(2)のどちらに先に連絡すべきか、という問題である。頭のなかでシミュレーションする。が、いずれにしても電話したわたしに面倒なことが降りかかってきそうな気がしてくる。そもそも電話することが面倒だ。しかし、電話しないともっと面倒なことになるかもしれない。今夜もシャワーを浴びることができない、とか。

むー。

とりあえず部屋に戻って大学に行く準備をする。

何か悔しい。

アパートを離れるとき、もう一度ガス・ボンベのところに行き、ぴこぴこいじる。何度かぴこぴこしたら「ガス止め」の表示が消えた。



戻ってシャワーをいじってみたら、変てこな表示は出てこず、代わりにお湯が出てきた。

よかった。

ただ、気のせいかもしれないけれど、今日は何か冴えなかった。


@研究室
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by no828 | 2008-11-26 20:01 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 25日

すべてを見てまわると半日ぐらいかかると思うけれど、たぶん飽きない IKEA

晴れ


昨日は気分転換に、また、モノを整理する箱などを買いに IKEA に行ってきた。

お店近辺の渋滞がものすごかった(写真を撮ればよかった)。

向かっている途中、まっきーから電話があった。要件は2つ。ひとつは、「昨日(ってことは11月23日か)入籍しました。るんるん」で、もうひとつは、「式は東京じゃなくて札幌で挙げることにしました。予約していた東京の式場はキャンセルしました。札幌まで来てね」。

いま思うと、入籍を11月23日にしたのはなぜかが気になる。11月23日よりもむしろ11月22日の「いい夫婦の日」にすればよかったのに、とか。

電話では、挨拶代わりに「もしかして〔結婚〕相手変わった?」と訊いておいた。「変わってねえよ」って返ってきた。こういう軽口が叩ける友だちって大事だなあと思った。

IKEA 着。

駐車場から店内入口へとわれわれを運んでくれるエスカレーターの前で移動規制が敷かれており、なかなか動くことができない。警備員さん(らしき人)が立っている。たしかにお客さんが多かったから、規制しないとたいへんなことになっていたかもしれない。

店内には1階から入る。

が、入るとすぐに「2階へ行ってください」と言われる。

2階がショー・ルームならぬショー・フロアになっていて(商品を展示するだけの階)、1階が実際に商品を買うマーケット・フロアになっているのだ。

買い物が終わってようやく実感を伴ってわかったのだが、IKEA は2階で購買意欲をかき立て(人間の欲望への刺激)、買う予定がなかったものにも「あ、これかわいい」とか「これ、いいな」を増やして「買っちゃおう」にしてしまう(わたしも予定していなかった読書ランプを買ってしまった!)。

購買意欲を落ち着かせるために、あるいは複数人で行く場合には相談するために、2階にあるフード・コート(「無農薬野菜の~」とか)に行くのが得策かと思うけれど、そこでもお金を使ってしまうとあまり意味がない。

意味がない、というよりは、意味が取りづらかったのは、たとえば以下の掲示。


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これはわかる。


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これもわかる。


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これは……ん?


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か、過酷な状況におくって……。abuse って……。
商品の生産(あるいは試作)段階におけるテストで、ってことね。まずそれを言わないと、IKEA は売る商品を自ら傷めつけているのか!なぜだ!と思ってしまうよ。



1階に行き、自ら棚から商品を下ろす。そして会計を済ませる。

以上のことから、もし買うものが決まっているときは(今回のわたしのように!)、2階を経由せずに直接1階に行けばよい、と結論付けることができる。

ただ、直接1階に行こうとすると、警備員さんに阻まれる可能性はあるけれど。


@研究室
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by no828 | 2008-11-25 19:59 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 23日

あとは下巻

晴れ


昨夜は宮部みゆきの『日暮らし』上巻を読みながら、ピザとソーセージとミニトマトを食べ、ビールを呑む。『日暮らし』上巻は終盤まで読み進める。

すると23時には眠くなり、23時30分に布団にもぐり込む。

今朝は6時過ぎに目がばっちり覚める。二度寝できない。7時過ぎまで布団で粘るが、やはり二度寝はできない。起きてシャワーを浴びて洗濯をして干して珈琲を煎れて、『日暮らし』上巻の続きを読む。30分ほどで上巻読了。中巻に手を伸ばす。珈琲を飲みながらの中巻はお昼に読了。

昼食をとってから研究室へ。

新聞を読んでから「『社会科学』って何なんだ」と考える。ヴェーバーとか大塚久雄とか。

読んでいる本が偏っているのかもしれないが、最近ヴェーバーとマルクスのところでいろいろなものが交錯する。前者ヴェーバーに関しては、「分けるところはきちんと分けて、ちゃんと考えようぜ」というその知的態度が魅力的で、姜尚中が彼を引きながら『悩む力』を論じたのも納得できると思うようになった。後者マルクスに関しては、そのヴェーバーが『社会科学の方法』で(直接言及しないまでも明らかに)反論するぐらいに大きな存在であることが再確認されるとともに、マルクスは「近代」に対して二律背反的評価をしていたのだというわたしの理解は間違いではないかもしれないと思うようになった。

しかし、早起きしたせいで18時頃眠くなり、研究室のソファですこし寝る。来室者があって目を覚ます。そういえば、流川楓は「俺の眠りを妨げる奴は何人たりとも許さん」と『スラムダンク』で言っていた。

19時で切り上げて、帰途無印良品によって論文整理用のクリア・ファイルとフリースの室内履き(スリッパ)を買う。


秋というか、何かもう冬の空気。


@自室
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by no828 | 2008-11-23 21:44 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 23日

しゅんぺー結婚式2次会のお知らせ(出欠連絡は11月25日が締切り!)

晴れ


遅くなりましたが、しゅんぺーの結婚式2次会のお知らせ。

出欠連絡の締切りは11月25日(火)(明後日!)です。「あ、まだだ」という方は下記のウェブサイトからお願いします。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【2次会詳細のご案内】
・ 日時:2008年12月7日(日)17:30 ~(受付開始:17:00)
・ 会場:キハチ(銀座本店1F)
  ・住所:〒104-0061 東京都中央区銀座2-2-6
  ・電話:03-3567-6284
・ 会費:男性¥8,000、女性¥7,000

【出欠連絡のお願い】
お手数ですが、出欠のご連絡はこのウェブサイトからお願いします。

締切り:2008年11月25日(火)

右をクリックしてください。 出欠連絡用ウェブサイト

※ IDとパスワードが必要です。さすがにここに記すのはまずいと思って伏せてあります。ご存知ない方は、お手数でもトルシエかわたしまでご連絡ください。
※ 簡単なアンケートを出欠連絡フォームにて実施しております。2次会にほどよいアクセントをつけることが目的です。ご協力いただけますようよろしくお願いいたします。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


@研究室
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by no828 | 2008-11-23 14:59 | 掲示板 | Comments(0)
2008年 11月 22日

うつくしま

晴れ


風が強すぎる。色付いた木々の葉が舞う。葉っぱを失いつつある木々はちょっと悲しい。

風が強すぎる。洗濯物が干せない。かろうじて布団だけ干す。

風が強すぎる。のとはまったく関係ないが、昨日買った宮部みゆきを読む。心温まることが書いてある。

午後、資料整理用の段ボール箱を買って研究室に来る。新聞を読む。すると……



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おお、故郷福島。

うつくしま ふくしま

目を凝らすと……


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おお、田村。

まさに地元。

全国区だぜ。




@研究室
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by no828 | 2008-11-22 18:12 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 21日

通りの木々は黄色く染まり

日中は快晴であったのに現在は風がびゅーびゅーで外に出たくない。


今日はお昼を食べたあと、書籍部まで歩いた。



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書籍部への途中で。

写真の左下に映っている人影は、たぶんわたし。



書籍部で、「社会科学とは」関係の本を2冊買って、ついでに……。



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どひゃーん。

買っちゃった。



たまにはね。


@研究室
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by no828 | 2008-11-21 21:13 | 日日 | Comments(0)
2008年 11月 21日

ヴェーバーは「自ら創造せよ」と言った

晴れ


引用(長めです)。

生松敬三『社会思想の歴史 ―ヘーゲル・マルクス・ウェーバー―』(岩波書店(岩波現代文庫)、2002年)より。

「現代はまさに専門分化の時代であって、学問もその例外ではない。

学問の領域においてなんらかの『業績』をあげようとする者は、一方でその専門以外のことがらへの『断念』を覚悟しなければならない。『学問に生きる者は、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここに後々まで残るような仕事を成しとげたという、おそらく生涯に二度とは味わわれぬであろうような深い喜びを感ずることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、今日専門家的に成しとげられたものばかりである。』

いたずらに『個性』を口にし『体験』を求める当時の青年たちに対して、ウェーバーは、『学問の領域で“個性”をもつのは、その個性にあらずして仕事(ザツヘ)に仕える人のみである』と断言する。学問の専門分化は、近代の『合理化の過程』の必然の結果であり、『学問および学問上の基礎に立つ技術による主知主義的な合理化』こそ、呪術からの世界の解放にほかならなかったのである。
 われわれは今日、学問や技術によってすっかり即事象的にされた世界に生きており、しかも学問の即事象的な合理性は、すべての人を束縛してきた道徳的・宗教的な規範からわれわれを解放した。だから、われわれの究極的な価値評価は、もはや伝統によって支持されるものであることはできないし、かといってそれは学問によって基礎づけられるわけにもゆかない。学問はむしろ、それが取扱うものの究極的な意味を前提として出発している。したがって、その意味は、よかれあしかれ個々人の決定にかかる問題なのである。
 『今日、世界の種々なる価値秩序はたがいに解きがたい争いの中に立っており、このゆえに個々の立場をそれぞれ学問上代表することはそれ自身無意味なことである』と、ウェーバーは言い、『もし純粋な経験から出発するならば、人は多神論に到達するであろう』という老ミルの言葉を共感をもって引用している。究極的な立場を学問によって基礎づけることはできない。かつて絶対的な地位にあった神は、今日では相対的な地位で相争う神々となり、学問的な認識の根底にはその神々につながる道徳的ないし半ば宗教的な根本的価値評価がひそんでいる。

ウェーバーのいわゆる『価値自由(ヴエルトフライ)』(没価値的)な学問という要求は、実はまさにそのことの自覚を要求したものにほかならない。学問的な判断の価値自由性への要求は、往々誤解されているように、すべての価値判断をさし控えた純粋学問への後退を意味するのではなく、学問的評価における学問外的な評価規準を自覚化し対象化して考慮にくり込み、無自覚的・無意識的な混同を回避することへの要求なのである。

そしてウェーバーの力説するわれわれの究極的な価値規準の主観性とか、すべての人を束縛する規範の欠如とかは、学問の普遍的本質に属するというのではなく、世界に生起する出来事の意味をわれわれ自身が創造せねばならぬことを認識するにいたった『現代文化』の特性なのである。主知的合理化の進行という『時代の宿命』、『呪術から解放された世界』の真実を直視しえないのは、弱さでしかない。『いまは神もなく預言者もなき時代に生活すべく運命づけられているという根本の事実』の上に立つ絶対的な『知的廉直』こそ、ウェーバーの要求しているものなのである」(pp. 143-145、強調引用者)。


強調した引用文中にある「往々誤解されているように」の「往々」にはわたしも含まれている。

しかしながらその誤解は、生松の解説と、今日途中まで読んだヴェーバーの『社会科学の方法』によって、(幾分)解消されることになった。

『社会科学の方法』には「なるほど、たしかに」という文章が多く、テキストは赤線ばかりになってしまった。

もっと早く読んでいればこんなにも深い森のなかに入り込まずに済んだかも、と思いながらも、しかしヴェーバーの文章が(といっても邦訳だが)響くのは森のなかに入り込んだからだ、とも思う。

はじめに強調しておいた「学問の領域においてなんらかの『業績』をあげようとする者は、一方でその専門以外のことがらへの『断念』を覚悟しなければならない」に関しては、端的に言って、

ぎょ

であるが、同様のことはお世話になっている教育哲学の先生もおっしゃっていた。

普通に働いている人が享受できること、たとえば結婚とか、そういったことは我慢しなければいけないよ。結婚は遅れても仕方がないんだよ。


学問以外のことへの「断念」を、わたしはいつの間にか覚悟しているような気もするし、しかし覚悟しきれていないような気もする。


@研究室
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by no828 | 2008-11-21 20:54 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)