思索の森と空の群青

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2009年 03月 31日

タイトル戦

 学会発表の申込書をお昼に速達で郵送した。昨日考えておいた案――と言ってもメイン・タイトルだけ――を修正して新たにサブ・タイトルも付けた。こういうものを考えるときに身近に相談できる人がいないというのはなかなか寂しい。

 ただ、去年よりもタイトルの持つ意味については理解するようにはなり、だからどのように付ければよいかについても自分なりにわかってきた。

 今日は短い時間で自分の問題意識を改めて振り返り、「ということは、これはキーワードになってくるかもしれないぞ」と思って、それをタイトルに入れた。すると結構大風呂敷を広げたようになってしまった。けれど、「でも、たしかにこの概念は大事になってくるし、自分なりに落とし前を付けておくべき問題だな」と思うようになった。事後的な自己正当化かもしれないけれど、大切な問題であることはたしかだ。

 しかし、これが博士論文に入れるべき問題なのかどうかはまだ見極められていない。入れることができそうならぜひ入れたいと思う。


 学会発表要旨の締め切りが5月23日。本番は6月末。


@研究室
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by no828 | 2009-03-31 18:01 | 日日 | Comments(0)
2009年 03月 31日

Two coffees, please.

21(154) 森巣博『越境者的ニッポン』講談社(講談社新書)、2009年。
 (読了日:2009年3月31日)

 オーストラリアを拠点とする博奕打ち・森巣博氏の本。

 森巣氏のことは大学院に入って間もなく知り、以来何冊か読んできた。

 と言っても、博奕の本ではない。

 日本人論・日本文化論である。

 正しくは、日本人論批判・日本文化論批判である。

 大学院に入っていろいろ勉強しなければならないと思っていろいろ本を読み、そのなかで「文化」とか「本質主義」とか「構築主義」とかを勉強し、また、「日本って何だ?」と思って関連する本を調べて読んだ。そこで日本人論・日本文化論とともに、森巣氏の『無境界の人』『無境界家族』(ともに集英社文庫)も読んだ。そして、森巣氏のほうに説得力があるように思われた。


・ 英語教育論
 「ところが、日本では、中学高校で六年間、大学教育まで含めれば少なくとも八年間の集中した英語教育を受けているにもかかわらず、読解はまだしも、作文・会話となるとまるでお手上げ状態の人たちがほとんどであろう。
 なぜか、と考えて、わたしはそれが、もしかすると意図的な『国の政策』ではなかろうか、と疑い始めた。日本国民を実質的な孤立状態にしておくための、国家的陰謀である。半分ほど本気で、そう疑っている。
 日本国民を外部から遮断するために、高い障壁を設ける。それでも越境して入ってくるニュースは、いったん日本というシステムに無批判なマスメディアのフィルターを通したものとする。
 簡単に言えば、江戸時代の鎖国方式での統治が、形を変えながらもまだ継続しているのじゃなかろうか」(pp. 35-36)。

 May we have two cups of coffee? でなく、 Two coffees, please. で十分通じるのだから、そう教えればよい。難しく教えているからわからないのだ。基本は Thank you と Sorry と Please だ――というのが森巣氏の主張。


・ 「先生」とは
 「すなわち、教職員たちの君が代斉唱時の不起立は、他の『愛国者』たちより賞賛されるべき行動であって、決して非難されるべきそれではないはずなのだ。ここが『愛国者』を自称するウヨクたちには、まるでわかっていない。
 非難されるべきは、そして憂うべきは、信念に従って行動するそんな教職員たち――すなわち『愛国者』たち――が、もうほんのひと握りしか日本には残されていない点ではなかろうか、とわたしなら考えるのだが、いかがか?」(p. 85)


・ ハラスメント
 「職場なり学校なりで非対称的な権力関係に置かれた者たちの間でおこなわれる性行為は、合意があろうとなかろうと、すべてセクハラとして認定される。なぜなら、それがたとえ合意の上での性行為であったとしても、その合意に達するまでの選択の幅は、権力構造によって既に歪められているはずなのだから」(p. 91、強調引用者(以下、同様))。

 この議論は、経済学者のアマルティア・センや哲学者のマーサ・ヌスバウムが「人間の善き生」という文脈で「適応的選好形成」を問題視して提唱した――という側面のある――ケイパビリティ・アプローチにも通ずる考え方である。センやヌスバウムは、選好は環境に適応するように形成されるのだから、本人の言明――たとえば弱者の側の「合意の上でした」――をそのまま受け取って、それなら問題はないと判断してはならないと言った。なぜそのような選好が形成されたのか、そこまでを見る必要があると言った。


・ マスメディア
「日本の大手メディアの言論誘導の実態を知るには、『なにがどう報道されたか』も重要だが、『なにが報道されなかったか』を把握することも、同程度に重要なのである」(pp. 120-121)。

 論文や学会発表でも同じ。書かれていてもよいはずなのに書かれていないこと、言われてもよいはずなのに言われていないこと、そういうものがある。しかし、それを指摘するには「書かれていてもよいこと」「言われてもよいこと」を知っている必要がある。


・ 資本主義
 「もし、投資と投機が異なるものであるとするなら、成功した投機を投資と呼び、失敗した投資を投機と呼ぶ」(p. 186)。


・ 新自由主義
 「新自由主義を標榜する経済システムが必要としていたのは、あくまで『労働力』であって、その労働力の担い手となる『人間』じゃなかった。労働力だけがあればいい。人間なんて必要ないのである。それゆえの『派遣切り』だった。いや、経営側にとっては千載一遇のチャンスとばかりに、正規雇用社員にも及んでいる馘首だった」(p. 194)。

 「労働力」と「労働者」の違いは重要だと以前ざっと読んだ本にも書かれていたが、この文章ですこしわかり、しかしまだよくわかっていない。
 上の文章は、「力」は「人間」にしか宿らない、ということではなくて、「力」は「機械」にも宿り、ゆえに「機械」で代用できるところは代用し、その分「人間」は不要になる、ということか。しかし、目下「労働者」が減らされているのは、「機械」にしたから、ではなく、そもそも「労働力」という「力」が要らなくなったからではないのか、言い方を換えれば、そこまでの「労働力」がなくても成り立つ経済になった、ということではないのか。「失業」も、仕事があるのに働かない、ではなく、仕事がないから働けない、であり、それはつまり昔よりもすくない仕事で回る経済になった、ということであり、だからそれは経済システム全体の――そしてわれわれの考え方の――見直しを行なう必要がある、ということになるのだと思う。人間の生における労働の位置を考え直すときに来ているのではないかと思うのである。


@研究室
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by no828 | 2009-03-31 17:48 | 人+本=体 | Comments(0)
2009年 03月 30日

橋本先生お願いします

20(153) 橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』筑摩書房(ちくま新書)、2002年。
 (読了日:2009年3月30日)

 最近、物事の判断規準は結局のところ「美しい/美しくない」ではないかと考えるようになった。

 これまでも「それは美しくないからしない」とか結構口にしてきたのだが、美的判断に頼るしかないのではないか、と改めて考えるようになった。正しい/正しくない、儲かる/儲からない、というよりもむしろ、美しい/美しくない。

 そこで、橋本先生ならどのようにお考えになるのかと思ってすこし前に書籍部で買ってきて読んできた。論文もあったので読み終わるのに10日ぐらいかかった。(タイトルからしてわたしの問題意識とは若干ずれるのではあるが、困ったときには橋本先生に訊いてみたいと思うのである。)


 「胸のときめきを感じたり『やりたい』と思ってしまうのなら、その相手は『美しい女』や『美しい男』ではないのです。あなたの欲望の体系=必要に合致すると思われる、『いい女』や『いい男』なのです。そして、その相手が『なんだか分からないけど見とれてしまった』という反応を惹き起こしたのだとしたら、その相手は『美しい女』や『美しい男』なのです。〔……〕『美しい』が思考停止から生まれる感情で、直接的にはなんの役にも立たない認識だからです」(pp. 42-43。なお、原文の傍点は省略、〔〕内は引用者(以下、同様))。


 以下は研究でも同じ。誰かの理論を視点・観点にし続けたり、人物紹介をし続けるのは、自分の頭で考えるということではない。そこから出ないと。って思って書いたところが昨日郵送した論文にはある。

 『影響を受ける』というのは、『落とし穴に落ちる』と同じです。落とし穴に落ちるのは簡単です。うっかりしていれば、すぐに落ちます。落ちたら、落とし穴から出なければなりません。出るのには『努力』がいります。『自分の存在を作る』とは、いつの間にか落ちていた落とし穴から出るということで、努力がいります。影響を受けたら、その影響を払拭する努力をしなければなりません。それをしないのは、『カッコいいと思った人間の真似をして、自分もカッコよくなったと思う』と同じです。これをもっと酷い言葉で言えば、『自分の存在が醜くなっているのに気づかない』です。
 『自分』という存在は自分で作るもので、他人の影響力に従属するのは、信仰の世界です。信仰は『その宗教』という枠組の中でだけ成り立つもので、その信仰が必要な人にとってだけ必要なものが『信仰』です。〔……〕『子供におとぎ話は必要だけれども、子供から脱するためにはおとぎ話から離れなければならない』というのと同じで、理性を育ててしまった人間は、宗教から脱する方向へ進むしかないのです
」(pp. 143-144)。


「〔美しいを実感するためには〕『リラックスを実現させる人間関係』は必要で、そしてもう一つ、『自分の所属するもの以上にいいものがある』という実感――つまり『憧れ』がなければ、『美しい』は育ちません。『美しい』は『憧れ』でもあって、『憧れ』とは、『でも自分にはそれがない』という形で、自分の『欠落』をあぶり出すものでもあるのです。
 その『欠落』を意識することが、『外への方向性』を作ります。『自分にはそれが欠けている――だから、いやだから“外”への目をつぶろう』というのも、『外への方向性』です。『自分にはそれが欠けている――でもそれはいいものだ。だから、それのある方向へ行こう』もまた『外への方向性』で、『美しい』を育てるのはこちらです
」(p. 176)。


 これは前後をもっと引用しないと意味が明瞭にならないのだが、「ニーズとは何か」を考えていたわたしには本文の文脈を超えて「なるほど」と思われたので、その部分だけ引いておく。

『自分の必要』は『自分の能力の限界』でもあって、そのキャパシティを超えてしまったら、これまた『よく分からない』になるでしょう」(p. 71)。


@研究室
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by no828 | 2009-03-30 17:26 | 人+本=体 | Comments(4)
2009年 03月 29日

投稿論文や学会発表の締切はすべて消印有効にしてほしい

 31日必着の論文を手放してきた。

 郵便局に行って「速達プラス配達記録でお願いします」と言ったら、「配達記録は3月で終わったんです」と言われる。「いや、まだ3月ですけど、何か?」と返そうと思ったけれど、止めておく。

 わたしの脳は目下すこしの論理矛盾も許さないんだぞ。

 いまは「簡易書留」と「特定記録何たーら」があって、宛先に届いたさいに宛名の人からはんこをもらうのが「簡易書留」で、もらわないのが「特定記録 something like that」らしい。

 どちらが有利なのかわからないので速達+簡易書留にしておいた。1,060円もかかった。

 研究室に戻ってきてカップ麺を食べながら今日の新聞を読み、机の上をすこし片付けた。

 
 あとは4月1日必着で学会発表の申込がある。とりあえず発表タイトルだけでよいが、「サブタイトル含め発表題目の変更は一切認めません」ときつく書いてあるから慎重に設定しなければならない。

 うーむ、どうしよう。

 学会に行くということは発表するということで、発表をしないなら行く意味はないと思っている。今度発表申込のある学会は大した学会ではない――とか言ってみたり――ので行く必要はないとは思うのだが、業績で評価されることを考えると発表はしておいたほうがよい。言っておきたいことがないわけでもない。

 というわけでタイトルを考えたいのだが、だんだん眠くなってきた。

 ぐー。


@研究室
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by no828 | 2009-03-29 15:41 | 日日 | Comments(0)
2009年 03月 28日

論文没入 2

 プリント・アウト中

 脳がぐわーっとなってきた。目が痛い。首と肩と背中も痛い。

 とりあえず帰ってシャワーを浴びよう。そして論文に赤を入れながら読んで、それからすこし寝よう。明朝すっきりしたところで――すっきりしていないかもしれないけれど――また読みなおす。研究室に来て脚注を揃えながら全体を整える。あ、あとタイトル再考。


 そういえば、21時ぐらいにエレベーターの向こう側の研究室の先生が来ていた。トイレに行ったときに見たら磁石が「在室」のところにあった。がたがたと音がしたから誰か来たのであろうと思ったらその先生であった。「土曜のこんな時間にどうしたのか、奥さんと喧嘩したのかな」と思いながら、「そんなことを考えている場合ではない!」と思いなおした。


 と書いているあいだに排紙終了。


@研究室
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by no828 | 2009-03-28 22:16 | 日日 | Comments(0)
2009年 03月 28日

論文没入

 ずっと論文。

 思考が乗ってくると、それで文章が乗ってくると気持ちがよい。「俺の言いたいことはこれだ!俺の文体はこれなんだ!」となる。しかし、そこまでがなかなかたいへんだ。書いては消して、の繰り返し。たぶん、乗っているところとそうではないところの文章の勢いは違っていて、そこは揃える必要がある。

 自己内締切は明日の正午。

 明日は論文を落ち着ける作業をする。だから今日は粘るぞ。


@研究室
 
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by no828 | 2009-03-28 19:14 | 日日 | Comments(0)
2009年 03月 26日

『明日のEXECUTIVE』

 昨日が大学の卒業式であった、と昨日書いた。

 一昨日、つまり卒業式の前日、今年晴れて卒業を迎える学類の後輩が挨拶に来てくれた。

 「ご挨拶に伺いたいのですが」メイルを読んだときには、卒業式当日の夕方にちょろっと顔を出しますから、ということだと思っていたら、卒業式前日の夕方に行きますから、ということであったらしく、一昨日の夕方研究室のドアのノックのあとにその隙間から出てきた顔に驚いた。ちょうど大学院の後輩たちと珈琲を淹れて話をしているところであった。

 そこでいろいろと話をしているうちに、『明日のEXECUTIVE』(以下、エグゼ)が話題に上がった。

 エグゼはわが学類の紹介誌で、毎年作って企業や高校に配布されるものである。他の学類にも同様のものがあるらしいのだが、学生(その年度の学類3年生)が中心になって編集する紹介誌は他にはない(と聞いている)。わたしもエグゼの編集に関わった。

 件の後輩は(たぶん高校生のときに)、わたしたちの代が作ったエグゼを読んだらしい。

 ジェネレーションを意識せざるをえない。

 一般にエグゼがどのように受け止められているのかわたしは知らないが、わたしにとってエグゼは高校生の頃の「愛読書」で、受験勉強のなか「ここに行きたい」という思いを強くさせてくれるものであった。エグゼにはそれを作った代の学生が全員写真入りで掲載され、「出身」や「研究テーマ」や「一言」なども紹介されていた。それを見たわたしは、先輩たちに憧れた。

 ちなみに、わたしは先輩たちのエグゼを高校1年生のときにもらっている。わたしの通っていた高校でオープン・キャンパスのバスを出すというので、それに乗って大学までやってきたときにもらったのだ。ただ、高校でバスを出してくれるのは2日間あるオープン・キャンパスのうちの1日だけで、しかもわが学類が説明会その他を行なう日とはずれていた。それでも行くだけ行こうと思ってバスに揺られて大学までやってきた。高速道路を降りたあと、黄色い看板が目印の中華料理のチェーン店がやたらと目に付いた。

 大学に着いたら、やはり目当ての学類の説明会は開かれておらず、わたしは他の学類のを聞きに行くという友だちと別れ、ひとり学類の事務に行き、「高校のバスの関係で今日しか来られなかったのですが、資料などいただけますか?」と言って、いろいろもらってきた。シラバスまでもらってしまった。エグゼは資料のなかに含まれていた。

 家に帰ってシラバスを開き、おもしろそうな授業をチェックして「合格したらこれを取ろう」とか、エグゼを見ていろいろな先輩を見て「何だかすごそうだ」とか思った。受験勉強のとき、それを繰り返した。

 わたしは高校1年生であの学類を受験することを決めていたので(、そしてたしかそれ以降高校でバスを出してくれなくなったので)、高3のときにはオープン・キャンパスには行かなかった。

 わたしにとってはそのような思い出のあるエグゼを実際に作ることになったのは、何だかおかしくもあった。ただ、ひとつ上の編集委員の先輩から、「やってみないか?」と言われたときはうれしかったし、実際に他の同期と編集作業をしているときはたのしかった。

 『明日のEXECUTIVE』という名前は故・秋野豊先生が付けたと聞いている。「これ、そもそもどういう意味?」という議論を編集のときにした記憶があるが結局「よくわからないね」ということになり、未だによくわからない。秋野先生は『明日のEXECUTIVE』にどういう意味を込めたのであろうと想像するばかりである。

 
 わたしは自分の紹介にバングラデシュに行ったときの写真を使い(いま思うと表象論としていろいろ議論できそうだ)、「私の野望(夢)」のところに「世界の子どもたちの笑顔を見ること」と書いた。照れくさいことを書いたなあと思うけれど、それは中学以来思ってきたことだし、いまも思っていることだ。



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わたしたち18期の『明日のEXECUTIVE』
研究室に置いてあって、折に触れてページをめくっている。
立ち返るべきところがそこにはある。



 
 大学院の後輩に見せたら、「これ見たら行きたくなりますよね、やる気になりますよね。院でもこういうの作りましょう」と言われた。「これ作るの結構たいへんだよ」と言いながら、わたしは朝までK棟のラウンジで編集方針を議論したときのことを思い出していた。


@研究室
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by no828 | 2009-03-26 12:42 | 日日 | Comments(2)
2009年 03月 25日

窓際族

 今日は寒い。お昼頃から雨も降り出した。今日は卒業式であったから、とくに袴や振袖を着た女性の方々はたいへんであったに違いない。



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窓際の机に座っているから余計に寒い。



 わたしはこの寒い位置でずーっと論文に取り組み、躓いたらすこし散歩に出るということをしていた。論の運びがいまいちすっきりしない。ただ、自分が何を言いたいのかはわかった。その言いたいことに行き着くために、何をどのように言うか。論理のなかに何を置き、何を捨てるか。それを繰り返し確認しながらすこしずつまとまった文章にし、また論理構成=アウトラインを確認し、ということをしている。この作業はおもしろくはあり、しかしすっきりとつながらないときのもどかしさといったらない。


@研究室
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by no828 | 2009-03-25 19:21 | 日日 | Comments(0)
2009年 03月 23日

創造は破壊の上に、そして「再会」

 月末必着の論文に取り組んでいる。

 先日の土曜日に研究会発表の機会があったから、そのためにとりあえず「論文」のかたちにはした。ただ、満足はしていない。あれを壊して練り直す必要がある。分量も、脚注も入れてあと6,000字ほど増やさなければならない。が、問題は最終的な着陸地点をどこに置くか。まだ迷いがある。
 
 さっき、机に覆いかぶさるようにして20分ほど寝た。鏡を見たら額と鼻のラインが赤くなっていた。とりあえず顔を洗った。

 そして、「新しい世界へ」をすこし変えてリンクを2件増やした。

(1)或いは修羅の十億年

 芸術家の方のブログ。

 「芸」や「美」、<わたし>を一瞬にして捕まえるもの。問答無用に――理性とは別のところから。それは感性?ということは、「芸」「美」と「政治」「公共性」との接点とは。


(2)教育開発の仕事

 こちらはわたしの専門分野についてのブログ。Education for All 関連の調べ物をしているときに行き着いた。

 実は筆者の方とはお会いしたことがある。

 わたしが2004年、2005年とバングラデシュで教育分野に対する国際援助を行なっている機関の調査をしているときにお世話になった方。

 思いがけぬ「再会」である。

 わたしがフィールドから離れてからパキスタンに移られたと伺っているが、エントリのご様子からだといまはニューヨークにいらっしゃるようだ。

 彼の地では情熱を持ってお仕事に取り組んでおられるという印象を強く受けた。そのご様子がブログからも伝わってきて、たいへんよい刺激をいただいた。これからもお邪魔させていただこうと思う。


@研究室
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by no828 | 2009-03-23 16:00 | ブログ設定変更 | Comments(0)
2009年 03月 22日

敵を見つけろ

 論文に苦しむわたしが思わず書籍部で手に取った本。

19(152) 齋藤孝『アイディアを10倍生む考える力』大和書房(だいわ文庫)、2009年。
 (読了日:2009年3月19日)

「私は論文を書くときでも、つねに『新しい概念を出す』ことを目標にした。『~について調べました』では論文とはいえない。そこから自分はどんな新しい意味、概念、コンセプトを導き出せたのかを論文に表してきた」(p. 6)。


「しかし、本書でいう『考える』とは、アイディアを生みだす、レポートや原稿を書く、プレゼンテーションをするなど、生産的なことに結びつく脳の作業である。生産的なことに結びつかない『思う』『悩む』状態は、『考える』状態とは違うのだ」(p. 24、原文の強調は略)。


 課題設定、指導方法。
「理想的なのは最終ヴィジョンと自分たちが使い得る材料(素材)の両方を示し、『この間の道をつけてみろ』と指示する方法である。そう指示されれば、言われたほうは考えることができる」(p. 43、原文の強調は略)。


「それ〔=つながらないと一般に思われているもの〕をあえてつなげる『無理やり感』が、考える起爆力になる。
 そのような力をつけるには、『ほかの人が考えるようには絶対に考えない』が基本である。他の人にとっては違和感のあるような見方を大事にするのだ」(p. 117、原文の強調は略)。

 つながったときの快感というのはたしかにある。


「文章を読んで、その中核を正確に読み取るにはコツがある。
 一つのヒントとしては、筆者がいったい何を敵としているのかを考えるとうまくいく。〔……〕
 ふつう、文章というのは、筆者の『自分の主張をわかってくれ』という目的で書かれる。だから読み手は、『この人は、どのように自分の主張が正しいことを証明しようとしているのか』という目で見るといい。そのときは、その人が否定しようとしている敵を見ればわかりやすい。
 筆者の論理を読み取るのではなく、筆者が敵としている相手との関係を見つける。〔……〕
 この人は何が嫌いで、何に怒っているのか、何が不満なのか、何を証明しようとしているのか。
 論理の奥には感情があり、それをつかむことが重要なのだ
」(p. 198、原文の強調は略、新たに引用者による強調を施した)。

 最後の一文には非常に納得。ちなみに、思想史の方法論にもこういう「敵=思想課題」を見つけるというのがある。


「しかし、『考える』とは、『思った』『感じた』ことを入り口に、より深く自分の身体感覚に入っていき、そこから現実に戻る行為だ。自分の経験知のすべてを使って、現実を組み替えるアイディアを出すことだと言ってもいい」(p. 210)。 


@研究室
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by no828 | 2009-03-22 17:44 | 人+本=体 | Comments(0)