思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
ブログトップ

<   2009年 04月 ( 26 )   > この月の画像一覧


2009年 04月 30日

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

22(155) オースター、ポール編『ナショナル・ストーリー・プロジェクト①』(柴田元幸他訳)、新潮社(新潮文庫)、2009年。


 ラジオ番組の企画で、アメリカ全土のリスナーからストーリーを集めたものを本にしたもの。

 心温まる話があったり。

 気になったのは、題名にもある「ナショナル」。わざわざ「ナショナル」を入れた理由とは……国民国家の再構築?
 原著が出版されたのは2001年。9.11の前か後かはわからないし、出版者にその意図があったかどうかもわからないけれど、すくなくとも結論的には「アメリカ」の強化につながるように思われる。

 
 それから、「柴田元幸他訳」の「他」が気になった。すくなくとも文庫本には柴田元幸以外の訳者の名前は載せられていないようである。アンフェア。


 そういえば、ポール・オースターは前に読んだことがある。『ムーン・パレス』。「学生」の内面がうまく表現されていたと記憶している。あれ、違った?いずれにせよ、よい話であったことはたしかである。


@自室
[PR]

by no828 | 2009-04-30 23:37 | 人+本=体 | Comments(0)
2009年 04月 29日

シンクロニシティ ―― そういう年頃なのかなあ

 昨夜は大学院の友人たちとヒラスナのビール専門店にはじめて行き、世界各国のビールを堪能する。おいしい。携帯電話で写真も撮ったので、それはまた別にアップロードしたいと思う。

 ビール専門店を22時頃に出て、友人の部屋に移動。朝4時頃まで。話をしながら、「人間の深みはどこから来るのであろうか」と考える。「『考えたって答えは出ないこと』を考えることは無駄だから考えない、という知的態度は果たして知的であろうか」と考える。違うように思う。思考停止が必要なこともあるかもしれない。けれど、思考し続けなければならないこともあると思う。

 自転車で帰っているときに、だんだんと空が明るくなっていった。夏に向かっているなあ。季節はめぐり、歳も重なり、時間は経過してゆくのだなあ。

 4時30分頃に寝る。お昼前に起きる。某後輩から電話。「昨日はいろいろ話聞いてもらうかたちになっちゃってすいませんでした」。

 午後から研究室へ。お昼を食べて、新聞を読み、それから<帝国>の勉強。あと、某楽天のポイントの有効期限が迫っていたから、それを使って欲しかった本を何冊か買う。

 miki のブログを訪れたら、自分のルーツについてノートに書く、ということをしていることを知る。と同時に、わたくしハシモトが同じようなことをブログで行なっていてびっくり、と書いてあった。

 わたしはここのところ自分の問題意識を振り返り、それを言葉にし、文字にしている。それが必要なことであるように思うからだ。今朝、自分はどうしてノートではなくウェブログに書いているのか、と考えた。端的な答えは、俺は子どもだからかなあ、である。子どもは、誰かが見ていてくれていることに安心感を抱き、誰かが見ていてくれるからがんばろう、と思う。誰も見てくれなかったら寂しいから、誰かが見てくれるような媒体を使おうとする。もちろん、ノートに書くということにも、いずれは誰かに見られるかもしれないという無自覚の期待があるのかもしれないと思う。けれど、そこには大人であろうという志向が認められるように思う。誰かに見られることを期待し、それを自覚しながらブログに書いて公開するということには、ノートに書く以上に子どもの要素が含まれているように思う。

 わたしは子どもなのだ。

 そんなことを考えながら研究室に来て、miki のブログを見たら、「自分のルーツを振り返りながらノートに書いて」と書いてあって、シンクロニシティというか、this is a coincidence. (映画「ユー・ガット・メール」にそういう台詞があった。トム・ハンクス。)というか、「おお」と思った。


 近いうちに「問題意識」をまとめたいと思う。


 それにしても、最近頭が重いなあ。


@自室
[PR]

by no828 | 2009-04-29 22:48 | 日日 | Comments(0)
2009年 04月 28日

石井光太公式サイトへのリンク

 今朝の朝刊で石井光太氏の新刊『絶対貧困 ―世界最貧民の目線―』(光文社)が出版されていることを知る。

 読まねば!

 石井氏にはこれまで2冊の本があり、その双方を読み、いろいろ考えた。

 2007年12月23日エントリ 石井光太『神の棄てた裸体 ―イスラームの夜を歩く―』新潮社、2007年。
 2008年7月29日エントリ 石井光太『物乞う仏陀』文藝春秋(文春文庫)、2008年@「生のリアル」


 というわけで、これを機に石井氏の公式サイトにリンクを貼らせていただくことにする。「新しい世界へ」を参照。


 石井光太公式サイト


@研究室 
[PR]

by no828 | 2009-04-28 13:45 | ブログ設定変更 | Comments(0)
2009年 04月 28日

問題意識 4 ――先生から教育へ

 ここで書かないとまた時間が空いてしまう気がするから、というよりも早く次を書きたいから、というよりもむしろすべてを書いてしまったあとに見えてくるであろう景色を早く見たいから、だと思うけれど、勢いで続きを書いておきたい。

 問題意識 4

 ここでは、わたしが教育開発に関心を抱き、その道に進むことになったきっかけを改めて探っているのであった。

 これまでのところ、それを探るべくわたしの中学時代にまで遡り、そこに具体的な契機が2つあったと書き、そのうちのひとつについて昨日記した。

 今日はわたしに教育開発の道に進むことを決意させた第2のことについて書く(が、たぶん今回では完結しない)。

 ちなみに、第1の契機は中学1年のときに2週間弱アメリカに行って「世界は広い、世界は日本だけではない、ならば世界全体を考える仕事をしよう」と感じてしまったことに求められる。具体的に進路を考える段になって、世界で仕事をするといっても具体的にどのような仕事をすればよいのか――第2の契機はそこに立ち上がる。

 昨日も書いたように、わたしは中学時代多くの先生方のお世話になった。なかでも強く感謝しているのは、駅伝部の活動と生徒会執行部の活動にそれぞれご支援いただいた先生方である。

 駅伝部の活動には――昨日触れたように――顧問の先生ばかりでなく、他の先生方も応援してくださった。練習を見に来てくださり、タイムを計ってくださったり、いろいろしてくださった。

 顧問のヒサ先生は、陸上競技の経験者ではなく――ラグビーの経験者ではあった――、これまでその指導の経験もなかった。けれど、赴任してきていきなり陸上競技部の顧問を命ぜられ、特設駅伝部の顧問も任された。わたしがもし先生の立場で、たとえば柔道部の顧問を任ぜられたら「おいおい柔道かよ、よくわからないんだけどなあ、顧問できるかなあ」となっていたかもしれない。

 しかし、ヒサ先生は陸上競技、長距離走の勉強をかなりされたようだ。もちろん、勉強している素振りはわれわれの前では見せず、先生然としてわれわれと向き合ってくださった。わたしの通った中学校の隣町には駅伝で全国区の高校――体育科があった――があったのだが、ヒサ先生はその顧問の先生に手紙を書いて、練習メニューの立て方などの教えを請うたこともあったらしい。(ということをなぜ知ったかというと、その高校駅伝部の顧問の先生の娘がわたしの中学校の――しかも陸上競技部の――2つ下の後輩で、「ヒサ先生、お父さんに手紙書いたみたいですよ。自分は陸上のことわからないから教えてくださいって」とこっそりとわたしに教えてくれたからなのだ。)

 だからといって先生はご自身が立てられたメニューにこだわりすぎることもなく、われわれがこういうメニューはどうでしょう、とか、予想以上に選手に疲労が溜まっているので今日はもうすこし軽めにしておきましょう、とか、大会当日の走順ですがこれでどうでしょう、とか、そういう話も聞き入れてくださった。

 他の先生方も、折に触れて気に掛けてくださり、応援してくださった。「わたしはおまえたちのことをちゃんと見ているよ」というメッセージは、たとえそれが教育的意図から発せられた恣意的なものであったとしても――といまならわかるが――、それを受信するわれわれ生徒としては、とてもうれしく、調子に乗って練習に励むには十分であった。

 そうして地区大会で優勝できた。わたしはアンカーであった。ゴール・テープを切った。やり遂げた、という感覚で満ち溢れた。

 県大会は行くことが目標であった。だから何位を目指そうということはほとんどなかった。県大会で気持ちよく走ろうということを考えていた。もしかしたら入賞するかもよ、ということを生徒のあいだで囁きあったりもしたが、「地区大会で優勝して県大会に行って気持ちよく走る」が基本にあった。

 余計な気負いがなかったからかもしれない。県大会ではあといくつか順位を上げれば入賞という位置でゴールすることができた。一桁の順位であった。それはもちろんうれしく、ヒサ先生も「6年ぶりの出場でこの順位はすごいよ、って他の中学校の先生方から言われたよ」とうれしそうであった。けれどそれ以上に、「みんなでがんばってきた」ということが、そして「みんなでがんばってきた」というわれわれの思いを周りの人たちが認めてくれたことが、とても心地よかった。

 大会が終わり、中学校に戻った。並んで体育座りして、ヒサ先生のお話を聞いた。何を話してくださったのか、そのすべては憶えていない。けれど、「3年生が引っ張ってくれたから。お疲れさん」と言って、3年生一人ひとりと握手してくださった。わたしも握手した。泣きそうになった。

 わたしの中学3年、夏から秋にかけての駅伝の季節はこうして終わった――

 と言えればよいのだが、そのあとわたしは福島県の市町村対抗駅伝大会の町の代表選手になり、放課後毎日町営グラウンドに練習に通うことになった。結局、本番は走らなかったのだが、「引退」は延びた。

 ほかにも、英語弁論大会があり、受験のための夏期講習があり、生徒会活動があった。

 わたしは生徒会の会長を2年生の秋から3年生の秋まで務めた。

 生徒会の役員のどれかは務めたいとは思っていた。実は1年のときに副会長に立候補して落選したことがあった。わたしが1年のときは、男子の頭髪は「丸坊主5分刈り以下、剃り込み禁止」という校則があり、中学はまだまだ荒れており、「裏校則」と呼ばれるもの――先輩に対して後輩がしなければならないことがたくさんあった。裏校則に違反すると、呼び出しをくらって殴られるとか、目を付けられるとか、ということが頻繁にあった。

 何か嫌だなあと思っていた。正直に言えば、小学校卒業間近のときには「あの中学校には行きたくない」と思っていた。けれど、周りに私立の中学もない。実質的に選択肢はない。だから行くしかなかったのだが、とりあえず嫌だと思っていた。入ってしまってからは、何とか変わらないかなあと思っていた。わたしが1年生のときの生徒会執行部の先輩たちが、校則から5分刈り条項を年度の途中で試行的に外し、また、裏校則の撤廃を議決した。だから生徒会に入れば何とかできるかもしれないと思った。立候補した。でも落ちた。

 そのときの生徒会担当のアイタ先生――野球部顧問、いま思えば「あれは体罰だったのでは」というようなこともあったりなかったりの先生、「あ、痛!」とおもしろくないギャグをアイタ先生の前でふざけて言った生徒がその後どうなったかをわたしは知らない――は、その年度で別の学校に異動することになった。離任式の日、校門のところで教職員生徒総出で先生方を送り出すことになっていた。わたしも外に出た。写真を撮ったり、花束を渡したり、握手したり、そうして幾人かの先生方が送られていった。件の先生も出てきた。花束をもらったりしている。徐々にこちらに近付いてくる。わたしの前を通るとき、さっとわたしのところまで来た。わたしの耳元で「船中はおまえが引っ張っていくんだぞ」と言ってわたしの肩を叩いて立ち去った〔「船中」は「ふねちゅう」で中学校名の略称〕。

 それがずっと心に残っていて、だから生徒会には入ろうと思っていた。ただ、会長はさすがにたいへんそうだからと敬遠していた。けれど、2年になって立候補の時期になったとき、学年主任の先生から「どうするの?」と言われ、「会長以外で何かはしようと思っています」と返したら、壁際に詰め寄られて「あなたが会長やらないでどうするの!」と言われてしまった。観念しなければならないと思って会長に立候補した。

 会長はいろいろとたいへんだ。学校で講師を呼んで講演会をするとか、学内行事をするとか、何だかんだととりあえず数分の挨拶を求められることが非常に多い。その文章を考えなければならない。生徒から要望があったらそれを先生方に伝え、先生方から生徒側に要望があったらそれを生徒側に伝え、という板ばさみにもあった。

 文化祭(学園祭)の準備が、たぶんもっともたいへんであったと思う。部活は終わっていたものの、受験もあり、市町村対抗駅伝大会の練習もあったから、生徒会執行部の部室で作業をして、教室に戻って受験勉強をして、時間になったら町営グラウンドに行って、ということをしていた。「大丈夫?」なんて気遣ってくれる先生もいらした。

 文化祭の閉会式で生徒会の引き継ぎが行なわれるのが慣習であった。だから会長の仕事は文化祭にはじまって文化祭に終わる、ということになっていた。文化祭では新旧生徒会執行部が顔を合わせて仕事をすることになっていたのである。

 会長になった当初は仕事を教えてもらいながら、生徒会執行部の部室で遅くまで作業をした。旧執行部の先輩と一緒になって仕事をすることも多かった。女子の先輩とふたりになることもあった。「一緒に帰る?」なんてこともあった。ドキドキであった。

 そうして会長を1年務めた。この間、学校のあり方、生徒会のあり方などについて先生方と話し合った。面倒くさい奴だ、と思われたかもしれないけれど、先生方は話を聞いてくださった。先生方に異見を唱えたときに、われわれの味方をしてくれた先生もいらした。そういう先生方のなかで生徒会活動ができたというのは心地よかった。


 こうして感じたことは、「『先生』っていうのは大切なんだなあ」である。「『教育』っていうのはそういうことなのかなあ」である。

 ここに第2の契機の一部がある。全部ではない。第2の契機を語り終えるには、もうすこし文章を重ねる必要がある。ただ、お気付きのように、第2の契機はハシモト少年が先生の大切さ、教育の大切さを実感したことに求められる。


 (まだ続く)


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-28 13:16 | 問題意識 | Comments(0)
2009年 04月 27日

問題意識 3 ――「世界は広い」

 「国際社会を舞台にして教育というテーマで仕事がしたい、という思いをわたしに抱かせたのは、大きく2つの経験である。

 ひとつは、中学1年の夏に2週間弱という短い時間ではあったけれど、アメリカに行ったこと。
 もうひとつは、中学時代に両親や先生から「教育」の大切さを学んだこと、「だから教育は大切なんだ」という実感が得られたこと。

 この2つである。

 第1の点から書きたいと思う。が、あと3分で16時である」

と書いてからしばらく経ってしまった(参照:2009年2月26日エントリ「問題意識 2」)。

 あと3分で18時20分になるところだが、続きを書きたいと思う。

 第1に書いたように、わたしは中学1年の夏――1994年のことだ――にアメリカに行った。当時通っていた英語学校――この英語学校はわたしが通った私立幼稚園の園長先生が開いていたのだが――が主催した「第4回学習旅行」という名目でアメリカのオハイオ州とフロリダ州に行くというものであった。

 英語学校には小学校4年の途中から通いはじめた。友だちが数人通っていたこともあったが、英語に何となく惹かれたことのほうが通いはじめの理由としては大きく、自分から母親に「行きたい」と言った。たしか授業は週2回で――それにしては月謝は安かったと思う――、中学3年まで通った。

 英語学校の先生はほとんどが女性のネイティヴであった。園長先生自らがアメリカに行って面接をして連れてきた人ばかりであった。

 園長先生がどのような人か詳しくはわからないのだが、授業中に断片的に話してくれた内容によると、オハイオ州の大学に行ったらしい。それまでは荒れた少年時代を過ごし、母親にはたいへんな苦労をかけた、と言っていた。園長先生は、英語学校の先生だけでなく、キリスト教の牧師もされていた。

 だからわたしの通った幼稚園でも、その教育理念はキリスト教から導かれていて、お弁当を食べる前にはお祈りをして「アーメン」と言っていたことをいまでも憶えている。

 園長先生とオハイオの大学でできた友だちとの親交はずっと続いてきたようで、英語学校の先生の募集も――あるいは英語学校をはじめること自体も――その人との縁によって行なわれたようだし、また、「学習旅行」もその友だちの家――というか、教会――を頼って若者――主に中学生、ときどき高校生――を連れて行くことにしたのがはじまりらしい。

 日本から若者が行く年と、アメリカから日本に若者が来る年とを交互に繰り返しながら、相互の学習旅行が続けられてきた。わたしが中学1年の年が偶然日本から行く年にあたった。中学2年のとき、中学3年のときにそれがあたっていたら、果たして行ったかどうか。母は「絶対に行け」と言ったと思うが、わたしは英語と同じくらいに駅伝が好きであった。

 夏休みは秋の駅伝大会に向けた強化期間であった。午前と午後の2回練習が行なわれた(いま思うと、すべてにおいてわれわれを尊重してくれた顧問の先生と、顧問ではないのに総出で練習に付き合ってくれた保健体育科の先生方、ときどき練習を見に来てくださったその他の先生方にはたいへんなご苦労があったであろうことがよくわかり、だからいまでもたいへんな感謝をしている)。わたしは中学2年のときから正選手として大会を走った。けれど、中学2年のときはわたしが抜かれたせいで準優勝に終わり、県大会に行くことはできなかった。悔しかった。中学3年のとき、悲願であった地区大会で優勝することができた。6年ほど遠ざかっていた県大会では、一桁の順位でゴールすることもできた。中学3年のときは、受験もあり、英語弁論大会もあり、いま思うと本当にばたばたとした夏休みを送った。

 そういうわけで、アメリカに行く年が中学1年のときであったことは幸運であったと思う。そして、アメリカに行くことができて、よかったと思う。 
 
 わたしはアメリカでこう体感した。

 「世界は広い。世界は船引だけじゃないし、福島だけでもない。ましてや日本だけでもない。世界は広いんだ」

 船引はわたしの地元の町の名前である。以前にも幾度か書いたかもしれないが、「ふなひき」ではなく「ふねひき」と読む。

 小学校を終えたばかりのわたしの空間感覚は、せいぜい小学校区ぐらいなものであった。小学校の学区と言えば、半径2kmぐらいの空間である。それで精一杯であった――そう、まさに精一杯であったのだ。だから、中学に入って別の小学校からやってきた人たちをめずらしかった。「小学校、どこ?」である。だから、郡山(こおりやま、と読む)という隣の隣の市に行くのは、ものすごい冒険であった。

 わたしの空間感覚はそのぐらいの規模に留まっていた。

 だから、学区から福島とか日本とかをすっ飛ばして、いきなりアメリカに行ったことはものすごいインパクトをわたしに与えた。「世界は広い」の意味はそのぐらいに強い。

 それなら、と思った。それなら、将来は世界を舞台に仕事をしよう、と思った。船引だけでも福島だけでもダメだ、日本だけでもダメだ、それでは狭すぎる、日本だけよければそれでよいということにはならないんだ、世界のことを全部考える必要があるんだ、と思った。不思議と「アメリカはすげえ」とはあまり思わなかった。もちろん「すげえ」とは思ったけれど、それよりも「世界は広い。日本だけじゃない」であった。

 中学1年の夏、ハシモト少年はそういう体験をした。

 そこから毎日新聞の国際面を読むことになる。世界で何が起きているのかに敏感になっていった。「国際公務員」という仕事があるらしいということを知り、それを目標にした。調べたら、国際公務員になるためには修士号が必要なことを知り、ならば大学院に行く必要があり、そのためには大学に行く必要があり、高校に行く必要がある、そのように考えた。「高校には行かないとダメだ」と考えた。しかし、その段階では世界を舞台に自分は何をするのか――それは曖昧であった。進路などを本当に具体的に考えるようになったとき、「自分は何がしたいのか」と問うた。

 その答えに両親や先生方からの「教育」が係わってくる。それがわたしを教育開発に向かわせた第2の経験ということになる。


(さらに続く)


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-27 19:15 | 問題意識 | Comments(2)
2009年 04月 24日

「プロフェッショナルとは、やらない言い訳をしない人」――武装解除・瀬谷ルミ子

 21日(火)の夜は「プロフェッショナル ―仕事の流儀―」を観た、と先日書いた。

 プロフェッショナルは、武装解除の瀬谷ルミ子さん。スーダンのDDR(Disarmament, Demobilization and Reintegration:武装解除、動員解除、社会への再統合)に関わっていらっしゃる方。

 瀬谷さんのお仕事ぶりにはものすごい度胸を感じた。その度胸を支えるのはやはり情熱であり、それはやはり生い立ちから来るものであった。幼い頃の体験というのは、その人の生き方にものすごく大きく強く、そして深い影響を及ぼすのだということを再認識した。

 だからこそ、わたしはとりわけ少年少女の武装解除における教育の役割を考えざるをえない。幼い頃に人を殺さなければならなかったという体験を、それを知った大人はどう受け止め、未来に向けて背中を押せばよいのか。幼い頃に人を殺すという惨い体験をした子どもに、大人は――わたしは――何を教えればよいのか。

 教育はDDRのうちのR、すなわちReintegration、社会への再統合に位置付くものであるように思う。

 「プロフェッショナル」の映像画像には、少年兵であった若者も出てきた。完全には除隊できない少年兵も出てきた。

 少年のひとりは、「学校に行きたい」と言った。「学校に行って、医者になりたい」「学校に行って、パイロットになりたい」と言った。瀬谷さんはその少年に、「それならたくさん勉強しないとね(work hard!)」と言った。

 わたしも医者になってパイロットにもなるのはものすごくたいへんだからたくさん勉強しないといけないと思いながらも、そうした夢を少年が持つことができたということが単純にうれしかった。

 同時に思ったのは、スーダンでは「学校」「学校教育」が社会的な機能を果たしているのだ、すくなくとも少年の構想するライフコースに入り込むぐらいに「学校」が認知されているのだ、ということである。

 それはつまり、スーダンでは、学校に行き、卒業し、上級学校へと進学するということが、社会的な階梯を昇ってゆくことにつながるということである。日本語ではそれを「立身出世」という。学校は立身出世のために必要な装置として機能しているのだ。

 学校がそれほどよいものか、とわたしは理論的なことを勉強していると思う。そもそも国際開発学、国際教育開発論なんてものを学びはじめたときに思ったのは、学校なんてなくてもいいじゃん、であった。それまで近代的な学校がなかった地域に学校を無理に作るからいろいろな問題が起こるのだ、と考えたわけである。
 
 それはいまでも引きずっている。教育は学校教育にかぎられないと思い、教育=学校教育という等式を崩したいとも思う。

 だから、いわゆる途上国に行って学校作ろう、学校がないことが問題だ、子どもが学校に行かれていないことが問題なのだ、子どもが全員初等学校に就学することが大切なのだと言っている人びとに対して、ちょっと待った、と言いたいし、実際に言っている。

 けれど、スーダンにおいて学校が子どもに夢を与え、また、子どもが実際に夢を叶えるために昇るべき階梯として機能しているのであれば、スーダンで生きているわけではないわたしが「学校なんて要らないよ」とは決して言えない。

 また、そもそも学校が――かつてマルクスが描いたように――労働を強制する親や工場主から子どもを守るために作られたことを想起するならば、スーダンにおいても学校の果たす役割、果たしうる役割を無碍には否定できないし、むしろ積極的に評価すべきなのかもしれない。「学校は戦闘を強制する大人から子どもを守るために作られた」――。「心の武装解除」はそこで生まれるのかもしれない。


 わたしにできることは何であろう?という問いには、いくつかの現実的な答えがある。

 しかし、わたしはこう問うてしまう――わたしがやってよいことは何であろう?

 「彼/彼女らに訊ねよ」は、ひとつの重要な答えである。「実践の中で自ずと答えは出る」もそうである。しかし、それだけではない気がする。とことん頭を使って考えたい。すくなくとも理論的に言いうることをきちんと言いたいとわたしは思う。

 ただ、「わたしがやってよいことは何であろう?」という問いは、「やらない言い訳」でしかないのかもしれないとも思う。もちろんそこでの「やらない」は「実践しない」という意味なのだが。


 ちなみに、今回も茂木氏の第一声に注目した。今回は「それにしても」ではなかった。


 「プロフェッショナル」第116回放送 「銃よ、憎しみよ、さようなら」武装解除・瀬谷ルミ子


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-24 17:46 | 思索 | Comments(2)
2009年 04月 22日

昨日見た夢

 昨日は英語の勉強をしたあと、22時からかなり遅い夕飯を食べながら「プロフェッショナル」、23時から「爆問学問」を観た。「プロフェッショナル」は武装解除の瀬谷ルミ子氏。すこし考えたことがあるので、それは別途書きたいと思う。

 とりあえず書いておきたいことは、昨夜の夢のこと。夢を見た時間帯が6時前に一度目が覚めて二度寝をする前か後かはわからないけれど、こういう夢:女優のマイコが女将をしている小料理屋に芸人の宮迫博之と一緒に行って夜遅くまで呑んだり食べたりしたらお会計が2万数千円になって「2人で2万は高い!」と思いながらもお互い1万円ずつ出すまではよかったのだが残りの数千円をどうするかで決着できず閉店までお店に留まり続けてマイコといろいろ話をした……。

 突っ込みどころが満載、で、なおかつまったく意味がわからない。

 参考(一体何の参考か):マイコオフィシャルブログ


 武装解除を観ていろいろ考えたわたしと意味不明の夢を見たわたしとのこの落差は一体何なんだ。


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-22 19:47 | 日日 | Comments(0)
2009年 04月 21日

130/70

 午前中に大学の健康診断に行ってきた。あの程度の診断で何がわかるのか、という思いもありながら、しかし無料であり、証明書の発行もしてくれるということで行ってきた。

 高いという理由で絶対引っかかると思っていた血圧は一発でオーケーであった。数値は 130/70。

 血圧はここ数年毎年再検査になって、内科医の方に手動で計ってもらうと上が130ぐらいで「特別高いというわけではありませんね」ということで無罪放免になっていた(わたしは集団で一列に並んで男女一斉に機械で計測するのが嫌い。われわれの人間性を尊重せよ、と言いたくなる。それに、隣に美しい女性が座ったらドキドキして血圧だって上がってしまうと思うのだ)。

 すこしショックであったのは、身長が 177.8cm ですこし縮んだということだ。前は 178 はあったのに……。また、体重は 69.? kg でこれもショックであった。67kg ぐらいだと思っていたのに……たぶんジーンズのせい、ベルトのせい、キー・ケースのせい、内に抱える悩みのせい。

 もっともショックであったのは、視力が落ちていたこと。矯正で 1.20 と 0.90 (悪いほうがたしか右目)。

 高校時代までは両眼ともに 2.0 で、しかも勢いとしては「もっと見えるぜ、2.5 ぐらいは行けるぜ」であったのに、だいぶ悪くなった。中学時代は保健体育の先生から「エッチな目」と形容されるぐらいに視力はよかったのに、かなり悪くなった。悲しい。職業病かもしれない。


 念のために昨夜某シネプレックスのほうまで往復40分ジョグをしておいたのだが、その成果が出たのかどうかはわからない。


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-21 14:42 | 日日 | Comments(0)
2009年 04月 20日

内田先生の佇まい

 今日行くはずであった健康診断には行かなかった。

 というのも、昨夜予定外に呑んでしまったからだ。

 昨日は――すでに書いたように――某稲田大学に内田樹先生のお話を聴きに行った。

 東西線早稲田駅から歩くも、すこし迷う。大学までがわかりにくい、とわたしは思う。(けれど、よくよく考えてみると、絶対わたしの通う大学のほうがわかりにくいと思う。)

 会場着。こういうときはいつも後ろのほうに座るのだが、昨日はしかと内田先生のお顔を拝見し、そのお声を拝聴するために前のほうに座る。

 内田先生を招いてのオープン・フォーラム(講演会+パネル・ディスカッション)は「ことば」を大きなテーマに掲げていた。が、趣旨がよくわからなかった。

 しかし、わたしは内田先生のお話を直に聴くことが最大の目的であったので、内容は二義的な問題であった。

 13時30分に内田先生スーツでご登場。

 生声を聴く。

 これまでそのご本はほとんどすべて読んできたわたしにとって、その作者の方のお話を直接聴くことができる、その方の佇まいに触れることができるというのはたいへんうれしいことである。

 フォーラムの趣旨を度外視すれば、内田先生のお話はおもしろかったが、しかし趣旨が入ってくると結局あれは何であったのか、という気がしてならない。内田先生のお話だけでよかったのではないかとも思ってしまう。

 そういうことをアンケートにも書いてきた。

 
 そのあと東京駅に移動。都内某所で某先生の定年退職記念パーティに出席していた大学院の先輩同輩と合流する。越後の国の大学に就職された先輩とも久しぶりにお会いする。

 研究者の姿勢とか、就職のこととか。「公募出せ出せ」と言われる。

 新幹線でお帰りになる先輩とは先にお別れする。

 その段階で19時。

 さて、どうするか。という話になる。

 (1)東京駅で呑む、(2)秋葉原で呑む、(3)北千住で呑む、(4)呑まずに帰って人工都市で呑む、(5)呑まない

 (1)なら八重洲口の近くにある「何とか」というビールのおいしいパブに行こうと思ったのだが、そのお店の名前も電話番号も忘れてしまったので後輩に電話して調べてもらう。

 折り返しかかってきた電話では、「日曜は休みですね」ということであった。冗談で「じゃあ、いまから東京駅来る?」と言ったら、「むしろこっちに戻ってきてくれるなら、合流しますよ」ということであったので、「それなら戻りますか」ということになる。

 走って急いでぎりぎりで快速電車に乗り込む。電車のなかでは研究の話など。ちょっとおもしろいことをひらめく。

 20時30分ころから人工都市で呑みなおす。23時30分まで。

 そういうわけで、翌日の今日健康診断を受けたら数値が悪くなること必定であったため、診断は明日に回すことにする。

 
 今日は図書館で論文のコピーなど。研究の生産性はあまり高くなかった日であったが、必要な論文のコピーができたのでよかった。

 夜、まっきーの結婚式用の写真を7枚ほど研究室でスキャンして山本幹事長に送る。

 写真はどれも懐かしい。

 顔が出ていない写真をここにアップロードしようと思ったら、これしかなかった。



c0131823_23522241.jpg


「こんばんは、まっきーです。お酒には弱いのかどうかはわかりませんが、(いまは手で隠しているのでわからないかもしれませんが)呑むと顔が青紫色になります。」


 先日まっきーに結婚式のときの宿と飛行機を予約し、過ぎし4月6日の誕生日おめでとうとメイルしたら、「式当日ははしゃぐ予定だから、万全の体調で来てね!」と返ってきた。そういえば、前にも「おすすめのジンギスカンのお店は朝の4時までやっているから安心してね!」というメイルがあった。

 「安心してね!」って……。

 ウコンと胃腸薬を準備してゆかねば。


@自室
[PR]

by no828 | 2009-04-20 23:20 | 日日 | Comments(0)
2009年 04月 19日

作文能力

 昨日は10時から研究室で研究助成の申請書類を書く。3時間で終わると踏んでいたのに、結局19時までかかる。9時間ほぼぶっ通しで書く。

 お昼は納豆ごはんとカップ麺。最近カップ麺の出番が多い。月曜日の健康診断が心配だ。

 研究助成は、今回はじめて書く。いわゆるガクシンも一種のそれとも言えないこともないけれど、民間の文字通りの研究助成ははじめてだ。

 相手が書いてほしいことを書く、というのが原則なのかなと思う。

 こちらが書きたいことを書きたいように書く、ではなく、こちらの書きたいことをあちらが書いてほしいように書く、ということなのだと思う。

 これは結構難しい。

 たとえば、「研究の目的(意義・構想・問題点)」という項目と「研究計画(方法・時期・期待される成果等)」という項目が別である。わたしとしては、「方法」は「目的」のなかに入れて書くことに慣れているから、分けて書くのはたいへんなのである。しかし、そういうことは言っていられない。そこを分けるな!と思っても従うしかない。

 作文能力というか、言われたように加工して書くというか、これは慣れだ。

 その意味で数をこなすというのは大切だと思う。

 どんどん書いてゆこう。

 共同研究をしよう、研究助成を取って一緒に研究しよう、という方がおられましたら、ぜひご連絡ください。わたしもおもしろそうなものがあったらここで紹介したいと思います。(というようなことを自分のホーム・ページで言えばよいんだよなあ……本格的に作ることにしよう。)


 ちなみに今日は、これから内田樹先生のお話を聴きに行ってきます。はじめてその声を聴きます。たのしみです。某学会の主催の講演会が某稲田大学であるのです。


@研究室
[PR]

by no828 | 2009-04-19 10:23 | 日日 | Comments(0)