思索の森と空の群青

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2009年 06月 29日

学会からは帰還

 さっきまで読書会。ジュディス・バトラー。

 昨日の学会発表は無事に終わり。詳しくはまた別に。

 でも、まだゆっくりできない。
 
6月26日(金):某科目等履修生として履修中の授業のテスト……済
6月27日(土)・28日(日):某学会大会で発表@某学芸大学……済
6月29日(月):某申請書類の発送(※ 30日に都内某所必着)……済
6月30日(火):
 (1)8月28日(金)・29日(土)の某学会大会発表要旨の提出
 (2)7月4日(土)・5日(日)の某公開セミナー発表要旨の提出
7月4日(土)・5日(日):某学内公開セミナーで発表と司会

 本日急遽、明日の某授業の試験監督を頼まれた。こういうときにかぎって!


@研究室
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by no828 | 2009-06-29 21:14 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 26日

何だかんだ

 現在、明日明後日の学会で発表するレジュメをプリンタから排紙中。

 あ、終わった。

 20時には余裕で帰れるんじゃね?と思っていたのに、何だかんだと修正していたら23時になってしまった。

 レジュメでも論文でも、この「何だかんだ」が曲者なのだ。


 明日は7時にはアパートを出なければならない。

 6時間は寝たいな。

 さて、一応30部コピーするか……絶対余ると思うけれど。


@研究室
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by no828 | 2009-06-26 22:52 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 26日

ひとつに見えてもひとつではないことって結構ある

 今朝は7時起き。本当は6時起きの予定で勉強するつもりが、それほど暑くもなくタオルケットに包まれているのが気持ちよかったので7時までベッドで研究の構想を練る。

 よくわからないが、タオルケットが好き。

 何の告白だ。

 6時起きを目指したのは、今日の1限目がテストであったから。某科目等履修生の授業。余計にお金を払っているし、勉強になるからしっかり授業を受けてきたのだが、十分にテスト勉強できず。「テスト勉強」って!すごく久しぶり。

 一応、昨日のうちに授業のレジュメを読みなおしたりしたのだが、「ここ出そう」という直感が働いたのが2箇所。記述式を4題か5題と、先生は先週おっしゃっていたから、あと2回か3回直感が来てくれないと困る。が、来ない。

 あとは勝負するしかない。わたしのこれまでの知識と技術を総動員して。

 テストは結局4問。直感があった2箇所はどちらも出題された。あとの2箇所は初見(当たり前だが)。

 しかし、この授業の大きなテーマはこういうことだから、たぶんこういうことを学んでほしいのだし、テストでも書いてほしいのであろう、という推測で答えを書いた。

 答案の最後に、お礼と「今後学会等でお会いすることがあるかもしれません。よろしくお願いします」と一筆添えた。

 テストは10時に終わり。それから開店したばかりのデパートに行って修理に出していた鞄を受け取る。昨日、仕上がりの電話があった。代金は1,417円。ファスナーが壊れて修理に出すときに「少なくとも3週間はかかります」と言われていたのに、およそ2週間で上がってきた。ただ、ファスナーの色が前と若干違う気がする。

 ここで「ちょっと色が違う気がするんですけどー」って議論するかどうか、面倒くさがらずに議論するかどうか――それが「市民」になれるかどうかの分かれ道だ。

 いや、わからないけれど。

 結局議論せずに、そのまま研究室へ。

 さて、学会発表用のレジュメを仕上げるか。


 そうそう、昨日テスト用にシャープペンの芯を書籍部で買った。普段はボールペンしか使わないので、シャープペンの芯を持っていなかった。正確には持っていたのだが、いつの間にか筆入れの中でケースを無視してファンタスティックに散在していたので買いなおしたのだ。

 ついでに、苅谷剛彦の『教育と平等』(中公新書、2009年)を買った。

 苅谷は教育社会学者で、この前の社会学の授業でも名前を出した。そうしたら、社会学の中でも苅谷は社会学っぽくないらしいことがわかった。

 「『社会学』っていうのはさ」みたいに(あるいは「アメリカ」でも「日本」でも何でも)、あるものを一括して特徴づけることは簡単だが、その中も実は一枚岩ではなく多様性があることを認識することは重要だ。マルクス主義とネオ・マルクス主義の違いも、そういうところにあるのであろう。「階級」って一括りにするな!というような。

 物事を大胆にずばっと捉えることも大切だし必要だけれど、それと同じくらい、細やかに丁寧に物事の微細を追ってゆくことも大切だし必要なのだと思う。でも、ときどきどちらかが忘れられるのだ、この前のわたしのように。

 「社会学だって価値判断するじゃないですか。苅谷剛彦とか、格差社会論を言う教育社会学者の議論の組み立て方がそうですよ。格差がある、だから平等にって。それって社会学が記述に徹していないってことじゃないですか。価値判断してるじゃないですか、平等が大切だって。しかもその価値についてはほとんど議論しないで。『格差がある、だから平等にしなければ』って言うけど、そこって全然つながらないですよ。つなげるためには平等という価値についての議論をきちんとしないと」

 「社会学の、教育社会学のすべてがそういうわけじゃないんだよ」

 もっと細やかに、丁寧に。


@研究室
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by no828 | 2009-06-26 11:30 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 25日

冷房とタッパー

 23日(火)の午後から研究棟にも冷房が入った。研究棟は集中冷暖房だから、自分たちで入れたり消したりできない。もちろん、研究室ごとに電源はあり、電源を入れないと冷暖房は動かないのだが、その電源の電源は管理者の手に握られている。だから、冷暖房の時期以外はその電源を押したりしても無反応であり、逆に冷暖房の時期でも、17時か18時になると勝手に切れる。

 昨夜 chisa から携帯電話のほうにメイルをもらい、携帯電話からだとこのブログにコメントできないことがある、という報せを受けた。わたし自身携帯電話からだと記事の投稿ができないことが度々あったので、すこし調べてみるか、エキサイトに訊いてみよう。

 個人的な推測だと、長時間同じ画面のままにしておくと(たとえば投稿画面にしたまま20分ぐらい記事を書き続けるとか、あるいはコメントの場合は記事を読み続けるとか)、投稿ボタンなどの機能変容が起こってしまう、というのが不具合の理由。わたしの場合、20分ほど書いてから投稿ボタンをクリックしたら、なぜか「おすすめ!ブログ しょこたんのブログ」みたいなページに飛んだことがある。そこでおすすめされても困る。わたしは投稿したいのだ。

 そういうことが数回あり、だから時間が問題なのだと思い、投稿にかかる時間を短縮させたら無事に投稿できた。

 メールには、以上のブログの不具合のことと、不具合がなければコメントしてくれていたであろう内容も書かれていた。

 それはタッパーのこと。「『タッパー』って文字化すると、何か変じゃね?」と先日書いたことへの応答。chisa によると、「タッパー」は正確には「タッパーウェア」で、タッパー氏が作ったものらしい。そして、タッパーには米びつとか着物収納箱とか、いろいろな種類があるらしい。

 おそるべし、タッパー。


@研究室 
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by no828 | 2009-06-25 14:07 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 24日

研究者とは何かと考えたり、卵を冷蔵庫に入れたり――それはどちらも同じ人間のすること

 昨日のエントリは、わたし以外の方にはわかりにくかったのではないかと思う。もちろん、哲学・社会学その他の研究者の方でご覧になられている方の中には「わかるわー」と言ってくださる方もいらっしゃるかもしれない。が、いずれにしてもわかりにくさは拭えないと自省している。と同時に、わたしのために書いたから仕方がないかなとも思っている。

 どっちなんだ。

 しかし、昨日のテーマ、共生とは何か、というよりも、研究とは、研究者とは、社会学とは、社会科学とは、教育学とは、哲学とは、一体わたしは何学者なのか、そもそも研究者に向いているのか、というテーマはわたしにとってはかなり大きなものである。授業後にここに書いたように悩み、アパートに戻ってから悩み、とりあえず0時30分に寝たはよいが3時30分に目が覚め、そこから5時30分ぐらいまでまた考えてしまって眠られず、「先生のあのコメントにはこう返せばよかった」とか「こういうことも付け加えて言えばよかった」とか、そういう反省的シミュレーションを延々としていた。5時30分ぐらいになって、もうすこし寝ないと日中持たないな、と思って目を閉じた。

 いろいろ考えたが、とりあえず書き残しておきたいことは2つ。ひとつは、「研究者」という「職業」は成立しないのではないか、ということである。それだけでは職業とは言えないのかな、と思うわけである。たとえば、大学教員であれば「教育」(授業をするとか)や「経営」(大学運営とか)をすることが職業であり、「研究」はそれとはちょっと位相が異なってくるのかなと思う。エドワード・サイードが、知識人はアマチュアであれ、と言ったのは、もしかしたらそういう意味かもしれず、ハンナ・アーレントが公私を分けて公に期待を寄せたのも、もしかしたらそういう意味かもしれないと思う。

 もうひとつは、研究者の社会への関わり方である。今朝の「朝日新聞」の仏教の記事ではないが、研究者も社会にもっとコミットせよ、という意見はあると思う。人間としてコミットはしても研究者としてはコミットしない、という立ち位置を取ることもできるであろう(わたしはこの区別がよくわからないと昨日書いたが)。研究者としては観照(この字で合ってるかな)生活をして、すこし離れたところから社会を眺めます、というような。

 結局よくわからないし、要はそれぞれ好きにやればいいよ、ということなのかもしれない。けれど、もうすこしすっきりしたいなあ。


 話は変わるが、今日は水曜日で、水曜日は某カスミで卵10個入り1パックが87円曜日である。いつもは177円とか187円とか。だから水曜日は90円から100円お得。2週間ほどこの87円卵にアクセスできず(∵ 深夜まで呑み会とか、夜に行ったら売り切れとか)、とはいえ他の曜日に定価で買うのも何かなあと思って卵なし生活を送っていた。この2週間の90円ないし100円の我慢によって、わたしの健康がいかばかりか脅かされた可能性もあり、それなら177円ぐらいで買えばよかったかもしれない、と思いつつ、最後は意地で我慢したところがある。あまりスマートな選択とは言えない。

 今日は夜行って売り切れという悲しい結末に居合わせるのが嫌であったので、開店時間の10時に合わせて買いに行き、それから研究室に来た。卵は研究室の冷蔵庫の中。


@研究室
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by no828 | 2009-06-24 14:54 | 思索 | Comments(8)
2009年 06月 23日

社会学はずるい

 変なタイトルを付けてしまったが、現在そういう気持ち。

 さっきまで社会学の授業であった。テーマは「共生」。

 そこで社会学の先生と議論をしたわけだが、何というか、こちらの発言がすべて「社会学的な語り」とでも呼ぶべき大きな語りの中に回収され、「結局おまえの言いたいことは、one of them であって、この『社会学的な語り』の中のこの部分を言っているにすぎない。わたしにはおまえの言っていることすべてを包み込むことのできる枠組みが用意されているのだ。おまえはまだ子どもなのだ、わっはっは」と言われているようで、self-esteem が下がる。

 「要は、こういうことでしょ。それだけのことでしょ」と言われたり、「それは言い尽くされていることだ」とか言われたり。

 何を言ってもすべて呑み込まれるイメージ。

 1階ホールで開かれている懇親会でほろ酔いの<わたし>が談笑しているところを、2階から素面の<あなた>から「あいつ、酔っ払ってるぜ。あー、みっともない」と思われながら見られているイメージ。

 <わたし>は道化師か。あるいは議論のためのスケープ・ゴートか。

 だから、結局呑み込まれるのだから何を言っても仕方がない、呑んではしゃいで話しているところを冷静に見られることになるのだから呑まずにおこう、と思って静かに沈黙する人も出てきたりする。

 ということが、あの授業の受講者にはあったりするのかもしれない。

 もちろん、呑み込まれるのはこちらの勉強量が足りないから、こちらの勉強量を先生が上回っているからということも多分にある。が、それだけではない。

 今日は、主に2つ。(1)ファースト・オーダー(行為者の水準)とセカンド・オーダー(観察者の水準)についての議論と、(2)「規範」と「価値」の違いについての議論。


(1) ファースト・オーダー(行為者の水準)とセカンド・オーダー(観察者の水準)

 極端な例を出すと、「なぜ人を殺してはいけないか」を問うのがファースト・オーダーという次元で、「なぜ人びとは『なぜ人を殺してはいけないか』と問うのか」を問うのがセカンド・オーダー。 

 ファースト・オーダー……なぜ人を殺してはいけないか
 セカンド・オーダー……「なぜ人を殺してはいけないか」と人びとが問うのはなぜか

 図式的には逆の方がよいかもしれない。

 2階:セカンド・オーダー……「なぜ人を殺してはいけないか」と人びとが問うのはなぜか
 1階:ファースト・オーダー……なぜ人を殺してはいけないか

 2階からだと1階のことがよく見える。ファースト・オーダーで語ったことは、すべてセカンド・オーダーへと回収され、「あの人たちはどうしてあんなこと話しているんだろうね」ということになる。

 社会学の見方だと、科学者=研究者=社会科学者はみなセカンド・オーダーに留まるべし、セカンド・オーダーに留まろうとすべし、ということになる。

 が、わたしの見方だと、研究者のすべてがセカンド・オーダーに行く必要はない。哲学者がファースト・オーダーを担い、社会学者がセカンド・オーダーを担えばよい。

 2階:セカンド・オーダー……「なぜ人を殺してはいけないか」と人びとが問うのはなぜか 担当:社会学者
 1階:ファースト・オーダー……なぜ人を殺してはいけないか 担当:哲学者

 ファースト・オーダーでなされることは、端的に言えば「価値」の話であり、「規範」の話である。何が善いか、何が正しいか、どうすべきか、ということを話す。セカンド・オーダーは「なぜあの人たちは、どうしていま・ここで『何が善いか、何が正しいか』を議論しているのかな、社会の秩序が乱れているということかな」と考える。

 わたしはファースト・オーダーにいる(という自覚がある)。価値を正面から語らなければ仕方なかろう、という立場にいる。だから、だと思うのだが、セカンド・オーダーの人がずるく見える。余計にそう見える。「何か、俺たちって、セカンド・オーダーにいる人たちのために研究テーマを提供してるみたいじゃね?」と思うわけである。だから、「こっち降りて来いや!」と思ったりもする。

 研究者はファースト・オーダー=価値それ自体の議論から離れてセカンド・オーダーにいるべきだというのは、マックス・ウェーバー以来の社会学の伝統的な立場の取り方である。それはわかっているつもりである。しかし、それだけだと足りないのではないかとわたしは思う。だから価値を論じ、規範を論ずる。もちろん、ただ「これがいい!」と言っているだけでは本当に子どもである。なぜそれが善いと、あるいは正しいとわたしが考えるのか、その理由と妥当性を丁寧に説明すべきである。それ抜きの「これがいい!」という意見表明も見られるが、それはもはや研究ではない。わたしは単に価値判断していればそれでよいという意味でファースト・オーダーに留まるべきだと言っているのではない。誤解があるかもしれないので、ここに書いておく。と言っても、このブログの所在を教えていないから誰も見ていないとは思うが。もちろん、これを書くのは第一義的には自省のためだから、まあ、よいのだが。


(2)「規範」と「価値」の違い

 「規範」と「価値」は違うのだ、という議論があり、「お、そうなのか」と恥ずかしながら思った。わたしは規範理論研究者だと思っていたのだが、どうもそうとも言い切れず、価値論者ということになるかもしれない。というのは、以下のことから。

 「規範」……「~すべし」という他者に対する命法について語るもの。
 「価値」……「わたしはこれが善いと思う、これが正しいと思う」と意見表明するもの。

 端的な違いは、おそらく、①誰に向かっての発話なのか、②発話内容がどれだけ発話主体と発話が向けられた主体を拘束するか、の2点。

 規範は他者と自己に向かい、「~すべし」というほどに拘束力が強い。

 だから、そういう規範を研究者が語ってよろしいか、ということになる。価値を論じるのならばよいが、規範を論じることは控えるべきである、というメタ規範である。しかも、その価値は「社会的にそういう価値が広がっているようだから、その価値は善い・正しい」という言い方がされるべきである、とされる。それゆえに「共生」について言えば、「共生って善いものだと思う人だけで共生すればいいよ。別に押し付けないよ」ということになる。

 わたしは定義の上では両者の違いを理解するが、しかし機能の面ではどうであろうかと思う。

 価値が規範のように振舞うこともあるのではないか。

 わたしはここで「ヘゲモニー」という言葉を思い出す。合意の形成、同意の調達、そうした意味での柔らかな強制――そういうことがあると思う。それは価値が規範として機能していると言いうるのではないか。

 「わたしはこれがいい!」と言うことが、他者に対してもそれを選択せよというメッセージを送ることはよくあることである。たしかに、わたしは「わたしはこれがいい!」と言っただけであって他者に向かって「それを選べ」とは強制していない、個人の選好表明に過ぎない――そう言われればそうであるが、実際にはさ、ということである。

 そのときに、「『わたしはこれは価値であって規範ではなく、だからわたし個人と、この価値に賛同する人しか制約しない』って最初に言ったでしょ」と言われると、「むー」となる。責任逃れの言い訳としては素晴らしい、と皮肉めいたことを書いてみたが、研究者に現実社会の「責任」を取ることなどできるのであろうかと思った。だからこそ、言い訳をきちんとしておかなければならないのか。


 でも、やっぱり社会学者はずるいと思う。けれど、セカンド・オーダーに誰もいなくなったらまずいとも思う。「哲学者と社会学者は協力しましょうよ、1階と2階とを行ったり来たりしましょうよ」ということがわたしは言いたく、実際に言ったのだが、「行ったり来たりするかどうか、ではなく、行ったり来たりせざるをえないんだよ。研究者とはいえ、ひとりの人間であり、普段の生活を営む人間としてファースト・オーダーに、研究する人間としてセカンド・オーダーにいるのだから、往還はすでになされているし、なされざるをえないのだ」と返されて、「そうかなあ」と思った。

 わたしは<わたし>という人間を「研究者である部分」と「研究者ではない部分」を分けることができていない。<わたし>は研究者である、ということにしかならない(たぶん。何かちょっと違う気もするけれど。うーん、一貫していなければならない、というような自己規定があるのかな)。だから<わたし>にはそのどちらもあるのだから、という言い方をされると、そうなのかなあと思う。そんなにきれいに分けられないよと思う。だから分けられている人がいたら、「おまえ、論文で書いていることと実際にやっていることが違うじゃねえか」ということも場合によっては思うはずである。「協力」は身体を別にする他者とともになされざるをえない、というのは、そういうところから来ている。

 個人は、1個の人格によって形成されているはずであり、形成されているべきである――そういう前提がわたしの中にはあるのかもしれない。

 こういう意見は、アイデンティティの政治とか、いろいろな分野の人から異論が唱えられることであるかもしれない。


 げ、もう20時30分。


@研究室
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by no828 | 2009-06-23 20:27 | 思索 | Comments(3)
2009年 06月 22日

ソースまで作る余裕はないけれど、弁当にパスタはありだと思った

 ここのところ、弁当を持ってきている。

 「弁当」と言っても、持ってくるのは「お米+何か」で、研究室に置いてあるインスタントのみそ汁とともにお昼に食べる。だからいわゆる「弁当男子」とまでは言えない。

 今日はレトルトのソースとともにパスタを持ってきた。お米の備蓄が切れたからだ。実は先週から切れていたのだが、先週は小分けして冷凍にしておいたものがあったのでそれを食べていた。週末にはそれも切れた。買えばよいのだが、お米は実家にストックが結構あるというので送ってもらうことにした。だが、送ってもらうことにした予定の日に父母の予定が変わり、延期になった(今夜届く)。

 というわけで、今日はパスタにした。茹でてから5時間とか経つと、らーめんやうどんのように、いわゆる「伸びる」という現象が起きるのか、という懸念はあったが、とりあえず試みることにした。パスタは、700グラム298円のものにした(相場を知らないが、たぶん安いのだと思う。ただ、輸入食品店で500グラム100円というパスタを偶然見かけた。見なかったことにした)。

 朝起きて、水を鍋に入れて蓋をして強火にかける。そのあいだに布団を畳み、大学に持って行くものを整え、シャワーを浴びる準備をする。火を消して(火を使うときはその場から離れてはいけないのだ)、シャワーを浴びる。

 浴び終わったら再び鍋に火を入れ、沸騰させる。沸騰したら塩とパスタ本体を入れる。

 そのあいだにタオルを干し、髪を乾かし、靴下を履くなどして身支度を整える。

 6分ほど経過したら鍋の火を消し、ざるを使って湯切りしてタッパー(文字化すると「タッパー」って何だ?と思う。語源は何かな。正式名称は他にあるのかな)に入れる。

 ここで再び、麺が伸びる現象について考える。麺はなぜ伸びるのか、伸びるのは麺が汁=液体に浸っているからか、パスタの場合は湯切りしたし、液体に浸して長時間置くわけではないから大丈夫か、という結論に至る。朝だから頭も働く(結論は誤っているかもしれないが)。

 ただ、パスタは乾くとくっ付きそうではある。だからオリーヴ・オイルをすこし垂らしておいた。

 パスタを詰めたタッパーを持って部屋を出る。起きてからここまで40分。ファンタスティック(∵ 通常はおよそ60分かかるのです)。

 
 以上の背景を持ったパスタをさっきトマトとナスのソースを掛けて食べた。大丈夫、問題なし。「弁当にパスタ」はありだと思った。さすがにソースまで作る余裕はないけれど。


@研究室 
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by no828 | 2009-06-22 14:44 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 21日

喫緊ヴァージョン

 昨日も今日も研究室に来た。

 余裕があまりないということである。したがって、ここにもなかなか書くことができない。書くとすれば、こういうことになる。

 今後の予定(喫緊ヴァージョン)

 6月26日(金):某科目等履修生として履修中の授業のテスト
 6月27日(土)・28日(日):某学会大会で発表@某学芸大学(※ わたしの発表は28日)
 6月29日(月):某申請書類の発送(※ 30日に都内某所必着)
 6月30日(火):(1)8月28日(金)・29日(土)の某学会大会での発表要旨の提出(※ また誕生日と重なった)、(2)7月4日(土)・5日(日)の某学内公開セミナーでの発表要旨の提出(※ 提出はともに電子メイルで)
 7月4日(土)・5日(日):某学内公開セミナーで発表と司会(※ わたしの発表は4日、ただし5日の最後の全体討論の司会もすることに)

 これで終わり(たぶん)。

 あとは論文書き。19日にお会いしに行った先生から、「博士論文と合わせて他の学術論文も書くように」と言われた。


 あ、金曜日にあれからパソコンを買いに行った。これまで Vaio ― Windows を使っていたのだが、今回は6月初旬に新しく出た Mac Book Pro の13インチのノート・パソコンにした。美しさという点では、やはり Mac だと思う。Arts & Crafts、生活に芸術を、納得のゆくものに囲まれて生きること。

 ポイントが付いたので、それで Mac 用の Windows の Office も買った。マウスも付いてきた。ただし、office は在庫切れのため、取り寄せ。

 某後輩が Mac ユーザーでものすごく詳しいから、いろいろ教えてもらおう。そして、Mac でがしがし論文を書こう。お金はかなり飛んで行ったが、これは自己投資、必要なもの。


@研究室
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by no828 | 2009-06-21 19:49 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 19日

ソフトボール大会のあとのバタバタ

 17日(水)は教育学の教員・院生・学類生の公式ソフトボール大会であった。例年は教員と院生だけなのだが、今年は学類生も参加した。そのために一肌脱いだ。つながれるところはつながったほうがよいし、つなげられるならつなげたほうがよい。

 大会は13時から17時まで。前日まで豪雨であったので、グラウンドがぬかるみ、その水を排し、砂をかぶせてゆく作業は、13時前から行なわれていた。今年幹事であった院生を中心に、それは行なわれた。わたしもすこし前に会場に着いたので、すこしだけ手伝った。

 プレイ・ボール。

 6チームが3チームずつリーグ戦で総当たり、それぞれ1位通過のチーム同士が優勝を争い、2位通過のチームが3位を争い、3位通過のチームが審判としての技を競う。

 それでね、わたしたちのチームが優勝したのですよ。

 男女ごちゃ混ぜの即興チームの割には(みんなそうだけれど)、雰囲気よくプレイできたと思う。勝因はたぶん、それ。

 わたしもヒットを打って打点が付き、守備はサードでそこそこうまくできた。本当の勝因はたぶん、それ。

 写真係の方から写真をいただければ、そして画質などが合えば、ここにも掲載しようと思う。

 18時から20時まで懇親会。

 優勝賞品はパソコンにUSB接続する小型卓上扇風機。欲しかったのでうれしい。が、ちゃんと風を送るかどうかは微妙だという補足コメントを、プレゼントを購入した幹事本人から聞いてしまう。

 う、そうなの?でも、いろいろお疲れさまでした。

 そのあと、流れて2次会。さらに流れて3次会。この間、わたしは酔っぱらった後輩女子に絡まれる。こういうタイプは初だ。同輩・後輩男子に「お前ら、何とかしろよ!」と言っても、おもしろがって何もしない。友情とは儚きものである。

 解散は2時。帰宅して寝たのが3時過ぎ。

 18日(木)、起きたのが7時。歩いて大学に向かい、10時頃から研究室で17時からの研究会発表用=学会発表用レジュメを書きはじめる。10時の段階でレジュメ0文字というミラクル。3次会などに行っている場合ではないのだけれど、みんなでスポーツをしたあとにみんなで呑むというのはかなり愉快なものなのだ。で、早速筋肉痛。右肩も痛い。「右肩が痛くてキーボードを打つことができませんでした」というレジュメが書けなかったときの言い訳も思い付くが、自分の中ですぐに却下される。あまりおもしろくない。
 
 17時までに何とか書き上げるも、やはり詰め切れていないところはあり、そこは質疑を通じて先生に見破られる。が、総合的には、思っていたよりも好感触を得る。

 研究会のあとに読書会。20時過ぎまで。そのあと某後輩の研究の相談。21時過ぎまで。帰宅は22時。

 今日19日(金)、8時40分から11時25分まで授業。「戦争と公的記憶」。前に提出したレポートも返却される。A評価。よし。

 研究室に行き、昨日の研究会で発表したレジュメの内容を改める。お昼を食べ、14時過ぎにその改稿を持って研究室を出て、別の大学の先生のところに行ってご指導をいただく。就職のことなどを含め、14時30分から16時過ぎまで。「この部分はおもしろいから、ここを中心にぜひ論文にするように」。ありがとうございました。ただ、就職のことで年齢を確認されて、「27です、今年28です」と言ったら、「え?30過ぎだと思ってた。何だ、まだ若いんだ。30でテニュアのあるところに行ければいいよ」と慰められる(?)。お付き合いはもう6年目なのですけれど、先生……。お会いしたときはまだ学類上がったばかりの22か23ですよ……。

 まあ、修士のときにー、バングラデシュに行ってー、政府とかー、援助機関とかー、いろいろ行ってー、そのとき知り合った30歳過ぎの日本の方にもー、あとでお酒を呑みながら歳を訊かれたときー、「えっ?ハシモト君ってまだ23なの?同じくらいだと思ってたよ!」って真顔で言われてー、そのときは結構ショックでしたー、っていうこともあってー、ごにょごにょごにょ。


 何だかバタバタだが、これから懸案であったパソコンを買いに行こうかしら。


 あ、そうそう、まめぐが仕事に復帰したってことを chisa から教えてもらった。

 Motherhouse Shop Blog - Togoshi

 母は強し。


@研究室 
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by no828 | 2009-06-19 18:33 | 日日 | Comments(0)
2009年 06月 16日

ヱビスビール超長期熟成2009

 「最近の週末はもっぱらアサヒ ザ・マスター」と書きつつ、新発売があると、とくに限定醸造があると、そちらにも目が行ってしまう。



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 ヱビスビール超長期熟成2009



 超長期熟成のため、だと思われるが、味が濃いめ、深め。コクもある。喉が渇いたぜ、と言ってごくごく呑むタイプのビールではない。喉の渇きを静めてから、ゆっくり味わいながら呑むのがよいと思う。

 色は赤褐色。美しい。


ヱビスビール超長期熟成2009


 さて、休憩終わり。


@研究室 
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by no828 | 2009-06-16 14:08 | ビール | Comments(4)