思索の森と空の群青

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2009年 07月 31日

テクスト読解後 の barbecue

 昨夜から今日にかけて、だいぶ涼しい。おかげで昨晩は久しぶりに4時間ほど連続で眠ることができた(ここのところ暑さで1~2時間ごとに目が覚める)。

 最近ポスト・コロニアリズムの勉強を改めてしているが、難解な文章(翻訳を含む)が多くてテクストを投げ捨てたくなることがある「むきー!」となることがある。難しく書かなければならないことなのか。わたしにはそうは思われない。


 今日はこれから大学院の友人たちと BBQ 。予め述べておけば、BBQ は Biwako Banzai Quramo ではない(註1)。わたしは Biwako のために Banzai はしない。Barbecue をするのである。


 (註1) BBQ を Biwako Banzai Quramo と言ったのは大学同期の琵琶湖出身の Quramo です。学類で BBQ をする段になると、いつも Biwako Banzai Quramo と言っていました。このネーミングを記憶している自分が悔しいです。


@研究室
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by no828 | 2009-07-31 18:31 | 日日 | Comments(0)
2009年 07月 30日

たとえメソジスト教会であるにせよ――カポーティ『冷血』

 懸案2件、解決。何だか軽くなりたい、自由になりたい。

 え、自由?

c0131823_14162443.jpg37(170)カポーティ、トルーマン『冷血』(佐々木雅子 訳)、新潮社(新潮文庫)、2006年。

版元 → 

原著の出版は1965年、初の邦訳は1967年。
読了日:2009年7月30日


 去年2008年6月11日に購入したものの、何だか乗らずに少しだけ読んで放置しておいた本をここ数日で読み終えた。7月25日ぐらいまでずーーっとアウトプットの作業をしていたから、身体内部の思索に必要な物置がほぼ空っぽ。物置には物を置かないと!ここのところは、だからインプットに従事中。『冷血』も、それゆえに読めたというところはある。何てたって邦訳617頁の大著。いわゆるニュージャーナリズムの源流と言われる作品である。

 物語の舞台は1959年、米国はカンザス州西部ホルカム村。ここで殺人事件が起こる。

 ホルカムが寂れた片田舎であることが具体的に説明されたあと、以下の文章が続く。

 「以上がすべてといっていい。ただし、それはホルカム・スクールを含めなければの話で、しかも、含めないわけにはいかない。その堂々たる施設は、一見しただけではわからない地元の経済状況を体現しているからだ。有能な教職員を配した近代的な“統合”学校――幼稚園からシニアハイスクールまでの各学年を擁し、通常、360人前後の児童生徒は、16マイルもの遠方から何台ものスクールバスで運ばれる――に子どもを通わせている親たちは概して裕福だ。その多くは牧畜農業を営み、野外で働く人々で、血統はドイツ人、アイルランド人、ノルウェイ人、メキシコ人、日本人とさまざまだ。彼らは牛や羊を飼い、小麦やミロ、草の種子、甜菜をつくっている。〔……〕過去7年間は旱魃のない恵まれた歳月だった。ホルカムを含むフィニー郡の牧畜農家の暮らし向きもよかった。稼ぎは農業からだけでなく、豊富な天然ガス資源の開発からも上がった。その収入が、新しい学校、住み心地のいい農家、満杯となってそびえる穀物倉庫に投影されているというわけだ」(p. 15)。

 米国では、地区が学校を運営しており(と言い切ってしまうと語弊あるかも)、だから「学校税」が徴収される。その地区が経済的に豊かであるかどうかで、学校運営の余裕の具合も決まる。

 ところで、ここでの「“統合”学校」はどういう意味であろう。本文にある「幼稚園からシニアハイスクールまでの各学年を擁し」ということなのか、あるいは白人と黒人(その他の有色人種)を分けないということなのか。教育学では通常後者の意味で「統合学校」は使われる(……はず)。米国では、白人と黒人を学校ごとに分けてよいとの判決が出されたが(separate but equal)、この本で舞台となった1959年近辺からは公民権運動が盛んになり、学校における白人と黒人の統合が(力ずくで)実現されてゆくはずである。ただ、カンザスは保守的な土地柄だからなあ、ちょっと違うのかもなあ。


 「教育があって仕事でも成功をおさめた人物であり、著名な共和党員で教会の指導者――たとえメソジスト教会であるにせよ――でもあるクラッター氏は、地元の貴族に叙せられるだけの資格があった」(p. 67)。

 メソジストは正統派ではないのかな?

 「アリーmyラブ」でも、神を信じない牧師が出てきて、だから教会から解雇されたという話があり、それが不当だと訴えた牧師の会派がメソジストであり、彼を弁護するアリーら弁護士が「ところでその牧師の会派は?」「メソジスト」「あぁ……」(@溜息まじり)みたいな会話をしていたことがある。わたしはそこでの「あぁ……」(@溜息まじり)が、「メソジスト会派は神を信じているのであり、だからその牧師が神を信じていないのはおかしく、だから解雇も不当ではなく、この裁判勝ち目なし」の「あぁ……」(@溜息まじり)かと思っていた。けれど、上掲文章を読むと、メソジストが会派として弱い(あるいはやや異端な)立場にあるということかしらとも思う。


 「おぼえてるか、ディック?船を手に入れるって話を?おれは考えてたんだ――メキシコで船が買えるんじゃないかって。安くても頑丈なやつが。それで日本にいけるだろう。太平洋を突っ切って。実際にいったやつがいる〔……〕。嘘じゃないぞ、ディック――きっと、あんたもいってみたいと思うようになる。日本人は穏やかな、いい連中だ。礼儀作法もお手本みたいだ。ほんとに思いやりがあって――〔……〕」(p. 94)。

 こういうのを「ステレオタイプ」と呼ぶ。


 「ところが、わたしの弟がまだ17という年で、白血病で死んだのです。弟は自分が死ぬことを知っていましたが、そのあと、わたしは弟がそのとき何を考えていたのだろうと思うことがよくあります。そして、今、わたしはきみのことを思っています。きみは何を考えているのだろう、と。弟が死ぬ前の数週間、わたしは何といってやればいいのかわかりませんでした。しかし、今なら何をいえばいいのかわかります。だからこそ、こうしてきみに手紙を書いているのです。神はわたしと同じようにきみをつくられ、わたしを愛するのと同じようにきみを愛しておられます。神の御心はなかなかうかがうべくもありませんが、きみの身に起きたことは、わたしの身に起きていたかもしれないのです」(pp. 476-477)。

 これは収容された犯人に宛てられた手紙。この文脈からは脱線するが、「きみの身に起きたことは、わたしの身に起きていたかもしれないのです」というのは、社会学者の大澤真幸(まさち、と読む)が「偶有性(英語だと contingency かな?)」と呼ぶものであり、これって人を苦しめることもあるけれど(なぜ事故で夫が死んでわたしは生き残ったのか)、人を救うこともあるのではないかとわたしは思う。つながるための考え方として、偶有性はありだと思う。


@研究室
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by no828 | 2009-07-30 20:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2009年 07月 29日

アイヌは先住民(付記あり)

 気になったニュース。  

 今日7月29日、政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長・佐藤幸治 京都大学名誉教授)が河村建夫 官房長官に報告書を提出し、そこでアイヌは「先住民」と規定されたそうだ。

 報道

 首相官邸 ※ こちらはまだ更新されていない模様。

 政府系がアイヌを「先住民」と規定したのははじめてではないか(詳しくはわからないが)。

 これにより、国連が2007年9月13日に総会で採択し、日本政府も批准した「国際連合先住民の権利に関する宣言 United Nations Declaration on Rights of Indigenous Peoples」が日本政府にも適用されることになるのであろうか。あるいは有識者懇談会がこの採択を受けて設置されたのであろうか。事実関係はよくわからない。

 もちろんこの採択に法的拘束力はない。が、日本政府のアイヌ政策を批判するさいの根拠としては用いられるであろう。

 ちなみに、同宣言への「賛成 In favour」は日本、中国など143カ国。わたしには両国とも賛成したのは意外に感じられる。日本には琉球の人びとなどがおり、中国には55とされる「民族」がおり、自治区もある。

 「反対 Against」したのは、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの4カ国。それぞれに、「インディアン」、「イヌイット」、「アボリジニ」、「マオリ」と呼ばれる「先住民」がいる国々だ。

 「棄権 Abstain」はバングラデシュ、ブータン、ロシア連邦など11カ国。ブータンのことはよく知らないが、バングラデシュにも「民族」問題はあり(たとえばミャンマー/ビルマとの境にあるチッタゴンなど)、ロシア連邦もソ連崩壊後に「民族」問題が表面化してきた(∵ 社会主義時代は「民族」よりも「階級」が大事だとされてきたため)。なお、採決を「欠席 Absent」したのは34カ国。結構多いという印象を持つが、通常はどういうものなのであろう。

 「先住民の権利に関する宣言」に関する国連の報道

 2009年7月30日付記:
 Indigenous Peoples の日本語訳を「先住民族」から「先住民」に変えた。また、「民族」という言葉を使用したほうが意味が通じやすい場合は「」を付けて「民族」とした。
 はじめのエントリでは「先住民族」「先住民」双方を混在させて書いていた。しかし、Indigenous Peoples には「民族」の語感はあまりなく、「先住民」のほうが適しているのではないかと考えた。「先に住んでいた人びと」ということである。「民族」の意だと Nation あるいは Ethinic Group のほうがより近いが、しかし「民族」ってそもそも何だということになるとよくわからない。とりあえず、構築されたものであるとだけは言うことができる。民族と民族のあいだの境界線を実線で厳密に引くことはおそらく不可能だ。ただ、「先住民」も「構築されたもの」として割り切ってしまうと、「何だ、ほかの『民族』と一緒じゃん」ということになり、宣言や政策など(一種のアファーマティヴ・アクション?)の対象にはなりにくくなる。だからそれらの人びとの権利を主張する場合には、いわゆる戦略的本質主義の考え方に基づいたほうがよいということになる。「われわれはアイヌだ。日本人とは違うのだ」というように。ただし、あくまで戦略的に、である。差異ばかりを強調すると、それはそれで別の問題を生み出すことになる。


@研究室
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by no828 | 2009-07-29 20:39 | 時事 | Comments(0)
2009年 07月 27日

生姜焼きを食べながら「ロマンスの神様」に思いを致す

 午後、少し雨が降った。

 某大学に二足先に就職した某後輩が訪ねてきてくれたので、別の某後輩と3人で近くの和食の店に行き、一緒に夕飯を食べた。行きはぱらぱらと雨。店ではルービーを我慢して、本日の日替わり、豚の生姜焼き定食を頼む。

 食べながら研究の話など。途中、「ロマンスの神様」の歌詞内容はどのようなものであったか、なども話題に上がる(はて、なぜそういうことになったのだっけ)。

 帰りは、ぱら、ぐらいの雨。傘は不要。

 20時頃に研究室に戻ってきた。

 22時までは粘るか。


@研究室
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by no828 | 2009-07-27 21:03 | 日日 | Comments(0)
2009年 07月 26日

観たい――「チョコラ!」と「雪の下の炎」

 夕方から研究室に。はじめに机周りを片付けを少し。ファイルを段ボールに入れて重ねたり。段ボールが足りない。ファイルが入りきらない。

 それからものすごく久しぶりに新聞の切り抜き。手帳にもメモしていた映画の情報に再度出会ったので、ここにもメモしておく。

 
 東京での上映は終わってしまったようだが……

 チョコラ!


 こちらはまだ上映中のようだ。

 雪の下の炎


 最近映画を観られていないなあ……。


@研究室
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by no828 | 2009-07-26 21:19 | 映画 | Comments(0)
2009年 07月 25日

Twitter みたいな

 夜になっても温度はそれほど下がらず。

 22時。

 うー、土曜日なのに。


 郵便局に寄って帰ろ。


 何だか Twitter みたいな使い方になってきたな。


@研究室
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by no828 | 2009-07-25 22:03 | 日日 | Comments(0)
2009年 07月 25日

直射日光

 太陽の光が西から研究室に差し込んでくる。冷房が動かない休日の西の太陽は脅威である。

 ブラインドを開けたまま窓を開けると時折強く吹く風にブラインドが煽られて壊れそうになる。だから、ブラインドが閉められないところがあり、そこから狙い撃ちのようにがんがん照ってくる。ブラインドを閉めているところもあるが、ブラインドのすき間から、ブラインドとブラインドのすき間から、光を激しく降り注いでくる。

 暑い!直射するな!


 それだけ?

 は、はい。

@研究室
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by no828 | 2009-07-25 17:21 | 日日 | Comments(0)
2009年 07月 25日

人間の自然状態は争いなのだろうか――土屋賢二『ツチヤの口車』

 晴れ、相変わらず暑い。だから研究室の電気を消し、デスク・ライトだけを点けている。

 ただ、風がすこしある。研究室をときどき通り抜けてゆく風は気持ちがよい。


 36(169) 土屋賢二『ツチヤの口車』文藝春秋(文春文庫)、2008年。
 (読了日:2009年7月25日)

 哲学教授によるエッセイ。
 
 「ホッブズによれば、人間は身勝手だから、自然のままに放置しておくと『万人の万人に対する戦い』状態になる。だからだれかに絶対的権力を与えて秩序を守ってもらう方が、人間の生活はよりよくなるというのだ。
 しかし人間の自然状態は争いなのだろうか。わたしが長年、テレビ番組を調査した結果によれば、仲間同士の戦いに明け暮れる野生動物は存在しない。逆に、オオカミのように協力して獲物を捕ったり、平和な社会を形成している類人猿もいる。
 なぜホッブズが、人間を放置すれば戦争状態になると考えたのか、わたしは知らない。おそらく、彼のまわりが身勝手で手のつけられない人間ばかりだったのだろう(だが、それほど人間が身勝手なら、なぜ権力者も自分勝手だと考えなかったのだろうか。自分勝手で利己的な権力者ほど迷惑なものはない)。
 自然のままに放置したらどうなるかという問題は簡単ではない。そもそもどうすれば放置したことになるのだろうか。
 考え方によっては、人類が誕生して以来、何者も介入せず、放置したまま現在に至ったのだから、現在の状態が人間の自然状態だと言うこともできる。
 〔……〕
 このように『自然状態』が何であるかは難しい問題だ。にもかかわらず、多くの人はホッブズ同様、人間の自然状態はロクなものではないと考えている」(「放置したらどうなるか」、pp. 207-208)。

 前提へのまなざし。


 「正月に帰省した。母も弟の家族も猫も柴犬も元気だった。要約すると、わたし以外は全員元気だった。
 柴犬は数年前に迷い込んできたのを室内で飼っているのだ。
 人はなぜ犬を飼うのだろうか。無一文の中年男が家に迷い込んできたら、一緒に暮らそうとするだろうか。この犬は盲導犬でもサラブレッドでも鹿児島県産黒豚でもなく、何の役にも立っていないのだ。人間の男がこんなに役に立たなかったら追い出されるところだ」(「犬を飼うには七つの理由がある」、p. 227)。

 たしかに。


@研究室
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by no828 | 2009-07-25 14:02 | 人+本=体 | Comments(0)
2009年 07月 24日

昨夜とは打って変わって

 今日は寝苦しい夜になりそうだ。

 昨日も一昨日も、この時間には涼しさを感じたし、虫の音もそれを演出していた。

 が、今日はその感がない。皆無である。湿度も結構高そうだ。体感の温度も湿度も高いのは不快以外の何ものでもない。

 温度よ、湿度よ、わたしに研究するなと言っているのか。

 言いなりにはなるまい。


@研究室
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by no828 | 2009-07-24 19:26 | 日日 | Comments(2)
2009年 07月 23日

一人の子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い――鎌田實『それでも やっぱり がんばらない』

 研究の合間に読み終わった本。

 35(168) 鎌田實『それでも やっぱり がんばらない』集英社(集英社文庫)、2008年。
 (読了日:2009年7月23日)

 前に、鎌田實『がんばらない』(集英社(集英社文庫)、2003年)を読んでいる。

 「辛い事実を伝えるのは、その人がその人らしく生きるため。病気に負けないで少しでも幸せになってもらいたいから。『告知』なんて冷たい響きのある言葉は、そろそろ死語にしたい。『病気の説明』で充分だ。ショックなく、少しでも希望を持ってもらえるように、できれば、隠しごとのないように伝えたい。辛いことを伝えるときには、いつでも、どんなときでも、あなたの命に寄りそいますよという思いを込めていたい」(p, 45)。

 「〔……〕本当に余命告知なんて必要なんだろうか。
 本人が仕事を抱えていて、『残された時間はどのくらいですか』と聞かれたときは、答えるようにしている。でも、余命告知はできるだけ、ぼくはしないようにしている。
 命って不思議だ。わからないことが多い。
 あと何か月の命なんて、あまりあたらない。
 病気のことはいつも、ショックなく、本当の話を伝えるようにしているけれど、免疫機能が上がるように、いつでも希望が持てるような話をするようにしている。
 余命告知はあたらないことが多いわりには、本人や家族を暗くし免疫機能を低下させると、ぼくは思っている。医師はあとから家族に責められないように、厳しい期間を言う傾向がある。
 そんな言葉に負けてはいけない。そんな言葉にまどわされてはいけない。
 希望を持ちつづけることが大事なんだ」(pp. 78-79)。

 「知らせる」「教える」は、ときに暴力になるとわたしは思う。教育学者がそんなことを言うなんて!と批難されるかもしれない。が、そう思う事実は変わらない。その人の前に一方的に何事か新しいことを提示することの暴力性に、わたしは敏感でいたい。


 「大切なのはその人の生きる意欲や、前向きな気持ちを引き出すことだと思った。そういうケアプランを作れば、本人は生き生きとする。その結果、周囲ががんばって介護したり、社会的サービスをたくさん使う必要性も減る」(p. 55)。


 「夢なんか実現しないことが多い。それが人生。それでいいんだ。
 夢を持つことが大切なんだ。そしてじっと待つ。
 待ちながら、じわーっと命のぬくもりを感じる」(p. 71)。


 「〔……〕彼を日本に連れて来ようと決心した。今の東ティモールの医療状況では、治療は不可能だと思った。
 批判も受けた。なぜガスパルなのか。ガスパルのような人はほかにも大勢いるではないかと言われた。でも、大勢いるから一人も助けないなんて論理は、彼女には理解できなかった。彼女はせめて目の前の一人だけでも助けたいと思った」(p. 140)。

 あるいは、

 「『〔……〕〔チェルノブイリ後の〕1991年、初めてこの〔ベラルーシの〕病院を訪ねたとき、白血病の少年のお母さんに泣かれてね。少年の名はウラジミール。日本へ連れて行って助けてほしいって。ぼくはその気になりだしていた。あのとき、君は毅然としていた。この病棟の子どもたちは、みんなが生きたいと思っている。一人だけ日本へ連れて行ってはダメ。すべての子どもに生きるチャンスを与えてって。覚えてる?
 かっこよかったなあ。君の言う通りだと思った。あのときは反省したよ』
 〔……〕
 ぼくたちは同じ年の医者として、気があっていた。死にかけている子どもたちの命を救いたかった。生きたいと思っている子どもたちに悲しみの涙を流させたくなかった。一人でも死なせたくなかった。
 『一人の子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い』というドストエフスキーの言葉をずっとかみしめながらやってきた」(pp. 223-224)。

 幾通りかの考え方がある。

 「一人の子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い」という言葉をはじめて知った。胸に響いた。わたしもそう思う。ドストエフスキーが言ったのか。どういう文脈で言ったのであろう。『カラマーゾフの兄弟』か。探してみたい。


 「人間は優しくなくちゃ人間じゃないって思ってきた。
 優しさって得体の知れないもの。
 実は他者への想像力そのものなんだ。優しそうに見える人が、本当は優しくない人だと気づくときがある。
 そいつは自分に優しいだけなんだ。
 優しそうな顔をしていたり、優しそうな声にだまされてはいけない。自分でない別の人間へ、思いをはせることって、簡単そうでむずかしい」(p. 226)。

 優しさとは他者への想像力。

 公共性とは他者への想像力である、と前に書いた(検索しても出てこない)。

 その2つをつなげると、公共性とは優しさである、ということになる。ハンナ・アーレントは常に誰かのために席を空けておくことが空間的な意味での公共性だと言った。

 それって優しさだよね。


@研究室
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by no828 | 2009-07-23 20:41 | 人+本=体 | Comments(0)