思索の森と空の群青

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2009年 08月 31日

誕生日、学会、選挙速報

 3日前の28日で28歳になった。父から「誕生日と同じ歳になったな」とメイルが来た。

 しかし、歳を重ねるにつれて、誕生日を迎えたという実感がなくなってきている。それはここ数年、毎年誕生日と学会が重なり、誕生日どころではないからかもしれない。

 今年も28・29日と学会であった。金土という日程はめずらしいが、この学会は毎年金土に開かれる。

 27日の夜は、ここでも少し様子をお伝えしたように、レジュメを仕上げていた。23時過ぎまで研究室におり、28日になった瞬間は帰宅してシャワーを浴びていたはずだ。それからレジュメの読みなおし(赤入れ)を2時ぐらいまで続けた。その途中、み○こからお祝いのメイルが来た。


 28日、朝6時に起きてシャワーを浴びて再びレジュメを読みなおし、研究室に行き、11時頃に印刷をし、バスで駅に行き、電車で駒場に向かった。暑い。

 駒場東大前駅はまさに東大の入り口の目の前であり、「駒場東大目の前駅」に名称変更したほうがよいのではないかと思われた。

 受付を済ませ、生協でおにぎりを買い、ついでに本屋も見る。生協も本屋も広くて充実している。外から見ただけだが、食堂も清潔感に溢れていた。わたしの大学とは大違い。

 14時30分からシンポジウム。20分前に会場に入ったらすでに80%ほど席が埋まっており(そもそも会場自体が狭い)、「どうしよう」と右往左往していたら、前から4列目に先輩たちがおり、「ここ」と指を指しているのでそこに座らせてもらう。「かなり攻めますね」と言ったら「ここしか空いていなかったんだよ」。シンポ盛況。

 先輩と話していると指定討論者の某先生がこちらにいらっしゃり、「発表うまくいった?レジュメもらえる?」と声を掛けてくださった。「発表明日なんです」とレジュメをお渡しした。

 シンポは17時30分まで。あるテーマについて異なる専門の人がそれぞれの切り口から論じ、それに指定討論者が応答し、さらに議論する、という形式であったが、専門の違いを乗り越えて対話するのはなかなかに困難な様子であった。

 懇親会は出ずに、先輩・後輩たちと軽く一杯ということになる(知り合いが予想外に多かった)。

 明るいうちから渋谷で焼き鳥。

 そのあと「池袋にうまい店があるんです」と後輩(池袋勤務)が言うのでそこに移動。わたしは一旦池尻大橋の宿にチェックインして荷物を置き、みんなよりも遅れて参加(ダイヤの乱れもあり)。

 池袋で刺身。

 22時に解散、某ポカリとおにぎりを買って23時に宿。シャワーなど。


 29日、7時起き。シャワーを浴び、おにぎりを食べるなどしてからチェックアウト。暑い。

 9時に会場着。少しして到着された司会の先生おふたりにご挨拶。

 9時30分から12時まで分科会。発表20分、質疑10分。発表者は3人(残り2人は中国人で中国についての発表)で、11時から1時間全体討論。

 わたしの発表については「わかりにくくなっている現状を理論的に抽象的に論じているから余計にわかりにくい。わかりにくいものをわかりにくく論じてどうするのだ」といったご批判をいただく。怖れていた全体討論も、3つの発表テーマを一括して議論するというのではなく、発表者3人にそれぞれ20分ずつ割り振ってさらに個別に議論を深めるというスタイルであり、少し楽になった。中国の教育が専門の某学会の会長も途中から来られていたようで、わたしの発表にも1つご質問をいただいた。

 お昼は先輩たちと弁当。

 13時から15時45分まで公開シンポ。何だかなあ。

 どこかに寄って帰ろうかしら、と思っていたら、後輩から「先生から電話があって『これから家に来ないか』と」と言われ、しばし迷うも結局後輩と2人で行くことに。その先生(女性)のお宅はご夫婦で大学教員をされていて、その日は旦那さんの学生さんも来て、呑んだり食べたりということらしかった。

 お宅に着いて少々驚いたのは、料理は基本的に(というかすべて)旦那さんがしていたこと。わたしの父母はそれとは真逆なので、旦那さんが「ああ、片栗粉終わっちゃったなー」と言い、奥さんが「お父さーん、ビールないわよー」と言うのは、何だか新鮮であった。

 22時過ぎに先生のお宅を辞す。帰宅したのは日付が変わるぐらい。


 30日、お昼頃に起き出す。選挙は念のため期日前投票に行っておいたので行かない。シャワー、炊事洗濯。後輩から誕生日プレゼントにもらった『もやしもん』第8巻を読む。ビールについての巻。

 夕方、買い物。ガラスの容器と食糧。ゆっくりビールを呑みながら選挙速報を観ようと思い立つ。ヱビスの黒と緑、豆腐と白身魚とソーセージとミニトマト(無秩序な組み合わせだ)を買って帰る。

 呑みながら1時頃まで選挙速報を見続ける(主にNHKと日テレとテレ朝)。おもしろい(趣味の欄に「選挙速報を観ること」って書こうか)。

 が、民主党300議席超えはどうであろう。4年前の郵政選挙では自民党圧勝(獲得議席は300弱)。この振幅は何なのか。有権者の投票行動の変化にはもっともな理由はあると思うが、この一気に極が振れる事態はやや危険であるように思われるし、正直怖い。


@研究室
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by no828 | 2009-08-31 18:18 | 日日 | Comments(0)
2009年 08月 27日

脳内七転八倒

 レジュメを書き進めていたら、思いがけない方向に行ってしまってどうしようということになり、このままこの論理で行くか、あるいは修正を施すか、というところで立ち止まり中。

 うーむ。

 うーむ。

 ……

 と、ここでブログを放置してまたレジュメに向かってみた。とりあえず「あら、こんなことに」の方向で書いてみた。結論がおもしろくないなあ。でも、そういうことにしかならないよなあ。

 ……

 またレジュメに戻って部分修正を施した。書き進めたらまたはじめに戻って枠組みを組み直したり、研究の目的を書き直したり、という行ったり来たり。そうしながら自分にはレジュメの型ができてきたのかしら、と思ったり。論理展開が何となくパターン化してきた気がする。

 う、お腹空いてきた。胃は落ち着いている。たぶん身体感覚がすべてレジュメに持って行かれているからだと思う。

 論文投稿前とか学会発表前とか、研究室にひとりでいて脳内七転八倒を繰り広げていると、ちょっと孤独を感じたりする。助けてくれ!みたいな。でも頼りになるのは俺しかいない!みたいな。俺が何とかするしかないんだ!みたいな。まあ、自分の論文でありレジュメであるから、自分で何とかするのは当たり前なのだが。

 でも、こういうときに差し入れとか持ってこられたら、たぶんその子に惚れてしまうんだろうな。

 ま、そんなこと、これまで一度もないけどね。


 さて、一回帰ろうかな。プリントアウトしたものを見直すことが必要だ。明朝研究室に再び来て直して整えて、お昼の電車で駒場に向かう。


@研究室
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by no828 | 2009-08-27 22:50 | 日日 | Comments(2)
2009年 08月 26日

風はもう秋、山田アナ

 日差しは強い。が、風はもう夏ではない。だいぶ秋を帯びている。

 この時間の研究室は窓とドアを開けて風が通るようにしてある。その風、Tシャツ1枚だと涼しすぎるぐらい。


 そんな今日は九州にいる山田アナの誕生日。久しく会っていない。会いたいな。10月末の例のあれのときには会えるかな。司会候補?いずれにしても、

 おめでとう!


 ちなみに23日はちひろの誕生日でした。わたしは日付の変わる寸前にメイルを送りました。セーフ。


@研究室
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by no828 | 2009-08-26 19:38 | 友人 | Comments(0)
2009年 08月 25日

立ち会い人のお仕事@期日前投票

 相変わらず学会発表の準備+α。主張は決まっているのだが、なかなか書けない。

 昨日「胃が痛い」と書いたが、それは今日の痛覚から察するに、追いつめられたときの「あの胃痛」であると思われる。久しぶりに痛い。さっき思わず「胃痛、食事」などで検索してしまったが、おかゆやうどんなどがよいらしい。帰ってからうどん茹でるかな。それから、食べ方は少量を多数回がよいらしい。胃の中を空っぽにしないことが大切なのかな。100%の果物ジュース(好き。実家からもらってきたばかりだ)などで補給するようにしよう。

 
 夕方、某穂の庁舎へ期日前投票に行ってきた。期日前投票の場合、投票の前に個人情報や期日前投票の理由などを所定の用紙に書かなければならない。そのあと投票。今回は(1)小選挙区と(2)比例に加え、(3)県知事選と(4)裁判官の(不)信任もあるから全部で4枚。投票用紙は色で区別できるようになっており、用紙と同じ色が投票箱にも付けられていた。だから記載面を内側にして折ってからでも、紙の色だけでどの投票箱に投じればよいかがわかる。なるほどね。

 わたしが投票用紙に記入しているとき、後ろの方で投票に来た人が「比例には候補者書いちゃダメなんでしたっけ?」と係の人に質問していた。「政党を書いてください」と係の人は答えていたが、「あれ、候補者名でもよくなかったっけ?」と思った。「候補者名を書いても、その候補者の所属政党に1票が投じられることになるのではなかったか」と思ったわけだ。あれ、でも候補者が無所属の場合はどうなるんだ。うーん。比例には政党名を書く、がやはり決まりなのかな。

 ま、わたしは比例投票では政党名を書いたけれども。

 投票箱に入れるさい、立ち会い人の方から「はい、黄色」「はい、水色」と小声で指示された。「そのぐらいわかるさ」と思ったが、立ち会い人の方々(たぶん4人)も「座って立ち会う以外に何か具体的にしたくなるよね。声ぐらい掛けたくなるよね」とも思った。

 ところで、あの「立ち会い人」はどうやって選ばれるのかな。報酬はあるのかな。立ち会い時間はどのぐらいなのかな。前も気になったが調べていない。

 最後の投票用紙を箱に入れたあと、立ち会い人の方々から「お疲れさまでした」と言われた。一礼してから部屋を辞した。

 そういえば、投票している最中は胃が痛くなかったな。集中すると痛くなくなるのかな。


 学会発表の準備にも集中せよ!


@研究室
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by no828 | 2009-08-25 21:03 | 日日 | Comments(0)
2009年 08月 24日

学会初日の夜が読めない

 夜になってだいぶ涼しくなった。研究室の入り口のドアと窓を1カ所開けただけで十分に涼しい。風が通る。日中は暑く、だから冷房の冷風をかき回すために扇風機を付けていた。でも、冷房が切れたからと窓を開けたら涼しく、扇風機のスイッチも切ってしまった。

 秋、カモン。

 「カモン」なんて書いてしまったが、現状はそんなに軽くはない。学会発表の準備などがある。久しぶりにちょっと胃が痛い。ここのところ胃痛に襲われることはなく、だから「これ」が「あの胃痛」なのかどうか、判定がちょっと難しい。が、腹部がおかしいことはたしか。

 学会は28日(金)、29日(土)でわたしの発表は2日目の朝一。1日目の午後にあるシンポジウム(?)は聞きたいので初日も参加する。会場が渋谷(もっと言うと駒場東大前)の近くなので初日が終わってからこちらに戻り、翌朝また上京できなくもないと思っていたが、発表が2日目朝一ということもあったから念のため近くに宿を予約した(昨日予約した)。

 学会初日終了後の懇親会に出るか出まいか考え中。一昨年のこの学会(@東京タワーの近く)では懇親会に勇んで出席したが、知っている人が2人しかおらずたいへん寂しい思いをした。だから去年(@京都)は出ずに大学院の同輩と別の大学院の後輩と呑みに出かけた。今年は同輩も後輩も発表しないからなあ……。某先生がいらっしゃったら確実に呑みに連れ出されるが、しかし誰が学会参加するのかそもそもわからないし。何もなければ宿にビールを買って帰って、呑みながらちょっと勉強しようかな。


 あ、30日(日)の予定が?だから選挙は期日前投票に行っておこう。


@研究室
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by no828 | 2009-08-24 20:40 | 日日 | Comments(0)
2009年 08月 23日

萬國のカエル團結せよ!——アンダーソン『ヤシガラ椀の外へ』

 先日買って今日読み終わった本から。

 アンダーソン、ベネディクト『ヤシガラ椀の外へ』加藤剛 訳、NTT出版、2009年。

 著者は『想像の共同体 Imagined Communities』で有名なナショナリズム研究者、比較政治学者。『ヤシガラ椀の外へ』は、アンダーソンの学問的な経験を著したもの。だが、この執筆をもちかけられたとき、アンダーソンは乗り気ではなかった。「書かれた本が偉大かどうかが問題なのであって、本を書いた人が偉大かどうかは問題ではない」(p. 1)と考えていたからだ。

 しかし、引き受けた。それは、「〔著作を作りながらの、また、著作を通しての〕クロス・カルチュラルなコミュニケーション、言葉や文化の違いを越えてのコミュニケーションが持つ可能性と魅力」(p. 2。〔〕内は引用者)があったからだ(※ この本の出版は日本語でのみなされている。基本的に原文はアンダーソンによって書かれ、それが加藤によって訳されているが、本書で部分的に言及される日本のことなどについては加藤のほうが詳しいであろうというアンダーソンの意向で加藤が執筆した箇所もある)。

 この本では、先生としてのアンダーソンの姿も浮かび上がっており、「こういう先生に習いたかったなあ」と思わされた。そうした点を含め、ご紹介したい部分がたくさんあるのだけれど、本書の締めくくり方がふるっているのでひとまずそこを引用しておくことにする。

「既述のように、ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放のための可能性を洗練された形で融合させること、明確な政治的意識を持ち、賢明なやり方で融合させることが、今後はこれまで以上に必要とされる理由もここにある。それゆえに、ウォルト・ケリーとカール・マルクスの精神に倣い、この本の読書、とくに若い研究者の読者に向けて、次の言葉で乾杯をしたい。
 カエルは、解放のための闘いにおいてヤシガラ椀のほか失うべき何ものをも持たない。
 萬國のカエル團結せよ!」(pp. 281-282。傍点省略)。



 出来合の「枠」に囚われるな。


@研究室
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by no828 | 2009-08-23 19:21 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2009年 08月 22日

自分の人生や他人の成功を呪うような人生を送ってほしくないのです—— 池田千恵

 方法論。

 41(174) 池田千恵『「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!』マガジンハウス、2009年。

 非常に共感。ただ、「時間」って人間にとって一体何なんだ、とも思う。もちろん、制度化された時間の中でわれわれは生きざるをえないのであり、だから時間をうまく使いこなすことが必要だということはわかる。が、この本で重要なことは、時間、ということよりもむしろ、自分に自信を付ける、ということで、そのための方法が著者の場合は早起きであったということだと感じた。そして、時間を方法として採用したところがポイントなのだと思う。というのも、繰り返すがわれわれは時間の中で生きていかざるをえず、だからこそわれわれから引きはがすことのできないその時間を自信を付けるためにうまく方法化することが大切だと思うからである。

「世は不景気の真っただ中。あと何年もつらい状況が続くともいわれています。いろいろな欲望を我慢しなければならない、といった雰囲気になっています。
 でも、我慢のあげくに『こんなに我慢しているのに……なぜ?』と、自分の人生や他人の成功を呪うような人生を送ってほしくないのです」(p. 11)。


 第2パラグラフに共感。だからこそ欲張って頑張って生きてゆこうよ、と著者は言う。


「ところで、なぜ私は『朝4時起き』を自分に課したのでしょうか。その経緯は、『IQ』に関するトラウマを抜きには語れません。
 それは中学2年のある日、担任教師がクラスの皆に向けて言った言葉でした。『お前たち、千恵〔=著者〕はIQが低いんだぞ。こんなにIQが低い千恵がいい点数取ってるのに、それに比べてお前らはなんだ!』
 この言葉がきっかけとなり、以来、私はずっとくすぶり続けていたのです。
 〔……〕
 『私はIQが低いから、人一倍努力しよう!』
と思って、前向きな気分になれる日もあれば、
 『私が何をやってもうまくいかないのは、IQが低いせいなんだ』
 『こんなに頑張っても、どうせIQが低いんだから、もうやっても無駄』
と何でもIQにこじつけ、できない自分を甘やかす日もありました。
 そうやって腐っていく自分が嫌で、さらに落ち込むことの繰り返し。そんな日常から脱却したかったのでしょう。自分は『やればできる人間なんだ!』と思いたいという一心で、一流といわれる大学を目指したのかもしれません。
 しかし、見事に挫折。私の『朝4時起き物語』は、そこから始まったのです」(pp. 64-65)。


 本筋とはずれる感想になるが……。

 先生の言葉は、生徒の心の深いところに簡単に届いてしまうものなのだ、それがほめる言葉であっても、たとえ貶す言葉であっても。

 先生は十分気を付けて言葉を使わなければならない。


@研究室
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by no828 | 2009-08-22 20:35 | 人+本=体 | Comments(4)
2009年 08月 22日

18時30分ですでに暗いことに気付く土曜日

 昨夜は結局、研究室を出て、買い物をして(アボガドとウインナーとバターを買った)、帰宅してから走りに出て、シャワーを浴びて、ふと時計を見たら23時30分を過ぎていてびっくりした。23時前にはすべて終わるであろうと踏んでいたのに。
 
 というわけで、昨日も走った。4日連続ジョグ。ただ、腰の辺りは走ると相変わらず「ぴきーん」と痛むので、20分と短めのジョグ。この痛み、筋肉の痛みではない気がする(経験則)。いわゆる「筋(すじ)」ってやつか。神経?座骨神経?(座骨神経って何かはよくわからないがよく聞く。)座りすぎ?

 でも、歩くときはまったく痛くない。腹筋するとき腰を折り曲げるけれども全然痛くない。走るときだけ痛い。うーん、何なんだ。


 さっき18時30分に外を見たら結構暗くなっていて驚いた。ついこの前までは19時になっても明るくなかったっけ。気温はまだまだ高く、蒸し暑く寝苦しい日々が続いているけれど、確実に秋に向かっているのだな。いつの間にか秋じゃね?とならないように、日々の変化には敏感でありたいと思う。
 

 ……今日は走るのやめておくかな。


@研究室 
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by no828 | 2009-08-22 19:28 | 日日 | Comments(0)
2009年 08月 21日

好きなもの嫌いなものが洗練されてくるのがわかって

 昨日20日も走った。ただ、20分。18日、19日と25分走り(5kmぐらいと書いたが6kmぐらいありそう)、昨日もそうしようと思った。しかし、走りはじめた瞬間に腰から左足大腿部にかけて「ぴきーん」という張りつめた、鋭利に響く痛みが走った。わたしが走るよりも前に痛みが走るとは何事かと思いつつ、今日は走るの無理か、と思ったが、走ることを妨げることはなさそうなので走ることにはした。実際、走れた。が、念のため某峰公園内1周をやめて、単純に公園までの往復20分ジョグとした。

 現在、今日は走るかどうしようかと考え中。

 学会発表の準備などをしていたら今になってしまい、これから帰って、あ、買い物もしないといけない、だって冷蔵庫の中に入っているのはビールのほかに(たぶん)納豆と卵と辛子明太子(先日某カスミに行ったら(たしか)598円が(たしか)119円になっていたから!ただし賞味期限が昨日であったため急いで冷凍保存の必要あり)と冷凍鮭と冷凍ご飯であり、ビールのお供になりそうなものがないから、ということを考えると、買い物して帰って走ったら結構遅くなるなあと考えているわけである。

 走っても走らなくてもビールは呑む気がする。だって今夜は暑いから。いや、今夜は暑いよ。研究室内もかなり暑い。風もない。

 
 そうそう、今日は先日ネパールの件で触れたマザーハウスの山口絵理子さんの誕生日であることを付言しておきたい。わたしと同じ年の生まれなので、わたしより一足先に28歳になられた。ここでこっそりお祝いを言っておきたいと思う。おめでとうございます(こっそり)。乾杯!という意味でも今夜はビール呑むことにしよう、そうしよう。


 あ、28歳で思い出した。先日テレビで歌手の Salyu が(たしか28歳なのだが)「歳をとると自分の好きなもの嫌いなものが洗練されてくるのがわかって、それがとてもたのしい」といった趣旨の発言をしていて、「あー、それ、すごいわかるわー」とひとり思った。好きとか嫌いが洗練されたかたちで自覚されはじめるということは、「自分」(なるもの)のことが自分で意味を伴ってわかりはじめる、あるいは「自分とはこうだ、こうだったんだ」というふうに自己形成してゆくっていうことなのかなと思った。自分をある枠にはめてかちかちになるってこととはちょっと違って、何というか、自分がぎゅっと充実してゆく感じ。少なくともわたしはそんな感じ。


@研究室
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by no828 | 2009-08-21 21:38 | 日日 | Comments(0)
2009年 08月 21日

教育は他者に対してなされる行為だ——広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』

 お盆休みを終えて学園都市に戻ってきて、風が何だか夏の終わりを告げているようで、これから秋に向かうのかしらと思ったのに、結構暑い日々が続いている。夜も暑い。2時間ぐらいで目が覚めてしまう。だから昼間眠くなる。本を読み、眠くなったらそのまま机に頭を預けて15分ぐらい寝る、ということを今日は繰り返した。

 今日は大学に来る途中で某ソンに寄って某amazonに頼んだ本を受け取ってきた。以下はその中の1冊。

 広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店、2009年。

—————

「『教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである』〔……〕
 この定義で大事なポイントは、『他者』である。すなわち、教育は他者に対してなされる行為だ、ということである。『教育』と『学習』の決定的なちがいはここにある。『学習』が個人内部で起きる出来事であるのに対して、『教育』は他者に対する働きかけなのである(『自己教育』という言葉もあるけれど、それはほとんどの場合、自己学習や独学をもっともらしく言い換えただけのものにすぎない)。
 自分ではない誰かに対して、ある学習をさせようとするわけだから、そこでは、教育しようとする側の『教育』には、常に教育される側の『学習』がセットになって想定されている。『教育』には『学習』が必要なのだ。
 しかしながら、その逆は真ではない。『学習』には、必ずしも『教育』が必要なわけではないのである。〔……〕『教育』がなくても、私たちは『学習』が可能なのである。
 それどころか、現実には、教育される側〔……〕は、教育をやり過ごしたり、無視したりすることができる。教育は行われるが学習が生起しない、という状態である」(pp. 9-10)。


 前にこういうことを大学院の仲間と議論した。立場によって「教育」「学習」の定義がいろいろで、議論がなかなか収束しなかった。

 わたしは、基本的に広田先生の定義と同じ考え方を持っている。教育は他者への働きかけであるから、他者の内部で何が起こるかまでをプログラミングすることはできない。だからこそドイツの教育学者ブレツィンカは「教育」を「試行」と定義し、教育哲学者の鈴木晶子は「賭け」と呼んだのだ、と広田先生は書いている。教育する側の意図が達成されなくても、「それ」は「教育」なのである。

—————

「臆病な教育哲学
 学校教育がめざすべき方向について、教育哲学者たちにもっと語ってほしいと私は思っている。現代の教育哲学者(少なくとも日本の)は、この点でずいぶん禁欲的な感じである。いや、禁欲的すぎる」(p. 110)。


 そのために教育学の議論には空隙ができ、その空隙に経済学者や経営者や新/保守主義者などの非教育学者が入り込んで教育が語られるようになり、さらにはそれが教育政策に反映されるようになっている、と広田先生は言う。また、そのために教育学の下位分野(教育諸学)のあいだにも困惑が広がり、ふらふらの状態になっている、とも言う。問題は教育の哲学と思想にある、ということである。

 なぜこのようなことになっているかと言えば、広田先生ご指摘のように、ポスト・モダンと一括される思想的趨勢によって、確かなことなど何もない、ということに気付いてしまったからである。力点は、確かなことなど何もない、よりもそれに、気付いてしまった、というところにある。これまで近代教育学が足場にしていた「確かなこと」がそんなに確かなことじゃないんじゃないの?と気付くようになったのである。だから、「これだ!教育が目指すべきはこれだ!」と言うことはできても、「なんで?根拠は?」ということになり、いくら根拠を並べても、根拠の根拠、さらにその根拠、というふうに無限後退して、「なーんだ、根拠ないじゃん。確かなことなんて何もないじゃん」ということになる。それが目に見えている。だから何も言えない、あるいは言うことにためらいを覚える、ということになるのだと思う(わたしもそうだ)。

 それでもきちんと言え、と広田先生は言うし、きちんと言うことが必要だとも思う。どのように言ってゆくか、ということになるのだと思う。

 それから、これはまったくの個人的な「言えなくなった」状況の背景に、社会学(を勉強したわたし)が教育学(の中にいるわたし)に与えた影響もある。つまり、「記述に徹しろ。価値判断はするな」というマックス・ヴェーバー流の社会(科)学観を踏襲する社会学の側から、「なんで教育学者は価値判断してんの?それって学問のすることじゃなくね?ある価値を信奉・信仰してるってことは、学問じゃなくて宗教じゃね?」ということである。これはまだ答えが出ていない。

 しかし、教育学者が沈黙しても教育をめぐる議論は静かになっておらず、それは教育学者の代わりにしゃべっている人たちがいるということであり、それが先に挙げた経済学者などである。沈黙するということは、だからそういう人たちに「どうぞ、しゃべってください」と間接的に言っているようなものであり、「それじゃあ、まずいでしょ?」と広田先生は言う。

 学者としての領分があると思い、それを越えてよろしいのかしらと思う。しかし、領分の中に閉じこもることで、教育が非教育学者主導で形作られてゆく。それでよろしいのかしらとも思う。領分なんてものを勝手に決めないで、どんどん外に出てゆくことが求められるのかなあ。


@研究室
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by no828 | 2009-08-21 19:14 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)