思索の森と空の群青

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2010年 02月 28日

やっぱり5分前

 昨夜は2時まで論文の検討。今朝は8時過ぎに研究室へ。雨降りの日曜日。

 締切5分前まで粘ってメールで送稿(締切は正午)。いつも思うが、この5分前の事態が1週間前にすでに達成されていればどんなによいか。1週間前にこれだけの詰まり具合を見せていれば、その1週間をかけてもっと緻密な点検を余裕を持ってできるのに。

 とにもかくにも、無事に受理&採択されますように。

 と、ここまで書いて、別の書類を作った。TF、という部外者には(*部内者にも)正体不明の資格にエントリするための授業のシラバス。来年度は博士前期の授業でのTF採用を期すことになるので、その授業で授業者として何をしたいかということを書く。わたしが制度的に属している教育学の下位分野は、国際政治の舞台で合意された理念の唱導か、海外教育事情の紹介か、あるいはジャーナリスティックなフィールド報告か、のいずれかに分類しきれてしまう、と言うと言い過ぎかもしれないが、それほど間違ったことを言っているつもりもない。だから、とりわけいわゆる途上国の教育政策を学問の対象とする場合、何に気を付けなければならないのかを再確認しておくことは必要であろう。だから、規範科学と経験科学の関係という点から、この主題を考えてみたいと思っている。わたしが受講生であれば受けてみたい授業である。だが、今の1年生とか新しい1年生が受けたいと思うかはわからない。でも、まあ、よい。「教育」の中身は、教育する人が決めるしかないからだ。
 とはいえ、“おまえにそんなことできるのか(何を偉そうに)”というお叱りの声も聞こえてきそうではある。わたし自身も自分だけでできるとは思っていない。マックス・ウェーバー先生の教えを乞いたいと思っている。よろしくお願いします、ウェーバー先生。


 さて、夕方になったら髪切りに行くかー。シルク・ヱビスも買うかー(ちょっと贅沢)。 


@研究室 
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by no828 | 2010-02-28 13:21 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 27日

免許状と関節技

 曇天。寒く感じられるのは昨日までの数日が暖かすぎたから。

 朝、部屋を出たところでちょうど郵便配達の方が来て、少し離れたところから“もしかしてこれあなた?”的な仕種で封筒の宛名をわたしに見せる。無音のコンタクト。「あっ、そうですー」とわたしは有音で応答。簡易書留のため「フルネームでお願いします」で署名。

 ついに、来ました。

 「中学校教諭一種免許状(社会)」&「中学校教諭専修免許状(社会)」

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 単位が足りずに科目等履修生を2回もして取得しました。単位不足は、(1)卒業時に事務で「1科目1単位足りませんが」と言われる(too late!)、(2)院生になって学類(学士課程)の授業を受けて必要な1科目1単位を取ったのに、「教職の場合、科目等履修生になって取らないと単位認定されません」と言われる(are you sure!? unreasonable system!)、(3)科目等履修生になって某人文の1年生に混じって単位を取って「これで揃ったぞ」と某教育委員会に書類一式揃えて送ったのに「1単位足りません」と言われる(* 本当は2科目2単位足りなかったのだ! oh, no!)、と3度も通達されてきました(落涙)。
 
 そこで今年度再びお金を払って(落涙)科目等履修生になり、某図情の2年生に混じってグループワークとグループ発表までして必要な1単位を超える2単位を取得し、“今度こそ”の気持ちで申請、無事に免許状取得となりました。「登記されていないことの証明書」も某九段下の某法務局まで4回ぐらい取りに行きました。

 ようやく取得できて、今日はじゃあビールで乾杯と行きたいところなのですが、それは明晩に持ち越し。

 論文を仕上げなければ!

 辻褄が合わなかったところは論理を駆使して合わせました(いや、合ってるかどうかは読み手の判断に任せるしかないんだけれど)。何か、論文相手に関節技を決めまくった感じです。このパラとこのパラ、この論理とこの論理、そのつなぎ目をばきばきばきっと決めた感じです。相手は「痛い!」とも「ギブギブ!」とも言わないので本当に決まっているかどうかはわかりません(相手が論文だから当たり前)。むしろ、何も言わないのでそんなに無理せずにつなげることができたのかもしれません。「痛い!」とか言われたらそれは無理があるってことだもの。

 で、そんな勢いで書いていたら、案の定字数制限を超えてしまいました。削ります。

 あ、about 300 words の英文要旨とその和訳も本体と同じく明日正午締切ですか? 

 ふむ。


@研究室 
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by no828 | 2010-02-27 21:29 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 26日

辻褄が合わない

 南方面から強く湿った風が吹く。

 室内にいると、その湿気と集中暖房の熱気で不快指数が上がる。しかし、論文を書かなければならない。

 夕方、雨が降り出す。某研修の講師としてこちらにいらしていた某先生と1時間ほどお話をする。傘をお持ちでなかった先生と相合い傘をしてバス停まで歩き、そこでお見送りをする。

 それからまた論文。んー、何か1カ所辻褄が合っていないところがある気がするなあ。何かもやもやするなあ。うーん、うーん、とかれこれ数時間悩んでいる。行き詰まったのか煮詰まったのかわからないけれど、脳はもはや働いてくれていない気がする。昨日、池谷先生に「脳は疲れない」って教えてもらったばかりなのに! 単に自分で脳の限界設定しているだけですか? あー、髪切りたい。帰ってシャワー浴びて、すっきりしてまた考えるかな。


@研究室
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by no828 | 2010-02-26 21:23 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 25日

やってないから、やる気が出ないのは当たり前です——池谷裕二・糸井重里『海馬』

 今日は国公立大学法人2次試験。朝は曇天でもやもやしていたが、今はもうルーハー。

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 版元サイト

 18(251)池谷裕二・糸井重里『海馬 脳は疲れない』新潮文庫、新潮社、2005年。
 * 単行本は2002年に朝日新聞社より刊行。
 ** カバー装丁・挿画は寄藤文平。

 脳のお話。


糸井 〔略〕
 つまり、次に向かうベクトルがあるかないかが、素敵だとか頭がいいとか思う境界線なのでしょうか?
 頭がいい、素敵だ、かっこいい……そうほめる時って、何か、「この人を、とめないでおきたい」って思っているような気がするんですよ。
池谷 「とめないでおきたい」って、いい表現ですね。
糸井 〔略〕
 一緒にどこかおもしろいところに行けるかもしれない、と思えるような人が、頭がいい人なんじゃないかなぁ。

■(49-50)

 これはちょっとわかるかも。学類の同期はみんなそうだな。どうぞそのまま行っちゃってください、と思う奴らばかり。最近は後輩などを見てホントごくごくたまーにだけれど、「この子はこのまま行ってほしいな」って思うことがある。それって「頭がいい」と言い換えてもまったく問題なし。わたしもそう思われるように精進すべし。


池谷 〔略〕脳自体は三十歳や四十歳を超えたほうが、むしろ活発になると言われているんです。三十歳以降の脳は、独特なはたらきをするようになるので、それを利用できるかできないかで、ずいぶん変わってくると思いますよ。
〔略〕
 ……三十歳を過ぎると、つながりを発見する能力が非常に伸びるんです。
〔略〕つまり、前に学習したことを生かせる能力というか……。一見関係のないものともののあいだに、以前自分が発見したものに近いつながりを感じる能力は、三十歳を超えると飛躍的に伸びるのです。
〔略〕三十歳を超えるとワインが熟成していくような落ち着きが出てくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る。
〔略〕
「今まで一見違うと思われたものが、実は根底では、つながってる」
 ということに気づきはじめるのが、三十歳を超えた時期だと言われています。
〔略〕
糸井 三十歳までは構築していくのに力を入れる時期で、そこからはつながりを発見していくんですね。

■(54-6)

 マジですか! ちょっとわくわくしてきましたよ! 30歳以降のつながり発見能力爆発のためにも、つながりの結節点となるべき種々の要素を勉強して蓄えておく必要があるぞ。あと1年半! 勉強すべし!

 で。

 ここを読んで思い出したのが、師に言われたこと。「30歳までは大学院に残りなさい」と言われたことが何度かある。「研究者は30歳までの貯金でそれ以降の研究生活を送ることになる。30歳までで決まる。だからそれまでにたくさん勉強しておきなさい」。その意味を改めて噛み締めてみる。 


糸井「ひとつのことを毎日、十年くりかえしさえすれば、才能があろうがなかろうがモノになる」という言葉があるけど、やっぱりそれは正しい。
■(124)

 これはたぶん吉本隆明のことば。“それでモノにならなかったら俺の首をやるよ”っていうようなのがあとに続いた気がする。


糸井〔略〕
 脳の神経細胞を前にして、池谷さんが説明してくださったことに似た発展をアメリカがしたように思えます。つまり、神経細胞は隣どうしだけでは育っていないじゃないですか。離れたところとも、いつでもコミュニケーションしようとしている。
池谷 ええ。それぞれの神経細胞は独立して育った上でお互いに交通していますよね。
糸井 インターネットがアメリカで育ったのも、当然だなぁという気がしてきました。
池谷 ええ。アメリカの都市計画もインターネットも「遠くは一気に近くにもなる」というような発想ですから。

■(167)

 これを読んでハートとネグリの『<帝国>』を思い出した。


池谷「やる気」を生み出す脳の場所があるんですよ。側坐核と言いまして、脳のほぼ真ん中に左右ひとつずつある。〔略〕
糸井 そんなに具体的な場所があったんですか、教えてくれたら、そのへん叩いてやるのに。
池谷 ははは。ところが、側坐核の神経細胞はやっかいなことに、なかなか活動してくれないのです。どうすれば活動をはじめるかというと、ある程度の刺激が来た時だけです。つまり、「刺激が与えられるとさらに活動してくれる」ということでして……やる気がない場合でもやりはじめるしかない、ということなんですね。そのかわり、一度はじめると、やっているうちに側坐核が自己興奮してきて、集中力が高まって気分が乗ってくる。だから「やる気がないなぁと思っても、実際にやりはじめてみるしかない」のです。
糸井 やりはじめる前に、やる気がないのは当然なのですか?
池谷 はい。やってないから、やる気が出ないのは当たり前です……〔略〕

■(208)

 う……。とりあえずはじめてみるってことですね。


糸井〔略〕
「自分にとって何が快適なのか」とか「しあわせとはどういうものか」というような、青少年が思うようなことを考えなければ、少なくとも「何がおもしろいのか?」もわからないんじゃないかと気づいたんです。気づいたのが四三歳とか四四歳の時ですから、ひどく晩生〔おくて、と読む〕なんですけど。
 そういうことを考えはじめたら、ぼくとしては、逆にたのしくなってきたんです。「人生の目的というようなものが、あったらずいぶんいいなぁ」と思ったから。
 机の上で考えこむタイプの若い頃の思想とかではなくて、自分のボディと自分の世界観とがはじめてジョイントしたから、おもしろかったんです。
池谷 それは、すごい高次元な「つながりの発見」だと思います。

■(299)

 これも実感としてよくわかる。自分の脳と身体がぴたっと一致するというか、全身で“よっしゃ”という感覚になるというか、そういうことをわたしも経験したことがある。それが研究に対する今の態度になっているわけだが……またあったりするのかな、そういうの。

 あ、あと、サブタイトルにもあるように、「脳は疲れない」そうです。疲れるのは、眼とか、肩とかで、脳は疲れていない。だから、がんがん使って大丈夫だそうです。宮崎駿は朝の9時から朝の4時まで仕事をするそうです。弁当は2箱。ひとつは昼、もうひとつは空腹時。食事の時間は15分。あとは仕事。手塚治虫もそういう勢いで仕事をしていたそうな。

 がんがんやるしかなさそうです。


@研究室
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by no828 | 2010-02-25 16:15 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 02月 24日

な → た

 今日もルーハー。

 こんな陽気の日にはどこか遠くに行くか、芝生に寝転がって時間を無為に過ごすか、してみたい。が、目下そんなことが許される状況にはない。

 今日は基本的にずっと論文書き。午後に読書会があり、そのためにテクストを読んだが、それ以外は論文書き(某カスミにも行ったが)。椅子に座り、机の上のパソコンに向かい、ときどき先行研究としての本やら論文やらを引っぱり出す。わたしはかなりの時間をパソコンと対面していることになる。

 だから、Twitterをはじめようか、と思ったりもする。論文を書いていると、そりゃあ、つぶやきたくもなる。「論文執筆なう」とか、「文献読解なう」とか、「論文1行書いたのに3行消したなう」とか、「締切近くになってようやく本腰を入れるわたしなう」とか。研究者以外の方にはちっともおもしろくないと思うけれど。

 が、Twitterって何なんだ、とも思う。「どこどこなう」のような文法があるようなのだが(一応チェックはしているのだ)、“それって自ら自発的に自分の居場所を公に告げているようなものではないか!”と思う。もちろん、場所だけにかぎられない。が、基本的に“わたしはいまどこで何をしています”ということを告げることになることはたしかであろう。

 はて。

 少し前まで(ってどれくらい前かは正確にはわからないが)、「プライバシーの権利」が叫ばれていたのではなかったか。「見られない権利」が主張されたのではなかったか。

 現在はむしろ、「見られたい権利」の時代である(もはや権利として求められるものでもないと思うが)。「見られ“な”い権利」から「見られ“た”い権利」へ。

 寂しいのかなと思う。見られたいのは見られていないからだ、とわたしは思う。近くに、現実に、見てくれる人がいたらインターネット空間に自らを晒したいという欲望も生まれないのではないか。

 いろいろと留保を付けて慎重に論じるべき事柄だとは思うけれど、ひとまず、乱暴には上のように言いうると思う。そしてかく言うわたしもTwitterをしたいとか思っている時点で、というより、ブログを書いている時点で、すでに寂しさを感じているのかもしれない。自覚していないが、というより、自覚しないようにしているのかもしれないが。

 あれ、今日はお昼ごはんを食べていない。チョコレートを何個かつまんだが、12時間ぐらい“ごはん”を食べていない。

 空腹なう。


@研究室
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by no828 | 2010-02-24 21:23 | 日日 | Comments(6)
2010年 02月 23日

ルーハー

 今日はルーハーな気候。マフラー不要、ジャケットも不要(一応持ってはきたが)。

 大学へは某カスミ経由で。通常97円の缶詰が37円で売られていた(お一人様3点限り!)。もちろん購入して、あとは納豆など。

 3学期制のためにまだ授業があるこの大学では3限がTA。配布資料のコピーをしたり機材を借りたり。来週が試験週間。この授業は課題がレポートのため試験はなし。今日で今年度は最後。お疲れさまでした。(あ、出欠を取りまとめて先生に提出しなければいけない……。)

 6限は社会学。これも今年度最後。だが、うまく発言できず。切り込めないのはなぜなのか。いずれにしても(というのは便利な言葉だ)、お疲れさまでした。

 ところで、この大学の教育学関連領域の人びとで本を書くという話が進んでいる。前にも聞いてはいたのだが、どうやら本当に進んでいるらしい。8月末原稿締切、ぐらいの進度。わたしも仲間に加えてもらえるようなのだが、指導教員と“セット”と聞いていたので何だかなあと思っていた。今日、「それって連名ってことですか?」と某先生に訊いてみたら、そうではないらしい。院生は指導教員の所有物でも何でもないのだから、共同研究のようなかたちを採るのであっても、もっと自由に研究が進められるとよいと思う(もちろん先生方の事情もあるとは思うし、想像はできる)。ただ、本の構想は教員が詰めているようで、そこには院生は入り込めない。何だかなあと思う。この組織はそういうところがある。無駄に権威的というか、権威しかないというか。だからその権威ベースに1回乗らないと話も進まない。“何だかなあ”と思っている先生もいるのではないかと思うし、いてほしいとも思う。

 なお、冒頭のルーハーは、春ってことです。ああ、憂鬱な季節。


@研究室
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by no828 | 2010-02-23 19:07 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 22日

濃縮還元と脳科学

 日曜日はよい天気。洗濯を済ませてから研究室に出動。

 マルクス先生、レヴィナス先生とお勉強。それから共生の論文。11月末日締切で書いた小論を読み直してみたり。結構おもしろいことを書いているのではないでしょうか > 自分。ただ、8,000字の中に短縮・濃縮したので、詰まっている感が非常に(“ひっじょーーーっにっ”と読む)ある。これを、100%フルーツ・ジュースのように20,000字まで“還元”する必要がある。もちろん、小論の内容に加え、新しいアイデアも貫入する。

 自分のために議論の構図をスケッチ → Aという立場がある。それには原理がある。今回はわたしもその原理を支持する。しかし、それを支持するがゆえにわたしはAを批判する。というのも、その立場を既存の論述方法で維持しようとするとうまくいかないと考えるから。支持対象がうまくいかないのは支持者にとってよくない(支持した立候補が落選したら悲しいでしょ)。だからうまくいくための論述を再検討したい。そのためにαとβというふたつの位置からAをできるだけ内在的に批判し、Aをその批判に耐えうる理論に生まれ変わらせるためにはどうするか、ということを新たに考える。そこがわたしのオリジナリティ。

 おもしろくなりそうじゃないですか > 自分。

 わたしの専門は国際教育開発論ということになるのだと思うのが(本当ですか?)、そのテーマを追っているときよりも、共生に取り組んでいるときのほうが“景色が見えやすい”。前者のほうは知識が“邪魔”をして景色を見えにくくしている。素直に見られない、というか。後者・共生のほうは、知識がないぶん、幼子のような無垢な心で物事を見られるような気がする。それで、“何だかここに引っかかるなあ”というのが表出しやすい、ような気がする。もちろん、研究においては当該テーマの知識は不可欠であるが、それに縛られるようになると好きに動けなくなる。そうなるとあまりおもしろい論考を立てられない。

 そんなことも考える。

 19時過ぎに撤収。某ララ・ガーデンでノート2冊とお香2箱(1箱20本入り)。お香は毎回新しいのに挑戦しているのだが、今回購入した1箱が以前試したものと同一のものであることが帰宅後に判明。購入時にはそれに気付くこともなく……。

 どうしてくれるんですか > 自分。

 それから某ブックオフに。105円の文庫本を6冊。池谷裕二と糸井重里の『海馬』とか、斎藤貴男の『機会不平等』とか。あ、あと、なだいなだの『おっちょこちょ医』も。これはわれらがトルシエが『明日のEXECUTIVE』にて「愛読書」に挙げていたものだ。偶然見つけたので買っておく。トルシエはどこにおもしろみを感じたのか、ということを意識しながら読んでみると、また別の読み方ができるのではないか。わたしは基本的に「これ、おもしろいですよ」と言われると読みたくなる質です。

 で。

 『海馬』を手に取って、最近「脳科学」が話題になっていることに改めて思いを致す。もともとは唯脳論の養老孟司ですか。いまは茂木健一郎ですが。なぜここまで話題になっているのか。“頭がよくなりたい”という欲望があるからというのももちろんあるとは思うけれど、それよりも、“頭がよくなりたい”と人びとに欲望させる機制が働いているから、なのではないかと思う。乱暴に言ってしまうと、エリートを養成したい+自立した国民を形成したい国家の論理と、フレキシブルに活用できる労働者を育成したい資本の論理の合流地点にあったのが脳科学、なのではないか。“使える”人間を育てたい、少なくとも“使えない”人間を減らしたい、ということなのではないか、ということなのですが、斜に構えすぎていますか? もちろん科学は“善用”のみならず“悪用”もされるし、“悪用”までされないとある意味で“本物”ではないのかもしれない。だからこそ、その見極めを、その磁場から意識的に少し離れたところで行なうことが求められるのではないかとわたしは思う。


@研究室
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by no828 | 2010-02-22 12:48 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 20日

手がかりを残しておく土曜の夜

 昨日書いたように、今日は午前中アパート前道路が工事のために封鎖された。そのため、午前は部屋で少し勉強し、お昼を食べてから大学に行こうと思っていた。が、13時を過ぎても封鎖が解かれる様子はなかった。そのため、工事の方に言って、何とか脱出させてもらった。まったくもう。

 14時から大学会館にて映画「ブルー・ゴールド 狙われた水の真実」。大学の水研究者が補助金?研究費?を使って自主上映会を開いたということで、無料で観ることができた。渋谷の映画館(行ったことがある)で上映中のようなのだが、ここに行って観ていれば交通費込みで4,000円ぐらいかかったと思われる。

 映画の内容は、“水の商品化”と“グローバリゼーションの中の南”が主軸になって構成されていた。感想は、自分の中で少し醸成させてから書きたいと思う。

 映画『ブルー・ゴールド-狙われた水の真実』公式サイト
 * 音が出ます。

 映画には専攻の後輩もいた。鑑賞後、研究室に戻ってきて珈琲を飲みながら少し話をした。ただし、映画のことというよりも研究のことを。

 そのあと、ネオリベラリズムとか『ドイツ・イデオロギー』とか。マルクスが次代の研究者たちに多大な影響を及ぼしていることがよくわかる。“あ、これってデリダが言ってたことじゃん”とか、“これはスピヴァクじゃん”とか。デリダもスピヴァクもマルクスを踏まえている。マルクスを支持する/しないにかかわらず、読んでおくことは人文・社会科学の研究者にとっては不可欠だと思われる。と言っても、わたしも全部読んだわけではないが。

 以上のことは、わたしのこのブログを長らく探索している後輩に向けても書かれている。キーワードをわざと散りばめておいたので、たぶん発見できるのではないか。見つけたらコメントちょうだいね。


@研究室
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by no828 | 2010-02-20 20:23 | 日日 | Comments(0)
2010年 02月 19日

市民社会は縁もゆかりもない他者と相互信頼して共に生きる決意をした人々がつくる——佐高信『面々授受』

 ここ数日右目のまぶたがときどき痙攣する。疲労蓄積? 寝不足? 前にもなったことがあるのだが、このぴくぴくは心地よいものではない。

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 版元サイト

 17(250)佐高信『面々授受 久野収先生と私』岩波現代文庫、岩波書店、2006年。
 * 単行本は2003年に同書店より刊行。

 佐高信『青春読書ノート』に触発され、古本で入手して読んでみる。弟子=佐高が描く先生=久野の姿勢。師弟論には弱いなあ、わたしは。憧れがあるからかなあ。

 ちなみに、久野収は「くの・おさむ」と読みます。わたしはこれまで「ひさの・しゅう」だと思っていました……。姓と名の、せめてどちらかは当てておきたかったなあ。


市民社会とは端的に言えば「開かれた社会」だが、家族あるいは家庭と市民社会について、久野はこう言っている。
「血縁的には無縁の男女が一緒になって家庭をつくる。それは確かに市民社会の一単位なんだが、子どもが生まれて血縁のつながりになると、大変閉鎖的なものになってしまう。市民社会というのは、縁もゆかりもない他者と相互信頼して共に生きる決意をした人々がつくるもので、本来外側に開かれたものなんです。だから市民社会と国家とは全然違うんだが、家庭はともすれば国家のように閉ざされかねない。家族エゴです。こうして家族が国家にからめとられると、家族国家となり、天皇制ファシズムになってしまうわけです。自分の家族だけ大事にして他人の家族を差別する。この自他の差別の構造が、家族エゴイズムの連合体となって他国、他民族を差別する国家になってしまう」(久野・佐高『市民の精神』ダイヤモンド社)。

■(41-2)

 「市民社会」は多義的な概念であり、その規定の仕方は立場によって異なるということをまずは押さえておくことが必要。そのうえで、久野・佐高は上述のように定義しているというふうに受け止めておこう。

 引用しながら思ったことは、久野が想定するように、そんなに簡単に“(個人→)家族→国家”になるのかなということ。日本が天皇制ファシズムと呼ばれる国家になったと認識するところから、むしろ逆向きに“(個人←)家族←国家”を導き出しているように見える。

 エゴを捨て去ることはできないと思うが、エゴにならないようにしようと努めることは必要だと思う。そのさい、“わたしはわたしの家族が大切だ”という思いを悪として消去しようとしなくてもよいとわたしは思う。必要なことは、“わたしがわたしの家族を大切だと思うのと同様に、あの人にも大切に思う人(たち)がいるはずだ”と考えること。もちろん、この考え方にも問題を見出そうと思えば見出せるのだが、ま、とりあえず。

 あ、あと期せずして「共に生きる」が出てきた。“共生の理念と市民社会”で小論1本?


 その人が敬慕したり、持ち上げている人の言葉で、その人を批判する。そういう、いわば内在的批判の重要性を久野は説いた。外からの超越的批判よりはそれが効果的なのだと強調したのである。
■(51)

 やっぱり内在的批判のほうが効くんだ。 


 「ぼく〔=久野〕はいつも考えていたんだが、被害者意識で、こんなに差別された、こうも侮辱された、と憤慨するばかりでは、積極的な成功はなかなかかちとれない。
〔略〕
 ぼくは、差別されている側の人間的誇りを引き出す視点が弱かった、と思う。
〔略〕
 大体、明治政府が被差別部落の住人を「新平民」として戸籍に編入したのも、兵隊にとり、税金をとるためだった。
 その時、部落の人びとに誇りがあれば、「せっかくですが、ご免こうむります。それより、もっと、わしらの待遇や暮しをちゃんと出来るようにしてからにしてください」というべきだった」
 久野は戦争中の抵抗運動の中で、最後には被差別部落に入らなければと思っていたという。そこには、国家権力から自立する最も強い団結があり、警察も遠慮して踏み込めなかったからである。

■(81-2)

 被差別部落の人ではない久野がこのように言うことの問題もまた。


 山代巴の夫、吉宗は共産党員だった。そして戦争への抵抗運動をして捕われ、獄中で、なぜ自分たちは敗れたかを考える。そんな吉宗が巴たちのやってきたささやかな勉強会に顔を出し、後でこう言った。
 「あんたのはおしつけだね」
 巴が驚いて、
 「ではどうすればおしつけでなく教えられるの」
と尋ねると、吉宗は答えた。
 「刑務所のなかで俺が勉強してきたのは、自分の考えを人におしつけることは絶対にいけないということだった。相手の質問に答えるというような方法でなかったら、人を説得することはできないし、誰の役にも立ちはしない。まずその人々から質問のでる空気をつくることが大事なんだ。あんたのやり方を見ていると、質問の出る空気ではなくて、あんたの考えを一生懸命押し売りしている。それはきっと行きづまるよ」

■(90)

 自戒を込めて。


 久野はアメリカのプラグマティズムに深く学んだが、その影響が感じられる語りをもう一箇所だけ引いておこう。
 「昔から僕は広い意味では社会主義なんだが、決定論というものには非常に懐疑を持っていた。だからむしろ、サルトルなんかに近いわけよ。体制というものは、それが制度だから、我々の習慣を形成してしまう。たとえば我々がタバコをやめる場合、習慣を変える行動に出た場合にはじめて変えうるわけ。だけど日本の左翼はそれをやらないわけね。自分の習慣〔略〕をどのようにして消すか。どういうふうにしてやめていくかということを日夜修練する

■(103)

 体制=制度 → 個々人の習慣を形成
⇒ 個々人の習慣の変成 → 体制=制度の変成 ?


 「ヒトラーや天皇制ファシズムや、あるいは、現在のフセイン政権のような全体主義的総力戦の立場では、人権も国際法もすべて無視して、徹底的に勝ち負けを追求する。
 それに対しては、より一層大きな全体主義的暴力、すなわちハイテク軍備でやっつける以外にないという考え方と立場をブッシュはとりつづけたわけです。彼は軍人出身で、CIAの長官などをやり、経歴から言えば、ステーツマンというより、戦略専門軍人なんですね。
 だから、ブッシュ的方法は超大的暴力的排除であって、平和的解決でも何でもない。正義を看板にしてるけれども、裏側は泥臭い利害なんです」
 これは『潮』の一九九一年四月号に載った久野の発言である。久野と私の対談となっているが、久野へのインタビューだった。のちに『市民の精神』(ダイヤモンド社)と題してまとめられたこの「師弟対談」を読み返し、ここに出てくるブッシュは父親のブッシュではなく、現在の大統領、つまり息子の方ではないかという錯覚さえ抱かせる。

■(154-5)

 わたしも息子のほうを言っているのかと思ったが、父のことであった。息子はCIAや軍人を経由してきたわけではない。


 佐高 よくエライ先生で弟子の手柄を自分が取るという人がいるでしょう。久野先生の場合、それが絶対にない。それどころか、何とか食えるようにしてやろう、という発想をするんですね。
■(201)


全肯定や全否定ではなく、部分肯定や部分否定を、というのが久野の説いたことだった。
■(206)


 久野は『週刊金曜日』を創った(?)ひとり。創刊時に、なのか、創刊されてから、なのかは定かではないが、『カナダ=エスキモー』の本多勝一も関わっていたようだ。


@研究室
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by no828 | 2010-02-19 18:26 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 02月 19日

今から権力を及ぼしますが、いいですか? 準備できました?

 最近2時に寝て8時に起きる、というリズムになりつつある。眠れない夜もあるのだが。

 昨夜は昼間に着便したと思われる某amazon媒介の古本を少し読んでから就寝。

 こんな本。

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 版元サイト

 わたしは権力に(も)興味があるらしい。“いろいろ勝手に決めんじゃねえよ”という思いがあるのかしら。

「教育なんてまさに権力行為じゃない?」
「だね」
「教える人、教える内容、方法、目的、子どもはどれも自分では決められない」
「そうだね」
「それでいいの? 子どもが選べるようにしたらいいじゃない? 子どもが無理なら親とか」
「まあ、政策的にはそうなってきてるよね。公立学校選択制とか。親も子どもを私立に行かせたがったりとかしてるし。時代の雰囲気も“選べることはよいことだ”になっている」
「ふーん。それならよくなってるんだ」
「どうかな。“よくなってる”って何に基づいて判断するかだね。そのとき依拠される判断の規準それ自体の検討も必要だよね。それに“選べる”と言ったって、実は“選ばされている”だけかもしれないし。そういう権力作用だってあると思うよ」

 今朝。“本当は昨日するはずであった道路工事が雪のために決行できなかったので明日します。ついては、明日の午前中このアパートの前の道路を全面通行禁止とさせていただきます”なるビラが配布される。わたしは明日土曜午前、アパートの外部へと脱出する可能性を閉ざされたことになる。

 ここで、“わたしはアパート前道路の封鎖に同意していない。勝手に決めるな”という異議申し立ては可能と言えば可能。だが、向こうからすれば、“これは市が発注した工事だから、文句があるなら市に言ってくれ”ということになる。市に対して言ってもよいのだが、面倒だから言わない。そう、面倒なのだ。権力を及ぼす側もいろいろ大変だと拝察するが、及ぼすときにその対象にお伺いを立てる必要はない。“今から権力を及ぼしますが、いいですか? 準備できました?”なんて訊く必要はない。もちろん訊くこともできる。が、訊いてよいかどうかは訊かずにいることができる。つまり、“‘今から権力を及ぼしますが、いいですか? 準備できました?’ってこれから訊いていいですか?”というメタ的な質問を想定することはできる。だが、切りがない。いずれにしても、権力作用は無断で及ぼしてしまうことができるということだ。そのさいの権力の受け手は“権力が及んだ”という過去の事実をもってしか事態を把握することができない。つまり、権力が及んだあとでしか異議を申し立てることができない。というより、異議を申し立てなければならないのはいつも受け手の側なのだ。異議を申し立てるという労を取らなければならないのはいつも受け手の側なのだ。

 わたしはたぶん、それが嫌なのだ。“こちらでいろいろ決めさせていただきますが、その決定事項が嫌な場合は異議を申し立ててください、ってずいぶんと勝手な理屈だと思うぜ”ということなのだ。たとえば、少し前に話題となった憲法改定の法的根拠となる改定手続き法。それってつまり、“こういうふうに決めましたけれど、この法じゃ嫌だということになった場合にはこの手続き法に基づいて法を変えてくださいね。変更する余地は残しておきましたから全体主義でも何でもないですよね。そういうことなので、あとはよろしく”ということ。もちろん法を制定する労もあったと思う。が、法を改定する労ってそれ以上にあると思う。だからわたしは“面倒くせー、嫌だー、勝手にいろいろ決めるなー”と言う。“誰かが何かを決めなければ前に進まない”ということもわかってはいるのだが。

 では、権力の受け手には何もできないのか。そうではないはず。

 某レインボー・ブリッジは封鎖できないのに、わたしのアパートの前の道路は簡単に封鎖できてしまう、ということに鑑みると、権力の受け手(もちろん同時に働き手でもある)にもできることはあると思われる。誰が権力を用いるかも見極めどころだが、その権力が誰に・どこに作用するのかという、権力作用の客体(=主体)も見ておく必要はあろう、なぜならばそれによって権力の作用のしやすさが変わるからだ、ということである。具体的にどうすればよいかはすぐには出てこないが、何か出てきそうな気はする。 

 なお、昨夜少しだけ読んだ本に以上のことが書いてあるかどうかはわからない。


@研究室
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by no828 | 2010-02-19 12:12 | 思索 | Comments(0)