思索の森と空の群青

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2010年 05月 31日

私の中のあなた

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 ついでに、記録のために。

 救世主兄弟の話だとの評判を聞いて観た。たしかに、途中まではそうだと思った。しかし、結論部でそうではなくなるように思った。最後に主題化されるのは、“死を受け入れた娘と、娘が死ぬことを受け入れられない母親”である。それは必ずしも救世主兄弟というテーマを必要としない、独立した主題であるように思った。

 なお、同名の原作の結論は映画とは違うらしい。読んでいないのでわからないが、噂によると、原作の終わり方のほうが救世主兄弟の持つ主題性が維持されるらしい。


@研究室
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by no828 | 2010-05-31 19:20 | 映画 | Comments(0)
2010年 05月 31日

パッチ・アダムス

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 土曜の夜、某tsutayaへ「私の中のあなた」を返すついでに借りて観た。

 非常勤の勉強用。今度は余命数ヶ月とわかっている子どもに対する教育をどうするかという問いをめぐってみんなで考え合う(なんてことを書くと、学生が検索をかけて発見するかもしれないけれど、まぁ、いいや)。

 従来の教育学は、“未来のある子ども”を想定してきたように思われる。つまり、将来も生きて社会を形成していく主体的存在の可能態として子どもを見なし、そのために必要な知識や技術などを伝達してきた。教育は未来に向けた営為なのだ。だから、遠い将来を生きることのできない子どもに、残酷な言い方をすれば“未来のない子ども”に何を伝達すればよいのかということについては、教育学はおそらく何も語ってはこなかった(もし何か語ってきたのだとすれば、ぜひ教えてください。勉強します)。

 だが、限られているとはいえ、その子どもは明日を生きる。その子の未来という道程はそう遠くはない。が、限られているとはいえ、未来はある。そのとき、その子には何を伝えればよいのか。また、余命を知らない人間にもいつかは死が訪れる。余命が明らかでないからこそ、いつ訪れるかもわからない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。死を思わずに生きている人間にも死は訪れる。だから、余命がわかっている子どもへの教育を考えることは、その他の人間への教育を考えることにつながってくる。“明日死ぬかもしれないんだから、何も教えなくていいよ”なのか、“明日死ぬかもしれないんだから、今教えられることは教えておきたい”なのか。「教育」とは何か、改めて考えてみたいと思った。

 看護師になれば、また、小児病棟に勤務することになれば一層、そうした子どもに直面する可能性は高くなる。だから考えてほしいと思ったし、わたしも考えたいと思った。しかし、わたしはそういう事態の実態をわかっていない。想像でしか掴めない。想像ですら掴めていないかもしれない。にもかかわらず問いだけ設定するのは暴力的な行為だと思う。思うのだが、しかし考えないでよいことだとも思わない。

 何かないかと思って「パッチ・アダムス」を観ることにした。そういう内容であったような印象があったからだ(観たことはなかった)。

 内容は、部分的に小児病室が出現することはあったが、全体としてはそういう内容ではなかった。“医者とは”、“人を助けるとは”、そういう内容であった。だが、考えるところはあった。なだいなだの『おっちょこちょ医』を思い出したりもした。観てよかったと思った。


@研究室
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by no828 | 2010-05-31 19:07 | 映画 | Comments(0)
2010年 05月 29日

知的生産は徹底した知的浪費からしか生まれない——浅田彰『逃走論』

 涼しすぎる5月末の土曜日。

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 版元

 浅田彰『逃走論——スキゾ・キッズの冒険』筑摩書房、1984年。
 * 著者は1957年生まれ。つまり、27歳のときの本。ちなみに、『構造と力』は1983年の出版だから著者26歳のときの本。

 某ブックオフで105円。この本はドゥルーズの勉強用に購入。
 
 ちなみに、先日の某ブックオフは豊漁でした。浅田彰、ローマ・クラブ、吉本隆明、竹田青嗣、などなど全部105円。気持ち駆け上がります。


ところが、「学問」ってのはあえてそういう〔ちょっとアタマがおかしいんじゃないかって思われるような〕質問をしてみることから始まるわけ。ふだんの位置からちょっとズレたところに視点をおくことで、それまで自明と思われていた世界を問題としてとらえなおすこと、なんていうとカッコイイんだけど、つまりは少しばかりクレージーになることだよね。学者ってのがキチガイの一種だということは常識だったはず。
■(132.原文では文中「問題」に傍点)


□「知的生産の技術」というものを批判した上で……。
知的生産は徹底した知的浪費からしか生まれない。〔略〕むしろ、頭の中のカード、すぐにどっかへ行っちゃうけれど思わぬときにヒョイと出てくるようなカードの方がいい。
 それをトランプのカードのように軽やかに扱ってみること。何もかもゴチャマゼにシャッフルした上で、そこから新たにスゴイ組み合わせが出てくる可能性に賭けること。

■(223-4)


 愉しむってことですかね。


@研究室
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by no828 | 2010-05-29 17:17 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2010年 05月 28日

エチゴビール・スタウト

 今日は晴れてはいたけれど、気温はそんなに高くなかった。風は冷たかった。

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 エチゴビール・スタウト
 酒造元・販売元

 非常勤帰りのご褒美。

 ご覧のとおりの黒ビール。ときどき呑みたくなる。香ばしい。コクと苦み。泡がクリーミー。ギネスと違って納豆の味はしない(ギネスは納豆の味がすると思う)。


@研究室
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by no828 | 2010-05-28 20:41 | ビール | Comments(2)
2010年 05月 27日

問題の本質

 研究会(ゼミ)で発言しなかった/できなかったので代わりにここに書く。

 問題の本質は何か。

 論文にしても研究構想段階のレジュメにしても、はじめに「問題」を指示するところから入るのが研究者の定石となっている(と思う。違うところもあるかもしれない)。つまり、“これが問題だ、先行研究でもされていない、だからこの研究をするのだ、意義があるのだ”というわけだ。

 今日の発表でももちろんそれは説得的に書かれてはいたが、“指摘した問題”と“実際の研究内容”に乖離があった。次のようなことだ。

 “問題Aがある、その問題Aから、a、b、c、d、……という問題が派生している、わたしはそのうち問題dに着目する、問題dの問題性はこういうところにあり、それは研究上の取り組みを要する、だからわたしはそれをするのだ”

 参加した方々はみな問題dの問題性を認めた。わたしも認める。それはよい。しかし、全体的な論調はそこから、“では、問題dをどうするか”という議論になっていった(甘木先生はAを無視してはいけないというようなことをおっしゃってはいたが……)。わたしはそこからついていけない。

 根本問題Aが明確になっており、問題dがその派生問題であるとき、問題dのみを取り出し、それを糊塗的に解決しようとすることは、根本問題Aを置き去りにすることを意味する。dは応用問題だ。Aという基礎問題が解けないにもかかわらず、dという応用問題に取り組むのは筋違いだ。Aが解けるからdも解ける。先にAを解けばよい。
 さらに言えば、“Aがあるにもかかわらず対症療法的にdを解決できるならば、それで何とかなるのであれば、Aを解決する必要もそれほどないではないか”、と問題Aを問題として捉えない一派は唱えるであろう。問題dが発生している原因がAにあるならば、Aを解決するよう努力すればよろしい。Aを解決することでdも解決される可能性は格段に高まる。もちろんAの解決を意識しながらdに取り組むことはあってよい。しかし、Aを分析枠組みから放擲してdのみに取り組むことは問題の本質を見誤っていると言わなければならない。

 また、問題の本質を見誤っているにもかかわらず、発表者によって提示された方向性で研究を進めるためにはどうするかというふうに議論を立てていくのは発表者本人にとってもよくない。それは本人を尊重したことにはならない。本人の書いた言葉を尊重することにはなっても、本人を尊重したことにはならない。“本人を尊重すること”と“本人の言葉を尊重すること”とは別のことだ。だから本人の言葉を尊重することで本人を軽んじることはいくらでも可能だし、実際に起きていると思う。もちろん、この考え方は危険でもある。“あなたは口ではそう言っているけれども、気持ちはそうではないはずだ、わたしはあなたの本当の気持ちを知っているのだ”という怪しげな勧誘の文句にすぐに転換してしまう。だが、その危険性があってもなお、わたしは本人の言葉を尊重していればそれでよいという立場を採らない。本人の問題意識がどうも表面的にしかレジュメに表われていないと感じられれば、“本当はどう考えているんだ”と問うであろう。それはレジュメを軽視することになるかもしれないし、本人には面倒に思われることかもしれない。しかし、わたしはそれをする。どこかでずれたまま研究することほどつらいことはないからだ、と言うと言いすぎかもしれないが、そういう側面は絶対に否定できないことはたしかだ。だからわたしは掘り返すし、蒸し返す(言っても無駄だと思う人には言わないけれど)。

 加えて、問題Aおよびdを扱うことが“研究課題”となるのかどうかも見極める必要がある。わたしが発表を聞いて思ったのは、“それは研究課題ではないよ”ということだ。たしかに解決を要する課題ではある。しかしながらそれは研究課題ではない。では、何の課題なのか。政治課題だ。実践課題だ。研究から何かを言ったところで実情はなかなか変わらない。研究の現実変革能力は低いと言わなければならない。今すぐ何とかしなければならない問題であればあるほど、それは研究課題というよりは政治課題となる(社会科学の話。医学などはまた別)。だから解決したければロビー活動をするとか、自ら与党の議員になって国会で多数派を占めるとか、そういうことをすればよい。

 ということをぐわぁーっと言いたかったのだが止めておいた。胃も痛かったし。本質を外した議論が長く続くことでさらにイライラして胃痛はもっとひどくなった。だから途中からずっと縮こまっていた。

 研究室に戻ってすぐに胃薬を飲んだ。だいぶ落ち着いた。


@研究室 
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by no828 | 2010-05-27 19:33 | 思索 | Comments(0)
2010年 05月 26日

誰かが傍にいてくれるのも、誰かの傍にいるのも、案外いいなと——あさのあつこ『The MANZAI 5』

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 版元  

 45(278)あさのあつこ『The MANZAI 5』ジャイブ(ピュアフル文庫)、2009年。

 新年明けまして、の場面。中学生活ももう終わりに差し掛かっている。

□みんなで初詣に行ったのだけれど、蓮田が来なかった。
ぼくがわかっているのは、十五歳には十五歳の苦渋が確かに存在することだけだ。
 蓮田は今、どうしているんだろう。考えても、考えても解決できないあれこれを考え続けているのか。ぼんやりと天井を見つめているのか。もう寝てしまったのか。
 蓮田、どうしてる? おまえもやっぱり出てくればよかったのに。篠原の傍で新年を迎えればよかったのに。おれたちといっしょに石段を昇ればよかったのに。蓮田、一人でいるのって辛くないか? だいじょうぶか? おれは一人が好きで、一人が楽で、他人が怖かった。今でもそうだ。でも、でもな、誰かが傍にいてくれるのも、誰かの傍にいるのも、案外いいなと思ったりもするんだ。一人でいて楽ならそれでいい。けど、もし辛いのなら、おまえには篠原がいるし……。

■(91-2)

 いろいろ考え、いろいろ思い出す。 

 ちなみに、ここで主人公は「ぼく」と「おれ(たち)」の2種類の自称を使っている。他の箇所は全部「ぼく」。ちょっと気になった。


「おまえ、一生懸命、しゃべるやろ」
 秋本は言った。
「おれ、だから、おまえのこと、めっちゃ好きやねん。しゃべり上手やないし、もたもたしてるけど、本気でしゃべるやろ。さっきかてそうや。みんな(おれを含む)に一生懸命にしゃべってた。おれ、おまえみたいに本気でしゃべるやつ、他にいてへんと思う。すげえなって思うんや

■(171)

 相手のすごいところを具体的に面と向かってすごいと言える人は素敵だと思う(見習わなくてはいけない)。そういう人に出会ったことがあるか、つまり、誰かに“あなたのすごいところはここなんだ”と言われた経験があるかないかは、その人の自己肯定感の維持・向上に大きく影響すると思う。わたしが今ここにいられるのも、ある先生から「君にはこれこれこういう力があるんだよ」と具体的に言われたことが大きい。それを“教育的意図”とか何とか言いはじめると仕方がないけれど、やっぱり肯定から入るのは大事。ただ、「優秀だ」とか「すごい」とか、そういう抽象的な言葉ではダメだ。それでは何も言っていないに等しい。どこがどうすごいのかをきちんと伝える、それにはたぶん、“わたしはあなたのことをちゃんと見ているよ”というメッセージもが含まれる。そう言われて人は、たぶん、“よしっ、まだいける”って思うのだ。


 笑っても何もかわらない。孤独も貧困も戦争も困難も、現実の中に生々しくある。笑いでそれを消し去ることはできないでも、腹の底から笑うことができたのなら、人は現実から逃げないでいられるのかもしれない。戦うことができるのかもしれない。
 負けないでいたい。
 ふいに、ぼくはそう思った。込み上げるように強く思った。
 ぼくたちは負けてはいけないのだ。
 負けてはいけない。絶望してはいけない。死んではいけない。
 シールドを破壊してぼくたちを追い詰めようとするものに勝たなければならないのだ。笑いは、そのための有効な武器になりえるだろうか。

■(214-5)

「現実から逃げない」、それが第1歩だと思う。その1歩を踏み出そうと思わせてくれるもの。


@研究室
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by no828 | 2010-05-26 21:07 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 05月 26日

だがな——やはりあれは和枝なんだ——浅倉卓弥『四日間の奇跡』

 ふー。

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 版元

 44(277)浅倉卓弥『四日間の奇跡』宝島社(宝島社文庫)、2004年。
 * 単行本は2003年に同社より刊行。

 某ブックオフで購入。非常勤の行き帰りで読了。「第1回『このミステリーがすごい!』大賞」の大賞金賞受賞作、らしい。

 薬指を失ったピアニストの男と、ピアノを弾く能力が人並みはずれた「知的障害」の少女。ある病院(研究所)に慰問でピアノを弾きに行ったときの「四日間」。

 わたしが死にそうなとき、駆け付けてくれる人がどれだけいるか。わたしがそのまま死んだとき、わたしのために涙を流してくれる人がどれだけいるのか。それらをわたしは決して知ることができない。
 けれど……。
 もし、それを知ってから死ねるのなら、それは幸せなことなのかもしれない。もちろんそれは「わたし」によるのだが。



「だいたい〔病院への〕視察っていっつもそうですよね。ヘリで来て、二時間くらいで大急ぎで下とここと回って、しかもつまんなそうな顔でです。いったい何を見にいらしてるんだか。あたしにはなんだか、ヘリに乗るのが一番の目的みたいに見えますけど
「岩村君——」
「だって言いたくもなりますよ。どうせ見るんなら、あたしたちがうんちの始末してる現場でも立ち会ってくれればいいんですよ。あれが一番強烈です。一人でできたことができなくなる、というのがいったいどういうことなのか。それを支えるために周囲がどれだけ我慢し、努力するか。そういうところを見ないで、いったい何が視察なんですか
「いや、しかし——」
「言ってもしょうがいないことはわかってますけど、だったら来ないでくれた方がいいです。だってね、大人のなんですよ。赤ん坊や犬のを始末するのとは訳が違います〔略〕」
「岩村君——気持ちはわかる。だけどな、食事中にそれはちょっと勘弁してくれないか」

■(198)

 

□外科→脳外科の医師の話。植物人間になった妻を延命させている。
「和枝の場合はな、大脳新皮質の八割から九割が活動を停止している。それだけの脳細胞が死んでいるということだ。知っているかとも思うが、脳細胞というのは再生しない。細胞が古くなったからといって新陳代謝することをしないんだ。幼児期の急激な発達が終わった段階で、人はそのできあがった脳細胞と一生付き合うことになる。
 記憶が増える、あるいは思考能力が高まるというのは、つまり脳が成長するのではなく脳内のネットワークが発達するんだな。シナプスとかニューロンというのは聞いたことがあるか? それが言わば回路のようなものを形成し、その組み合わせを刻々と変えるんだ。どんどん複雑化していくと言った方がいいのかな。
だが死んでしまった細胞には、その活動ができない。だからといって代わりができあがっては来ない以上、体外に排出されることもない。死滅したまま頭骨の中に存在し続ける。そういう宿命なんだ。これは大脳だろうが延髄だろうが同じだ。
 もちろん脳のすべてが死んでしまえば人は死ぬ。だが植物人間というのはな、小脳や脳幹といった箇所はぴんぴんしてるんだ。自分で呼吸もするし、食物が体内に入れば胃腸は消化活動を始める。したがって排泄だってする。それらを統御する交感神経副交感神経を支配しているのが、延髄や視床下部だからだよ。要するに脳の比較的内側の部位、ということだ。
 だがな、自発的に何かをする、ということはまるでできない。〔略〕
 それでも和枝は生きている。体を維持するための栄養さえ与えられ続ければ、肉体が活動を止めることはおそらくない。〔略〕」
〔略〕
「——そして当然、口をきくこともしない。俺は毎日あいつに話しかけるが、返事もなければ、そもそも俺の言うことを理解しているのかどうかもわからない。あいつが今も自我というようなものを持ち続けているのかどうかさえ、正直に言えば時折疑ってしまうよ。
 だがな——やはりあれは和枝なんだ。不思議なことだがな、時折体を拭く際など、こちらが手を握ってやることがある。するとそこにかすかな力が込められるのがわかるんだ

■(294-6)

 “あなた”が“あなた”であるための条件。“わたし”が“わたし”であるための条件。

 無脳症の勉強をしたときに、人間の脳は大きくふたつに分けられることを学んだ。ひとつは上部にある大脳新皮質、もうひとつは下部にある脳幹。前者は人間の意識などを司り、後者は人間の純粋に肉体的な機能を司る。無脳症は、脳がまったくない状況を指すのではない。無脳症は、脳幹はあるが大脳新皮質がない状態を指す。つまり、意識はないが、肉体は動く。実際、産まれてもそう長くは生きられないらしい。

□農家に嫁いだことのある岩村真理子の話。
「そして何よりもね、毎日疲れ切ってぐっすり眠れるっていうのが、実はとっても幸せだったんです。だってね、不安とか猜疑とか苛立ちとか、そういう自分を苛むような感情に付き合ってる余裕がないんですよ。現実にはやっぱり狭い社会での人と人との関わりですから、相性の悪い奥さんがいたり、お爺ちゃんの頑固さに閉口したりということはしょっちゅうありました。だけどね、もうその場で忘れるしかないの。だって疲れてるからすぐ寝ちゃうんですもの。そういうの一眠りしたら、どうでもよくなっちゃいますよ。
 だからあたし思うんですよ。忙しくて忙しくて、それでもまだすることが山積みだっていうのは、実は幸せの一つの形なんだなって。充実感というと少し違うんですね。いったいあたし何のためにこんなに忙しくしてるんだろうって、やってる時は思いましたから。でも、失くしてしまうと不思議に、辛かったというよりもむしろ懐かしいという気持ちの方が強かったです」

■(314)

 考えないことの幸せ、か。

□さっきの医師
「では、人と動物とを決定的に分けているものとは、いったい何なのだろう。〔略〕」
〔略〕
「俺の答えはこうだったよ。おそらく人間だけが、たとえ親子という関係で結ばれていない、言わば生物学的にまったく無関係な他の個体のためにでも、己の快不快の原則を裏切ることができるのではないか。そう考えたんだ。
 他の個体のために自らを危険に晒す。〔略〕人間だけがそれをできるんだ

■(382-3)

 うーん、一理ある気がする。理性、義務論、……。カント先生を思い出すなあ。


@研究室 
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by no828 | 2010-05-26 20:18 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 05月 25日

あっ、うちのこと見ててくれる人がいたんやって——あさのあつこ『The MANZAI 4』

 休憩中。

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 版元

 43(276)あさのあつこ『The MANZAI 4』ジャイブ(ピュアフル文庫)、2007年。

 中学3年生の物語。メインはふたりの男子の漫才コンビだけれど、その周りの子たちもいい。


 百万、千万の人間に称えられるより、たった一人でいい、たった一人の他者に本気で必要とされる方が大切だ……大切じゃないだろうか。大切かもしれない。大切なような気がする。たぶん、大切だろう。
■(14)

 昔、そんなCMがあった。


「みなさん、いつも、応援、ありがとうございます」
 秋本は満面の笑みをうかべ、ひらひら手を振り、さらに頭を素早く上げ下げしている。玩具の首ふり牛みたいだ。赤べこって名前だったっけ。どこか寒い地方の郷土玩具だ。赤い張り子の牛。うちのリビングにある。そういえば、どことなく似ているなぁ。秋本と赤べこ。

■(20-1)

「どこか寒い地方」って、福島県会津地方のことじゃあ! 赤べこは会津のものじゃあ! ちゃんと覚えてとけーっ!

 取り乱しました。


 うつむくのが悪いとは思わない。うつむき、しゃがみ込む人を叱咤したり、詰ったりする者の鈍感や横暴に比べれば、一人、うつむいたり、しゃがみ込んでいる人の沈黙の方が何倍もましだと、思う。うつむき、しゃがみ込まなければ見えない風景や自分の素顔や他人の姿があるんだ。同じように、頭を上げ、視線を遠くに向けなければ目にすることのできないものがある。しゃがみ込んだからこそ知ること、顔を上げたからこそ分かることがある。
■(27-8)

 ここは大事なところです、という著者のメッセージのようなものを受け取ることができる、ような気がするなぁ、この本は。

□いじめ
 言いたくない、言いたくない。
 知られたくない。でも、
 救って欲しい。
 だから、ぼくたちは黙り込むのだ。独り、ぎりぎりまで耐えるのだ。
「がんばるのって……疲れるやろ。うち、めっちゃ疲れて、けど疲れたって言えなくて、どんなに疲れてもちっともやせんで……そのせいかも知れへんど、うちが疲れてるの誰も気がついてくれんで……もうなんかこのまま死ぬんやないか、死んだほうが楽なんやないかって、朝、目が覚めると考えてたんや。けど……京美が気づいてくれて、声、かけてくれたんや。うち、よう忘れん。廊下で一人、ぼぉっとしてたら後ろから、ぽんて背中叩かれて、振り向いたら京美がおって『篠原さん』て声かけてくれて……『どっかしんどいの?』って声かけてくれて……うち、びっくりした。京美とはそんなに仲が良いわけやなかったし、家が近いわけでもなかったし、いっしょに遊んだこともなかったし、クラスも、二年生、三年生のときにいっしょになっただけやし……なのに、声かけてくれて、『なんや、しんどいみたいやから気になって』って言うてくれて、それ聞いたとき、うち、なんていうか
 篠原の視線が空をさまよう。両手が胸の上にのった。
「このへんがすうっとしたんよ。つかえていたものが、すうっと通っていく感じがしたんよ。あっ、わかってくれる人がいたんやって、ちゃんとうちのこと見ててくれる人がいたんやって、すっとした。ものすごい、ええ気持ちやった

■(156-8)

 絶対に、本当に、大事なことだ。


「うん、おれって、つくづく優柔不断で……」
「いろいろものを考えるっちゅうことやないか。歩のええとこやで」
「そっ、そうかな」
「そうや。いろいろあれこれ考えたりするの歩のええとこや」

■(179-80)

 相手のよいところをきちんと認めること。


@研究室
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by no828 | 2010-05-25 21:50 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 05月 25日

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。向う三軒両隣りにちらちらする唯の人——夏目漱石『草枕』

 暑かったが、19時近くになって風が冷たさを帯びるようになってきた。研究棟の外からは三味線の音色。「天の川フェスティバル」とか何とかの催しが2食と3食のあいだの池の上の特設舞台で。ネーミングの適切性についてはここでは問わない。今夜天の川が掛かるのか。あ、2食と3食のあいだに流れる細い川を「天の川」と呼ぶらしいということを聞いたことがある。それか!

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 版元

 42(275)夏目漱石『草枕』新潮社(新潮文庫)、1950年。
 * 1906(明治39)年に書かれた。

 「非人情」という言葉が散見される。気にはなるが……。

 有名な書き出しはこう。


 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。
唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

■(5.傍点省略)

 真理だと思う。

 芸術が生じた背景。諦念と希望の同居。あるいは宗教も……。あるいは哲学も……。現実離れしていると批判されている事柄を生み出したのは現実以外の何ものでもないのだ。

□主人公の絵描きと和尚の会話@山の上のお寺。
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。〔略〕
「これはいい景色。和尚さん、障子をしめているのは勿体ないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩見てもいいですよ、この景色は。私なら寐〔ね〕ずに見ています」
「ハハハハ。尤もあなたは画工〔えかき〕だから、わしとは少し違うて」
和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ

■(137)

「○○だって、△△△と思っているうちは□□□□でさあ」。応用可能。

「あなただって、△△△と思っているうちは科学者でさあ」。
「あなただって、△△△と思っているうちは哲学者でさあ」。

□出兵する男を見送る。時期的に日露戦争。
「久一さん、軍さ〔いくさ〕は好きか嫌いかい」と那美さんが聞く。
「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。
「いくら苦しくっても、国家の為めだから」と老人が云う。
〔略〕
「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの冗談とも見えない。
「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」
「そんな乱暴な事を——まあまあ目出度凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家の為めではない。わしもまだ二三年は生きる積りじゃ。また逢える」
 老人の言葉の尾を長く手繰と、尻が細くなって、末は涙の糸になる。只男だけにそこまではだまを出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。

■(161)

 ちなみに、この本を読んではじめて知った言葉。

呉牛月に喘ぐ〔ごぎゅうつきにあえぐ〕」、厳密には「蜀犬日に吠え〔しょくけんひにほえ〕、呉牛月に喘ぐ」。

 蜀も呉も中国の旧国名。蜀は山地で雨や霧が多く、太陽を見ることが稀。だから犬はたまに出た太陽に向かって吠える。呉は太陽が出て暑い。その中で労働した牛は夜になって月が出てもそれを太陽だと思って喘ぐ。「小人の浅知恵」、「見識のせまい者が他人のすぐれた言行をかえって非難したり、無知で無経験な者が何でもないことに恐れ、余計なとりこし苦労をしたりすることのたとえ」(195 注291)。


@研究室
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by no828 | 2010-05-25 19:39 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 05月 23日

更新できない理由

 ここのところ更新が滞っています。申し訳ありません。その主な理由は、

(1) わたしが研究室で接続している無線LANの調子が悪いため、自分のパソコンでブログを書くことができないから。(アパートではインターネットを引いていないため研究室で更新作業をするしかない、にもかかわらず。)

(2) 研究に関連することでいろいろ立て込んでいるから。

のふたつです。

 ご理解のほど、よろしくお願いいたします。とりあえず(1)が解決されれば、(2)の隙間時間に更新することは可能になるかと思われます。目下、長い有線ケーブル(わたしの机からアクセス・ポイントまでケーブルを通そうとするとかなり遠回りをしないといけないから。15mぐらい?)を買おうかとも思案中です。しばしお待ちください。


@研究室(の共有パソコンを長い時間占有することは避けたいのです。)
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by no828 | 2010-05-23 21:10 | 日日 | Comments(0)