思索の森と空の群青

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2010年 07月 30日

研究会 → 映画、というお決まりのパターン

 昨日7月29日(木)。13時から本郷で科研の研究会(後輩M地も出席していた)。わたしともうひとりの方がK玉先生の論文2本をK玉先生の目の前で批判するという会(ひえー)。わたしは批判のポイントを基本的に1点に絞り、それがクリアされないと生じうるK玉先生にとっての問題を指摘しながら立論した。

 そのあとみんなで議論。M寺先生がコメントの中でわたしの批判の妥当性にも間接的に触れてくださったのがうれしかった。

 「議論」とは何か。たぶんそれは多方向的なものだ。質問する、答える、という一方向的、よくて双方向的なものではなく、もっと全体を巻き込むイメージ。298ではこういうふうにはなかなかいかない。もちろんそれは「なかなかいかない」であって、「全然いかない」ではない。M寺先生のゼミでは議論ができたし、今ではO本先生の授業で議論になることが多い。先生が議論慣れしているか、様々な発言を裁く力量があるか、そもそも議論することを好んでいるか、という点が大切かもしれない(先生のせいにばかりしているな……でも、先生のスタンスはかなり大きく作用することはたしかだと思う)。

 15時30分前に終了。K玉先生と8月末の広島大学での学会大会のことを少し確認、そのあと9月末の予定も確認。もしかしたらK玉先生の調査にお手伝いで行くかもしれない。

 この科研自体の説明をされるさいに、研究代表者のH田先生は“若手にもっと勉強してもらいたい、本を読んでもらいたい、先生の調査にくっついていって勉強してもらいたい、そのためにお金を出す、そういうこともあって若手にも声を掛けている”ということをおっしゃっていた。とてもありがたいことだ。298ではやっぱり、こういうことはなかなかない。

 予想よりも早く終わったので神保町で映画を観ることにする。16頃神保町着。某岩波ホールで「パリ20区、僕たちのクラス」の時間を確認したら18時30分〜20時40分(上映時間2時間10分ですか!結構長いですね!)。とりあえずチケットを買う。それからこの日はじめてのまともな食事を摂りに某てんやに行き、天丼。それから小雨に濡れながら古本屋を見て回って、全体的にそんなに安くなっていないことを再確認する。疲れたので某ドトールでアイス・コーヒー片手に1時間ぐらい勉強。3階の禁煙席に行ったのに2階の喫煙席からの煙が攻めてきた。某ドトールは分煙の仕方がよくない(前にも一度、そういう経験がある)。18時になってから某岩波ホールに移動。

 某岩波ホールの客層は年齢高めで比較的ひとりで来るタイプが多い。割烹(couple)はほとんどいない。だからかどうかはわからないが、映画館の雰囲気が非常に落ち着いている。

 映画の感想は次(あるいはその次、あるいは……)のエントリに譲ろう。ただ、「教育」とか「学校」に関心のある人は観ることによって考えることが出てくると思う、とだけ述べておこう(それはやっぱり観る前の予感としてもあって、だから16時の段階で後輩を誘おうと思ったのだが、先輩→後輩の「誘う」は「半ば強制する」になりやすく、だから止めておいた。基本的に誘うの苦手だしね)。

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 電車の中で今日の研究会の議論を反芻し、自分の研究にどう活かせるかを考えながら帰宅。共生本の方は何とかなるかもしれない、というアイデアが浮かぶ。ちょっと具体化してみよう。

 アパートに戻ったのは23時近く。疲れた。


@研究室
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by no828 | 2010-07-30 12:22 | 日日 | Comments(4)
2010年 07月 28日

暑さのための早起きの効用はまだか?

 暑い日が続く。

 朝は8時まで寝ていられない。暑いから。土日ぐらいは少し寝坊したいと思っても、8時が限界である。暑いから。

 1時か1時30分に寝ても、2時とか3時に一旦目が覚める。暑いから。今度はそこから6時ぐらいまで眠ることができる。ここでも眠れないと、きつい。

 そういうわけで、最近の睡眠は断続的で、そして早起きだ。

 研究室で眠くなるときもあり、今日はそれで17時過ぎに30分くらい机で寝てしまった。クーラーのない部屋での寝不足を、クーラーの効いた時間帯の研究室で回復させる、といったところか。

 今日は明日の科研の研究会用の課題論文2本を読んだり読みなおしたり(レジュメを出すように言われている。指定討論者みたいな?)、古典を読んだり(最近古典がおもしろい。岩波文庫さま!)、書籍部でスラヴォイ・ジジェクの『ポストモダンの共産主義』を買ってぱらぱら読んだり(某楽天では在庫切れの様子。何とか主義とか何とかイズムには、たとえそれが何であれ、関心を払っておきたい)、後輩の学術的なツイートにツイッター上で質問して邪魔をしたり。

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 版元

 明日の研究会は13時から東京にて。朝から研究室に来て、レジュメをまとめるようにしよう。問題は課題論文の「批判的検討」。これがなかなか難しい。ポイントはいくつか挙げてみたが、こわいのは、その批判の仕方が“古くなっていないか”。課題論文が思想を扱っているので、そういう位相で批判もするわけだが、しかし思想の分野、とくに現代思想の分野は次から次へと理論が出てきて、すぐに“古くなる”。個人的には現代思想の最前線は常に意識しているつもりだが、それじゃあ自信はあるかというと、そんなにない(おいおい、頼りないなぁ)。古いことは悪いことではないが、新しいのを知って古いのを選ぶのか、新しいのを知らずに(知らないから)古いのを選ぶのか、そのあいだには大きな大きな違いがある。

 うはー。


@研究室
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by no828 | 2010-07-28 21:04 | 日日 | Comments(0)
2010年 07月 27日

借りぐらしのアリエッティ

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 公式サイト

 スタジオ・ジブリ最新作「借りぐらしのアリエッティ」を7月25日のレイトショーで観てきた。

 内容的にはまっすぐ、ひねりなし。この作品に込められている考え方は、劇中で翔くん(アリエッティを見つけてしまう男の子です)が結構しゃべっていたようにわたしには思われた。

 わたしが、あるいは勝手に受け取ったメッセージは、“主人公(と他の登場人物)の成長”と“人間の相対化”。とくに後者を強く受け取った。題名に絡めて言えば、「借りぐらし」しているのは本当は誰なのか、小人は人間の家に借りぐらししている、だがその人間はどうか、実は人間も借りぐらししているのではないか、人間も地球に借りぐらししているのではないか、地球からいろいろ借りて暮らしているのではないのか、それなのにそういう意識が希薄になって人間こそが地球の主人公だと思い上がってはいないか、人間の大きさではなく、その小ささを、今一度想起してみよう——そういうことがメッセージとしてあったようにわたしには思われたのである。

 先に挙げたふたつのメッセージ(だとわたしが思っているもの)は、ジブリ作品を通底するものでもあるように思われる。わたしはジブリ作品すべてを観たわけではないが、少なくとも観たことのあるもの、印象に残っているものには、濃度・程度の高低はあれど、それらが含まれているように思われる。

(* 作品におけるジブリ側の意図は、公式サイトで解説されているらしいです。わたしは映画を観る前にそういうのを読むのも、観たあとすぐに読むのも避けたいと考えているので、まだ読んでいません。もう少し咀嚼できたら読んでみたいと思っています。)

 あ、それから恋ね。恋は大事です。

 恋ね、というか、どうしたって叶わぬ恋、ね。

 これは切ないね。(でも、思い返してみると、ジブリ作品に結構あるよね。)

 でも、恋はしてしまうものなんだよね。“恋しよう”とか、“恋をすべきだ”とか、“恋をしなくてはならない”とか、そういうものではなく、端的に“してしまうもの”。それに気付いたとき、そしてそれが叶わないものだと気付いたとき、切ないなぁ、やりきれないなぁと思うわけです。

 もちろん、「耳をすませば」の雫ちゃんと聖司くんみたいに、成就する(であろう)恋もある。ハッピー・エンドだ。ただ、「耳をすませば」ついでに言えば、それの最後の場面の「しずくー、結婚しよう」(厳密には覚えていないけれど)というセリフは、わたしとしては“なし”だ。物語の物語性が一気に“軽く”なってしまう気がするからだ。

 で。

 今回もそういうのがあった。詳しくは避けるが、最後の方の場面で翔くんがアリエッティに言う言葉。「君は僕の〔……〕だ」。これもちょっと“軽く”してしまうセリフではなかったかと、わたしには思われたのであります。

 とはいえ、総じて言えば、「アリエッティ」のような“ありえなさ”はわたしは好きだし(ありえなさ一般が好きだということではない)、観たことによって内面が浄化される感覚も好きだ。


@研究室
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by no828 | 2010-07-27 19:58 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 26日

余暇は哲学の母であり、コモン-ウェルスは、平和と余暇の母である——ホッブズ『リヴァイアサン』4

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 版元

 長らく復習をさぼっていたホッブズ先生の復習。

 ホッブズ,[1651]1985,『リヴァイアサン』4,水田洋訳,岩波書店.


 哲学とは、「あるものごとの生成のしかたから、その諸固有性にいたり、あるいは、その諸固有性からそのものの生成の、ある可能的な経路にいたる、推理〔reasoning〕によって獲得された知識であり、それは、物質と人間の力がゆるすかぎり、人間生活が必要とするような諸効果を、生みだしうることを目ざしているものである」と、理解される。
□(105)

 ホッブズ独自の定義なのか、あるいはその時空間における最大公約数的な定義なのか、よくはわからないのだが、以後ホッブズはこれに基づいていることから、ホッブズも受容している「哲学」の規定ということになると思われる。

 気になったのは、哲学の仕事に、“それ”の「固有性」を同定することが挙げられていることだ。立論の始点は「固有性」に同定する、ということになり、そこから推理(推論)していくことになる。この「固有性」は「本質」と言い換えてもよいであろう。とすると、この考え方は「本質主義」ということになり、“本質なんてないでしょう、構築されただけでしょう”という批判を受けることになる。

 とはいえ、この時代に構築主義はおそらく現われていなかったであろうし、ホッブズもこの「哲学」に依拠して“「哲学」ではないもの”を列挙していっている。

 そのひとつ。


《著者たちへの信用にもとづいてえられた学識も、同様である〔=哲学ではない〕》書物の権威からの推理によってえられたものも、そうである〔=哲学ではない〕。なぜなら、それは原因から結果への推理によるものでも、結果から原因への推理によるものでもなく、知識ではなくて信仰なのだからである。
□(106)

 同意。

 そして話は、どうして哲学が可能となったのか、ということへ。


アメリカの野蛮人たち〔ママ〕は、若干のりっぱな道徳的ことわざをもたないわけではないし、かれらはまた、あまりおおきくない数を加除するための、わずかな算術ももっているが、しかし、それだからといってかれらが、哲学者なのではない。〔……〕そして、その原因は、生活必需品を調達し、自分たちの隣人に対して自分たちを防衛することからくる、余暇の欠如であったから、偉大なコモン-ウェルスの設立までは、そうでしかありえなかったのである。余暇は哲学の母であり、コモン-ウェルスは、平和と余暇の母である。
□(106-7 傍点省略)
 
 余暇は哲学の母! 先の“何が哲学ではないか”という話とも関連するが、ホッブズは「哲学」を“教会だとか歴史だとか先人だとかに寄りかからずに自分の頭で考えること”というような意味で用いているのだとわたしには思われる(啓蒙?)。自分の頭で考えるには、時間が必要。そしてその時間を物質的に支える基盤も必要。

 あぁ、実感。

 ちなみに、「余暇」の原語はたぶん「スコラ」で、「スコラ」は school(学校)の原語。「学校」って何?何する場所?と考えるときのひとつのヒントになるかもしれない。

 で、“自分の頭で考える”というところに戻るのだが、以下の文章もホッブズらしさが表現されている。自信(過剰な?)と、少しのユーモアも垣間見られる。


 わたくしは、自分の雄弁以上に信頼しないものはないのであるが、にもかかわらず、わたくしはそれがあいまいではないと、確信する(印刷の不運をのぞいて)。わたくしが古代の詩人、弁論家、哲学者を引用するという装飾を、さいきんの習慣に反して軽視した(それをうまくやったにしろまずくやったにしろ)のは、おおくの理由にもとづいたわたくしの判断から、でているのである。第一には、学説の真理というものはすべて、理性か聖書かに依存しているのであり、両者はともに、おおくの著作者に信用をあたえるが、しかしどんな著作者からもけっしてそれをうけとってはいない。第二に、問題となっていることがらは、事実にではなく権利にかんするのであって、そこには証人〔目撃者——原註〕のための余地はない。〔第三に——原註〕それらのふるい著作者たちのだれをとっても、ときどきかれ自身あるいは他の著作者たちと矛盾しないものは、めったにない。第四に、ふるさへの信用だけにもとづいてとられたような意見は、それらを引用する人びとに固有の判断なのではなく、口から口へと(あくびのように)つたわる話にすぎない。〔……〕第六に、かれらが引用する古代人たちが、かれらよりまえにいた人びとにたいしておなじようなことをして、それを装飾と考えたということを、わたくしはしらない。〔……〕さいごに、ふるい時代の人びとで、はっきりと真理を書いておいたり、われわれが自分たちでそれをみつけるための、一層よい道にわれわれをおいたりしたものを、わたくしは尊敬するけれども、それでも、ふるさそのものには、なにも与えるべきだとは考えない。なぜなら、もしわれわれが年齢を尊敬するならば、現在が最年長なのだからである。
□(170-1 傍点省略)

 ホッブズは「理性」第一主義者ではない。「情念」も大切にしている。古いものを参照していれば何か言った気になるというのもおかしい。古さは古いという理由で尊重されるものではなく、それ以外の理由(「固有の判断」)で尊重されるべきだ。

 いやー、すかっとするなぁ。ホッブズはいろいろ気に入らなかったんでしょうね。わたしも今、いつ終わるとも知れない“知的反抗期”にあるので、気持ち、お察しします。


@研究室
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by no828 | 2010-07-26 15:26 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2010年 07月 23日

誰かの餌食になるなら、自分が奪う側についた方がいい——石井光太『レンタルチャイルド』

c0131823_15541663.jpg53(286)石井光太『レンタルチャイルド——神に弄ばれる貧しき子供たち』新潮社、2010年。

 版元

 インド・ムンバイの路上の実相。上へ上へと伸びる経済成長の、そして横へ横へと広がるグローバリゼーションの、その最底辺の現実。



 下町を一周すると、大通りへと出た。数百メートルおきにバス停が並んでおり、朝早く目を覚ました老いた女乞食たちがすでに陣取っていた。集まってくる通勤客に皺だらけの手を差し出し、金をせびっているのである。奇妙なことに、みな六十歳を超えているにもかかわらず、乳飲み子を抱え、「どうか娘にミルクを買ってあげて下さい」と訴えている。
 〔通訳の〕マノージが声を潜めて言った。
「あれは、レンタルチャイルドだよ」
 レンタルチャイルドと聞いて意味がわからなかった。文字通り、貸し出される赤子という意味なのだろうか。
「なんだ、知らないのか。この街じゃ、女乞食は赤ん坊を抱いている方が儲かる。倍から三倍は違ってくる。それで、彼女たちはどこかから生まれたての子を借りてくるんだが、中には金を払ってマフィアから誘拐されてきた子を借りてくることもあるっていう話だ。それがレンタルチャイルドなんだよ」

□(15)

 バングラデシュの首都ダッカに行ったときも、こういう風景をよく見た。現地のNGOの人に訊いたら、「赤ちゃんは借りてくるんだよ、その方が儲かるから」と、やっぱり同じことを言っていた。


 〔路上で物乞いをして生活する子〕ラジャは照れくさそうに夜空を見上げた。私はふと彼の上着のポケットに、新聞が入っているのに気がついた。路上で生まれ育ったのに文字が読めるのだろうか。私が尋ねると、彼は答えた。
「宗教団体が浮浪児を集めて読み書きを教えていたんだ。六歳の時から十歳の時までそれに通っていた」
「その団体とは今もつながりがあるのか」
「俺が追い払ったよ。奴らは浮浪児を信者にして、敵対する団体を襲撃させていたんだ。ムカついたから、ガラスの破片で刺してやった」

 新興宗教の団体などが貧しい人たちに対して布教の目的で青空教室を開くことがあるが、中には怪しい活動をしているところもあるのかもしれない。

□(35)

 これは今後研究上でもきちんと見定めなければならない問題。識字教育とその実施主体の政治性・宗教性。わたしはNGO性善説には与しない。

□マフィアの事務所、“商売道具”に使われている子どもはマフィアの男を「パパ」と呼ぶ。
「あの〔マフィアの〕男は、君の目をつぶした上に、物乞いをさせ、今だって殴りつけたんだぞ。悪いのはあいつに決まっているじゃないか」と私は言った。
 少年は裾を握り締めたまま涙声で言った。
「僕がいけないんだ……目を刺されたのは、僕が言うことを聞かない悪い子だったからなんだ。ちゃんとお金を稼がないからこんなことになったんだよ」
「それは違う。あいつらがお金のためにやったことだ。君は何一つ悪くない。全部奴らがいけないんだ」
「違う。僕が悪いんだよ。お願いだから、パパの悪口を言わないで。追い出そうなんて絶対に言わないでよ」
 少年は私のシャツにしがみつき、涙をこぼし、鼻水を幾度もすすって嘆願した。
 私は狼狽し、中年娼婦に目を向けた。彼女は血だらけの手ぬぐいを丸めた。
「ここにいる子は、みんな自分が悪くてこういう目にあったんだって思っているわ」
 なぜなのだろう。
 彼女は髪を耳にかけ、憐れむような目を少年に向けてから答えた。
「そう考えなければ、こんな所で暮らしていけないのよ。生きていくためには、すべてを自分のせいだと思わなければならないの。私たちだってそうだわ」

□(70)

 マフィアは浮浪児の身体を傷つけ、その傷を見せるようにして物乞いをさせることで人びとからお金(喜捨)を集める。その方が儲かるから。


「街の人たちは僕のことを怖がるもん。臭い、とか、邪魔だ、と言って離れてく。そんな人、信じられない」
「目をつぶした大人の方が信頼できるってことか?」
「パパは悪い人じゃない。怖い時もあるけど、僕たちと一緒に遊んでくれるし、ご飯もつくってくれる。街の人はそんなこと、絶対にしてくれない」
 心臓を鷲づかみにされた思いがした。たしかに街の人々は彼らを怖がり、蔑み、通り過ぎていく。だが、マフィアは彼らと生活をともにするし、遊ぶことだってあるのだ。

□(74)

 こういう子どもはすごく甘えたがりで寂しがりだと聞いたことがある。だからこそ強がったり、悪ぶったりするのだと思う。「おまえのことが大事だよ」と言ってくれる人が、そういう態度で接してくれる人が子どもには必要だ。

 子どもに「自分は悪い子だ」と思わせては絶対にいけない。わたしは子どもが苦しむ世界を正しい世界だとも善い世界だとも思わない。


「君たちは本当に自分から体を傷つけてくれと頼んだのか」と私は言った。
〔……〕
 マノージは猜疑の目をラジャに向けた。彼は舌打ちし、四人の中からアリという名の青年を名指しして、答えるように命じた。片目がつぶれ、数本の指が癒着している十五、六歳の男だ。アリは垢で黒ずんだ首筋をかきむしり、気だるそうに答えた。
「当たりめえだろ。年齢がいけば、体の一カ所や二カ所傷つけるもんだ。でなきゃ、物乞いをしても金をもらえねえからな」
「すべて自分の意思なのか」とマノージが尋ねた。
「昔はこのくっついた指を見せるだけで金がもらえたが、図体がでかくなってからは誰からも同情されず、食っていけなくなった。そんな時、路上の知り合いが、この組織のことを教えてくれた。あそこへいけば、稼げるような体にしてもらえるし、メシや布団も与えられるってな。それで、俺は三階に暮らす幹部に取り入って、仲間にしてくれって頼み込んだ。幹部たちは承諾し、俺の片目を果物ナイフでぶっ刺した後、ラジャのグループにつれていってくれた。以来、俺はここで働く代わりに、食い物とねぐらをもらっている」
 健全な体を犠牲にしてまで、マフィアの仲間入りを望む者もいるということなのだろう。逆に言えば、成長した浮浪児たちはそれだけ窮地に追いやられているに違いない。

□(143-4)


「誰かの餌食になるなら、自分が奪う側についた方がいい」とラジャは言った。
□(147)

□養子の取り引き
「ガキどもは、みな捨て子か浮浪者の子だ。路上に放っておいても、ほとんどの奴らが死んじまう。それなのに、てめえは、ガキたちを金持ちのもとへ養子にやるより、路上に放置する方がいいって言うのか」
 これまで出会った浮浪児たちを思い出した。血だらけの身体〔ママ〕をさらしてまで物乞いをする浮浪児、わずかな金銭を稼ぐために目をつぶした青年マフィア、老人羊を押さえつけて性交していた浮浪少年……それが路上で生まれ育った子供の行く末なのだ。
 冷たい隙間風が足元から這い上がるように吹きつけてきた。ボスは臭い息を大きく吐いてからつづけた。
「俺だって路上で生まれ育った人間だ。もし選べるなら、金持ちの養子として生きたかった。てめえはわからねえだろうが、誰だってそう思うんだよ」

□(182)


「なぜソニーの母親に食事を与えない。たいした量じゃないだろ」
 空には黄色い巨大アドバルーンが浮かんでいる。何かの宣伝らしく、楽しそうな音楽がどこからともなく聞こえてくる。ラジャは顔を上げ、つぶやいた。
「俺たちだってできることなら助けたい。けど、あの子の母親は、自分から食べるのを拒否したんだ」
「どういうことだ」
「ここでは働けない者が食っていけるゆとりはない。働けない者が食えば、働ける仲間が飢えちまう。だから、自分の死期を察すると、仲間のために食べるのをやめるんだ」

□(258)

 重い。

 なお、石井光太は4冊目。いずれも考えさせる本だ。答えが書いてあるわけではない。問いが投げかけられる。だから考える。なかなか答えは出ない。でも答えなんかないのだとあきらめてもいけない。それぞれの持ち場で、できることをするしかない。

 ・『絶対貧困』
 ・『物乞う仏陀』
 ・『神の棄てた裸体』

 今回もそうだが、「神」とか「仏陀」とか、そういうのがタイトルに入る傾向がある。もはや「神」の仕業と言う以外にない、「神」のせいにするしかない、人間の世界の現実はそれほどまでにひどい、ということなのか。たしかに、ひどい。

@研究室
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by no828 | 2010-07-23 18:01 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 07月 22日

宵音

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 販売元

「宵音(よいね)」

 昨夜、卵を買いに某カスミに回ったら視界に入ってきたので買ってしまった(ビール棚の前を通るわたしが悪いのだが)。某イオン系列店限定+期間限定という二重限定が掛けられている。

 味は濃いめ、原材料も麦芽とホップしか使っていない。ドイツを思わせるが、喉ごしは鋭角的。夏にはよいかもしれない。味の濃さそのままに、もう少し丸みを帯びた喉ごしだとわたしの好みだが、夏でもそれでよろしいかというと、少々躊躇ったりもする。

 なお、アルコール度数は7%と高め。

 商品名の「宵音」には、あまり賛成できない。宵に味わってほしいとの願望が込められているのかもしれないが、凝りすぎな印象が否めない。「「宵音」呑んだ?」、「まだー、「宵音」って何?」、「ビール、「宵音」結構おいしいよ」、……日常的に使用しやすい名詞ではないよね。

 そして、「「宵音」、結構よいね」というダジャレを言う者が絶対に現われると思うのだ(わたしは絶対に言わない!)。それが何か嫌だ。(今Qの顔が浮かんだことは内緒。)


@研究室 
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by no828 | 2010-07-22 17:21 | ビール | Comments(0)
2010年 07月 22日

アサヒゴールド復刻版

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 販売元

「アサヒゴールド復刻版」

 昭和33(1958)年に「日本初の缶ビール」として発売されたものの復刻版、ということで売り出されている。

 味は薄めで、原材料に米が入っているためか、ちょっとぼやけているという印象。「どうして米を加えたんですか!麦とホップで勝負してくださいよ!」と思うわけだが、しかし当時の日本におけるビール受容の文化とは、「麦とホップだけでは……」という、あるいはそういうものであったのかもしれないとも思う。

 ちなみに、呑んだ日は2010年6月30日、そのときの走り書きメモをもとにエントリしました。

 
@研究室
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by no828 | 2010-07-22 17:05 | ビール | Comments(0)
2010年 07月 21日

わかりたいと渇望しうる問題の範囲が恐ろしく広い——内田樹・石川康宏『若者よ、マルクスを読もう』

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 版元

 52(285)内田樹・石川康宏『若者よ、マルクスを読もう——20歳代の模索と情熱』かもがわ出版、2010年。

 内田先生と石川先生は同僚。サブ・タイトルにある「20歳代の模索と情熱」は、マルクスが20歳代のときの、という意味。


 これは高校生向けに書かれたマルクスの案内書です。〔……〕「マルクスの名前ぐらいは知っているけれど、読んだことのない一〇代の少年少女」というのがぼくたちの想定読者です。こういう「初心者のために、むずかしいことをばりばりと噛み砕いてご説明する」という仕事が石川先生もぼくも大好きです。
 もちろん、二人とも教師ですから「教えるのが好き」ということがあるのですけれども、それだけではありません。「事情をよく知らない人に、そもそものはじめからことの成り立ちを説明する」という作業はぼくたちにとってもきわめて刺激的な経験であるからです。

□(内田「まえがき」1-2)


〔……〕私は、マルクスという人は、自分がわからないと自覚する問題の範囲や、わかりたいと渇望しうる問題の範囲が恐ろしく広い人だったように思っています。そしてその範囲の広さが、そこに踏み込んで何事かを「発見」していく喜びの積み重ねにもはげまされ、どこまでも休むことなく突きすすむマルクスの探検家的なバイタリティを生み出したのではないかと思っています。
□(石川『ユダヤ人問題に寄せて』『ヘーゲル法哲学批判序説』57)


 一人の人間が公私に分裂していることもおかしいし、分裂したうちの「より利己的な方」が本態で、「より非利己的=公共的な方」が仮の姿というのも、おかしい。そうじゃなくて、真に解放された人間というものがあるとすれば、それは分裂してもいないし、隣人や共同体をつねに配慮し、そのことを心からの喜びとしているはずである。そういう人間が今どこかにいるということではなくて、論理的に言って、そういう人間がめざされなければならないのではないかとマルクスは言うのです。
 マルクスはそれを「類的存在」と呼びます。〔……〕
 マルクスは人間が自己利益の追求を最優先することを止めて、自分の幸福と利益を気づかうのと同じ熱意をもって隣人の幸福と利益を気づかう「類的存在」になることを「人間的解放の完遂」だと考えました。

□(内田『ユダヤ人問題に寄せて』『ヘーゲル法哲学批判序説』91-2)

 “「人間」とは〔かくあるべき〕”という点で、マルクスとカントはすごくよく似ている気がする。


 疎外論の出発点が「自分の悲惨」ではなく、「他人の悲惨」に触れた経験だったということ。マルクスは「私たちを疎外された労働から解放せよ」と主張したわけではありません。「彼らを疎外された労働から解放するのは私たちの仕事だ」と主張したのです。この倫理性の高さゆえにマルクス主義は歴史の風雪に耐えて生き延びることができたのだとぼくは思っています。
□(内田『経済学・哲学草稿』152 傍点省略)


 つまり共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題をひとつひとつ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなる——この斬新な発想は、後々まで、マルクスの革命論や未来社会論の重要な柱となっていきます。未来は、人間が社会に自由に押しつけることができるものではなく、いまある社会の内から生まれ出てくるものだというわけです。
□(石川『ドイツ・イデオロギー』185)

 石川がここで説明しているマルクスの文章を、わたしも3月に出た共生論文の中で引用した(この引用から論文をはじめました)。既存の共生論の発想が、どうもマルクスの言っている共産主義の発想法と似ている気がしたのです。

 
 わたしも20歳代のうちに考えられることは考えておこうと思う。
 

@研究室
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by no828 | 2010-07-21 16:56 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 07月 18日

みんなでひとつのことをするときのひとりひとりの揺らぎと輝き——スウィングガールズ

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「スウィングガールズ」、2004年公開日本映画。

 先日ジャズに触れる機会があって、それで触発されて。ジャズがはじまったのにはやっぱり背景があって、そこにやっぱりある考え方(思想)があって、そういうのを前に少し勉強して、ジャズっていいなあと思った。

 スウィングしたくなりました。

 みんなでひとつのものを作り上げるというのに憧れる。そういうのが好き。それなのに、中学・高校と部活は陸上競技(中・長距離)という個人競技、研究も“理系”の研究室単位のチーム・プレーではなく“文系”の個人プレー。だから余計に憧れる。

 あとは、“学校”っていいなあとも思った。いや、厳密に言うと、学校全般がいいなあと思えるのではなく、いいなあと思える学校もあるし、そういう学校を作ることもできるはずだなあということ。大切なのは出会いであって、その出会いからいろいろ気付いていくってことだと思う。それが「成長」なんじゃないか。


 蛇足だが、小学校のときに生でトランペット演奏するのを聴いて感動して、それからしばらく「トランペット習いたいトランペット習いたい」と母に言って、母もそれならと思ったのだけれど近くに習わせてくれるところがなくて断念したという経緯があります、わたし。

 さらに蛇足だが、「スウィングガールズ」に西田尚美さんがちょっとだけ出演されていました。


@研究室
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by no828 | 2010-07-18 18:05 | 映画 | Comments(0)
2010年 07月 17日

透けて見える沖縄の姿——ナビィの恋

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(期せずして画像が大きくなってしまいました。どんまい)

「ナビィの恋」、1999年公開日本/沖縄映画。

 観たいと思っていた映画なので、先日某TSUTAYAが旧作1週間レンタル100円セールをしていたときに借りて観た。

 沖縄は(と言ってどこまで含めるかという問題もあるが、ひとまず)独特の文化圏だ、というのが率直な感想。日本という枠組みで見れば、沖縄は“辺境”に位置するわけだが、その“辺境”から日本を、世界を考えるという視点の置き方が大切なように思われた。何か、いろいろひっくり返るような気がする。

 まずは沖縄に行ってみたい!(行ったことがないので……)


 感想は、おじいの恵達(登川誠仁)の人柄が好き、あと西川尚美はやっぱり素敵だと思った、ということであります。
 
 ちなみに、ご覧になったことのない方のために、ですが、表題の「ナビィ」は奈々子(西川尚美)のことではありません(わたしはナビィ=西川尚美だと思っていました)。おばあ(平良とみ)の名前です。「ナビィ」は日本語(標準語)だと「なべ」になるみたいで、当時の主な女性の名前のひとつであったようです。「ナビィの恋」はそのおばあナビィの恋のお話です。もちろん、奈々子の恋のお話も出てくるのですが、あくまでナビィがメインですので、奈々子の気持ちの描写にはあまり割かれていません。


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@研究室
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by no828 | 2010-07-17 19:25 | 映画 | Comments(0)