思索の森と空の群青

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2010年 11月 27日

おう オレは三井 あきらめの悪い男…

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 出所:井上雄彦,1996,『SLAM DUNK』28,集英社(ジャンプ・コミックス).


 よし。


@研究室
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by no828 | 2010-11-27 19:52 | 日日 | Comments(10)
2010年 11月 26日

一般性と自分の固有性とをどう論理的につないでいくか——小林康夫『大学は緑の眼をもつ』

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 版元

 81(314)小林康夫『大学は緑の眼をもつ』未來社、1997年。

 「もし人文系の研究者にでもなろうと思うのなら、一千冊くらいではまったく話にならない」の小林康夫先生のご著書。もっともっと勉強しますっ!と心を入れ替える契機をわたしに与えてくださった小林康夫先生のご著書。先生は大学院生時代から「髭面」であったようで、その辺り、エールをいただいたようでもあります。また、小林先生は博学であるばかりか、おされな雰囲気が漂う方(のよう)です。ご専門は表象文化論です。

 ちなみに、小林先生は森村泰昌さんともお友だちのようです。第一線の人はやはり第一線の人とつながるのですね。

 なお、本の内容の多くは、タイトルが示唆するように大学論ではあるのですが、エッセイ調なので「思索の森の言の葉は」ではなく「人+本=体」のカテゴリでエントリしておきます。


 博士論文の審査というものは、単に博士号を認定するための形式的な儀式というものではない。日本においても、フランスにおいても一般的に公開で行われるそれは、論文提出者の数年にわたる精根を傾けた力作が提起する問題をめぐって、提出者と数人の審査員、あるいは審査員同士のあいだで熱のこもった、時にはとっくみあいのような論戦が行われる知の劇場である。提出者はもちろんその知的なパフォーマンスの能力を披瀝しなければならないわけだが、しかし審査員自身も、若い世代の新しい研究成果に対してどう対応するかを問われてもいる。そこでの火花が散るような真剣な討議を通じて、その時代の研究の前線や地平がおのずから浮かび上がってくるような、ある意味では恐ろしい、刺激的な場でもあるのだ。
□(「知の共同体へ」10)

 わたしが聴衆として出席した審査会で、このような激しい「知の劇場」になったものはひとつもない。わたしのときは盛り上げたいと思う。


 研究という仕事は本質的に孤独であるからこそ、自分の思考や仕事をあらためて照らし出してくれるような他者との出会いはほんとうに貴重であり、なににも優る喜びである。そして、そうした出会いが文化の違い、言葉の違いを超えて起こりうるということこそ、あるいは学問の世界のもっとも鮮やかな魅力かもしれない。
□(「知の共同体へ」13)


 研究には孤独が必要だ。しかし、その孤独はときにはひとつのフィールドにおいて他の孤独と触れ合い、そこに火花が散り、稲妻が走るのでなければならない。そうでなければ、それは結局は閉ざされて、ついには腐ってしまうだろう。孤独だからこそ、やはり扉は開けられなければならない——それが、わたしにとってのこの夏の密かなレッスンとなった。
□(「扉の会のこと」28)

 大切。「孤独」と「孤立」とは同じではない。研究者に必要不可欠なのは孤独であって孤立ではない。


 正直に言って、シンポジウムというものは、そのすべての講演や発表が興味深く、刺激的だということはほとんどありえない。〔略〕多くの場合は、内心では「なんでこんなつまらないことを言っているんだ」とか、「ずいぶん乱暴な議論じゃないか」とか、「どっかで聞いたことのあるトピックだな」などと呟きながら、しかしじっと耳を傾けているのである。そしておそらく、この「耳を傾けている」ということが重要なのだ。つまり、かならずしも興味深いからではなく、そこで話されることに耳を傾けているということ——そこに、まずは学問研究にとっての基本姿勢、忍耐という基本的なモラルがあると言ったらいいだろうか。たとえ発表そのものがおもしろくないものであっても、それは全体としてその時点でのその問題系についての研究の水準がどのようなものであるのかを了解させてくれる役割を果たすのであって、シンポジウムというのは、結局は、そのような意味でもっともアクチュアルな「一般的な状態」を確認する集会にほかならない。
□(「「大地」への回帰」43-4)

 忍耐!


 一方にはあまりにも常識的な一般論、他方には他者には関係のない「自分語り」——おそらくほんとうの「考えること」はこのふたつの極のあいだにあるものです。つまり、一般性と自分の固有性とをどう論理的につないでいくか、そこに「考えること」の道筋があります。そして、この道筋を、われわれは考えるそのたびごとに自分で——自由に——創造しなければなりません。あらかじめ決まった一本の正解の道があるわけではない。原理的には無数の道が可能ですが、しかしそれぞれの人にとっては、どんな道でもいいというわけではなく、その人にとって意味のある道をそのつど開いていくのです。そして、道というものは、ひとたび開かれたあとは、ほかの誰もがそこを通れるのでなければならないのです。
□(「自由のレッスンとしての「考えること」」78)

 「考えること」をここまで明快に説明した文章はあまりないのではないか。すとんと落ちた。

 「自分で考えなさい」とはよく言われることだが、しかしそのとき「考える」とはいかなることかが合わせて説明されることはない。少なくともわたしは聞いたことがない。だが、「考える」ということがどういうことかわからないから「考える」ができていない場合もある。少なくともわたしはそうであった。“「考えなさい」と言われても「考える」ってそもそもどういうことだ?”がまずは来る。そこで引っかかるから実際に「考える」まで行けない。もちろん、それがわからなくても手探りでやっていくしかないわけで、そのうちに「考える」が身体化されてもいくのだが、やっぱり説明はほしい。「考える」は「考えなさい」と言っていれば済むことではない。「考える」はそれが何かを教えることの可能な「技法」として捉えられるべきであろう。


 他にも赤線を引いて付箋を貼ったところはあるのだが、それらは専門的・個別的なことなのでノートに手書きで引用しておくことにしよう。

 
@研究室 
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by no828 | 2010-11-26 16:17 | 人+本=体 | Comments(2)
2010年 11月 25日

冬を前にした人工都市の断景


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 言わずと知れた毎年恒例の駅・バスターミナル前のライトアップ。

 なぜかおしゃれに見えない。Because it is too much? この前、銀座に降り立つことがあって、その街並みのライトアップは綺麗に感じられたのに。


@研究室
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by no828 | 2010-11-25 20:23 | 日日 | Comments(0)
2010年 11月 25日

ある秋の雨上がりの日のバス停から



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 大学キャンパス内のバス停。


@研究室
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by no828 | 2010-11-25 20:17 | 日日 | Comments(0)
2010年 11月 23日

星は路傍のどぶの水にその光を映すときほど美しく光ることはないのだ——モーム『コスモポリタンズ』

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 版元

 80(313)モーム、サマセット『コスモポリタンズ』筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。

 『月と六ペンス』で有名なモームの短篇集。『月と六ペンス』は読んだことがない。短篇で有名な「雨」も読んだことがない。というか、翻訳は学術書以外あまり読まない。小説になると、“翻訳で読むこと”と“原著を読むこと”との差が開くような気がするからだ。読むなら原著の方がよい(と言ってもあまり読まないが。一時期ペーパーバックを英語の勉強も兼ねて読んでいたが、何かあんまり入ってこなかった)。もちろん学術書も原著で読むのが望ましい。だが、学術書の場合、小説には“あり”なこと(情景や内面の変化をそれとなく表現することとか)が極力削ぎ落とされるため、言語の違いを超える部分が相対的に拡大するような気がするのである。

 しかしながら今回はその学術書でモームに言及があったので、ふらりとモームに行ってみたわけである。それで『月と六ペンス』や「雨」に行かなかったのはわたしが単にひねくれているからというのが大きいが、『コスモポリタンズ』というタイトルから自分の研究に何らかのヒントが得られるのではないかという淡い期待があったからでもある。そして、淡い期待は儚く終わるものなのである。


 にもかかわらず、私の眼から見ると、かれの生涯は成功だった。かれの生き方は、文句なしに完璧な姿なのである。つまり、かれは自分のしたいことをして、決勝点を眼のまえに望みながら死んだ。そして、目的が達成されたときの幻滅の悲哀など味わわずにすんだからだ
□(「弁護士メイヒュー」32)


「わしはときどき考えるのだが、星は路傍のどぶの水にその光を映すときほど美しく光ることはないのだ
 と、不滅の神はいった。
〔略〕
わしはよく不思議に思うのだが、いったいどうして人間どもは、軌道を外れた性の関係をわしがそんなに重要視していると考えるのだろうか? もしもわしの造ったものをもう少し注意して読みとってくれたら、とくにこの種の人間的弱点にはいつもわしが同情を寄せてきたということぐらいわかりそうなもんだが——
 それから、神は例の哲学者のほうに向き直った。彼は自分の意見にたいする返事をまだ待っていたのである。
「さあ、こんどこそは」と不滅の神はいった。「わしが全能と十全とをなかなかみごとに結びつけたことを、いくらおまえだって認めないわけにはゆくまいな」

□(「審判の座」175-6)


「まあ、ジョウさん、あたしあなたが神様なんか信じているとは思っていなかったわ」と看護婦がいった。
「その通りだよ。わしは懐疑論者だ。わしはいまだかつて、万物の構成の中に、なにか知的な目的があるなんて徴候をひとつも認めたことがないんだ。もしこの宇宙が何者かの工夫によって出来たもんなら、その何者かは、よっぽど罪深い低能児にちがいなかろうよ」彼は両方の肩をすくめた。「よにかく、もうわしもこのけがらわしい世の中に、そう長くは留まっていない。その暁には、すべての事柄の真相がどんなものであるか、自分で行ってたしかめてみるつもりだよ」
〔略〕
「わしにはなんにも望むものなんかないよ」と彼はいった。「ただ死にたいと思うだけさ」彼の黒い光った眼が輝いた。「しかしともかく、もしタバコを一箱いただけるのだったら、かたじけなく思うね」

□(「フランス人ジョウ」195-6)


「いやどうも、これはあきれましたな」と、将軍がカン高い声でいった。「あんたは、十六年間も、この教会の会堂守りをしていて、まだ読み書きを習ったことがないといわれるのかね?」
わしは、十二のとき奉公にあがりましてな、生れてはじめて、料理番の婦人がいちどわしに文字を教えようといたしましたが、わしにはどうやらその呼吸がのみこめなかったらしく、それからというものは、あれやこれやで、どうにもその暇がなかったようでございます。でもこんにちまで、かくべつそれで不自由をいたしたようなおぼえはございません。どうも、いまどきの若い衆には、ひとかどのお役に立つ身でありながら、書物を読むのにあたら多くのひま〔ママ〕をつぶしているものがたくさんいるように思えますんで
「しかし、新聞を読みたいとは思わないかね?」と、もひとりの委員がきいた。「手紙を書きたいと思ったこともないのかね?」
はい。でも、そうしなくともけっこうどうにかやっていけるように思いますよ。それに近頃では、新聞にもいろいろと写真がのっておりますので、世間のようすもあらかたわかります。家内がそうとうの物識りでして、わしが手紙を出したい節は、代筆をいたしてくれますしね。どうやらわしもニュースばかり気になる賭事師ではなさそうでございますよ

□(「会堂守り」317-8)

 「生」との関係において、「識字」とは、「能力」とは。読めない人生、書けない人生が、読める人生、書ける人生よりも豊かではない、とどうして言いきれるのか。と言って非識字を正当化する言説に加担するのも嫌だけれど。


@研究室
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by no828 | 2010-11-23 16:44 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 11月 21日

人間がなんで恋愛をするのかというと、中途半端な自分を一遍ブチ壊す為ですね——橋本治『青空人生相談所』

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79(312)橋本治『青空人生相談所』筑摩書房(ちくま文庫)、1987年。

版元


 名著、だと思う。会ったことも話したこともないが、わたしは橋本治を勝手に“先生”にしている。

 この前の非常勤先の「教育学」の講義で、学生から「どんな教育者になりたいですか?」という質問をアンケートでもらった。わたしは次のように答えた。「教育者にはなろうとしてなれるものではないし、ひとりでなれるものでもない。学び手が“あの人はわたしの先生だ”と認めたときにはじめて“その人”は先生になることができる。だから、わたしは“教育者になりたい!”と熱く語る人をすぐには信用しない。なぜならば、その熱さの傍らからはときに学び手という他者が抹消されるからだ。熱い人はときに自分ひとりで教育者になれると思ってしまう。でも、そんなことはない」。もちろん、自戒を込めて、の話。

 その人を“先生”と呼ぶかどうかを決めるのは、“こっち側”だ。

 ところで、この本はその橋本先生が投稿者からの相談に紙面で答えるというものを集めたもの。回答の切れ味抜群です。ときに一刀両断しちゃったりしていますが、根底にあるのは“優しさ”だと思いました。

 以下、原文傍点省略でお送りします。


 なんだかモヤモヤしてて、自分の中でもうまく言えないようなことを「分かってもらいたいなァ……」と思うことってあるだろう? 自分じゃうまく言えないことでも、「それはこういうことじゃないのかい?」ってきいてくれて、「だったらこうしてごらん」って言ってくれる——そういうふうな愛され方をしたいって思うことってあるんだよね。
□(16)


 何故両親が自分の子供の成績の悪さに対して烈火の如く怒るのかというと、それは、その悪い成績表が親に対して「お前のせいだ」と言っているからです。そういう風に両親は思うんです。
□(30)


 基本的には、あなたの人生が破綻してないから、「このまんまでいいんだろうなァ」とあなた自身が平気で思えているだけです。大丈夫ですよ、その内あなたの人生は破綻します。破綻して、この破綻をどうすれば取り繕えるであろうかなァ、と考え始めた時、その時にあなたのホントの進路が見えて来るというだけです。
□(57)


「助けて」と人に言うのも、実は積極性の表われなんですね。実を言えば、あなたの弟さんは「助けて」とさえも言わないでしょう? 言わないんだったら、当面はまだ助ける必要なんてないんですよ。放っときなさい。
□(59)


 頑張りなさいと言っても無駄だから言いませんけど、要するにあなたは、今やっと気がつき始めたっていうだけなんですよね。自分の中では失敗したことがあるかもしれないけど、自分の外ではあんまり失敗したことがないはずなんです。
□(78)


 編集者にとって一番大切なことは、自分が“読者”になりきれるかということです。それらしい文章を書くなどということは、ライターや著者にまかせておけばいいことです(出来るにこしたことはありませんが)。編集者とは、まァ“読者”というものの欲求を先取りするものである——これが一番大切です。
□(158-9)


 あなたはうっかりと、自分の中に“ベストな女”というのを見てしまう。ところが現実には“ベターな女”しかいない。東京の彼女しかり、長野の結婚相手しかりです。
 どちらも所詮“ベター”でしかないのだから、あなたの心が揺れ動いてもしようがない。それは当然というものです。
 ところがあなたはそうだとは思わない。そこで揺れ動いてしまうのは自分が“ベストの男”じゃないからだと思ってしまう。そのことをあなたが素直に認めればいいけれども、あなたはそれを隠してしまう。「自分はまだこの年でベストの男になれていない。それが恥ずかしい」といって。恥ずかしいのは“まだ”という若さではなく、それを隠して「あわよくば」と思うあなたのさもしさの方だ。“ベストの女”がいないのと同様、“ベストの男”というのもまたいないのである。“ベターの男”でしかない自分を“ベストの男”にまで持って行くのだとしたら、“ベターの女”を二人必要とするのは当たり前ではないか。
 そうでしょう?
 そう思いなさいよ。そう認めなさいよ。そう言っちゃいなさいよ。

□(170-1)


 結婚なさることが一番です。親、親戚、会社の上役、なんでもいいですから、ともかく「結婚したいから見合いの話を探してほしい」とおっしゃいなさい。〔略〕あなたには自由恋愛は向きません。結婚生活の中で恋愛を育てて行くのが一番あなたに向いているんです。ヘタに恋愛の真似事をして「だめだなァ……」と暗く自己嫌悪に陥るより、「二人で自分達の生活を建設していこうよ」という真面目さがあなたに合っているのです。冗談やイヤミで言ってるんじゃありません。本当にそういうことが向いている人がいるんです。
□(175-6)


〔略〕言葉というのは不思議なもので、当人がなにげなく口にした言葉が、それを受けとめる人間がいない時は、不思議とその言い出した当人の中にひっかかって、発酵なんてのを始めたりするもんなんです。〔略〕恋愛を成立させたかったら、自分の中に育ってしまった感情と同じだけの感情が相手の胸に育つまで待つしかありません。
□(191-2)


 陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
 陳腐であるということは、退廃しているということです。〔略〕
 彼女が何故最悪か? それは、別れることに理由を求めるから。
 あなたが別れたいと思う理由は“嫌いだから”なのだ。どうして“嫌い”に理由がいるだろうか? 十分な説明を果たしてからでないと、ただそれを嫌うということさえも許されないのか? 嫌いという、人間の感情の根本が認められないという状況が、あなたの目の前に迫っているのだ。それを人間の死と言わずしてなんであろうか?

□(211-2)


〔略〕人間というものがなんで恋愛などというものをするのかというと、中途半端なままに出来上がってしまっている自分を一遍ブチ壊す為なんですね。
□(234)


■突然部屋にこもってしまった中一女子のお母さんへのお答
 天の岩戸の物語を思い出していただきたいと思います。天照大神が天の岩戸の中に隠れてしまった時、他の神様達は何をしたのでしょう? 答はお分かりだと思いますが、彼等はドンチャン騒ぎをしたのです。ドンチャン騒ぎをした結果、岩戸の中にいる天照大神は、ひょっとしたら自分以外に世を照らす新しい神様が登場してしまったかもしれないと思い、うっかりと顔をのぞかせた結果、外に引っ張り出されてしまったのです。お宅のお嬢さんは、あなたにとって天照大神=太陽と同じものだった筈です。〔略〕早い話、あなたは魅力的な母親にならねばなりません。

□(240-1)


〔略〕今迄希望というものを持たされたことがなかった人間がその希望を手に入れる為には通らなければならない関門が一つあります。何かといえば、それは“反抗”です。
□(253)


 あなたは、“保護”というものをカン違いしてらっしゃいますけども、“保護”というのは、そういう幼い打者をバッター・ボックスに立たせないことではなくて、まだヘタクソなバッターが試合に馴れる為に、「どこにボールが飛んでたって大丈夫、いざとなったら、お母さんはどこにだって飛んでって、そのヘタクソなボールとっつかまえて上げるから」と言って、試合の場に送り出すことなんですよ。母親というのは、そういうグラウンドを持っているようなものじゃありませんか?
□(264)

□何で人生相談なんてやろうと思ったんですか、橋本さん?
〔略〕自分一人で分かっちゃってるのって、絶対におかしくなると思ってたから。自分で分かってることが本物だったら、絶対に外に出てってもこわくなんかないし、とか思ってたから。武者修行の旅に出たいとかって、そういう風に思ったんですよね。
□(280)

 
 これは今のわたしにあてはまることかもしれない、とか、これは過去のわたしにあてはまるとか、いろいろ思いながら読んだ。そして、引用もした。引用がだいぶ長くなってしまったのは、それだけわたしに向かってくることばが多かったからだと思う。


 人間の近代性をどう回復・構築するか、が橋本先生のひとつのテーマなのかなと思ったりで、でもそれは“そういう時代なのだからそういうふうにしないといけないよ”であって、それはつまり“自分の頭で考えろ”っていうことなんだと思います。でも、“自分の頭で考えろ”がなくなってしまったのが近代なのでもある。だから「人間の近代性」というときの「近代」は、「近代になりつつあるとき」で、「自分の頭で考えないといけないと思いはじめたとき」で「実際に自分の頭を使いはじめたとき」である。これは「近代がおわりつつあるとき」に必要なことと実は重なってくるような気がするのです。ただ、“自分の頭で考えろ”と言っているからといって、橋本先生は“自分”以外を消しているわけではまったくない。“他者との関係性のうちにある自分”をきちんと位置付けているのです。その上での“自分の頭で考えろ”です。


@研究室
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by no828 | 2010-11-21 16:54 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 11月 20日

ぼくは一貫して「隠しとおす」ために書いてきた——高橋源一郎『追憶の一九八九年』

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 78(311)高橋源一郎『追憶の一九八九年』1990年、スイッチ書籍販売部/扶桑社。

 小説家・高橋源一郎、1989年の日記。日記が本になるというのがすごい。また、それを読もうとするわたしもすごい。

 どうして手に取ったかというと、1989年が気になるから。1968年の次ぐらいに。何かいろいろ起きて動く年というのがある。もちろん、だから「変わる」かというと、それはよくわからないのだが。

 この本がその好奇心に応えてくれたかというと?ではあるのだが、しかし開高健が死んだのも1989年か、というぐあいの発見があったり、小説家の生活が垣間見ることができたり、愉しく読めた。

 とりあえずの疑問は、“小説家って儲かるのかな?”である。外食をたくさんして、競馬もたくさんして(これは大半が仕事だが)、服もたくさん買って(あげて)、本もたくさん買って、“うわぁ、お金たくさん使ってるなぁー、生活大丈夫なのかなー”と余計な心配もした次第。

 ちなみに、1989年はわたしが8歳のとき。

□6月3日(土)
 十時起床。競馬場。帰って昼寝。夜、北京で戒厳軍発砲しながら天安門へ突入のニュース。テレビを見る。天安門にいるNHK記者の声、☎を通して震えているのがわかる。「軍隊がやってきたようです」。記者の声の背後から銃声聞こえる。無差別発砲らしい。記者「リーダーが『最後の時がきた。最後まで戦おう』と言っています。『インターナショナル』を歌っています。みんな泣いています」。銃声。朝五時までテレビを見る。  
□(147)

□10月15日(日)
〔略〕ブックセンターで「仮往生伝試文」(吉井由吉 河出書房新社)、「象徴の理論」(トドロフ 法政大学出版局)、「昔話の形態学」(プロップ 風の薔薇)、「アルシテクスト序説」(ジェラール・ジャネット 風の薔薇)。「銀座アスター」で食事して、八時帰宅。二時間ほど寝た。「朝日ジャーナル」と「ガリバー」の原稿を書く。
□(244)

 トドロフは、ツヴェタン・トドロフ。時間があれば読んでみたい人。

□10月20日(金)
〔略〕五時四十五分、家を出る。六時四十五分、新宿二丁目「ブラ」へ。ねじめ正一氏直木賞受賞記念パーティ。絓秀実、川村湊、渡部直己、鈴木志郎康、長谷川龍生、阿部岩夫、岩崎迪子、清水哲男、八木忠栄、伊藤聚、江中直紀、金子千佳、等々。二次会を「池林房」でやり、十一時四十五分、渡部くんと同乗してタクシーで帰る。月と星が呆れるほどきれいでした。
□(247)

□余白に書く(2)ぼくが日記を書かない理由〔わけ〕
〔略〕作家には大きく分けて「自らをさらけ出す」タイプと「自らを隠しとおす」タイプがある。だが、そのタイプ分けが事実だとしても、その動機はさほど明確ではない。「隠すために」さらけ出す作家もいれば、「さらけ出すために」隠しとおそうとする作家もいるだろうぼくは一貫して「隠しとおす」ために書いてきた。それは、書く場所が日記であっても変わらない。だが、何のために何を「隠そう」としてきたのかは、その当事者であるぼく自身にとっても自明ではなかったのである。
□(296)

 わたしはここに何のために、何ゆえに書いているのか。隠すためか? さらけ出すためか? さらけ出すことで何かを隠すためか?


@研究室 
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by no828 | 2010-11-20 16:29 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 11月 16日

希望は与えられるものではなく、自分でつくり出すものだ——玄田有史『希望のつくり方』

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 版元

 玄田有史『希望のつくり方』岩波書店(岩波新書)、2010年。

 「希望」とは何か? 労働経済学者の玄田が自らの経験・体験をも豊富に織り交ぜながら、丁寧に説明する。希望は、自らの経験・体験を抜きにしては語りえないものなのかもしれない。

 ちなみに、この本は10代から20代の若者向け(me too!)に書かれているため、平易な文体で語りかけるように書かれているが、しかし質はまったく落としていない。


二〇〇一年六月一三日です。東京のある高校の体育館で、全校生徒にはじめて話をしました。
 結果はさんざんでした。生徒さんたちは、全然聞いてくれませんでした。元気の良い(?)というか、静かにだまって話を聞くのが得意でない生徒さんが多いと、高校の先生からあらかじめ聞いてはいました。その先生は「うちの子たちは最初から悩むのを放棄している」ともいわれました。

□(2)

「うちの子たちは最初から悩むのを放棄している」にまず衝撃を受けた。「悩むのを放棄する」について、しばし考え込んでしまった。


 希望を持つとは、先がどうなるかわからないときでさえ、何かの実現を追い求める行為です。安心が確実な結果を求めるものだとすれば、希望は模索の過程(プロセス)そのものなのです。
□(34)

 ふむ。例の“あれ”に似ている。文章ではこの前に「希望」と「幸福」との対比があり、それに続いての「希望」と「安心」。こういう概念(というか、理論的概念構成)の差異には関心がある。分けて考えるべきことは確実にあって、その“分けて考える”ためには概念の使い分けが必要。


 しかしコミュニケーションに気をつかってばかりいて、日本人の多くは人間関係に疲れ切ってしまっているように思えます。
□(82)

 なるほど。コミュニケーション社会。だからここからの逸脱・退出も起きるのだ。そして別の社会というか共同体を形成する。そのひとつが新興宗教であったりするのか。


 毎回ほんとによく準備をし、せっせと講義用のノートをつくり、講義をしてきました。何のため? 学生に正しい経済学の知識をおしえたいためです。でも、本当はそうじゃなかったのです。教えている内容がまちがっていると、学生から非難されたりしないように、要は自分を守るためだったのです
□(115-6)

 教えるようにもなった身としては、よっくわかります。


 セレンディピティ(serendipity)という言葉があります。何かを探しているとき、偶然に意外な出来事に出会うことでひらめきを得て、もともと探していたのとは別の価値ある大切な何かを発見できる才能のことを意味します。一七五四年にイギリスの政治家であり小説家でもあったホレス・ウォルポールのつくった言葉といわれています。
□(138)

 @「悩み」とか「迷い」とか「無駄」とか「失敗」とか、そういうものを肯定するコンテクスト。わたしも、もしかしたら自分を正当化したいだけかもしれないが、無駄なことは何もない、就職が遅れていることで失っていることは多々あるが、しかし同時に得られていることもあるはずだ、無駄にはなっていないはずだ、無駄になどするものか、と思っている、というか、思うようにしている。やっぱり自己正当化か。


誰かを幸せにしようとすれば、往々にして他の誰かにそのしわ寄せがいくということも忘れてはいけません。
□(169)

 だからこそ「世界同時革命」ということが言われたのだ。


〔略〕まだ発見されていなかったり、共有されていない問題も、社会には必ずあります。経済学に限らず、あらゆる社会科学が取り組むべきことは、いまだ光の当たらない、言葉にならない声をあげている人の声によく耳を澄ますことです。そして、その実態を明らかにすべく、謙虚に努力を続けることです。
□(170)

 共感。


 では、安易に希望を語ることが政治ではないとして、政治は何をすべきなのでしょうか。成熟社会における政治の最大の役割は、希望とは反対に、未来に起こるかもしれない絶望を避けることです。そしてそのための最大の努力を、今することです。
□(171-2)

 シュクラー? 最小不幸社会?


「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でちゃんとウロウロしていること。ちゃんとウロウロしていれば、だいたい大丈夫」
□(200)

 これも共感。わたしも壁の前で長らくウロウロしています。


一番いいたかったのは、希望は与えられるものではなく、自分で(もしくは自分たちで)つくり出すものだということでした。
□(213)

 主体的に、能動的に。希望学は、近代回帰か? 「回帰」というのは、われわれはポスト近代を経験した(している)との状況認識があるからこそだが。というより、状況認識はポスト近代、だがそれを何とかしようとするときの軸足は近代に置いておく、ということか。いや、わたしもそれに反対ではないのです。どうもそこに行き着くような、行き着いてしまうような、そういう気がしています。


@研究室
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by no828 | 2010-11-16 18:53 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2010年 11月 16日

結局は政治を改良しうれば、学問の能事了れり——柳田国男『青年と学問』

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 版元

 柳田国男『青年と学問』岩波書店(岩波文庫)、1976年。
 ※ 講演原稿集。元々は1928年4月に日本青年館より刊行。のち、31年12月に『郷土研究十講』と改題され、同じく日本青年館より再刊。

 柳田国男(1875-1962)は日本の民俗学者。← 某ウィキペディア的はじまり。

 タイトルに惹かれて古本を購入。民俗学の話に収斂していくはずだがきっと学問論一般も展開されるはずだと思って読みはじめたら後者はあまりなく。でも、柳田国男という名前はよく聞くわりにはその著作をひとつも読んだことがなかったのでよい機会になったと思っている。

 ちなみに、柳田に対する批判を赤松啓介が行なっているのを読んだことがあり、また、その部分を引用したこともある。Click here!

 以下、学問論一般を論じた箇所の中からわたしが関心のあるところを引用する。あとはもちろん教育についても。

 学問の役割・位置付け


 学問というものが、たんに塵の浮世の厭わしいゆえに、しばしばこれを紛れ忘れようとするような、高踏派の上品な娯楽であるか、はたまた趣味を同じうする有閑階級に向って、切売小売をなすべき一種の商売であるならばいざ知らず、断じてその二つのいずれでもないことを信じながら、なおこれほど眼前に痛切なる同胞多数の生活苦の救解と、いまだなんらの交渉をも持ちえないというのは、じつは忍びがたき我々の不安であった。それがこの頃になってから、たとえ少しずつでもしだいにその応用の途に目を着けようとしてきたのである。
□(14)

 真摯な書き方だと思う。


 私などは根が俗人であるためか、学問に世用実益の有無を問われるのは当然だと思っている。そうして結局は政治を改良しうれば、学問の能事了れりとまで考えている。ただ現在のありさまでは一方を実際といい、他の一方を空想と名づけて、両々相容れぬもののごとく見られるのは止むをえぬというのみである。
□(226)

 プラグマティズムというか、反知性主義というか。現在も、政治を何とかすればうまくいく、と考えている学者は結構いる気がする。論文を読み、研究発表を聞いていると、“結局政治が帰着点ですか”と思うことが結構ある。


 我々の業務は現存する事実の採録である。〔略〕この手この耳あの空あの星を、何と呼んでいるかを知らんとする企てである。しこうしてまた統一教育の力に由り、久しからずしてしだいに埋没せんとする事実を保存せんとする辛労である。〔略〕
 いわんや我々都市の住民をして、絶海の孤島にかくのごとき同胞あることを知らしむ以外に、さらにその孤島に生死する人々をして、その生存のいずれの部分までが全国土に分散する日本人と共通のものなるかを、知らしめるだけでもすでに大なる力である。〔略〕
 国家万年の大計のために、民族結合の急務を説こうとする人々は、無識であってはならぬ。かつ手前勝手であってはならぬ。その過失を免がれたいばかりに、我々はあらたにこういう学問〔=南島研究〕の興隆を切望しているのである。

□(138-9)

 全国一律の教育はダメであるが、しかし全国各地の学校で沖縄のことを教えるのはオーケー、沖縄の学校でそれ以外の日本各地のことを教えるのもオーケー、ということか。柳田はある部分、ある層では全国一律教育を認めているような気がするなぁ。

 史学の役割


 現在のこの生活苦、もしくはこうして争いまた闘わねばならぬことになった成行を知るには、我々の持つところの最も大なる約束、すなわちこの国土この集団と自分自身との関係を、十分に会得する必要がある。それを説明する鍵というものは、史学以外には求めえられないのであった。
□(15)

 この辺からも、“日本の人びとには日本のことを教えるべし”という姿勢がうかがわれ、それはつまり全国一律教育をある部分では必要としている、ということになる気がするのである。

 教育


 今が今までぜんぜん政治生活の圏外に立って、祈祷祈願に由るのほか、よりよき支配を求める途を知らなかった人たちを、いよいよ選挙場へことごとく連れ出して、自由な投票をさせようという時代に入ると、はじめて国民の盲動ということが非常に怖ろしいものになってくる。公民教育という語が今頃ようやく唱えられるのもおかしいが、説かなければわからぬ人だけに対しては、一日も早くこの国この時代、この生活の現在と近い未来とを学び知らしめる必要がある。しかもそれを正しく説明しうるという自信をもっている人がそう多くないらしいのである。ここにおいてか諸君の新らしい学問は、活きておおいに働かねばならぬのである。
□(16)

 つまりは政治教育。


 教育の方面に携わる人ならば、もう夙に親しく経験せられたことであろう。以前の世の農村の教育法は、よほど今日とは異なったものであった。今の小学校に該当するものは私塾の素読や寺子屋の手習ではけっしてなかった。年長者とともに働きまた父兄などの話を脇で聴いていて、いわゆる見習い聞覚えが教育の本体であった。なんどもなんども繰り返されて、いつとなく覚え込む言語の感覚が、主要なる学課であった。方言そのものが今日の教科書に当るものであったことは、近世全国一律の教授要項のもとに、遠方から来た先生が多くなった結果、親から子への連鎖が著しく弱くなったことを考えてみればよくわかる。もちろんこれを防がんがために小学校を罷めて、ふたたび家庭と郷党との感化に、普通教育を一任するわけには行かぬが、すくなくともこの全国一律の国家教育時代の大きな影響を意識して、なんらかの用意をもって避けがたい弱点を補充しようと試みることだけは必要である。昔ならば自然の進みに放任し、与えらるるものを受けて安心していてよかったものが、これから後は青年少年の側からも努めて少しずつ求め出すようにさせなければならぬと思う。
□(156)

 「近世全国一律の」の「近世」がわからないが、“国家は大切、だからといって全国一律の教育を全面展開すればよいというわけではない、それは一部に留めるべきで、むしろ教育の内容と方法の大半は各家庭・地域・学校に任せるべきだ”というのが柳田の主張なのか。


 この本だけで柳田の教育思想のすべてを理解することは全然できないが、それでもその一旦をうかがい知れたとは言うことができよう。学問論に関しては、結局は政治!ということを柳田は明瞭に語っているわけで、これはそれをもって柳田の学問に対するスタンスと理解してもよいように思われた。


@研究室
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by no828 | 2010-11-16 15:57 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2010年 11月 15日

琥珀ヱビス

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 販売元

 琥珀ヱビス(サッポロビール)

 美しい。ビールの色も缶の色も、素敵です。ひとつの作品です。食卓の 主役になれる ビールです(五七五調)。

 ちょっと高めだけれど、それだけのことはあるぞと感じました。麦芽とホップ以外のものも入れているビールを買うぐらいなら、それに何十円か足してこちらを買った方がよいと思います。ごくごく呑むようなビールでもないので、1本で満足できると思います。

 酒類:ビール
 度数:5.5%
 原料:麦芽、ホップ


@研究室
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by no828 | 2010-11-15 12:32 | ビール | Comments(4)