思索の森と空の群青

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2010年 12月 31日

宗教は科学の代用にはならないものです。否、なってはならないものだ——京極夏彦『文庫版 鉄鼠の檻』


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 89(322)京極夏彦『文庫版 鉄鼠の檻』講談社(講談社文庫)、2001年。

 版元




 年末、12月30日から31日にかけて読んだ(投稿日時もそれを反映したものにした)。これが昨年最後の“研究に直接関係しない本”。昨年は目標の100冊に届かず、89冊でおしまい。

 タイトルの「鉄鼠の檻」は「てっそのおり」。本文全1341ページ(!)。今回は、科学と宗教、のようなテーマ。これにかぎらず(これまでも触れてきたとおり)、京極の小説には、科学とは何か、という問いが通底している。だからおもしろい。

 だが、今回は誤植が目立った。京極の、そのハードカバーから文庫版に転じるときのページのレイアウトの徹底した変更ぶりに鑑みるに、誤植はとてもめずらしいことだし、だからこそとても目立った。

 たとえば、以下(強調は引用者)。

「〔略〕金を儲けるのも修行なら金をを稼ぐのも修行、不邪淫戒を破るのも修行では、市井の無頼漢より始末に悪い」(747)。

「〔略〕しかし拙僧は祐賢様の禅風をを貶すつもりはありません。〔略〕」(795)。


 以下、原文傍点省略、強調引用者でお送りします。


 今川とても解ったような気がするだけで、それは常に不確かなものである。その靄靄を何とか裏付けたいが故に、凡人は要らぬ知識を欲するのだ。この庭は何何時代の何何式で候の、この配置はこう云う意味で候のとお題目のように唱えたところで、何も解っている証拠にはならぬ。知っているだけで解ってはいないのだ。この場合知識は寧ろ邪魔になるのかもしれぬ。
□(47)


この世に科学で解明できないものなどないよ
 京極堂は断言した。
ただ科学的思考と云うのは凡てが証明され、明白になっていない限り、結論を出してはならないものだ。いずれ凡てが解明できると希望的観測を述べるならいいが、証明できぬ部分まで含めて解ったような顔をするのは奢りだからね。科学的思考に依って理解しようとするなら、現状判らないことは判らないままに棚に上げておくしかないのだと云う腹の括り方をしなければ嘘だ。理論的に正しくたって推論は推論で結論ではないのだからね。それじゃあ据わりが悪いと云うのなら、その時は一旦科学を捨てるしかない。〔略〕」

□(224)


「当山に手の空く雲水などおりません。常に、必ず作務を行っている。掃除も食事も睡眠も生活の凡てが修行、生きることこれ即ち修行なのです。〔略〕」
□(363)


「違うよ。禅と云うのはな、否定せんことには始まらない。仏に逢っては仏を殺し、祖に逢っては祖を殺し、親に逢っては親を殺し——何もかも捨てて、何もかも否定せんことには始まらない。そうせんと己が何者かは解らんだろう。〔略〕」
「親を殺す? 物騒な教えですな」
「殺すたって殺しはしないですわ。こりゃあまあ、喩え——否、そう思われてもいかんなあ。まあ、親にしても師匠にしても、況や仏にしても、それらが作った道に沿って生きていてはいかん、とでも云いますかなあ。所詮は他人の褌で相撲はとれん。仏様はこう云いました、先生はこう仰いましたつうのは他人の意見だ。それじゃあ己はどうなんじゃい、と、そこが問題なんだなあ。だからそんなものは殺してしまう。幾ら正しくとも、幾ら仏の道でも、束縛されてはいかん。自在な精神を以て、絶対的な主観たらねば、禅の修行は完成しない——

□(496-7)

 とくにここを読んで「禅」の本も読んでみたいと思った。「否定」から入って「自在な精神」「絶対的な主観」の獲得へと至るって、何だかとてもおもしろそう。

 研究論文においても、“誰々(先駆者)の思想に依拠してこの問題を分析する”というスタイルが、とりわけ哲学の分野ではある。その「誰々」がすでに亡くなった人であれば、その「誰々」を著者なりに呼び出して分析の道具立てとすることには意義があろうが、しかし生きている人であれば、“どうしてその筆者がわざわざその「誰々」に依拠して問題を分析する必要があるのか”という問いは不可避的に立ち上がる。“それならその「誰々」に直接言ってもらえばよいのでは?”ということである。

 私は基本的に、この“誰々を頼る”スタイルがあまり好きではない。だが同時に、“誰々(の何々)にまったく頼らない研究はありえない”とも考えている。だから、自分が誰に、何に依拠しているのかを自覚していることはとても大切なことだとも考えており、その意味では、“誰々(の何々)に依拠する”というスタイルを否定しない。いつのまにか勝手に何かの立場に立っていろいろ主張してしまっている「研究論文」のいかに多いことか、と教育学の名の付く分野を見て思う。理論とか概念とか思想とかという基礎を無視しているものが多いのだ。“誰々(の何々)に依拠する”スタイルは、そのことに自覚的である。

 しかし、せっかく他でもないわたし(あるいは、あなた)が研究するのであるから、“誰々(の何々)に依拠する”だけではつまらないのではないかともわたしは思う。それゆえにわたしが“誰々(の何々)に依拠する”場合には、その誰々(の何々)で対象を分析するだけでなく、その返す刀で誰々自身(の何々自体)をも分析する、ということをする。いわば、その対象を分析することで見えてきた誰々(の何々)の問題と課題をも明らかにする、というところまで行く(というか、そちらを主目的としているのかもしれない)。そこまでしないとわたし(あるいは、あなた)がそれを研究した意味がない。

 と書きつつ、研究は「わたし」という主体、「誰が」という部分が前面に出すぎてもいけないような気もしている。うまく言えないが、the one でありながらも、しかし one of them でありつづけることが研究者には求められるような気がしているのである。あぁ、まったくうまく言えていない。


 老師は再び声の調子を変化させた。
つまり芸術なんてものは何でもええ訳ですわい。綺麗だと思えば埖でも綺麗だし、素晴らしいと思えば屎尿でも素晴らしい。絶対美だの、絶対芸術だのなんてものはないのですな。主観の問題でしかない。だからと云って誰にも理解されんものを作りよる者は、矢張り芸術家とは呼ばれますまいな。それは当然だ。しかし、ひとり二人しか褒めんようなうちは、こりゃまだ芸術とは呼ばれん。じゃあ大勢が良いと思うもんが芸術なのかちゅうと、そりゃそれでいいが、他人に好まれるものばかりを多く作る者が芸術家と云われちゃこりゃ少しばかり変ですわなあ——

□(517)


「解っちゃったんですか?」
「敦子さんの言葉を借りれば悟ったのです。それは、巧く云えませんが、こうなのです。解っていても、解った気になった途端にそれは解っていないのと同じことになってしまう、つまり解った気になると云うのは、解ったこと自体を自分自身に説明している状態な訳です。本当は解っているのに、説明された段階でそれは本質ではなくなっている。だから解った気になっているうちは解ってはいるが解っていないのと変わりないのです。説明抜きで、解ったことそのものを、生きること自体で体現して、それで初めて解ったと云うことになるのでしょう

□(587)


「うん。じゃあ少し解り易く云おうか。目的があってそれを意識しているうちは本物ではない、とでも云うかな。病の者は健康を意識する。しかし本当に健康な者は健康を意識することはないだろ。健康と云う概念が失われている状態が真の健康なんだね。自己に対しても世界に対してもそれは同じで、自分とは何か世界とは問うているうちは本当ではない。自分とか世界とか云うものがすっかりなくなって、初めて自分があり世界があると——」
□(718)


「そうそう。そもそも科学者は番組制作者のようなものなんだから、番組の内容に就いてだけしか論じられない筈なのに、心理学だけは大きな顔をして聴視者を評論しているのだ。元より態度が悪い。聴視者のことを考えて番組を造るのは良いが、聴視者に口を出すのは慎重にして貰わなきゃどうかと思うな。〔略〕」
□(819)


「いいえ。科学は信頼できる」
 京極堂は断言した。
昨今科学に不信を抱いて宗教に走ると云う族がいるが、それは筋が通らない。論理的整合性があるからこそ、間違っていないからこそ科学なのです。不信を抱く隙間はない。科学と云うものは全幅の信頼を寄せるべきものなのです。勿論科学的疑問を持つことは結構だし、科学技術の使用方法には大いに不信を持っていいのだが、科学的思考自体に不信を抱くと云うのは、基礎的な教育がなっていないとしか云いようがない。疑われるべきは科学を用いる人の側の方なのです。それと同様に——宗教に不審〔ママ——不信の誤植と思われる〕を持って科学に走ると云うのも間違っている。いいですか、宗教は決して科学の代用にはならないものです。否、なってはならないものだ。また科学を宗教の代用にに〔ママ〕することもいけない。科学を信仰することも、信仰を科学することもしてはいけないことです。科学は科学、宗教は宗教。関わり方を間違えると、国が滅びます」

□(823)


「苦しいのはあんただけじゃない。思い上がるな」
「思い上がり——?」
「あんたは破廉恥だ。下劣だ。どうしようもない馬鹿じゃわい。それを恥じるのは当然だ。行いを悔い改めようと精進するのも当然だ。しかしな、それはあんただけの問題だ。あんたの所為で世の中がどうにかなったと思うな。あんたは所詮ちっぽけな契機にすぎないんだ。そしてあんた自身が大きな社会の生んだ瑣末な結果に過ぎんのだ

□(952)

 これは京極が繰り返ししていることだと思う。


 〔理由というのは、われわれが安心するために付け加えるものにすぎない、といった内容の文章があったあとに〕
 ただ、理由の解らないモノは怖い。
 だから戦争は厭だった。どうして死ななければいけないのか理由が解らないからだ。敵を殺さなければならない理由も善く解らない。国のためとか云う大袈裟な大義名分は、個人の死とは馴染まないものだと思う。

□(1162)

 これも。


@研究室
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by no828 | 2010-12-31 22:35 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 28日

学問というのは“自由”と“情熱”で出来上がってるもんだ——橋本治『江戸にフランス革命を!』

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 88(321)橋本治『江戸にフランス革命を!』青土社、1989年。

 版元 ※ ただし、書誌情報なし。絶版?




 少し前に読みおえて放置していた本。

 以前、この本の文庫版全3巻の上巻を読んだ(→ )。しかし、中巻と下巻が古本屋でまったく見当たらない。新刊でもない。某アマゾンでは古本しかない模様で、しかしどれもそんなに安くなっていない。“それならハードカバーを探したらいいじゃない”ということで某アマゾンの古本マーケットで調べてみたら文庫本より安くなっていたので即購入。

 以下、文庫版で中・下巻に相当する箇所(157ページ以下)から引用。


 天皇っていうのがなにかっていったら、答えは一つしかないと思う。自分を主権者として規定することをメンドクさがる日本人の為に存在している、世俗の身分証明書発行機関ていう、ただそれだけだよね。徳川幕府はそれを知ってたから、それで天皇のいる朝廷っていうのを養ってた。だからこそ、江戸の頂点にあるものは徳川幕府の将軍だけれども、その将軍は実は征夷大将軍という、天皇のいる朝廷の家来でしかないっていうパラドクスが成立して、そこをテコにすれば、明治維新というヘンテコリンな無血革命は、いとも簡単に成立しちゃうんだよね。
□(170-1)

 明治維新は、革命ではなくクーデタ、だと思う。

 と書いて、次のページを開いたらきちんとその説明があった。


 明治維新ていうのは、市民革命なんかじゃ全然なくて、これは特殊な軍事クーデターなんだよね。特殊な軍事クーデターっていうのがなんなのかっていったら、その当時に“市民”なんていうものがいなかったのと同時に、その当時の日本にはまた、“軍人”なんていうものもいなかったっていうことがあるからだけどもね。〔略〕これは、正確に言ったら“サムライ・クーデター”ですよね。〔略〕
 明治維新ていうのは、江戸に登場した一種の革命——政体変革ではあるけどさ、そのことに対して、江戸に住んでた人間達は、武士も含めて、ほとんどノータッチだった。つまり江戸の人間達っていうのがすべて、現状に対して平気でOKだったもんだから、「次を自分達が担う」っていう発想が生まれなかった。つまり、江戸の人間には“その先”っていう成熟の発想がなかったっていうことね。

□(172-3)


 江戸は法に覆われた管理社会で、都市っていうのはそういうものですね。田舎っていうのは、自然を超法規的なものとして残している社会だから、自由であって、と同時に恐ろしい。“先例”っていう成文化されていない、法以前の法が支配してるから、人間は何かに盲従してる。
□(173)

 田舎のほうがこわいよ、きっと。


 たとえばさ、江戸のもので“紅葉”の模様があってさ、そこに水が流れてたら、その模様は全部「立田川」なんだよね。在原業平の「千早ふる神代もきかず立田川 からくれないに水くくるとは」の和歌から来ててさ、赤い紅葉が水に流れてればみんな「立田川」。たまさかその紅葉が青かったりすればさ、それは秋の紅葉になるまえの「夏の立田川」でね。「立田揚げ」ってあるでしょ。醬油につけた材料で作る唐揚げ。醬油につけてから揚げると赤くなるでしょ。だから「立田揚げ」。紅葉の赤が立田川を象徴するもんだったのが、“赤=立田”っていうところまで行っちゃうのね。
□(187)

 立田揚げ、好きです(← 何だ、このコメントは! 年末だからって!)。


 “オツ”っていうのは“乙”ね。甲乙丙丁……。の二番目。甲っていうのがものの基本となる第一だとすればさ、乙っていうのは、その甲からずれてるでしょ。「乙だね」っていうのは、だから「甲じゃないね、スタンダードからずれてるのがおもしろくっていいね」っていうことなの。「オツだね」と「イキだね」をごっちゃにしてる人ってよくいるけど、これは全然別の基準から出ているもんなのね。“粋”っていうのは、「それがどんぴしゃにはまっている、そしてそのはまっている領域は“洗練の世界〔ソフィスティケイション〕”である」っていう、いってみれば「甲だね」の世界なんだから。
□(190)

 おぉ、勉強になります。でも、乙になるためには、一旦甲にならなければならないのかもしれません。


 江戸の最大特色っていうのは、侍がいて町人がいるっていう身分制がはっきりしてて、そしてお互いが関係なくて勝手に生きてるっていう、そういういい加減性なんだから。そんなものって他にないでしょう。
〔略〕日本には唯一絶対の権力がある、と同時に、それを唯一絶対にはしない為の“天皇”っていうヘンな機構がある。天皇っていうものをなんだかよく分からないへんてこりんなものにすることによって、すべてを“いい加減”にしちゃった。

□(196)


 明治になって帝国議会っていうものが出てきたから“近代”だなんていうとんでもない錯覚ってあるみたいだけどさ、ギリシアやローマの古代から議会っていうものはあるんだ。ゲルマンの部族社会だって、一種の議会でしょう。議会がなんぼのもんで“近代”かっていうんだよね。議会を導入することによって、日本はヨーロッパの“古代”を演じ始めたっていうだけじゃないの。
□(199)



 小林秀雄の『本居宣長』を読んでたら、「本居宣長は講義中に患者が来ると、たびたび席を中座した」って書いてあるの。本居宣長っていうのは医者で、医者を本業にする町人学者でしょ。だから医者であることの方を、当たり前のように優先するの。患者に医療をほどこすのは世の中に定着している実業だけど、思索という抽象行為の中にいるのは違うからね。学問と正業というのは別なんだよ、その人間が世に“学者”として通用している家系の人間でもないかぎり。学者の家系以外の人間は学問じゃ食えない。〔略〕荻生徂徠みたいに、勉強して学問で出世するっていうことになれば別だけれど、町学者という“フリーの学者”は表向き存在しないんだよね。
 好きで勉強して町学者になってる人はたくさんいたけどさ、それは生活費の裏づけが他にあってのことだものね。遊びでそれをやってるっていったら怒られるかもしれないけど、実態としては“趣味に生きてる”っていうのとおんなじなんだよ。

□(215)

 これは、現在にもリアルさを持って迫ってくる過去の話。“学問をしたい人は大学に就職する”というのは今でも色濃くあるが、しかしそれが実際できるかどうかはまた別の話。当時の「家系」ということばに準えるなら、「学系」というのがないと大学には就職しにくい。予備校で働きながらとかの在野の研究者、いわゆる無所属の“フリーの学者”も実際にいて、わたしもそれを選択肢としてリアルに考えないといけないかもしれない、と最近思う。


かつてあまりにもポピュラーだったセリフに「百姓のせがれに学問はいらない」っていうのがあったけどさ、時代が近代になって、近代の学問常識を学習させる為の学校というところが設置されて、どんな人間でもその気と実力がありさえすれば上級学校に行くことを拒まれないっていうシステムができ上がったのにもかかわらず、それを真っ先に拒んだのは、それを希望する子供の親だったっていうのは、このセリフに端的に表れてるよね。近代に立ち向かうんだったら、まず近代の中に入りこまなきゃいけないのに、そのことを平気で拒んでいる。“農耕する知性”っていうものを生もうとはしなかった、日本の田舎の背景ってこれだよね。「自分の頭で考えて自分の頭で考えて自分の力でなんとかする、そのことが“自由”と呼ばれることである」っていうのが“近代自我”の根本にあるもんだと僕は思うんだけどさ、それよりも、管理というシステムの中で搾取されることを、日本の田舎は望んだのね。“管理”というものをすべての前提とする——それが幸福をよぶか不幸となるかは、それを管理する“支配者”あるいは“責任者”の腕しだいっていうのが、日本人の思考の根本にあるみたいでさ、勿論これを成り立たせたのは、徳川三百年という平和な管理社会のおかげだけど、でももう、これは終わっちゃったんだ。
□(247)

 その中に入った上でそれを変えていく——。それに入らずにそれを変えていくというのは、やっぱり無理なのかなぁ……というか、入っていないということはありえなくて、気づかないうちにすでに入っている、極端な言い方をすれば、すでに取り込まれているのであって、だから中から何とかするしかない——。


 〔近代のメッセージとは〕つまり、「強くなれ!」ですね。
 近代の論理をつまんない“弱者に対する愛情”なんてもんでばっかりとらえてるから肝心なことが分からなくなるんだけど、弱者に対する最大の愛情は「強くなってもいい!」っていう励ましですよ。弱者が救済されるっていうのはそういうことでしかないんだから。
 近代っていうのは義務と権利がワンセットになった時代だからさ、それ風に展開してしまえば、「誰にだって強くなる権利はあるし、誰にだって強くならなければならない義務がある」ですね。近代が“個人の自覚”っていうのを要請するのはそういうことだし、近代が“教育”というものを引き連れてやって来るっていうのもそういうことでしょう。

□(275)


私は、学問というのは“自由”と“情熱”で出来上がってるもんだと思ってたから。
□(322)


 “既成”というのは、それが既に成立しているからこそ既成なのであって、一旦既成となったが最後、誰もその既成の内実は問わない。誰も問わない中で、たった一人問う破目に陥った人間というのは、やっぱりとんでもなくこわくて、つらい。
□(326)

 ありがとうございます、橋本先生。ちょっとぐっと来ました。ときに理解のことばは、どんな励ましのことばよりも、励ましになるんですね。わたしはこわくなることはありませんが、ときどきつらいと思うことはあります。でも、この前の研究会でE原先生から「丸くならなくていい」と言われて、とてもうれしかったのでした。


〔略〕要するに、権力によって成立させられた制度の中にいる人間達は、結局のところ、その制度が壊れないような、安全な文句ばっかり言っている。自己嫌悪で口がきけなくなるまで——。ここら辺は、親の悪口ばっかり言っている子供、夫の悪口ばっかり言っている専業主婦とおんなじである。
□(419)


 よし、年明けに小林秀雄の『本居宣長』を注文するぞ(中古で)。


@研究室
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by no828 | 2010-12-28 20:12 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 28日

それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである——ヘリゲル『日本の弓術』

c0131823_1637696.gif87(320)ヘリゲル、オイゲン『日本の弓術』岩波書店(岩波文庫)、1982年。


版元


 某ブックオフに陳列されていた(250円)。なぜこの本に気づき、手に取ったかというと、森博嗣の『喜嶋先生の静かな世界』に効果的な引用があったから。

 だが、実際に読んでみると、『喜嶋先生』のときほど響いてこない。私の読み方、受け取り方に原因があるのかもしれないが、本文をそのまま読むよりも、ある部分を引用されて別の書物なり論文なりに移植されたときにきりりと際立ってくる文章というのもあるのかもしれないと思う。

 本文は9-66ページのみ。それに「ヘリゲル君と弓」と「訳者後記」とが付く。

 以下、原文傍点省略。



 日本人は弓を射ることを一種のスポーツと解しているのではない。初めは変に聞こえるかも知れないが、徹頭徹尾、精神的な経過と考えている。したがって日本人の考え方によれば、弓を射る「術」とは、主として肉体的な修練によってだれでも多少は会得することのできるスポーツの能力、すなわち「中たり矢」がその標準と考えられるような能力ではなく、それとは別の、純粋に精神的な鍛錬に起原が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。
□(10)

 上のを受けているのが下の文章。


じじつこのような、射手の自分自身との対決は、あらゆる外部に向けられた対決——例えば敵との対決の、実質上の真の根底である。外部に向けられた対決がなくなって以来、弓術の本質は初めてそのもっとも深い根底にまで還元され、その意義も明らかになって来たのである。
□(12-3)


 それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭をなやまさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるところまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである。〔略〕そして私が自分でも中てることはまったく二の次であると考えるようになると、先生が完全な同意を示す矢は、次第にその数を増して来た。矢を射るとき自分の周りにどんな事が起ころうと、少しも気に懸からなくなった、私が射る時〔ママ〕に二つの目が、あるいはそれ以上の目が私を見ているかどうかということは頭に入らなかった。のみならず先生が褒めるか貶すかということさえ、私に次第に刺戟を与えなくなった。実に、〔射る、ではなく〕射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである。
□(48-9)


 没我、あるいは、主客の一致。存在と認識との一致ということではなさそうだ。


 本文中には、ドイツの神秘主義思想家マイスター・エックハルトへの言及が見られ、その Abgeschiedenheit 概念が「離繫〔りけ〕」と訳されているところがある。エックハルトにおける Abgeschiedenheit は、「哲学的瞑想に没頭しようとして社会的な外的な生活を離れることを意味するものと考えられる」(「旧版への訳者後記」 103)とされる。この意味は、「離繫」と日本語訳されることのある、仏語のとある概念(書かれていないので不明)が有する「解脱を証得しようとして煩悩の繫縛〔けばく〕を遠離〔おんり〕すること」(同 104)と相通ずるらしい。そのため、「離繫」が Abgeschiedenheit の訳語としても採用されたらしい。
 
 それでエックハルトの本をネットで探してみたら岩波文庫にあった。学会費の振込をする必要(というか義務)があったので、ついでに書籍部にも行って現物を探すも、ない。代わりに(なっていないが)、井上ひさしと阿部謹也の2010年刊行の本をそれぞれ買う。年末年始用、というか、常磐線+磐越東線で半日かかる行程×2(往復)用。あとは古本屋で調達した京極夏彦と森博嗣もある。


@研究室
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by no828 | 2010-12-28 17:41 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 25日

犯罪を作り出しているのは個人ではなくて社会や法律の方だ——京極夏彦『文庫版 魍魎の匣』

c0131823_1872932.gif86(319)京極夏彦『文庫版 魍魎の匣(もうりょうのはこ)』講談社(講談社文庫)、1999年。

版元


 正直に言います、京極夏彦にはまりぎみです。科学の上に文学を乗っけたというか、文学の上に科学を乗っけたというか、マニアックな術語がたくさん使われて、ことば遣いもがちがちではあるけれども、榎木津などがそれを崩す口語を差し挟むからかもしれないけれど、全然読みにくくない。

 あと、文庫の分厚さも好き。分厚い文庫本を手にしたときの感触がよい。今回は本文1048ページ!

 (この分厚さを求めて、来年の手帳はモレスキンの「デイリー ダイアリー(ソフトカバー)」にしました。ポケットサイズ、全400ページ。)

 ちなみに、今回は心理学、精神分析、量子力学などがベースにありつつも、後半に行くにつれて、医学や生命倫理学も/が絡んできます。「できる」ことは「してよい」ことなのか。

 以下、原文傍点省略。


「月光には何か不思議な魔力でもあると云うの?」
「伽噺じゃあるまいし。月は太陽の光を反射しているだけさ。だからね、太陽の光は動物や植物に命を与えてくれるけれども、月の光は一度死んだ光だから、生き物には何も与えちゃあくれないのさ」
「それじゃあ無意味じゃない」
「意味があればいいってもんじゃない。生きるってことは衰えて行くってことだろ。つまり死体に近づくってことさ。だから太陽の光を浴びた動物は、精一杯に幸せな顔をして、力一杯に死んで行く速度を早めているんだ。だから私達は、月に反射した、死んだ光を体中に浴びて、少しだけ生きるのを止めるのさ。月光の中でだけ、生き物は生命の呪縛から逃れることが出来るんだ

□(18)


「兄貴の話に依ると——たぶんバラバラにしている時の精神状態は極めて正常で、寧ろ殺人と云う非日常から普段の生活——日常に戻ろうとしてバラバラにしている場合が多いのじゃないか、バラバラにすることで犯罪者は異常な精神状態の中から正常を取り戻すんじゃないか、とか云っていました」
□(132)


「いえね、動機だけなら皆持ってる、計画するだけなら誰だってする、それがあるからと云って特殊なことじゃない、犯罪者と一般人を分かつものはそれが可能な状況や環境が訪れるか否かの一点にかかっている——と云うような主旨の話でした」
〔略〕
「私にも善く解らないんですよ。ただ兄貴が云うには、動機などの心理的な要因と、環境などの社会的要因、そして犯罪が可能になる物理的な要因は、切り離して考えるべきだろう、と。犯罪を作り出しているのは個人ではなくて社会や法律の方だ、とか」

□(133)


 翌日の午前中に警察が来た。
〔略〕
 不良じゃないんですが、なんせ父親がいないもので、すいません、申し訳ない、云云。
 何故父親がいないことが関係あるんだ! それに父親がいないのは自分の、母親の責任じゃないか。謝るなら頼子に対してこそ謝るべきだ。
そう強く思ったのだが、結局頼子は黙っていた。

□(161-2)


 当初、私は発表した作品に対して加筆したり修正を施したりするつもりは一切なかった。〔略〕
 文章は——いや、文章に限らずあらゆる表現と云うものは、排泄物のようなものだと私は思う。
 私なら私と云う個人が、恰も食物を摂るが如く摂取し続けた、人生と云う名の養分の絞り粕——私にとって私の作品とはそう云った類のものだった。だから排泄してしまった絞り粕にあれこれ手を加えたりすることも何だか無為な作業に思えたのだ。

 だから手を入れるのは厭だった。

□(243-4)

 「表現」とは何か。


普遍宗教とは何だね?
個人を救済の対象とする宗教のことだ。仏教、基督教、回教などがそうだね。通常この三つが普遍宗教、または世界宗教と呼ばれる。これらは人種国籍を問わず、誰でも入信出来る。つまり布教での勢力拡大が可能な宗教だ。僕が今回例として挙げたのはこの三大宗教の伝道者に限らず、布教して勢力の拡大が図れる宗教の信者の意味だから、異端や新興宗教なども含む。普遍と呼ぶには語弊があるが民族宗教とは明らかに違うのだから仕方がない」
その、民族宗教とは何なんです?
普遍宗教が個人を救済するのに対して民族宗教は民族、国家、集落、血縁集団と云った、特定の集団のみを救済する宗教だね。これは布教する必要はないし、また出来ない。本邦の神道などもこの民族宗教に分類される。これに入信するためにはその国に国籍を置くなり、村の住人になるなり、血縁関係を結ぶなりするより他ない。部族間の勢力争いや、別別の民族宗教を持った集団同士の権力抗争などはあるが、基本的に信者を増やして勢力を拡大しようと云う側面は民族宗教の教義には欠落している。〔略〕」

□(296-7)

 「普遍宗教」と「民族宗教」、なるほど。メンバーシップの問題が絡む。


オカルトとは本来〈隠された〉と云う意味だよ。〔略〕日本人はサイエンスとつくとすぐ科学と訳す癖がある。そこで自然科学に対抗した怪しい科学と勘違いしてしまう。たとえばサイキックサイエンスと来ると心霊科学と訳す。間抜けだね。サイエンスは元来知識という意味だから、オカルトサイエンスは隠された知識、サイキックサイエンスは霊的な知識と訳すべきだ。科学は関係ない。〔略〕」
□(303)

 サイエンス(science)の原義については、何回か前の非常勤の授業で話した。


隠されているからこそ意味のあるもの——それこそがオカルトだ。箱に菓子と書いてあるなら、中に塵芥が入っていたとしても、蓋を開けるまでは菓子が入っているのと変わらない。菓子は食うためにあると云って蓋を開けてしまえば嘘が知れるが、上書きを信じて最後まで蓋を開けなければそれは最後まで菓子なんだ。塵芥になることはない。横から他人がしゃしゃり出て、それは塵芥ですなどと口を挟み、折角の楽しみを奪うことはない
□(308)

 量子力学。


「——木場さんは、外見が人を変えてしまうことがあると、お思いになりませんか?」
 陽子はこのうえなく悲しそうな目で木場を見た。

□(623)

 この本は心身二元論を否定する方向を向いている。肉体は不要! 精神だけで生きられたほうがよい! というセリフがあって、それが否定される箇所があったのだが、チェックするのを忘れた模様、見当たらない……。


「例えば——作品と作者は別のものだから、先行する作者像が作品の鑑賞に影響を与えたりするのは良いことじゃないのだろうが、逆に作品から作者の性質や何かを読み取って、作者像を推し量ることはある程度は可能なことだし、それなりに已むを得ないことだと思う。勿論小説は虚構なんだから直截的に作者の主義主張が書かれている訳ではないが、矢張り嗜好や思想的背景などは隠し切れない。これは巧い人程判り難い。逆に下手な書き手程作者の顔が簡単に浮かぶ。〔略〕」
□(697)

 むしろ思想的背景を前面に出すべき、というのがヴェーバーの「価値自由」。


「そう。動機とは世間を納得させるためにあるだけのものに過ぎない。犯罪など——こと殺人などは遍く痙攣的なものなんだ。真実しやかにありがちな動機を並べ立てて、したり顔で犯罪に解説を加えるような行為は愚かなことだ。それがありがちであればある程犯罪は信憑性を増し、深刻であればある程世間は納得する。そんなものは幻想に過ぎない。世間の人間は、犯罪者は特殊な環境の中でこそ、特殊な精神状態でこそ、その非道な行いをなし得たのだと、何としても思いたいのだ。つまり犯罪を自分達の日常から切り離して、犯罪者を非日常の世界へと追い遣ってしまいたいのだ。そうすることで自分達は犯罪とは無縁であることを遠回しに証明しているだけだ。だからこそ、その理由は解り易ければ解り易い程良く、且つ、日常生活と無縁であればある程良い。〔略〕」
□(717)


満足とは如何なる時も自己満足だ。それ以外に満たされることなどない!
 京極堂は厳しい声で云った。
「満足や幸福が主観以外の外的基準で量れると思っているならそれこそ幻想だ。あなたこそそう云う唯物的な姿勢で自分の気持ちを誤摩化している! 欺瞞だ。〔略〕」

□(938)

 Gross National Happiness (GNH)というのがある。わたしはほとんど信用していない。なぜわざわざ計測・評価するのか、からしてよくわからない。とはいえ、この幸福の計測・評価の作業から理論が撤退してよいとも考えていない。


「美馬坂! 手も足も、腸も切り取って、それで生きてて何になる! それが人間か? 大体手足切ったって二日後にゃ死んじまうんだろうが! それでずっと生きる訳じゃねえだろう! 高高一日二日のために施す処置か! 人の身体新巻鮭みてえに切り刻みやがって、それでもてめえ人間か!」
馬鹿者! 人間は五体満足でないといけないとでも云うのか? 身体のどこが欠損しようと、命ある限り人間は人間だ! 生命の尊さに変わりはない。加菜子は、傷んだ部分を除去しただけだ! 仮令一分一秒だって延命するのが医学者の務めだ

□(951)


「あなたは科学者でしょう。僕は科学者としての美馬坂幸四郎は評価するが、伝道師としての美馬坂幸四郎は評価出来ない。科学は技術であり、理論であって本質ではない。科学者が幸福を語る時は、科学者の貌をしていてはならないのです。至福の千年王国などと云う科白は——あなたが口にして良い言葉ではない」
□(995)


@研究室
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by no828 | 2010-12-25 19:32 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 25日

ペールエール(エチゴビール)


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 ペールエール(エチゴビール)

 販売元





 販売元の(若干見にくい)ウェブサイトによると、これは限定醸造であり、某サークルKサンクスでの(先行?)販売となっているが、わたしが購入したのは某やまやです。

 ホップの強さのためか、香りのフルーティーさも強い。だからといって、味が軽いというわけではない。むしろ角の取れた苦みがしっかりある。ひとつの作品です。これだけで完結する。おいしい。好みの味です。

 酒類:ビール
 原料:麦芽、ホップ
 度数:5.5%


@研究室
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by no828 | 2010-12-25 15:24 | ビール | Comments(0)
2010年 12月 22日

今のように希望をかけながら、苦しむ権利をもちたいのです——トルストイ『アンナ・カレーニナ 上』

c0131823_1814091.jpg85(318)トルストイ『アンナ・カレーニナ 上』新潮社(新潮文庫)、1972年。


 版元


 文豪トルストイの大著についに手を出す。全3巻。某ブックオフで105円であったがゆえに購入したのである。ただし、入手できたのは上巻と中巻のみ。下巻はまだ準備できていない。が、とりあえず上巻を読みはじめた。

 タイトルの「アンナ・カレーニナ」って何? 誰? というのが最初にあって、しかし読みすすめてもどうして「アンナ・カレーニナ」なのかよくわからない。その理由らしきものが浮かび上がってくるのは上巻もかなりのページになってからのことである。



「やりきれないことだよ」リョーヴィンは答えた。「まあ、ひとつ、きみも努力して、ぼくの身にもなって、田舎者の観点に立ってくれよ。田舎じゃ、ぼくたちはなるべく働きやすいように、自分の手を守ってるんで、そのためには、爪も切るし、時には袖をたくしあげるのさ。ところが、こちらじゃ、みんながわざと、伸ばせるだけ爪を伸ばし、小皿大の飾りボタンをつけて、手ではなにひとつできないようにしているんだからね」
 オブロンスキーは、愉快そうに笑った。
「だが、それはつまり、荒仕事をする必要がないというしるしなんだね。知的な労働をしているという……」
「たぶん、そうだろう。しかし、それにしても、やっぱり、ぼくにはこっけいだね、つまり、ぼくたち田舎者は早く仕事にかかれるように、急いで飯をかっこむのに、今ぼくときみは、あまり早く満腹しないようにと、牡蠣なんか食べているじゃないか。まあ、それがこっけいに見えるのと同じことだね……」
「いや、もちろんだとも」オブロンスキーは相手の言葉をひきとった。「しかし、その店にこそ、教養というものの目的があるんじゃないか。いっさいのものから快楽を作り出すということが」
「ふん、それが目的だとしたら、ぼくはむしろ野蛮人でありたいね」

□(76)


 この世にはそれがどんな事でも幸運な競争者にぶつかるたびに、すぐ相手のもっているすべての長所に面をそむけ、ただその悪いところばかり見ようとする人がある。ところが、その反対に、その幸運者の中に、勝利のもととなった特質を発見することをなによりも望んで、激しい心の痛みを覚えながらも、ただ相手の良いところばかりを捜す人間もいるのである。リョーヴィンはそういった種類の人間に属していた。
□(107)


「あたし、べつに苦しんでもいないし、慰められることもないわ。あたしって、とても気位の高い女ですから、こちらを愛してもくれない人を恋するなんて、絶対に、しないわ
□(255)


なんぴともおのが富には満足せざれども、おのが知恵には満足するものなり」外交官がフランスの詩句を口ずさんだ。
□(279)


恋愛結婚ですって? まあ、なんて旧式な考えをもってらっしゃるのでしょう! いまどき恋愛なんてことをいう人がございまして?」公使夫人がいった。
「しかたがありませんね。このばかげた古めかしい流行は、いまもってすたれないんですから」ヴロンスキーはいった。
「そんならなおさら、あんな流行を守っている人はお気の毒ね。だいたい、しあわせな結婚って、理性によって結ばれたものばかりじゃないかしら
「ええ、でもそのかわり理性による結婚の幸福も、よく一瞬にして吹っとんでしまうじゃあありませんか。以前には認めなかった恋というやつが頭をもちあげて」ヴロンスキーはいった。
「ですけど、理性による結婚っていうのは、もう両方とも遊びつかれたあとの結婚なんですのよ。それは猩紅熱みたいなもので、だれでも一度はそこを通らなくちゃなりませんわ
とすると、恋愛も種痘と同じに、人工的に植えつける必要がありますな
〔略〕
「〔略〕恋を知るには、やはり、一度はまちがいを犯して、悔い改めるにかぎりますわ」ベッチィ公爵夫人がいった。
「まあ、結婚したあとでも?」公使夫人がふざけた調子できいた。
「悔い改めるには、遅すぎることはありませんからね」外交官はイギリスのことわざを引用した。
「ええ、そのとおりですよ」

□(282-3)


「ぼくがお願いしているのは、たった一つのことだけじゃありませんか。今のように希望をかけながら、苦しむ権利をもちたいのです、でも、それさえだめだとしたら、消えてなくなれと命じてください。ぼくは消えてなくなりますよ。ぼくの存在があなたを苦しめるようでしたら、もう二度とあなたの前には現われませんよ」
「あたくし、どこへもあなたを追いやりたくありませんわ」

□(288)

 すごいこと言うね。


「ただ、ご自分でもおわかりでしょうが、ぼくに必要なのは友情じゃありません。この世でぼくを幸福にするただ一つのものは、そう、あなたの大きらいなあのひと言……ええ、恋です……」
□(290)


カレーニンはほかならぬ人生に直面したのであった。いや、彼の妻が自分以外のだれかを愛するかもしれぬという事態に直面したのであった。これは彼にとってまったくわけのわからぬ不可解なものに思われた。なぜなら、それは人生そのものだったからである。
□(293)


「それにしても、きみは相当な保守主義者だね! じゃ、階級の融和なんてことはどうかね?」オブロンスキーはいった。
「融和したいやつは、どうぞ、ご勝手に。でも、ぼくはいやだね」
「どうやら、きみは純然たる保守主義者だよ」
「正直にいって、自分がなにものかなんてことは、今まで一度だって考えたことはないね。ぼくはコンスタンチン・リョーヴィンだ、ただそれだけのことさ」

□(349)


「きみだってぼくのために、なにもかも犠牲にしてくれたじゃありませんか? きみを不幸にしたと思うと、ぼくはどうしても自分が許せないんです」
「あたしが不幸ですって?」アンナは彼のそばへ近づき、愛の喜びに燃えた微笑で相手の顔に見入りながら、いった。「あたしはね、飢えた人がお腹いっぱいに食べさせてもらったみたいなものね。そりゃ、その人は寒いかもしれませんよ。服もぼろぼろに破れているかもしれませんし、恥ずかしいかもわかりません。でも、その人は不幸じゃありませんわ。あたしが不幸ですって? いいえ、ねえ、これこそあたしの幸福ですわ……

□(391-2)

 『アンナ・カレーニナ』は、どうやら不倫のお話のようです(今のところ)。でも、ところどころに、人生にとってのまぎれもない事実、本質的な事実が散りばめられています。古典というのは、こういうものなのかもしれません。

@研究室
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by no828 | 2010-12-22 16:01 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 19日

ほぼ1ヵ月前の「森崎書店の日々」

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 ※ 左のバナーをクリックすると公式サイトが開きます。




 前売り券を買っていたということがたぶんにあって、先月観てきたのであった。

 映像に映し出される本のたくさんある雰囲気はとても好きだし、映画からは神保町にある素敵な喫茶店の情報も入手できた。

 内容にかかわることを以下に書きますよ!

 物語のあらすじは、主人公・貴子の失恋 → 失恋の相手が会社の先輩 → 貴子は会社に居づらい → 会社を辞める → これからどうしよう → 叔父さん(悟)の営む古書店に転がり込む → だんだんと前を向くようになっていく。

 ここまでは予告編からも十分にわかることではありますが。

 気になったのは、失恋相手との関係が物語内部で必要以上に(とわたしには感じられた)強調されたことである。

 乾燥機のシーン(2度)は不要ではないか、とか、叔父さんが貴子を連れて男のところに文句を言いに行くシーンはあれほどに必要であったか、とか。

 たしかに、貴子を振った男は最低最悪最愚最劣最陋最卑である。その最低最悪最愚最劣最陋最卑の男は貴子とは別の女性とも付き合っていて、その人とは結婚するつもりで、しかし貴子とも“付き合い”、それは“遊び”。叔父さんが怒るのはものすごくわかる。でも、「貴子ちゃん、彼にきちんと謝ってもらおう。今から彼のところに行こう」と言って、半ば無理やり貴子を連れて彼のところに行って「貴子ちゃんに謝れ」と言って、しかしその彼は、繰り返すけれども最低最悪最愚最劣最陋最卑なわけであるから、謝るなんてことにはならない。

 叔父さんはどうしてここまで熱くなってしまったのか、ということをわたしは考えた。作中では触れられるぐらいでしかなかったのだが、叔父さんは好きな人と結婚して、しかしそのあと振られた、出て行かれた、という経験を持っているようで、それは叔父さんが喫茶店のマスターに「あのとき止めたらどうなっていたかな」と、つまり奥さんに出て行くなと、俺と一緒にいろよと、そう言っていたら、状況は変わっていたのではないかと、そのように言う場面がある。マスターは、「それは誰にもわかりません」と言う。

 過去は変えられない。これをしなかったら悔いるかもしれない、と思って、しかしそれをせずに過ごしてしまうことがある。そしてそれを振り返って悔いる。日々納得して、できるだけ多くのことに納得して、そうして生きることはむずかしい。だが、これだけは、ということもあるはずで、それを逃すと人は後悔にずっと付きまとわれる。貴子の叔父さんのように。

 叔父さんは、自分の恋愛に関して、後悔がある。取り戻せるなら取り戻したい過去があるのだ。

 だからこそ、叔父さんは貴子の“終わっていない恋愛”に介入したのであり、それを“終わった恋愛”にしようとした。自分のように後悔してほしくないから。きちんと納得して次に進んでほしいと思ったから。

 わたしはそのように考えた。だから、叔父さんが貴子を連れて怒鳴り込みに行くあの場面は必要であったのだとは思う(でも、乾燥機は要らない)。

 自分が大切だと思ったことを自分の大切な人に伝えたいと思う——これは教育の原型でもある。


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 写真は「森崎書店」になった建物。空きビルを使って撮影して、今も何も入っていない。本当に小さな建物。撮影時の古本は全部近くの古本屋から運んだということです。




 作品に関して気になったことはもうひとつ。叔父さんのお店の古本の値段は叔父さんが付けるわけだが、1冊、どうしても値段が付けられない本が出てくる。叔父さんは貴子に向かって、「読んで、好きな値段を付けていいよ」と言う。貴子は最終的に値段を付けて、それがいくらであったかは明かされず、だからその値段も気になるのだが、しかしそれ以上にその本が一体何であったのかがわたしにはものすごく気になるのである。さらには、その本は当然商品としてお店の本棚に並べられるわけだが、それを貴子が店番をしているときに手に取る客が現われ、“もしかしたらこの客=若い男と貴子との新たな恋がはじまるのか!本が結ぶ恋愛か!素敵じゃないか!”と思わせておきながら、しかしその男は結局買わずに出て行く、そんなどきどきさせる場面が物語の最後の方にあり、その大事な本を手に取ってはみるけれども買わないという、ただその演技をするために出演したのが吉沢悠であったりもする。“吉沢っ!それだけかっ!”とわたしは内心思った。

 
@研究室
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by no828 | 2010-12-19 19:31 | 映画 | Comments(0)
2010年 12月 14日

救済は常に、する側でなくされる側の問題なのだ——京極夏彦『文庫版 狂骨の夢』

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版元


84(317)京極夏彦『文庫版 狂骨の夢』講談社(講談社文庫)、2000年。




 本文全969ページ! 読み終えるのに3日かかった!(ずっと読んでいたわけじゃないよ。)

『文庫版 狂骨の夢』は、『嗤う伊右衛門』、『文庫版 姑獲鳥の夏』に続く京極夏彦3冊目。『嗤う』は大学院に入ったばかりのときに読んだ記憶がある。「京極夏彦」はそれまでおどろおどろしいイメージしかなかったが、古本屋で105円で売っていたので試しに買ってみた。読んでみた。やさしい小説であった。以後、京極夏彦は古本屋で見つけたら買うようにしている。

 『姑獲鳥』同様、本書も文庫版として出版されるにあたり、大幅な加筆修正が施されており、ページをまたぐ文章はひとつもないようになっている。すごい。

 なお、『姑獲鳥』にしても『狂骨』にしても、特定の学問分野がベースにある。精神分析と量子力学である。おもしろい。今回は、フロイトを多少でもかじっていればもっとおもしろく読めたかもしれないと思った。でも、精神分析自体はあまり好きではないのだわたしは。
 
 引用の前に本書内容にかかわるミニ知識。「神父」はカトリック、「牧師」はプロテスタント、だそうです。はじめて知りました。今度友人の結婚式が教会であったら(幹事長が有力かっ!)、注意してみよう。なぜ旧教にしたのか、なぜ新教にしたのか、も気になるねえ(DMなど同期諸君はどっちであったか)。神父、牧師、以外の呼び方もあるのかしら、宗派によってとか。

 それから、いわゆる「プー太郎」。きわめて現代的な呼び方かと思っていましたが、漢字では「風太郎」で、第2次大戦後に生成された概念らしい。本文では「港湾で働く日雇い労務者のこと」と説明されています(604)。風のように集まり、風のように散る、ということかもしれません。

 あ、あと京極夏彦は漢字の勉強にもなります。「豪く」は「えらく」とかね。


「降旗君! 思い上がってはいけない。人が人を救うことなどできるものか。救うのも、赦すのも、人の領分ではない。それは神の仕事だ」
「いいえ。仮令〔たとえ〕この世界をお造りになったのがあなたの神だとしても、いや私達人間自体もその神が造り給うたものであったとしても、世界を見て、それを認識しているのは人間だ。私達なくして世界はないのです。だいたい洗礼すら受けていない異教徒の私や異邦人のこの人に、あなたの神が有効かどうか」

□(237)


「〔略〕そして死後の彼を造るのも私達です。ああ、私はあの世がないと申し上げている訳ではありません。死後の世界は生きている者にしかないと云っているのです」
□(268 傍点省略)


 そうやって語っていると〈私の過去〉は〈私の過去の物語〉になり、〈私の体験〉もまた単なる〈不思議な物語〉になってしまう。物語化することで現実は急激に生生しさを失ってしまう。少なくとも語る者にとってはそうであるようだ。私はどんどん醒めていった。
□(411)

 あぁ、これはわかるなぁ……。何か自分の過去が自分自身から乖離していくような……。


「そんなことはなかろう」
「いいえ。それは違います。矢張り学究の徒として私の態度は間違っていた。学問は個人を救済するためだけにあるものではないでしょう。仮令私にとって辛い現実であろうとも、それが真理なら仕方がないし、同じように私にとって無価値なものであっても、それが真理ならば追究を止めるべきではないでしょう?」
真理は個人と無関係に、ぽっかり空に浮かんでいる訳じゃないだろう。君にとって無価値ならそれは矢張り真理ではないよ」
「気休めは止してください。いずれにしても私はフロイトの呪縛から逃れられなかった。これは呪いです。いや、逆怨みですね。私が一方的に怨んでいるだけだ」

□(433)


「しかしひとりひとりはこよなく善人であっても、それが沢山集まれば別な主張ができ上がるものでしょう。そうしてでき上がった全体の意思と云うのは、もう個人の意志〔ママ〕ではない。それはたかが個人には変えようもないものです」
□(465)


「理論的でなければ真理に到達できないと云うのはおかしな話だし、はたまたまじないや呪術の類が論理的でないと云うのも間違った考えですよ。道筋が違うだけです。途中の式が違うだけで目指すものは皆一緒です。構造的には大差ありません」
□(621)


「ところがこいつは〈骸骨の妖怪〉でもある訳で、この辺りがややこしくなる元だ。骸骨系統の妖怪は本来煩悩から解き放たれて陽気にはしゃぐような一面を持っているんだね。仮名草子の『二人比丘尼』に出て来る骸骨達も、骨を鳴らして歌い踊り、腐る部分が落ちた自分達こそ人の本質だ、と現世の無常を笑い飛ばす。ゲエテの『フアウスト』に出て来るレムルと云うのも骸骨だが、奢覇都〔サバト〕で歌い踊るだろう?」
□(650)


「人は人を救えないとか嘯いてるが、僕は泥鰌だって掬えるぞ。旗ちゃんが救われたくないのなら勝手にすればいいが、そこの牧師は別だ! あんた、救って欲しいのだろう。救われたいなら藁にでも縋ればいい。そのうえ僕は藁ではなくて探偵だッ」
 榎木津の迫力に牧師と精神科医は後退した。
〔略〕
「いいんだ降旗君。本当にその人の云う通りだよ。救済は常に、する側でなくされる側の問題なのだ。人は人を裁くことはできないが、救うことはできるのかもしれない。それで救われたなら、それもまた神の意志だろう」

□(705-6)

 ふむ。


@研究室
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by no828 | 2010-12-14 20:45 | 人+本=体 | Comments(0)
2010年 12月 12日

句点3個の土曜日

 昨日は、意地でも研究室に行かないと決めた。

 洗濯をして、干して、布団も干して、お昼を食べて、一息ついて、県議会議員選挙の投票に行って、そこで偶然別研究室の後輩に会って、「投票ですか?」「そ」と挨拶して、郵便局にゆうパックを受け取りに行ったら(対面でないと受け取れない!)窓口にずらりと並んでいたから結構待って、受け取って、それから3ヵ月弱ぶりに髪を切りに行って、「あまり短くしないでください」と言って、でもある程度は切ってもらって、「もう短くしないんですか?」と訊かれて、「えぇ、寒いので」と応えて、その近くのスーパーで100%フルーツジュースと牛乳を買って、某ブックオフ東大通り店を目指して、しかしそこは閉店していて(知らなかった!)、うわわと思ってそのまま「喜びに満ちた本田さん」のお店、またの名を某ジョイフル本田に行って、A4クリアホルダー100枚入り570円を買って(通算2回目の購入!)、携帯電話で某ブックオフの店舗検索をしたら阿見に開店したようなので東大通りをさらに下ったら左手に看板が見えてきて、ブックのみならず服とか食器とかいろいろ売っているタイプの大型ブックオフがそこにはあって、しかしわたしはブックしか興味がないのでブックのところだけを見て、まずは105円の棚から井上雄彦『リアル』の1巻から4巻まで(しかなかった!)を取り出してカゴに入れて、そうしたらこの週末は105円コミックは90円に値下げらしくて、でもそれ以上は必要なくて、105円の小説の棚を「あ」から順番に見ていって、少しでも興味があるものはカゴに入れて、たとえば京極夏彦の『文庫版 狂骨の夢』という、文庫なのに1,000ページ近くある大著などをカゴに入れて(分厚い本好き! それにこの前『文庫版 姑獲鳥の夏』を読んで勉強になったから!)、次に新書のところに行って岩崎武雄の『哲学のすすめ』など、それからハードカバーのところに行ってアウンサン・スー・チーの『自由』など、文庫同様に「お!」と思ったものはカゴに入れて、などなど105円の棚々を一通り見てからそれ以上のコーナーに行ってみるものの、なかなか「お!」というのがなかったのだが、岩波文庫のところでヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(プロ倫!)を発見して、それは定価1,000円弱が500円になっていて、『プロ倫』はネット上でもそれほど安くなっていないからこれを機に買うかと思ってカゴに入れて、それにコミックが105円→90円で4冊買ったから60円のお得ではないか、『プロ倫』は実質440円ではないかと妙な納得の仕方をして、会計に持って行ったら全部で19冊で合計2,330円で、お店の人が1枚のナイロン袋に19冊を入れるのに苦戦して、でも結局ぎゅうぎゅう詰めに封入されて、重い袋をぶら下げてわたしはお店を出たのであった。

 アパートに帰って袋を繙き、小説など部屋に置いておく分、学術書など研究室に持っていく分に分けて、そうしたら前者8割、後者2割ぐらいで、まぁ仕方ないかと思っていたら、フロムの『自由からの逃走』もあって、「あれ、これ持ってたような……」と疑い出して、今日研究室に来て確かめてみたら案の定持っていて、しかし同じ本を2冊もいらないわけで、某後輩にあげようと思って研究室に行ったらおらず、また今度にしようと思っているわけなのである。


@研究室
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by no828 | 2010-12-12 15:57 | 日日 | Comments(0)
2010年 12月 10日

さよなら1983

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 先日強制廃棄の対象となった1983年製の研究室の冷蔵庫。冷凍室の霜の発生が異常であったり、冷蔵室に入れておいても凍ってしまったり、いろいろありました。長らくごくろうさまでした。

 新しい冷蔵庫は来週火曜日に来る予定。


@研究室
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by no828 | 2010-12-10 20:59 | 日日 | Comments(0)