思索の森と空の群青

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2011年 02月 27日

書くことがない

 書くことがない。

 本の紹介をしようにも、新たに読み終わったものがまだない。小説は目下2冊を並行読みしているが、どちらも長編のためになかなか終わらない(どちらも半分を超えたくらいだ)。

 ビールの紹介をしようにも、新たな種類に手を出せていない。輸入ビールやご当地ビールに関心はあるが、それらを販売しているお店(たとえば某やまや)の開いている時間帯に買い物に行けていない。

 映画の紹介をしようにも、と書いて、これは紹介できるではないかということに気付いたが、いまいち気分が乗ってこないため、いまは書かない。

 あ、そういえば、ここ1週間ほど、1日1冊読了キャンペーンを実施中。参加者はわたしだけ。学術書限定であるが、期間限定というわけではない。これは別にはじめようと思ってはじめたわけではない。月曜に非常勤の行き帰りで1冊読み終わって、火曜にも同じように読み終えることができて、だからそのまま行ってみようということになった。研究室で読み終わらないと、アパートに持ち帰って読む。だからそのぶん小説を読んでいる時間が減る。そうして今日まで来た。そうすると、1日のリズムとしては単調になる。もちろん、本の内容からは刺戟を受け、読んでみたい本もまた増える。だが、1日何をしていたのか、と問われれば、本を読んで、それで考えていた、以上、となるわけで、やはり単調なのであり、別段ここに書くべきことも生まれないのである。


 追記:twitter を貼り付けました。画面右列下方をご覧ください。twitter を貼り付ける機能は結構以前から追加されていたのですが、それを使用するとエントリに広告が掲載されることになるため、使用してきませんでした。しかし、twitter を貼り付けても貼り付けなくても、いずれにしても広告が掲載されるようになりました。これもだいぶ前からのことですが、貼り付けてみようと思ったのは昨日か一昨日のことです。


@研究室
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by no828 | 2011-02-27 20:04 | 日日 | Comments(0)
2011年 02月 20日

旅行中のハシモトさんみたいですね

 と、中国からの留学生が送ってくれた写真。右下に写る男性の雰囲気と外見とがわたしのそれらに似ているらしい。

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 ちなみに、撮影した方の名前は「米軍」という(右下に記されている)。はじめ、「え、この花の写真、米軍が撮ったんですか? 米軍もこんなの撮るんですね……」と言ったら、「いえ、「米軍」というのはこれを撮影した中国人の名前です」。

 この一連のやりとりは、わたしが大学4年のときにDPとぴかると3人、寝台列車で中国を2週間周遊したときのことを思い起こさせた。そう、この写真はそのときに偶然撮影されたものであり、それがめぐりめぐってわたしのところにやってきたのである。「ハシモトさんみたいですね」ではなく、「ハシモトさんですね」なのである。

















 うっそー。


@研究室
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by no828 | 2011-02-20 17:25 | 日日 | Comments(0)
2011年 02月 19日

本当に、少しくらい、そういった心配がしてみたいものだ、と彼女は思った——森博嗣『まどろみ消去』

c0131823_1453188.gif17(339)森博嗣『まどろみ消去 Missing under the Mistletoe』講談社(講談社文庫)、2000年。


版元




 短編集。最後に収められている「キシマ先生の静かな生活」は、『喜嶋先生の静かな世界』(→)のベースになったものと思われる。『喜嶋先生の静かな世界』は、講談社の「書き下ろし100冊」のうちの1冊で、だから当然「書き下ろし」だと思っていたのだが、それの基本形はすでに短編のかたちで用意されていたということになる。それを「書き下ろし」と呼ぶのかどうか、わたしにはわからない。


 夫は、アメリカで何をしているのだろう。
 彼に限って浮気の心配はまったくない。そんなことに興味のある人ではないのだ。本当に、少しくらい、そういった心配がしてみたいものだ、と彼女は思った。
 いつからだろう、ぼんやりとした不安が彼女の心の奥で生まれた。それは、少しずつ、本当にゆっくりと、大きくなっていた。
 しかし、彼女には自分の感情がよく理解できない。
 なんとなく寂しい、というだけかもしれない。
 何故、そう思うのかも、よくわからない。
 ときどき、サキは、夫にそのことを言おうと思った。でも、どう表現したら良いのか、言葉に詰まってしまう。たとえ、話したところで、どうせ、また心理学か、精神医学の理屈を持ち出されて、難しい話になるのに決まっている。
 夫は、そういうタイプなのだ。世の中のすべてが、数学の公式みたいに割り切れると彼は信じて疑わない。

□(106-7)

 夫の浮気の心配をしてみたい、とあって、そういうものなのかなぁと、そう思った次第。

 あと、将来(できれば、そう遠くない将来)結婚できたとして、妻からの異議申し立てに学説で応えるのはよそうと、そう思った次第。


 プロっていうのはね、一万円なら一万円の商品を、十万円なら十万円の商品を出せるってことなんだ。つまりさ、自分から出ていくものをセーブできる人間じゃないといけないわけ。描きたいものを、好き勝手に描いていたら、すぐに干上がってしまうからね。
□(197)

 この“干上がる”という感覚は、少しわかる。ひとつの論文にすべてを注ぎ込むと、そのあとどうするの? ってことになりかねない。だから、この論文にはここまで、そこからあとは別の論文に、という“指導”が入る。そのほうが計画的だし、無理もない(消費者金融みたいだ)。しかし、わたしはそういう指導を受けてこなかったし(そもそも指導らしい指導を……)、ひとつの論文の中で出し惜しみなどしてこなかった。だから「ああいうの書いちゃうと、次に何を書くか困るでしょ」と言われたこともあったが、しかし書くべきことが尽きたことはない。「尽きたことはない」というと余裕が見えるかもしれないが、実際は書くべきことを「見つけてきた」というか「作ってきた」というのに近い。これは「苦しい」とか「辛い」という気持ちと不可分だ(気持ちだけではなく、実際には胃も痛くなった)。

 わかればわかるほどわからないことのたくさんあることに気づく。そのわからないことが何であるのかをわかるようにする。そして、そのわかったわからないことについて考える。終わりは、だから、たぶん、ない。

@研究室
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by no828 | 2011-02-19 15:31 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 02月 18日

研究をして満たされたことなんて一度もないよ。どんどん空っぽに近づいていく——森博嗣『今はもうない』

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16(338)森博嗣『今はもうない SWITCH BACK』講談社(講談社文庫)、2001年。

版元




 S&Mシリーズ第8弾。第8弾だからこそできた認識枠組み上の仕掛けが施されている(第6弾でも第7弾でもオーケーかもしれない。とにかく、シリーズ前半では不可能な仕掛け)。わたしも騙された。途中、「どうしてこの人はこんなに速く年老いたのだ?」と思ったが、枠組み自体を問いなおすまでには至らなかった。


 けれど、彼女にひっぱたかれた右の頰は、しばらくの間とても温かかった。左の頰が嫉妬するくらいに……。
□(139)

 表現が素敵。


「だいたいさ、観察された結果から原因を導く場合の理論というのは、たいていの場合、あと付けなんだよ」
「あと付け?」
「そう……、自分や他人を納得させるために、あとから補強された論理なんだ」犀川は煙草を指先でくるくると回した。「しかし、思考や発想の道筋は、それ以前に既に存在している。理論なんて、つまりは、ただのコンクリート舗装か、ガードレールみたいなものに過ぎない。あとから来る人のために、走りやすくする、という役目をしているだけなんだ。そもそも、その理論を構築した本人自身だって、さきにその道を一度通っているんだよ。舗装もガードレールもないところを、最初に通っているわけ。その最初の思考過程には、言語によって明確に限定されたもの、つまり理論と呼べるものの実体はまだ存在していない。いや存在する、と錯覚している人もいるようだけど、その場合は、個人の頭脳の中にいる別の傍観者が表層に現れているに過ぎない。それは最初の発想を持った中心人格とは、明らかに別の人格だ」
「つまり、あと付けの理論を構築しているのは、その傍観者的な思考で、それは最初のインスピレーションをトレースしている行為だっておっしゃるんですね?」

□(219-20)

 言い方を換えれば、“結論が先”であり、“逆算”である。その結論からの逆算の道のりの終点、つまり研究の始点からその逆算の道程を言葉でもって辿りなおしたものを「論文」と呼ぶ。論文は、答えを出すために書くものではなく、答えが出たあとに書くものである。論文の前段にある、とりあえずの答えを出すための行為は「研究」と呼ばれる。修士論文が辛いのは、研究をするのと論文を書くのとを同時進行でなさなければならないから。もちろん、それ以上の段階においても、多かれ少なかれそうした状況には追い込まれる。しかし、そうした状況に追い込まれていることをメタ認知できてはいるのであり、それが辛さを軽減してくれる。


「この近辺は、以前にUFOが着陸したことがあるんですよ」
〔略〕
「そりゃまあ……、ここだって宇宙なんだからね」犀川は言う。「どういうわけか、地球の表面だけは宇宙じゃないと思っている人が沢山いるようだ

□(227)

 たしかに。


「だって、先生は論文を書けば、世界中の研究者がそれを読むことになるのでしょう? それで、満たされている、ということにはなりませんか?」
「満たされるって、僕が?」犀川はくすくすと笑った。「いや、満たされたことなんて金輪際ないね。研究をして、満たされたことなんて一度もないよ。どちらかといえば、どんどん空っぽに近づいていく方向だ」
「そのわりには……」
「え?」
「いいえ」萌絵は首をふった。
 そのわりには、悠然としているではないか、と言いたかった。彼女から見た犀川は、明らかに満足そうに見える。毎日の生活に不足なく生きている。絶対に、そう見える。
〔略〕
 おそらく、犀川の場合、満足できない状況に満足している、のだろう。矛盾をそっくり格納する詭弁は、それくらいしか考えつかない。
 何の話をしていたのか……?
「僕が論文を書いて、何人かの人間がそれを読む、と言ったけど……」犀川は片手に煙草を持ち、淡々と話した。「その中で、いったいどれだけの人が完全に理解してくれるだろう? さらに、そこから新たな理論体系を構築して、僕と同等の立場でディスカッションできるところまで足を踏み入れる人が……、一人でもいるかな? これは、もう未知との遭遇と同じレベルの確率になる。UFO並みのね」犀川はコーラを飲んだ。「同じ対象を、同じ角度から捉え、同じ手法を用いて取り組んでいる人間が、いつか、世界のどこかで、僕の論文を読むかもしれない。だけど、その人間の存在を僕が知ることになるのは、はたして、いつかな?」

□(480-1)

 この感覚は、よくわかる。満たされないために研究をしている、と言ってもよい。


「僕が得た情報は、すべて君からの伝聞だから、もちろん、これが真相かどうかなんて判断するつもりは全然ない。だけど、君がどう思っているのかは自明だった。西之園君は、僕に説明するとき、既に自分の仮説を想定していた。だから、自然に、その仮説しか残っていないところへ導くように、僕に話した」
「ええ……、そうだったかもしれません」
「したがって、僕が行き着いた結論は、つまり、君の結論と同じ。当たり前のことだね」
「あ、同じことが、私の場合にもいえるわけですね?」〔略〕
「そのとおり。それを継承という。継承による推論は、地球上では、人間だけが手に入れた、とても優れた思考パターンのうちの一つだ」犀川は片手に持った煙草を指先でくるくると回す。「ようするに、すべての情報はその発信母体の呪縛から逃れられない。必ず信号を発する頭脳の思考プロセスによって制限されている。それは簡単に表現すれば、言葉を話すのに時間がかかり、それを認識するのにも時間がかかるからだ、といっても良い。たとえば、現象は並列でも、言葉は直列に並ぶ。その並び換えのプロセスに、発信母体の意図が介在するだろう。そこに制限された境界条件が必ず入り込む。もちろん、言葉と現象の多元対応が、曖昧さを作り、シンボルの選択には、受信側の意思も侵入することになるけれど、これが、発信側の張った網を超越することは極めて稀だ。つまり、この特性を利用することによって、継承による推論が生まれたともいえる

□(483-4)

 継承は、受け手の思考の文脈を形成する。受け手はその文脈を逃れて思考することはほとんどできない。その文脈のうちでのみ、思考することができる。だから送り手と同じ着地点に行き着くことになる。


「しかしね、そもそも思考そのものが、コミュニケーションの産物なんだよ」犀川は萌絵の言葉を無視して続ける。「つまりは、伝達するために思考する、といっても良い。伝達する、ゆえに我あり、ってこと。伝達することを想定しない思考、というものは、たぶん、ありえない
「伝達できない思考なら、あるんじゃないですか?」
「ある」犀川は頷いた。「しかし、その場合でも、伝達を期待してはいるんだ。違うかな? いつか現れる受け手、つまり、未来の理解者を想定するか、あるいは、自分の中に、その人格を将来的に創造するか」
「うーん」萌絵は唸る。「芸術なんかも、そうかしら?」
「そうだ」犀川は頷く。「同じだと思う」

□(485)

 表現ということを思った。たとえば、日記。時間的に後続する自分、つまり将来の自分に向けて書く。あるいは物理的な他者に読まれることを想定して書く。受け取ってもらうことを期待できているということが、その人のその時間を確固たるものにする。


 引用をしていると、読んだだけのときには気づかなかったことにも気づく。これは手書きで引用しているときのほうが多い。読むというのは、サーフィンのように波の上をさぁーっと滑るような印象で、引用するというのは、ロック・クライミングのように岩壁に足場を打ちつけていくように登る、そういう感覚。

 能動的に読むということも可能だとは思うが、しかし読むというのはやはり受動的な営みである。引用するというのも、読みからの継続の中にある行為であり、その意味では受動なのだが、しかし一度読み手の中をくぐり、それを今度は引用するという書き手としての行為に移ることにより、受動=能動の位相が立ち上がるように思われる。


@研究室
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by no828 | 2011-02-18 19:24 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 02月 17日

孤独と孤独の間に橋をかける——西研『集中講義 これが哲学!』

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西研『集中講義 これが哲学!——いまを生き抜く思考のレッスン』河出書房新社(河出文庫)、2010年。

版元





 人には恥ずかしくて言えないことを密かに抱えていたり、自分の苦しみはだれにも理解されないと思っていることが、人にはよくあるものです。そうした孤独を、文学や哲学は言葉にすることで、孤独と孤独の間に橋をかける。そして深いところでの他者との共感を回復しようとする。とくに文学は、さまざまな種類の孤独を描くことによってその孤独が自分一人のものではないことを教える、そういうところがあるように思います。
□(346)

 逆説的な言い方になるが、孤独が(あるいは孤独こそが)連帯の契機となる。

 孤独が連帯の契機となる、これをやや強引に押し進め、孤独でなければ連帯できない、と言ってしまいたいぐらいである。孤独な人は他者の孤独を必ずわかることができる、とは言えないまでも、孤独でない人に孤独な人の内面はわからず、だから孤独を知る人のほうが他者の孤独に共感できる度合いは高いとは言えるであろう。

 しかし、孤独でない人などいるのであろうか。

 たぶん、いない。

 だが、自分の孤独に気付いていない人はいるような気がする。

 孤独に気付いた人が、本に手を伸ばすのかもしれない。そこに“つながり”の感覚を求めて、手を伸ばすのかもしれない。

 自分の孤独と同じ温度の孤独を本の中に認めたとき、その本の中身を理解することができる。そして、その本を書いた人の孤独に寄り添うことができる。逆に言えば、本に描かれた孤独と同じくらいの孤独を感じていなければ、その本をわかることはできない。書き手も、たぶん自らの孤独を自覚していたからこそ、言葉を紡げたのだ。

 本に自分と同じような孤独が描かれているのを見つけたとき、人はたぶんほっとする。それで孤独が癒えるわけではないにしても、認めてもらえたという感覚にはなる。あるいは人との対面的な付き合いの中で、そうした感覚を得られることもあるかもしれない。だが、間接的に、言葉で、それも活字という客観的な存在としての言葉で自らの孤独が言い表されているというそのことが大切なのかもしれない。対面だと馴れないにもなりかねない。孤独を孤独で糊塗することにもなりかねない。自分の外側に存在する、自分からは離れたところにある言葉に触れることが大切なのであろう。

 孤独を自覚すること、それがたぶんつながるための一歩である。つながるためには、孤独にならなければいけない。 


@研究室 
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by no828 | 2011-02-17 20:59 | 思索の森の言の葉は | Comments(0)
2011年 02月 15日

あの学説は今、なら見てもいいな——森博嗣『夏のレプリカ』

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15(337)森博嗣『夏のレプリカ Replaceable Summer』講談社(講談社文庫)、2000年。

版元




 S&Mシリーズ第7弾。第6弾『幻惑の死と使途』(→ )に描かれた事件とほぼ同時期に起こった別の事件が描かれる。そのため、第6弾は奇数章のみ、第7弾は偶数章のみから成っている。こういう作り方もおもしろい。

 引用の前に気になったこと2点。ひとつは「茨城」の読み方。268ページに「茨城」が出てくるのだが、そのルビが「いばら」となっている。正しくは「いばら」。森先生および編集者のみなさまっ、茨城は濁りませんっ! もうひとつは「筑波」。275ページに「筑波」も出てくるのだが、行政単位としては「つくば」が正しい。もちろん、つくばの中に筑波もあるのだが。文脈としては、茨城の山奥の筑波に犯人の車が使い捨ててあった、というところ。えぇ、山奥ですよ。


 行き詰まったときに採る道は、一番険しく遠い道に限る。それが、西畑のこれまでの人生、その僅かな経験から導き出された教訓の一つだった。
□(287)

「何故、二つなのでしょうか?」萌絵は片目を少し細める。
「わかりません」西畑は、ゆっくり、そして大きく首をふる。
「だって、西畑さん、切り札だっておっしゃったじゃありませんか?」
わからないから、切り札なんですよ」西畑は口もとを斜めにして、不敵な表情をつくった。
「なあんだ……」萌絵は、咄嗟に呆れた表情を装って、わざとのんびりとした口調で言った。だが、西畑の言葉に、彼女は小さく痙攣するほど驚いていた。彼の発言が、犀川助教授が言いそうな台詞だったからだ。

□(329)

 今回はこの長野県警の西畑刑事が活躍します。結構鋭い刑事です。


「どうして、犀川先生は黙っていたのかしら……」萌絵は独り言のように呟いた。
「だからあ……、先生は、貴女にそんなことをしてほしくないんですよ」
でも……
デモもバリケードもありません。私はね、萌絵、貴女に期待しているんですからね。〔略〕」

□(358)

 萌絵と叔母さんとの会話。くだらなくて、おもしろい。


「乗馬っていうのはね、あらゆるスポーツの中で唯一、女性と男性がハンディなしで互角に戦える競技ですわ。世界チャンピオンに女性がなることだって、よくありますからね」
〔略〕
「ゴルフというのは、あらゆるスポーツの中で唯一、審判のいない競技ですね」

□(382)

 これも叔母さんの台詞。ちなみに、叔母さんは県知事夫人。


 子供には「人生に夢を持て」と言って勉強をさせる。
 女の子には「良い妻になるように」とお花やお茶を習わせ、男の子には「立派な社会人になるために躰を鍛えろ」と言う。
 どうして回り道をさせるのだろう?
 目的、オブジェクトではなく、プロセス、そしてプロシジャがつまりは人生なのか。
 周りの人間を見ていると、みんなそうなのだ。
 少なくとも、犀川以外はそうだ。

(先生だけが違う)
 と萌絵は思った。

□(391)

 物事の本質を目的に見出すか過程に見出すかというのは、まだうまく消化・整理できていない。システム論的には、目的も過程の一部に組み込まれるはずだから、この2項自体が立たないことになるような気がする。そうして何でもかんでもメタ的に内に取り込むシステム論は、まるで「顔なし」@「千と千尋の神隠し」のようだ。


 子供を作るなんて、まるで正月の福袋を買うようなものだ、と犀川の一部は思った。
 一つの細胞が二つに分裂し、それが四つになり、八つになる。
 どれくらい細胞の数が増加したときに、生命は意志を持つのだろう。単細胞であれば、いつまでも生きられるのに、意志を持つために、自らの寿命を縮めるのである。いや、寿命があることが、意志を作るのかもしれない。
 意志とは、消滅の自覚だ。
 死の予見に起因する存在こそ、意志の起原。

 太古の意志とは、子孫を絶やさないための機能であった。物理的に離れてしまった個の生命体が、連続していた頃の永遠の命を思い出そうとしている。それが、意志の起原に違いない。
 たった今、犀川はそう思った。

□(411)

 ハイデガー、死への先駆。


「知らないな」
「創平君が知っているような人じゃないもの。まあ、アイドルっぽい感じで、テレビとかでちょくちょく見かけたわよ。でも、そうね、もう五年くらいまえになるのかなぁ。さすがに、みんな忘れちゃってるわよね。あのスターは今、とかやってもらわないとね」
あの学説は今、なら見てもいいな



 あはは、それならわたしも観たい。日本の戦後教育学の主流にあった学説の紹介をシリーズ化してほしい。


「ほらね。人にきかれるまで、言えないことだって、あるだろう?」
 萌絵もコーヒーを飲もうとしたが、まだ熱かった。
いつかきかれる、いつかきかれる、と思っているうちに、自分でも問わなくなる。周りも尋ねない。たぶん、人間がどこから来たのか、そして、どこへ行くのか、その質問と同じだ
「あの、何のお話ですか?」萌絵は眉を寄せて囁いた。犀川の機嫌が良いことはわかったが、こういうときの彼の話には、一トンの水に溶けた一ミリグラムの物質を検出するほどの繊細さが必要とされる。

□(435)

 喩えが素敵。


「客観的な立場にいる、ということですね?」
そう……、その立場に身を置くこと自体、なかなか難しいことだと思うよ。中にいるのに、外から見ることが可能なのは、高度な思考力によるものだ。それに、非接触による観察は極めて難しい。何故って、どうしても、覗き見ているうちに、影響を受けてしまうんだ

□(436)

 京極夏彦の場合は、観察行為が観察対象に変化をもたらしてしまう、ということを繰り返し指摘している。この引用箇所はそれとは逆に、観察行為主体が観察対象から影響を受けてしまう、ということを指摘している。いずれにしても、観察における影響の相互授受は不可避だということだ。だから、それを込みで記述なり説明なりをしなければならない、ということになる(はず)。


「犀川先生は、萌絵のどこが気に入ったのですか?」思い切って杜萌は質問した。自分らしい大胆な質問だと思った。
その質問をする君が、興味深い」犀川は煙草に火をつける。「質問は、質問する人を表現するんだ。それに対する返答なんかとは無関係にね

□(446)

 これはよい切り返し。看護学校に行くと絶対訊かれる。「先生、彼女いるんですか?」。そのときはこう返そう。「その質問をする君が、興味深い。どうしてそういう質問をするのかな?」。


@研究室
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by no828 | 2011-02-15 13:26 | 人+本=体 | Comments(3)
2011年 02月 13日

愛情とは、つまらない日常を共有することと云う意味ではないでしょうか——京極夏彦『塗仏の宴 宴の始末』

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14(336)京極夏彦『文庫版 塗仏の宴——宴の始末』講談社(講談社文庫)、2003年。

版元




 シリーズ第7弾。第6弾『宴の支度』とセット。問題提起編と問題解決編、のようになっている。テーマは、記憶と家族、それに意志。本文1,053ページ(!)。

 以下、原文傍点省略。


「今回の事件はあの人の事件なんだ」
「は?」
「今まで僕等が関わった凡ての事件に於て、あの人は常に傍観者であることを貫いて来たでしょう。それこそ弁えていたと云うか」
「そうっすね——」
 主体と客体は明確に分離出来ない——観測行為自体が対象に影響を与える——正しい観測結果は観測しない状態でしか求められない——だから観察者は観察行為自体を事件の総体として捉えなければならない——中禅寺は善くそう云ったことを云う。鳥口には解るような解らないような話である。
「それが今回は違うと?」

□(727)


 でも、その安寧は、実は幻影なのだ。家族と云う泉は逃げ水のようなものなのだ。だから湧水に浸かっている気でいても、実は熱砂に埋まっているだけなのだし、霜雪に覆われているだけなのである。確実ある筈の打撃を感じさせない幻影こそが家族のと〔ママ〕云う泉の正体なのだ。何もかも気の所為なのだ。
 幻覚だからこそ望むだけで手に入るのである。
 但し。
 気付いたら終わりだ。泉などないのではないかと一度疑ってしまえば、目前にあるのは灼けた砂や凍て付く霜になってしまうのである。

□(81)


何を以て悪とするんですか。正義なんてモノの化けの皮は疾うの昔に剝がれちまった。鬼畜米英は優しい進駐軍に、朋友独逸は悪魔の手先になった。それだって世の中が引っ繰り返ればまた変わるんだ。親爺さんさっき云ってたでしょう。この国は拝金主義だと。拝金主義の世の中には貧富の差はあっても善悪の差はない。正義も悪もないんだ!
□(88)

 そういうことに気付いてもなお、ニヒリズムに陥らずに生きていくことはどのようにして可能か——ということはわたしも考えていきたい。そのとき、システム論者とは別の解答を用意したい。


「許しちゃおけないと——こう思った。別に正義漢気取る訳じゃないですけどね。暴力で人を云いなりにするのは、そりゃ許せませんよ。でも、殴ったって蹴ったって、躰は痛みますけどね。心は然然〔そうそう〕壊れない。奴等は直接心を浸食して来る訳ですからね
「こころ——ですか」
 青木は腕を組んだ。
 心とは何か、善く解らなかったからだ。
 河原崎の云う心とは、多分意志のことである。
 意志とは個人の考え、個人の気持ち、と云うことだろうか。慥かに、それが洗脳であるのなら、個人の個人たる尊厳は著しく奪われていると云うよりない。しかし、奪われる以前に、果してそこに個〔オリジナル〕はあるのか。死守するべき尊厳はあるのか。
 青木は明確な解答を持っていない。

□(185)


「ええ。その女性は自分が好きなんだ、自分が選ぶんだ、自分の人生だ、と何度も云うんです。自分が自分がと云う。ではその自分とは何なのです? 自分の思い通りなら良いのでしょうか。強く我を張ることが、上等な人間の条件なのでしょうか
「いや、それはその、自立した人生を歩むためと云うか、ええと、個人の尊厳を守ると云うか——」
私には自分などありません。それが上等と云うのなら、私は下等な人間です
 華仙姑は澄んだ声でそう云った。
 益田は戸惑う。酷く——戸惑う。
「いや、それは上等と云いますか——まあ、上等下等と云う問題ではなくてですね」
 否。上等下等と云う問題なのだ。自立している者は自立出来ない者より偉いと、誰もが疑うことなく口にするではないか。
ですから、その、近代的自我の確立と云いますか——現代人としてですね——
昔の人は今の人より劣っていたのでしょうか
「いや——」
「それは——制度は色色と変わったのでしょうが、人間は大昔から変わっていないんだと思います。そう云う考え方は間違っておりますでしょうか」
「いや——それは」
 何の反論も出来なかった。益田は所詮、そうした杓子定規な言説に疑問を抱いて刑事を辞めた男なのである。
 華仙姑は眼を伏せた。角度が変わると表情も変わって見える。
自分はこう云う人間だ、これが自分の人生だと、そう云い切ることが私には出来ない。誰にも迷惑を掛けず、誰にも寄りかからずに生きることなど出来ないと思います。自分は自分はと云う、その自分と云うモノは、親に育まれ社会に守られて生きて来た結果な訳でしょうから、自分と云うモノを作っている要素の大半は他人から与えられたモノなのではないでしょうか。ならば自分なんて、世間を映す鏡のようなものだと——私にはそう思えてなりません
「鏡ですか」
 鏡です——華仙姑はまるで託宣でも下すようにそう云った。
鏡には色色なモノが映るでしょう。花でも、誰かの顔でも、鏡の前に立つモノは全部映る。鏡を見る時、誰も、誰ひとり鏡自体は見ていないのです。なのに誰もが、鏡を見ると平気で云うのです
 益田ははっとした。
 華仙姑の云う通りである。鏡は決して見ることが出来ない。鏡の表面に映るモノを見て、人は鏡を見たと云うだけである。
見えているのは虚像です。表面に映っている画像こそ自分だと、皆思っている。でもそんな自分なんて目の前に立つものが変われば変わってしまうのです。だから自分なんて、探したって無駄です
「じゃあ」
 ですから——華仙姑は託宣を続ける。
目の前に誰が立っているかが問題なんだと思うのです。〔略〕」

□(323-5)

 大事なことが書かれている。

 自分というのは虚構かもしれない、と私は今でも半分思っている。しかし、その虚構性は、この具体的な身体を帯びることによってかなり低減されている。身体は他者と共有できない、このわたしだけのものである。だから、その身体を伴う自分なるものもまた、自分のものであり、わたしはこのわたしとして生きていくしかないとも思っている。それに、“これが自分のやりたいことだ”と思えることもある。その実感は嘘ではない。

 今のこの社会は、個々人の自分なるものを意識させ、個人を主体化させる。というより、主体化した個人を要件として成り立っている。だが、その個人像は作られたものであり、また、個人そのものも環境によって作られたものである。

 しかし、個人は環境によって作られた、とすると、いろいろ面倒なことが起こる。たとえば、(これは前にも書いたかもしれないが)罪(と制度的に指定されたこと)を犯した者が同定できなくなる。犯罪者は、環境によって作られた、たしかに犯罪者にも意志のようなものはあるのかもしれないが、その意志さえも環境によって形成された、そのように考えれば、罪をその犯罪者個人のみに帰することはできない。罪は、犯罪者個人のみならず、その犯罪者を育てた親や教師や上司などの総体としての社会も負わなければならなくなる。なぜならば、その犯罪者を育てたのは、環境与件としての社会だからである。それゆえ、犯罪はわたしの知らない具体的な個人のあいだに生じた問題だからわたしは知らないということにはならず、社会全体の問題として受け止めていく必要が出てくる。

 だが、これは面倒なことではある。罪は個人に負わせた方がすっきりする。実際に、法制度はそのようになっている。法制度だけではない。言説もそうだ。だから、個人もわたしなるものを主体的に受け止めて生きていくことが求められ、それゆえにわたしとしての覚悟をもって生きていったほうが生きやすい。しかし、それは社会をより円滑に運営するための方途なのだということに気付いておくことは必要だと思う。


「どんな制度の中で生きていても、人間はそう違う生き方をしている訳ではないと思うんです。私は、この十年で様様な人の相談を受けました。身分の高い人も、お金持ちのお大尽も私の処に来た。窮屈な暮しをしている人も、楽な生き方をしている人も居た。不幸な人も幸福な人も来た。でも、誰も皆、朝起きて食事をして寝るのは一緒です。お金があるから十倍食事が食べられる訳でもないし、幸福な人でもお腹は空く。多くの人人と接して私が知ったことは、どんなに過酷な環境に居る人も、生き物としてまともに生きられてさえいれば、それ程不幸は感じないのだ——と云うことです
「生き物として——とは?」
「人間と云う種類の生き物が生きるために必要な育ち方生き方——と云うのでしょうか。子供を産むこと、産んだ子に乳を遣ることが疎ましくなった時、矢張りそれは壊れている。人としては壊れていなくとも、少なくとも生き物として壊れている——
〔略〕
そうした生活を保証してくれるのは、制度なんかではないと思います。道徳でも倫理でもない。高邁な理屈は、何も保証してはくれません。それを保証してくれるのは、多分、退屈な日常だけなんです
「日常——ですか?」
「ええ。私の失ってしまったものです」
 敦子が不意に顔を上げた。
善くは解りませんが——愛情と云うのは、何かこう、崇高で、神神しい印象の言葉ですが、私が思うに——それはつまらない日常を共有すること、と云う意味なのではないでしょうか——
〔略〕
日常を共有する者——それを家族と呼ぶんだと私は思います。家族は制度とも法律とも無関係です」
「家族——ですか」

□(331-3)

 愛とは何か、ということをしばしば考え、また、その定義らしきものを調べたりもしてきた。だが、なるほどと思った定義にはまだ出会っておらず、だから愛とは“そのヒトと・そのコトと・そのモノと付き合っていく覚悟”であるというわたしなりの定義を試みたりもした。しかし、退屈な日常、つまらない日常の共有、それこそが愛なのだという、ここでの定義はすんなりと受け入れることができた。真理は学術書にばかり書いてあるとは限らない。学問は真理へのひとつの行き方であろう。それぞれがそれぞれの道を究めていけば、真理には、たぶん、気付くことができる。真理への道筋は、いろいろあっていい。


「僕等はあっち側を疑うでしょう。彼は寧ろ、こっち側を疑ってるようなところがありますね」
□(340)


「そうですか。過剰欠損変形と、身体の異常を見世物にするのは差別的だと云えばそうなんだけれど、見世物小屋なんかの場合はですね、見せる方はその異常を劣ったものとは考えてなくって、寧ろ己の特性として自慢気に捉えていた節がある。芸として金取って見せている訳でね。自尊心もあったみたいですね。まあ屈折もしてるんだろうし、色色なケエスがあったんでしょうがね。まあ堂堂と見せてはいた。でもって、見る方も感心して見てたりする。皆同じだからとか嘘吐いて、陰湿に差別してる現代よりも対等だったのかもしれませんな」
 おっと問題発言だ、と云って多々良は笑った。

□(344)


 否——経済の仕組みや身分制度が変わってしまった近代以降には、どんな階層のどんな地域のどんな人間も、夢を見ることだけは許されるようになったのだ。ならば寧ろ貧しい農村部にこそ野望や大望を抱く連中は多く居るのではないのか。大勢居過ぎて目立たないだけなのかもしれない。
□(355)

 夢を見ることは自由だ、夢に実際に挑戦することも自由だ、さぁ、挑戦したまえ(でも、そのあとのことは知らないよ)——これが現在。


「〔略〕信頼と云う言葉の裏には期待がありますでしょう。期待と云うのは無言の脅迫ですから」
□(362)


「今ぁご覧の通りの自由人——所謂乞食〔こつじき〕だからなあ。だがな、物乞いは卑しい行為ではねえよう。与えることと貰うことてえのは行為〔おこない〕としては等価なんだなあ。無償で分け与えることは貴ぐて、無償で貰い受けることが卑しいてえのは、こりゃ近代の考え方だぁ。功徳てえのは施す方ばかりに徳のあるもんではねえど。俺はこの商売長ェが、辛ェとも、卑劣下賤とも思わねえ。一寸ばかり臭ぇがね。三日やったら辞められねえど、善く云うべえ」
□(460)


「私は——」
 雪絵は体勢を変えずに、か細い声で云った。
「——正直云って——解りません。例えば信頼している人がいて、その人が罪を犯したとして、罪を犯すのは悪いことですから、罰せられるのは当然なんですが——本当に信頼しているなら、その人には法律を破らなければならない程の事情があったのだろうと、そう思うんじゃないでしょうか。なら仕方がない、ちゃんと罪を償って来てくださいと——そう思うでしょう。反対に自分を信頼してくれている筈の人がいて、その人が犯罪を仕出かしたとしたら、どうして行動を起こす前に相談してくれなかったのか、とても悔しく思うだろうとは思いますが——
 雪絵は顔の角度を少し変えた。
「——ですから、有罪か無罪かなんてことは——それは世間的には大変な問題なのでしょうが、夫婦の間では大きな問題じゃないです。だから、それよりも寧ろ——」
〔略〕
無罪でも有罪でも——夫婦であることに変わりはありません。罪を犯したから離縁するとか、犯してないから離縁しないとか——そんな馬鹿な話はありませんでしょう。そんな理由で添っている訳ではないですから——命さえ——取られなければ

□(767-8)


@研究室
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by no828 | 2011-02-13 16:00 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 02月 12日

いちばん桜(オリオンビール)

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いちばん桜(オリオンビール/アサヒビール)

原材料 麦芽、ホップ(←潔くてよい)
度数 5%

醸造元




 先日、某711に宅配便を受け取りに行ったときに偶然見つけてしまった(スピノザ的には、偶然はなく必然しかないのだが)。

 「桜」というだけあって、最初に口に含んだときに広がる香りはたしかに春を感じさせる。液体の色合いから、味は薄めとの印象を受けたが、実際はそのようなことはなく、口当たりもしっかりしている。

 ちなみに、缶には「アサヒビール」とも印字してあり、オリオンビールとアサヒビールとの関係はどうなっているのか、と思った。


@研究室
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by no828 | 2011-02-12 19:22 | ビール | Comments(0)
2011年 02月 09日

そうすると、もう、いつもの森とは違うんだよ。それが学問の本当の目的なんだ——森博嗣『幻惑の死と使途』

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13(335)森博嗣『幻惑の死と使途 Illusion Acts Like Magic』講談社(講談社文庫)、2000年。


版元




 S&Mシリーズ第6弾。タイトルがいまいち。韻を踏む箇所が近すぎる。

 では、いつものように本筋とは関係ないところから引用。


「先生、オリンピックとかも見ないんですか?」今後は浜中が話題を変えた。昨年、オリンピックのためにビデオを買い換えたことを思い出す。
「見ないよ」
「どうしてです?」
「どうして見なきゃいけない?」
「だって、感動しますよ。ドラマがあるじゃないですか」
感動なら、間に合ってる」犀川は淡々と言った。「一般論だから気を悪くしないでほしいんだけど、テレビのディレクタが押しつける感動なんてまっぴらだよ。オリンピックだって、テレビの台本じゃないか。原発反対も、博覧会反対も報道されるのに、オリンピック反対が何故もっと大きく報道されない? 高校野球はどうしてあんなに美化される? マスコミはマスコミを何故攻撃しない? 浜中君。もし君が偏った価値観から自分を守りたかったら、自分の目と耳を頼りにすることだね。テレビを捨ててしまえば、君の目は、少なくとも今よりは正しく、しかも多くのものを見ることになるよ

□(30-1)

 同感。テレビをまったく観ないわけではないが、観るものは決めている。それ以外は観ない。おもしろくないから。

 引用文の中に言及のあった高校野球については、昨年の夏に少し考えた。高校野球は労働ではないのか、ということである。なぜ夏に、しかも比較的暑い時間帯に試合を組むのか、ということをクーラーの効いた部屋で甲子園を観ながら考えたわけである(この落差!)。高校球児たちに直接対価は支払われないであろうが、たとえば活躍してプロのスカウトの目に止まって実際にプロになって、となれば、将来的に、つまり時間差で対価を支払われることにはなる。観客のためになり、高校球児のためになり、プロ野球界のためにもなり、……win-win だからいいじゃない?炎天下で試合をしても/させても、という考え方には共感できない。


「そもそも、自然という言葉を使い始めたときから、もう自然じゃないんだよ」
「不自然ですか?」
観察しようとすれば、観察者の介入によって、対象は必ず変化する。だから、人間は真の自然を観ることはない。もっとも、人間も自然の一部だと仮定すれば、話は別だけど

□(82)

 量子力学!

「人間も自然の一部だと仮定すれば」というのは、スピノザ的。


静かな日曜日の大学が、犀川は好きなのだ。
□(173)

 わたしもです。


「別に解明しなくても、すべては物理的な現象なんだよ」犀川は煙草に火をつける。「間違っているのは、観察している人間の認識だ。したがって、人間さえ見ていなければ、何も不思議は起こらない。すべて自然現象だ」
「そんなの屁理屈です」萌絵は反論する。「物理も科学も、そもそも人間の認識の仕方じゃあないですか? 自然現象を理解するためのプロトコルでしかありません」
 犀川は水を飲んだ。
「その意見は、実に的確だ」

□(193-4)

 われわれは、認識できるようにしか認識できないのだ。


「見つからないことと、ないことはディファレントだ」
□(197)

 イラク大量破壊兵器問題のとき、どこかの国の首相もそういうことを言っていた気がする。

 だが、実際のところ、「ない」ことを証明することはとても難しい。


 この数日間の勉強で、萌絵は力学が面白いと感じた。
 何故こんな特殊な条件で問題を解かなくてはならないのか、と常々不思議に思っていたことの理由は、実に単純だった。特殊な条件でないと、方程式が解けないのだ。〔略〕
 人間の考えた法則なんて、どれも、極めて特殊で理想的な条件の下でしか成立しない。それらの法則は、現実の問題を解決するのではなく、問題の性質を見通すものでしかない。どちらが北なのかを教えてくれる羅針盤と同じで、目的地に真っ直ぐ連れていってくれるわけではないのだ。

□(251)

 高校生の頃、この条件設定の意味がどうしても呑み込めなかった。何でいろいろ前提にするわけ? それを外したらどうなるんだ? そんなのマッチ-ポンプじゃないか? と思っていた(と、今なら説明できる)。今でもそういう疑問はあるが、自分の疑問を言語化して説明できるようになったから、不満は減った。

 哲学でも、いろいろ前提を置いて(仮定とか措定とか)、その上に論理をどう積み上げていけるか、ということをしているわけで、それは物理学が特殊条件を設定するのと同じ。だから、前提や条件を外すと、その結論はなかなか当てはまらないし、前提や条件、それら自体に文句のある人、つまり別の前提や条件を持ち出して物事を考える人とは、議論にすらなりにくい。


「〔略〕何かに気がついて、新しい世界が見えたりするたびに、違うところも見えてくる。自分自身も見えてくるんだ。面白いと思ったり、何かに感動したりするたびに、同じ分だけ、全然関係のない他のことにも気がつく。これは、どこかでバランスを取ろうとするのかもしれないね。たとえば合理的なことを一つ知ると、感情的なことが一つ理解できる。どうも、そういうふうに人間はできているみたいだ」
「わからないわ」萌絵は首を傾げる。「理屈がわかりません」
「精神の復元力みたいなものじゃないかな。僕もよくわからないよ、こんなこと。専門じゃないからね。でも……、西之園君。物理の難しい法則を理解したとき、森の中を散歩したくなる。そうすると、もう、いつもの森とは違うんだよ。それが、学問の本当の目的なんだ。人間だけに、それができる。ニューラルネットだからね」

□(283)

 認識の絶えざる更新。今ある世界の見方とは異なる、世界の別の見方を提示するというのは、学問のひとつの使命であると思う。


「いや、自分の知らない法則だと思った」犀川は微笑んだ。「今でも、何か不思議なことに出会うと、僕は、自分の知らない法則だと思うことにしている。ときには、世の中の誰も知らない法則かもしれない」
「素敵なお話ですね」
「素敵な話だ」犀川は繰り返す。「とびっきり素敵だ」
 萌絵は目頭に涙が溜まった。
 どうしてなのか、わからなかった。
「大人になるほど、こんな素敵は少なくなる。努力して探し回らないと見つからない。このまえ、君は、科学がただの記号だって言ったけど、そのとおりなんだ。記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう? そうしないと、新しい不思議が見つからないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっと凄い不思議に出会えると信じてね……。でも、記号なんて、金魚すくいの紙の網みたいにさ、きっと、いつかは破れてしまうだろう。たぶん、それを心のどこかで期待している。金魚すくいをする子供だって、最初から網が破れることを知っているんだよ」

□(286)

 「わかりたい」の二律背反。


〔略〕人はアウトプットするときだけ、個たる「人」であり、それ以外は、「人々」でしかない。
 そのアウトプットの目的が何であれ、他者(多くの場合、自分自身を含むが)に何かを伝えないかぎり、「人」となりえない。それが、名前のために人が生きている、という意味なのである。

□(417)

 これは研究の世界においてはとくに顕著だと思う。論文を書いていない者は存在していないのと同じ、と言われたことがある。


「でも、最近では、このマジックも知れ渡ってしまいましてね、もう、駄目です。十九世紀なら、人を驚かすようなマジックがいろいろあったでしょうけど、今は、本当に難しい。何が難しいって、誰も、魔法が実在するなんて思っていない。それなのに、こちらは、それが魔法だというように演じなければならないんですからね。まったくの茶番ですよ
□(434)

 再帰性が言われたり、システム論が出てきてメタに行かれたりして、「普遍」というものは存在しないということがみんなに知られてしまったのに、それでもなお普遍を言わねばと考え、実際に言う人の気持ちに似ている。

 えぇ、わたしのことですよ。


「ヘレン・ケラーを知っているだろう? 三重苦の。もの心がつく以前から盲目で耳も聞こえなかった人が、何を最初に理解したと思う? そういう人に言葉を教えるには、何が必要だろう?」
「実物に触れさせて、言葉を感触で教えたのでしょう?」
「それ以前に、重要なことがあるんだ。それは、ものには名前がある、という概念なんだよ。すべてのものに名前がある、ということにさえ気づけば、あとは簡単なんだ。ものに名前があることを知っている、あるいは、ものに名前をつけて認識するのは、地球上では人類だけだ」

□(509)


「人を殺す動機なんて、一つや二つの言葉で説明できるものではありませんからね。確かに、こうして話をしてもしかたがない。我々は、ただひたすら、自分たちの精神安定のために、自分たちを納得させてくれる都合の良い理屈を構築しているに過ぎません。殺人犯の動機なんて、事件に関係のない者のために用意された幻想です。それだけの意味しかない。起こってしまった事実とは、なんら関係のないものです。これもまた、イリュージョンでしょう」
□(556)

 京極夏彦と似ている。森博嗣も京極夏彦も、どちらも認識論がテーマと言ってよいかもしれない。


@研究室
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by no828 | 2011-02-09 16:52 | 人+本=体 | Comments(0)
2011年 02月 07日

the first 7 days in February

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 2月冒頭の1週間を簡単に。

 1日(火)6限に発表あり。レジュメは前日の午前中にMLで回しておいたので、直前までどたばたするということはなく(論文執筆も本当はこうありたい)。16時くらいまでおとなしく本を読む。ちなみに、この日は大学院の入試。授業後、図情図書館で調べ物をしてから、センター付近で乾杯。完全に午前様。

 2日(水)昼に研究室でアレント読書会(?)。人権論と国家論。読んで議論するということではなく、ふわっとした集まり。午後からスピノザ読書会。その場で音読して読みすすめる。

 3日(木)朝から東京。10時から17時までの1日がかりの某フォーラムに出席するため。しかし、午前中の講演が〔中略〕のため、遅刻しても構わないことに〔自分の中で――本人註〕決定する。案の定遅れて最寄駅に到着し、そのまま早めの昼食を摂って、神保町で古本探索。アドルノ/ポパー他『実証主義の論理』、スピノザ『国家論』、クループスカヤ『国民教育と民主主義』など。『実証主義の論理』は、ドイツ実証主義論争をまとめたもの。以前から読みたいと思っていた。だから古本屋で見つけたときは嬉しかった。しかも700円。午後からフォーラムに出る。座ってごそごそしていたら、K田先生が話しかけてきてくださった。研究の話、博士論文の話。「君みたいにセオリティカルな研究だとコミッティがオーケーを出すか、ちょっとわからないよね。うちは、フィールド行ってデータを取ってくればオーケー、セオリティカルなところがなくても、データを取ってきたことへの努力賞として博士号が出てるよ。それもどうかと思うんだけどね」。フォーラム本番では、アメリカのM大学の先生がグンナー・ミュルダールの価値判断論やジョン・ロールズの正義論に言及していて、それが新鮮で嬉しかったのと(この分野で触れられることはまずない)、M本先生のお話がおもしろかったのと。M本先生のお話はもっと聴きたかった(大学で話せばよいのだが……)。以下2月8日追記(急いでいると書くべきことを忘れるなぁ……):そのあと某岩波ホール(→公式サイト)で映画。「クレアモントホテル」(→公式サイト)。この映画が観たくて、というわけではなく、岩波ホールで今何上映しているのかな、ぐらいの乗りで行って、そして観た。感想を簡潔に言うと、観てよかった、です。心温まる映画です。感想はまた別途書きます。ちなみに、某岩波ホール次回上映作品は「サラエボ,希望の街角」(→公式サイト)。監督は「サラエボの花」(→)のヤスミラ・ジュバニッチ。観に行こう。以上追記

 4日(金)昼過ぎまで研究室。そののち本郷。15時から18時30分まで、ロールズ関連のシンポジウム。少し早めに行って、近くのみすず書房に回る。そこで『みすず』最新号を購入。読書アンケート特集。120人以上対象(研究者メイン)のアンケートで、2010年読んでおもしろかったもの5冊が挙げられている。それを入手してから赤門をくぐって医学部に行く。会場でK山さんと遭遇。K山さんは10月からこちらに奉職されているのだ。いろいろお話をする。大学の業務がものすごく大変らしい(一番若いから)。M寺先生を囲んだ研究会を再開させたいというところで一致。シンポ後、新御徒町まで行って夕飯を食べ、稲荷町の某ブックオフまで歩く。何冊か古本を買って帰宅。どこかに出掛けることがあったら、その近くの古本屋にできるだけ行くようにしている。陳列されている本を見ると、その土地の具合もわかる。

 5日(土)午前中に荷物を受け取ってから研究室へ。授業の準備とかニューズレターの校正とか論文の校正とか。18時すぎに電話が震える。恐怖の女性軍団(みちこ、こばとも、みき)に呼び出しを受ける。電話も彼女たちが怖くて震えたのだ(うそ。ごめんなさい。単にバイブレーション設定にしていただけです)。声の印象だとみきがもっとも怖いが、ある意味こばともが一番こわかったかもしれない(攻めの電話というのは、ああいうことを言うのだ)。というわけで某休眠倉庫に向かう。実は学類同期のプチ同窓会(10人ほどだから本当に「プチ」)。店長が同期のふーちゃんで、今回は彼が号令をかけたのだ。インフルエンザとか子どもが体調崩したとか、いろいろあって参加する予定の人が来られなかったりもしたが、久しぶりにみんなに会えた(今度はあゆみちゃんにも会いたい。ジェニファーにも会いたい)。ちなみに、「みんな」というのは、ふーちゃん、みき、こばとも、ksk、ゆーこちゃん(つくばなう、看護学生なう)、しばくみ(静岡から!)、りつこ、こーちゃん、ゆっこ、みちこ、わたし、です(書き忘れていないよね?)。途中から齋藤先輩も来て、わたしは先輩と博士のお話をする。23時くらいに解散(終電のため)。そのあと、宿泊組のみき、みちこ、しばくみと、残留組のこーちゃん、齋藤先輩、わたしの6人で某鳥吉(?)へ。こーちゃんはひとしきりしゃべったあと夢の中に旅立たれる(お疲れさまです)。途中、しばくみとみちこが隣にいた体育研究科の修士の学生ふたりに声を掛けられる(まだまだ若いってことだよ!)。わたしは研究の話をしてしまったかもしれない。2時前まで。こーちゃん、齋藤先輩と別れ、わたしたちはペデを歩いて某ダイワロイネットホテルへ(わたしは女性陣を送り届けただけですよ!)。なぜか4人1列になって腕を組んで歩いた。こういうときに意味を問うてはならない。

 6日(日)お昼に研究室へ。授業の準備とか校正とか。夜まで。

 7日(月)非常勤講師の日。もう少ししたら立川に向けて出発。今週は落ち着いて研究をしよう。


@研究室
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by no828 | 2011-02-07 13:04 | 日日 | Comments(0)